ゲーミング人間の光難

吟野慶隆

ゲーミング人間の光難

 藍藤(あいどう)橙一(とういち)は、暗闇の中、ライトで前方を照らしつつ、全力疾走していた。

「クソがっ! いい加減、諦めやがれっ!」

 そんな怒鳴り声が、背後から聞こえてきた。思わず、一瞬だけ、そちらに視線を遣る。

 橙一の十数メートル後方には、彼を追跡している男が三人、いた。そのうちの一人は、首に、低品位な意匠のネックレスを提げており、もう一人は、顎に、悪趣味な造形のピアスを挿しており、最後の一人は、額に、不気味な絵柄のタトゥーを入れていた。みな、自分は堅気の人間ではありません、と声高に主張するかのような格好だ。

(クソ……まさか、こんなことになるとはな……!)

 十数分前まで、橙一は、露草(つゆくさ)邸の屋敷に忍び込んでいた。ところが、その途中で、警備を務めている、「甚三紅」(じんざもみ)の構成員たちに見つかってしまったのだ。その後は、慌てて屋外、さらには邸外に脱出した。そして、今は、逃げている真っ最中、というわけだ。

 追っ手たちは、懐中電灯を使って、橙一のいるほうを照らしていた。橙一はと言うと、右手に嵌めているリストバンドに搭載されている電灯機能を使って、前方を照らしていた。

 彼は、袖の長いワイシャツを着て、裾の長いチノパンを穿き、幅の広いスニーカーを履いていた。さらに、上半身および下半身には、服の上から、高い防弾性や耐衝撃性を備えているプロテクターを装着していた。腰には、ウエストポーチを巻いており、そこには、各種のツールを収納していた。

(よし……やつら、銃を撃ってこないぞ……! 黄畝(きせ)のおかげだ……彼には、感謝しないとな……!)

 そして、数分が経過したところで、橙一は、追っ手たちの視界から姿を消すことに成功した。しかし、完全に逃げきった、というわけではなかった。彼の後方・遠方からは、「どこ行きやがった!」「出てこいや!」といった怒鳴り声が、絶え間なく聞こえてきていた。その音量は、だんだん、大きくなってきていた。

 橙一は、ばっばっ、と辺りを素早く見回した。今、彼は、ろくに手入れがなされていないらしい、荒れた林の中にいた。周囲には、それなりに大きな茂みが、たくさんあった。

(よし……!)

 そう心中で呟くと、橙一は、近くに位置していた、それなりに大きな茂みの中に、がさぱきごそぺき、と入っていった。枝が、体を突いたり、虫が、顔に当たったりしたが、気にしている場合ではなかった。

 彼は、ある程度、奥まで進んでから、その場にしゃがみ込んだ。見つかることのないよう、リストバンドの電灯機能を、オフにする。

(これで、しばらく、時間を稼げるだろう。だが、このままでは、いずれ、見つかってしまうに違いない。なんとかしないと……)

 そう脳裏で呟きながら、橙一は、右手で、頬を、音を立てないように気をつけて、掻いた。真夏の夜、と言うだけあって、ひどく蒸し暑かった。

(……とりあえず、緑摩(みどりま)のやつに、連絡しておこう)

 そう胸内で呟くと、橙一は、右手で、首に装着しているマイクのボタンを押した。きわめて小さな声で、「緑摩、こちら、藍藤」と喋る。「聞こえるか? どうぞ」

 右耳に挿入しているイヤフォンから、「こちら、緑摩。大丈夫、聞こえるわよ」という、仲間のエージェントの声が流れてきた。「どうしたの? 露草邸に上手く忍び込めた、とは聴いたけれど」

「そうなんだが、その後、甚三紅の構成員たちに見つかってしまったんだ。それで、ついさっきまで、追われていた」

「新橋(しんばし)鍵は? 手に入ったの?」

「その件は、問題ない」相手からは見えないのに、思わず、こくり、と頷いた。「ちゃんと、持っている」

 橙一は、右手のリストバンドに、一瞬だけ視線を遣った。新橋鍵は、その中に収納されていた。

「よかったわ……」ふう、と安堵の息を吐く音が聞こえてきた。「それで、今は、逃げている最中なの? A地点まで、行けそう?」

「なんとしてでも、行ってみせる」橙一は即答した。「だが、少し、遅れるかもしれない。そのことを、紫野原(しのはら)に伝えておいてくれ。十中八九、やつのほうが、先に、A地点に着くだろうから」

「了解したわ」

「連絡事項は、以上だ。通信を終了する」

 橙一は、マイクのボタンを押して、通信を切った。その後、(さて、ここから、どうやって、A地点に行こうか……)と心中で呟いて、いろいろと考えを巡らせ始めた。

 彼は、特殊諜報機関「水浅葱」(みずあさぎ)のエージェントだ。年齢は若いが、格闘に射撃、話術に航空機操縦など、各種の能力は、かなり高い。今まで、テロ組織に拉致された厚生労働大臣を救出したり、悪徳軍需企業の施設から機密データを入手したり、「超巨大ゴマフアザラシ北海道上陸事件」に関わったりと、数々のミッションを完遂させてきた。

(本来は、露草邸を脱出した後は、徒歩でA地点に行く、というプランだった……だが、それは、甚三紅の構成員たちに気づかれることなく、邸外に脱出する、という条件付きだ。実際には、それは、クリアできなかった……ここから、徒歩でA地点に向かっていては、その途中で、追っ手たちに見つかってしまうかもしれない。できれば、別の手段で、移動したいが……うーん……)

 甚三紅とは、日本全国で活動している犯罪組織だ。企業や行政機関などから、いろいろな情報を、盗んだり奪ったりしては、他の団体に売却することで、利益を得ている。

 事件が起きたのは、今から一か月ほど前のことだ。甚三紅のエージェントが、総理官邸に忍び込み、「ラベンダー・ノート」と呼ばれる機密書類を盗み出したのだ。以降、橙一は、水浅葱の組織したチームに所属し、それを取り戻すべく、さまざまなミッションに取り組んでいた。

(……うーん……なかなか、A地点に向かう方法、思いつかないな。やっぱり、徒歩しかないのか? ……というか、今、おれは、どこら辺にいるんだ? まだ、露草邸の近くではあるんだろうが……この林って、具体的には、どこに位置しているんだ? 屋敷の中で、構成員たちに見つかった後は、逃げることで精一杯だったからな……)

 橙一は、きょろきょろ、と辺りに視線を遣った。今では、だいぶ、目が暗闇に慣れていて、周囲の景色は、はっきり、とまでは言わないまでも、ぼんやり、と見えていた。

(……ん……あれは……池、か?)橙一は、ぱちぱち、と意識的に瞬きを繰り返した。(……間違いない、池だ。たぶん、露草邸の近くにある、常盤(ときわ)池だろうな……)

 直後、橙一は、(そうだ!)と脳裏で叫んだ。

(あの池を泳いで横断する、というのはどうだろう? それで、露草邸から、ある程度の距離をとった後で、岸に上がり、徒歩でA地点に向かう……うん、いい案じゃないか?)

 それから、橙一は、そのアイデアについて、本当に現状に適しているかどうか、瑕疵の類いがないかどうか、胸内で吟味した。

(……うん……こういう具合に行動しよう。そうすれば、常盤池を泳いで横断することで、甚三紅の構成員たちに見つかることもなく、A地点に着けるだろう)

 橙一は、そう脳裏で呟きながら、なんとなく、ウエストポーチを撫でた。その中には、水浅葱の道具部門が開発した、指向性の小型音響砲だの、薬物部門が開発した、即効性の汎用解毒剤だのが入っていた。

(さっそく、実行に移そう──と言いたいところだが、その前に、近くを追っ手がうろついていないか、確認しておかないとな……この茂みから出る時は、どうしても、音を立ててしまうから)

 そう心中で呟くと、橙一は、息を止め、耳を澄ませた。びゅうびゅう、という風が吹く音や、がさりがさり、という葉が擦れる音、みょえーんみょえーん、という虫が鳴く声などが聞こえてきた。

(……よし。近くに、追っ手は、いなさそうだ。それじゃあ、いよいよ、A地点に向かい始めるか……)

 橙一は、そう脳裏で呟いてから、立ち上がった。なるべく音を立てないよう気をつけながら、体を動かし、茂みの外に出る。

 その後は、池に向かい始めた。目が暗闇に慣れきっているおかげで、リストバンドの電灯機能は、使わずに済んだ。

 しばらくしてから、橙一は、常盤池の岸辺に到着した。真っ黒な地面より、数十センチ下がったあたりに、真っ黒な水面が位置していた。

(できれば、水に入る時、大きな音を立てずに済むであろう、浜のようになっている所を探したいが……時間が惜しい。ここから行こう。

 それじゃあ、脱衣するか。この場で、してもいいんだが……できれば、念のため、物陰にでも身を隠したい。どこか、いい場所はないか?)

 橙一は、きょろきょろ、と辺りに視線を遣った。数秒後には、岸から数メートル離れたあたりに、ライトバンくらいの大きさの岩が鎮座しているのを見つけた。

(よし、あれの陰で脱衣しよう)

 そう胸内で呟いてから、橙一は、目当ての大岩の前に移動した。ワイシャツの前面の裾を、ぐっ、と両手で掴む。間髪入れずに、ばっ、と捲り上げた。

 ぱあっ、と周囲が明るくなった。橙一の胴体から放たれている七色の光が、辺りを照らしたのだ。彼は、ワイシャツの裾だけでなく、その下に着ているランニングシャツの裾まで握っていた。

(うわっと……!)

 橙一は、慌てて、両手を下げ、ワイシャツの裾とランニングシャツの裾を、元の位置に戻した。彼の胴体は、それらの衣服に覆われ、光は出てこなくなった。辺りは、再び、真っ暗になった。

(まったく、厄介だよなあ……)橙一は、はあああ、という、心の底からの溜め息を吐いた。(胴体が、ゲーミングPCのごとく、七色に発光する、なんてよ……)思わず、そんな肉体を持つようになった経緯を回想し始めた。


 生まれつき、というわけではない。橙一の胴体は、以前は、一般的な日本人男性と大して変わらない見た目をしていた。

 事が起きたのは、今から三か月ほど前のことだ。その頃、橙一は、青紀(あおき)というエージェントの部下として、あるプロジェクトに取り組んでいた。

 それは、ある日本征服を目論むテロ組織から、ある機密データを入手する、という内容だった。そのデータは、ある医療機器メーカーの研究所から盗み出されたもので、元々は、「ピーコック・チーム」という、所員たちのチームが有していた。

 そのチームは、かなり高い──「主要先進国の平均より数世紀は先んじている」と評されるほど──技術力を有していて、日本政府に、とても重要視されていた。そのため、水浅葱が、そのようなプロジェクトを任されることになったのだ。

 その日、橙一は、プロジェクトの一環である、あるミッションに取り組んでいた。それは、テロ組織の拠点に忍び込んで、「ナイル・コード」という文字列情報を取得する、という内容だった。ナイル・コードは、三十字の英数により構成されていた。

(ミッションは、途中まで、順風満帆だった……しかし、途中から、逆風破帆と化した。拠点に忍び込んでいる時、テロ組織の構成員たちに見つかって、追われる羽目になったんだ)

 最終的に、橙一は、なんとか追っ手たちを振りきり、青紀たちとの合流地点に到達した。しかし、代償は大きかった。追っ手たちの撃った銃弾を、しこたま浴びたことにより、肉体の、鎖骨から臍までの部分が、点描画のごとく、穴だらけになっていたのだ。さらには、彼がナイル・コードを撮影・記録しておいた小型カメラも、銃弾を食らい、粉々に砕けていた。

(……もし、あの時、カメラが、無事、あるいは、軽微な損傷で済んでいたなら、おれは、そのまま、葬られていただろうな……)

 青紀としては、そのミッションにおいて、絶対に、ナイル・コードを入手する必要があった。橙一を死なせるわけにはいかなかったのだ。さいわいにも──焼け石に水、とでも言ったほうが正しいか──肉体の、鎖骨から上の部分と、臍から下の部分は、ほとんど無傷だった。

(青紀は、おれに対して、治療行為──もはや蘇生行為か──を行った。その結果、おれは、なんとか、息を吹き返すことができた)

 意識を取り戻した橙一が、最初に視認したのは、己の肉体だった。直後、彼は、飛び上がりそうなくらいに仰天した。鎖骨から臍までの部分が、七色に発光していからだ。

 職業柄、速やかに冷静さを取り戻した橙一は、その後、目を凝らして、己の肉体を、よく観察してみた。鎖骨から臍までの部分の皮膚──樹脂と表現すべきか──は、透明になっている。それの内側には、とても精密そうな機械が、眩暈を覚えそうになるくらい、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。それらが、赤や青、黄、緑、紫などといった、さまざまな色の光を放っているのだ。それも、ただ単に光り続けているわけではなく、一定のリズムで点滅したり、グラデーションを表現したりしていた。

(後で、おれは、青紀から詳しい話を聴いた。なんでも、ピーコック・チームは、主に、人間の肉体に機械を搭載し、各種の生理現象を代行させる方法を研究しているらしい。それで、青紀は、チームに依頼したそうだ。おれの肉体に対して、研究の成果を発揮してくれ、ってな。

 ピーコック・チームは、それを、即座に承諾したそうだ。もちろん、一番の理由は、おれを蘇生させないと、ナイル・コードが入手できない、ひいては、プロジェクトが失敗するかもしれない、というものだろうが……後から聞いた話では、「法を犯すことなく、むしろ、政府による黙認の下、実験動物でなく、人間に対して、研究の成果を発揮するチャンス」と意気込んでいたらしい。

 その結果、おれの肉体の、鎖骨から臍までの部分は、内部に、いろいろな機械を詰め込まれ、その上を樹脂で覆われた。そして、最終的には、おれは息を吹き返した、というわけだ。

 で、なにしろ、突発的な事態だったため、ピーコック・チームによる各種の作業の間は、いろいろなパーツが不足したらしい。そこで、チームは、ありとあらゆる手段を駆使し、必要な物を確保した。その時、調達された部品のうち、ほとんどが、ゲーミングPCに使われる物だった。そのため、おれの胴体は、七色に発光するようになった、というわけだ。樹脂も、透明なタイプの物しか手に入らなかったらしい)

 ミッション自体は、成功した。意識を取り戻した後、橙一は、部屋に駆けつけてきた青紀に対し、すぐさま、ナイル・コードの内容を伝えたのだ。さらには、今から二か月ほど前には、プロジェクト自体も完了した。テロ組織から、機密データを取り戻すことに成功したのだ。

(肉体の、鎖骨から臍までの部分には、肺だの胃だの腸だの、主要な臓器が位置している。おれの場合、それらは、すべて、機械と化してしまった。息を吹き返してから間もないうちは、「もう、これまでのような暮らしを送ることは、できないに違いない」「飲食とか排泄とか、いろいろな行為が、かなり不便になるに違いない」と、ひどく悲観していたものだ。

 しかし、とても嬉しいことに、その絶望は、無用だった。今に至るまで、おれは、これまでと大して変わらない暮らしを送っていられている。飲食にしろ、排泄にしろ、だ。さすがは、ピーコック・チーム……「主要先進国の平均より数世紀は先んじている」と評されるだけはある)

 橙一は、そのチームに対し、非常に感謝していた。なにしろ、本来なら、死んでいるところ、いや、死んでいたところ、生き返ることができたのだ。チームのリーダーは、「いくら、蘇生のためとはいえ、半ば人体実験のような真似をして、申し訳ない」と言っていたが、橙一にしてみれば、自分の体を実験に使ってくれてありがとう、という気持ちだった。

(……まあ、微塵も不満を抱いていない、というわけではないけどな。できれば、ピーコック・チームには、おれの肉体を、胴体が七色に発光しないように改修してほしい。部品を、発光しないタイプの物に変える、とか、樹脂を、透明でないタイプの物に変える、とか……。

 ……だが、けっきょく、現在に至るまで、そのようなことは、彼らには、頼めていない。

 今、おれは、一週間に一度、チームの所へ行って、いろいろな検査を受けている。なにしろ、貴重な、実験動物ならぬ実験人物だからな。彼らは、みな、「これまで、いくら欲しがっても、とうてい得られなかったデータが、たくさん手に入る」と言って、喜んでいる。

 以前、それとなく訊いてみたが……どうも、おれの肉体を、胴体が七色に発光しないように改修した場合、今までの検査で取得した、いろいろなデータの価値が、いちじるしく低下してしまうらしい。……それは、さすがに、申し訳ない。なにしろ、命を助けてもらった恩があるんだ。おれも、できるだけ、チームの研究に協力したい)

 それに、いっさい外に出られない、というわけではない。水浅葱の道具部門に作ってもらった、特殊なランニングシャツを着て、胴体を覆っていれば、光を遮られるのだ。温泉や海水浴場など、胴体を露出するような場所には行けないが、そのくらい、我慢できる。

(それで、今も、おれの胴体は七色に発光している、というわけだ)


 そこまで回想したところで、はっ、と我に返った。

(いかん、いかん……思わず、現実逃避してしまっていた。今は、とにかく、A地点に行かないと……)そう心中で呟き、再び体を動かし始めた。

 しばらくして、橙一は、脱衣を完了させた。といっても、全裸ではない。上半身にはランニングシャツを、下半身にはパンツを身に着けている。右手首には、リストバンドを嵌めていた。

(マイクやイヤフォンは、泳ぐ前に、外しておこう。防水じゃない……持っていても、壊れるだけだ。

 緑摩と連絡がとれないようになってしまうわけだが……なあに、A地点に着くまでの辛抱だ。そこにさえ着けば、紫野原と合流できる。それからは、必要に応じて、やつのマイクやイヤフォンを借りればいい)

 そう脳裏で呟いた後、橙一は、マイクのボタンを押し、緑摩との通信を開始した。「常盤池を泳いで横断し、それからは徒歩でA地点に向かう」という旨と、「しばらくの間、連絡がとれないようになる」という旨を伝えてから、終了する。

 その後、マイクやイヤフォンを体から取り外すと、その辺に捨てた。今や、彼が身に着けている物は、ランニングシャツとパンツ、リストバンドの、三点だけだった。

(さて、さっそく、始めるとするか……)

 そう胸内で呟きながら、橙一は、池の岸に近づいた。大きな音を立てないよう気をつけながら、爪先を、足を、脛を、沈めていく。そして、十数秒後には、全身を水中に潜らせることに成功した。

(よし……それじゃあ、D地点を目指して、泳いでいこう……! 陸に上がるのは、D地点でないとな……! その後は、A地点に向かって、徒歩移動だ……!)

 そう心中で呟いた後、橙一は、水中を進み始めた。彼は、水浅葱のエージェントとして、あらゆる運動技能を取得している。それらを駆使することにより、大きな音を立てることなく、体を動かすことができた。

 しかし、D地点に向かっている途中で、トラブルが発生した。ランニングシャツの裾の右脇腹あたりが、ぐいっ、と何かに引っ張られたのだ。

「がぼっ?!」

 驚いた拍子に、口から声や泡が出た。さっ、と腹部に視線を遣る。裾が、近くにある大岩の、ごつごつとした表面に、引っかかってしまっていた。

(く……!)

 橙一は、ランニングシャツを両手で握り締めると、渾身の力を込めて、ぐいっ、ぐいいっ、と引っ張った。しかし、裾が外れることは、なかった。

 暗くて、ろくに周囲が見えないせいで、大岩の表面、布地が引っかかっている部分を、よく観察し、裾を外す手順を考える、ということもできない。ひたすら引っ張り続けるしかなかった。

 そして、数分が経過した。いくら、橙一が、あらゆる運動技能を取得している、とはいえ、さすがに呼吸が苦しくなってきた。

 まだ、裾は、大岩の表面に引っかかっていた。いっそのこと、ランニングシャツのその部分を破ってしまいたい、とも思ったが、素手で衣服を裂けるほどの筋力は有していない。

(このままでは、溺れてしまう……クソ、最後の手段だ……!)

 そう脳裏で呟くと、橙一は、体を動かし始めた。そして、十数秒後には、ランニングシャツを脱ぐことに成功した。辺り一帯が、七色の光に照らされ、ぱあっ、と明るくなった。

 その後、彼は、いったん息継ぎを済ませてから、再び潜水した。胴体の光を頼りに、大岩の表面、ランニングシャツの裾が引っかかっている部分の様子を観察する。

 布地は、力任せに引っ張り続けたせいか、かなり複雑怪奇な形に絡まっていた。もはや、素手かつ短時間では、外せそうになかった。

(仕方がない……ランニングシャツは、ここに置いておいて、今後は、上半身が裸の状態で、泳いで行こう……! 甚三紅の構成員たちに、胴体の光を目撃されたら、一巻の終わりだが……こればかりは、そうならないことを祈るしかないな……)

 そう胸内で呟くと、橙一は、再び、水中を移動し始めた。胴体から発されている七色の光が、辺りを照らしているおかげで、さきほどまでよりは、進みやすかった。

 数分後、彼は、D地点の岸に到着した。大きな音を立てないよう気をつけながら、陸に上がる。

 橙一は、きょろきょろ、と周囲を見回した。そこらには、さまざまなゴミが不法投棄されていた。薄汚れた業務用の冷蔵庫や、ファーストフードの包装が詰め込まれたレジ袋、ぼろぼろになったタイヤのゴムなどだ。

(常盤池の岸辺、ここら辺が、不法投棄の名所と化しているのは、今回のミッションを行う前の調査で、知っていた。衣服の類いが捨てられていれば、いいんだがな……。あるいは、ただの布でもいい。せめて、体を拭きたい……)

 そう心中で呟きながら、橙一は、D地点を探索し始めた。甚三紅の構成員たちに見つかるのではないか、という緊張のせいで、少し焦っていた。

 数分後、彼は、ハンカチを三枚、発見した。それらを使って、全身を拭く。さらに数分後には、半ズボンを一本、サンダルを一組、発見し、それらを身に着けた。

(うーん……トップスの類いが、ないな。この際、シャツ、なんていう高望みはしない……ブラウスでもバスタオルでも、何でもいい。とにかく、胴体を覆い隠さないと……こんな、七色に発光していては、ひどく目立ってしまう)

 引き続き、橙一は、その地帯を探索した。しかし、目当ての物は、どうしても見つからなかった。

(ぐう……いつまでもここにいるわけにもいかない……)彼は、ぐぐぐ、と奥歯を強く噛み締めた。(……仕方ない、この姿のまま、A地点に行くか……)

 その後、橙一は、常盤池を離れ、目的地に向かって移動し始めた。その場所は、D地点から大して離れておらず、すぐに見えてきた。

 A地点は、とある工場の跡地の中に位置していた。跡地には、作業場だの倉庫だのが、廃墟として残されていた。彼は、その地点において、紫野原という男性エージェントと合流する手筈になっていた。

(あいつ、ちゃんと、山吹(やまぶき)邸から刈安(かりやす)鍵を入手していればいいんだがな……。例の金庫は、おれが露草邸から入手した新橋鍵だけでは、開けられないから。新橋鍵と、刈安鍵と、臙脂(えんじ)邸にある鉛丹(えんたん)鍵が必要だ……)

 甚三紅は、ラベンダー・ノートを、とある貸金庫会社に預けていた。そこは、徹底的な中立性を売りにしており、たとえ、日本政府や水浅葱と言えど、利用者の同意なしに金庫を開けてもらう、ということはできない。さらには、ラベンダー・ノートが保管されている金庫を開けるには、三つの鍵を物理的に使用する必要があり、それができなければ、その会社にすら手が出せない、という話だった。

(露草邸と山吹邸には、それぞれ、甚三紅の幹部が住んでいる。そして、臙脂邸には、甚三紅のトップを務める、赤威(あかい)という男が住んでいる。

 そんな要人が暮らしているだけあって、どの家も、甚三紅の構成員たちが、厳しく警備している。そんな中、どうやって、鍵を盗み出すか。それを考えるのは、とても難しかった……)

 いろいろと策を練った結果、三つの鍵は、ある日の夜に、三つの家から、いっせいに盗む、ということになった。その、「ある日」というのが、今日だ。

(手順は、こうだ。まず、おれが、露草邸に忍び込み、新橋鍵を入手する。同時に、紫野原が、山吹邸に忍び込み、刈安鍵を入手する。

 次に、おれと紫野原は、予定の時刻までに、A地点にて合流。二人で、臙脂邸に忍び込み、鉛丹鍵を入手する。最後に、水浅葱の司令部に戻れば、ミッションコンプリートだ。

 ちなみに、現在、仲間のエージェントたちの工作により、露草邸と山吹邸、臙脂邸は、互いに連絡がとれないような状態に陥っている。さらには、臙脂邸を警備している、甚三紅の構成員たちは、そのことには気づいていないはずだ。

 おれは、露草邸にて、新橋鍵を盗んだ後、構成員たちに見つかり、追いかけられてしまったわけだが、そのことは、臙脂邸には、伝わっていないはず。「臙脂邸が、露草邸から、『不審者が侵入した』と知らされたことにより、警備を増強したせいで、手が出せなくなってしまう」という事態は、避けられるはずだ……なにせ、電話とかインターネットとかいった通信手段が使えなくなっているのは、もちろんのこと、「露草邸の構成員が、直接、臙脂邸に行き、事態を伝える」ということすら、できなくなっているんだからな)

 そんなことを脳裏で呟きながら、彼は、A地点に向かって歩いていった。かなり可能性は低い、と思ってはいるが、「たまたま近くを通りがかった甚三紅の構成員に気づかれる」というような事態を避けるため、なるべく音を立てないように気をつけた。

 しばらくしてから、廃屋の角を左に曲がった。その数メートル前方には、紫野原がいた。今は、橙一に背を向けていた。

 彼は、袖の長いポロシャツを着て、裾の長いスラックスを穿き、幅の広いローファーを履いていた。さらに、上半身および下半身には、服の上から、プロテクターを装着していた。右手首には、リストバンドを嵌めており、腰には、ベルトとウエストポーチを巻いていた。

「待たせたな、紫野原」

 橙一は、そう呼びかけながら、紫野原に近づいていった。彼は、くる、と橙一のほうを振り向いた。

 その直後、橙一の胴体が、びかびかびかびかっ、と激しく点滅した。

 紫野原は、手前に向かって、ばったん、と俯せに倒れた。

「……?!」

 橙一は、だだだっ、と紫野原に駆け寄った。「おいっ?! どうした?! しっかりしろ!」両肩を、がしっ、と掴んで、ぶんぶん、と揺さぶった。

「ううう……」

 紫野原は、そんな唸り声を上げた。しかし、目を覚ましはしなかった。いわゆる昏睡状態だ。試しに、頬を抓ったり、瞼を開いたりしてみたが、意識が覚醒することは、なかった。

「クソ、いったい何が……」

 そう呟いたところで、紫野原の右耳にイヤフォンが挿入されているのが、目に留まった。

「そうだ、緑摩に……!」

 橙一は、紫野原の体からマイクとイヤフォンを取り外すと、装着した。通信を開始する。

「緑摩、こちら、藍藤。聞こえるか?」

「こちら、緑摩。藍藤くん? どうしたの? これ、紫野原くんの端末でしょ?」

「問題発生だ」その後、橙一は、紫野原が昏睡状態に陥った件について、詳細に説明した。

「なるほど……」緑摩は、数秒、沈黙した。「きっと、紫野原くんは、光過敏性発作を起こして、失神したのでしょうね」

「何だ、それは?」

「人間が、強い光の刺激を受容した時、発生する可能性がある発作のことよ。ほら、テレビアニメが始まる前、『部屋を明るくして離れて見てください』というテロップが表示されたり、テレビゲームの説明書に、同じような内容が書かれていたりするじゃない。あれは、視聴者が光過敏性発作を起こすことを防止するための措置なのよ」

 緑摩の声の後ろからは、かたかたかた、というキーボードを打鍵する音が聞こえてきていた。通信しながら、パソコンでも操作しているのだろう。

「藍藤くんの胴体は、七色に発光しているでしょう。それも、ただ発光するだけじゃなくて、一定のリズムで点滅したり、グラデーションを描いたりしているじゃない。きっと、紫野原くんは、それらを目にしたせいで、発作に見舞われたのでしょうね」

「だが、おれは、これまで、紫野原から、『自分は光の刺激に弱いんだ』とか、『自分は光過敏性発作を起こしたことがあるんだ』とか、そんな話、聴いたことがないぞ? それなのに、今、このタイミングで、初めて、その発作が発生した、というのか?」

「もちろん、紫野原くんが、通常の体調であれば、藍藤くんの胴体を目にしたとしても、光過敏性発作に見舞われることは、ないでしょうね。ところが、今、彼は、通常の体調ではなかったの。

 数十分前、紫野原くんは、プランどおり、山吹邸に忍び込んで、刈安鍵を入手したわ。ところが、屋敷を脱出している途中で、警備を務めていた、甚三紅の構成員、一人に見つかって、戦う羽目になったの。

 さいわいにも、そいつ自体は、数十秒後には、無力化できたらしいわ。他の構成員たちに見つかってしまう、ということもなかった。

 ただ、紫野原くんは、その構成員と戦っている最中に、遅効性の毒による攻撃を食らったそうなの。ほら、あなたたち、ウエストポーチに、水浅葱の薬物部門が開発した、即効性の汎用解毒剤を収納しているでしょう。彼は、毒が効力を発揮していない間に、構成員を倒した後、それを飲んだ、と言っていたわ。だから、以降も、普通に行動することができていたんだけど……」緑摩は、数秒、沈黙した。「やっぱりね……。今、パソコンで、薬物部門のデータベースを検索して、その解毒剤について調べたんだけれど……『副作用として、光の刺激に対し、非常に敏感になります』『服用した後は、十時間が経過するまで、テレビ類を視聴しないでください』って書かれているわ」

「そのせいで、やつは、おれの胴体を目にした時に、光過敏性発作を起こしてしまった、というわけか……」思わず、大きく肩を落とした。

「それで、紫野原くんは、どんな容態なの? 失神した、って言っていたけれど……どうしても、目を覚まさないの?」

「さっきは、駄目だったが……ちょっと待ってくれ、もうちょっと、いろいろやってみる」

 その後、橙一は、紫野原の目を覚まさせようとして、さまざまな行動を起こした。しかし、いずれも無駄に終わった。

「駄目だな……」思わず、首を、ゆるゆる、と左右に振った。「昏睡状態から回復しそうにない。それに……いつまでもここにいるわけには、いかない。早く、臙脂邸に行って、鉛丹鍵を入手しないと……」数秒、沈黙した。「仕方ない……こうなったら、おれ一人で、ミッションを続行する。プランどおりなら、一人でも──もちろん、二人でない分、大変だろうが──遂行することができるはずだ。かまわないか、緑摩?」

「了解したわ。じゃあ、紫野原くんは、そこに寝かせておいてちょうだい。後で、黄畝くんたちを、回収に向かわせるわ。

 刈安鍵は、念のため、藍藤くんが持っていてちょうだい。打ち合わせどおり、リストバンドに収納されているから」

「了解した。それじゃあ、さっそく、ミッションを再開する。通信を終了する」

 その後、橙一は、紫野原のリストバンドから、刈安鍵を取り出した。それを、自分のリストバンドの中、新橋鍵と同じスペースに、収納する。

(それじゃあ、次は、紫野原の服を借りようか。ランニングシャツとは違って、完全に遮光する、というのは無理だろうが、わずかでも、遮光したい。やつに対して、少し──いや、かなり申し訳ない気持ちがあるが、ミッションを成功させるためだ、たぶん、理解してくれるだろう……)

 そう心中で呟いた後、橙一は、紫野原のポロシャツを脱がそうとした。しかし、できなかった。

 彼の腰、スラックスのウエストには、ベルトが巻かれている。それの金具は、損傷し、大きく変形していた。おそらく、山吹邸で、甚三紅の構成員と戦った時に、壊れたのだろう。そこに、ポロシャツの裾の一部分が、挟まってしまっていた。

 また、ベルトは、緩めることもできなくなっていた。そのため、スラックスを脱がせることもできなかった。

 刃物の類いがあれば、どうにかできるだろうが、あいにく、そのような道具は持ち合わせていない。紫野原のウエストポーチを調べてみたが、そこにも入っていなかった。

 けっきょく、彼の体から外せた物は、ウエストポーチ一個、靴下一組、ローファー一組だけだった。これらでは、とうてい、胴体を覆い隠すことはできない。

(クソ……このまま──胴体を七色に発光させたまま、臙脂邸に行くしかないのか……)

 橙一は、はあああ、と大きな溜め息を吐いた。いつの間にやら俯かせていた顔を、上げる。

(……まあ、さいわい、胴体が七色に発光している状態では、ミッションを成功させられない、というわけじゃない。プランどおりに行動すれば、そんな状態であっても、甚三紅の構成員たちに見つかることなく、臙脂邸に忍び込んで、鉛丹鍵を手に入れられるはずだ……)

 橙一は、紫野原のウエストポーチを、腰に巻いた。作戦を遂行するには、この中に入っている各種の道具が、必要不可欠だった。

(それに、もしかしたら、臙脂邸の内部で、あるいは、臙脂邸に向かっている途中で、衣服だの布地だのを手に入れられるかもしれないじゃないか。その場合、それで胴体を覆い隠せば、多少は、光を抑えられる……)

 そう胸内で呟いた後、橙一は、紫野原のローファーを履こうとした。D地点で拾ったサンダルより動きやすいだろう、と考えたのだ。

 しかし、その目論見は、失敗した。その靴のサイズは、彼にとって、小さすぎたのだ。無理をすれば、足を通せないこともないが、あまりに窮屈で、ひどく移動しづらい。これではミッションの遂行に支障が出る、サンダルのほうがマシだ、と判断した。

(甚三紅の構成員たちには、絶対に、捕まるわけにはいかない。おれの場合──まあ、他のエージェントでも、同じなんだが、特に、おれの場合──手酷く甚振られる可能性が、非常に高い。

 なにしろ、おれは、赤威に、ひどく怨まれているからな。今から一週間ほど前、あるミッションの最中に、たまたま出くわしてしまった時、事故とはいえ、やつの端整な顔面に、濃硫酸をぶっかけてしまったのだから……)

 そう胸内で呟きながら、橙一は、A地点を離れた。数分後には、工場の跡地から出て、臙脂邸に向かった。

 しばらくすると、目的地が見えてきた。屋敷は、ヨーロピアンな雰囲気の漂う豪邸だった。敷地は、一般的な規模の小学校地より、二回りほど広かった。境界には、高く頑丈な塀が立てられていた。邸宅の北側には、森が広がっている。

(よし……さっそく、黄畝の言っていたB地点に向かおう)

 黄畝というのは、水浅葱の男性エージェントだ。彼は、今から数時間前に、あるミッションを完了させていた。それは、橙一や紫野原が、露草邸や山吹邸、臙脂邸に忍び込むための、各種の準備工作を行う、という内容だった。

 橙一は、その後、B地点に行った。そこでは、塀に、人が一人、ぎりぎり通り抜けられるくらいの直径の穴が開けられていた。彼は、それを使って、臙脂邸の敷地内に侵入した。

 臙脂邸の敷地は、とても広いが、屋敷は、あまり大きくない。屋敷は、敷地の中央あたりに位置しており、そこ以外は、優雅な雰囲気の漂う庭園となっていた。

 橙一は、その庭園を、事前に決めたルートに沿い、屋敷に向かって移動していった。各種のカメラだのセンサーだのを上手く回避できるようなルートだ。

 十数分後、橙一は、ある一本道の始点に着いた。それの先、彼の現在位置より二十メートルほど進んだあたりには、屋敷の外壁が聳えていた。

 外壁の一階部分、一本道の終点付近には、めったに使われない部屋の窓が設けられていた。それをくぐって、屋内に忍び込む手筈になっている。錠は、すでに、黄畝が開けているはずだ。

(さて……テラコッタの様子は、どうだ?)

 橙一は、一本道の右脇、彼と屋敷外壁の中間あたりに位置している建物に、視線を遣った。それは、西洋童話に出てくる城のようなデザインをしており、高さは、一メートル強しかなかった。

 その城の、道に面しているほうの外壁には、出入り口が設けられていた。そこからは、犬が、首から上を、外に出していた。その犬は、建物の雰囲気に似つかわしくない、とても獰猛そうな見た目をしていた。

 犬は、臙脂邸で飼われているペットで、「テラコッタ」という名前を付けられていた。赤威に可愛がられているのは、もちろんのこと、番犬としても、かなり優秀だった。面識がある人物や、面識がなくても、親しい者が紹介した人物に対しては、とても懐くのだが、見知らぬ人物、不審な人物に対しては、ひどく吠えるのだ。つまり、テラコッタが吠えている、ということは、その近くに怪しい人物がいる、ということを意味している。

 そんなテラコッタは、現在、爆睡していた。ぐごごご、だの、ぶががが、だの、派手な鼾をかいている。黄畝が睡眠薬を混ぜた餌を食べたに違いなかった。

(よし……これなら、やつの前を通り過ぎられる。ここら辺には、カメラだのセンサーだのが、たくさん設置されているせいで、あの窓の所に行くには、この道を進むしかないからな……)

 そう心中で呟いた後、橙一は、屋敷の外壁に向かって、道を歩き始めた。そして、数秒後には、テラコッタの小屋の前に差しかかった。

 その時、彼の胴体が、びかびかびかびかっ、と、よりいっそう激しく点滅した。

 テラコッタが、眉を動かし、顰めた。「ぬうう……」不機嫌そうに唸りながら、瞼を上げた。

「……!」

 どこか近くに隠れようか。橙一は、そんなことを考えたが、行動を起こすよりも前に、テラコッタの瞼が、ばちっ、と全開になった。その瞳は、彼に向けられていた。

「がう! があうっ! がうがうがうっ!」

 テラコッタが、大きな声で吠え始めた。

(クソ……!)

 そう心中で呟いた、次の瞬間、屋敷のほうから、「誰かいるぞ!」という大声が聞こえてきた。

 そちらに、視線を遣る。三階にある窓が一箇所、開かれており、そこから赤威が顔を出していた。

 彼は、低い声で、唸るように呟いた。「藍藤……!」

 橙一は、くるっ、と体を半回転させると、だだだっ、と駆け出した。来た時と同じルートに沿って、B地点に向かい始める。

(ミッション、失敗だ……! これじゃあ、もう、鉛丹鍵は入手できない……! こうなりゃ、せめて、新橋鍵と刈安鍵だけでも、水浅葱に持ち帰ってやる……!)

 しばらくしてから、橙一は、B地点に到達した。穴を通り抜け、敷地から脱出する。それから、すぐさま、近くに広がっている森の中に入った。文字どおりの全力疾走で、臙脂邸から離れていく。

「てめえ、待ちやがれ、この野郎!」

 そんな怒鳴り声が、背後から聞こえてきた。一瞬だけ、そちらに視線を遣る。甚三紅の構成員が六人、走って追いかけてきていた。臙脂邸にある乗り物は、自動車もオートバイも自転車も、すべて、黄畝がパンクさせていた。

(それに、銃を撃ってこない……! 露草邸の時と同じだ……黄畝が、事前に、やつらの銃に、使えなくなるような細工を施してくれたんだ……彼には、感謝しないとな……!

 とりあえず、このまま、C地点に向かおう……!)

 臙脂邸の北、数百メートル離れたあたりには、海が広がっている。C地点は、その海岸に位置していた。

(C地点には、黄畝が、水上バイクを停めてくれている……それに乗れば、構成員たちを振りきれる。いくら、やつらでも、海上までは、追ってこられないだろう……!)

 しばらくすると、橙一の十数メートル前方に、崖が現れた。真っ黒な地面より、数メートル下がったあたりに、真っ黒な海面が位置していた。

(C地点まで、あと少しだ……!)

 橙一は、そう脳裏で呟きながら、駆けるスピードを落としていった。じゅうぶん減速したところで、右折する。

 それからは、崖から数十センチ離れたあたりを、東に向かって、走っていき始めた。後ろからは、相変わらず、甚三紅の構成員たちが、追いかけてきていた。

(でも、問題ない……! この調子なら、捕まる前に、C地点に着くことが──)

 そう胸内で呟いた、次の瞬間、左足のサンダルが、ぶちぶちっ、という音を立てて、裂けた。

「……?!」

 サンダルは、もともと、捨てられていた物だ。橙一の全力疾走に耐えられなかったに違いなかった。

 左足が、ずるっ、と右に滑った。体が、左へ傾いていく。

 どうしようもなかった。橙一は、あっという間に崖を越えると、海面に向かって落ちていき始めた。

「……!」

 橙一は、空中で体勢を整えた。水泳の飛込競技の選手がごとく、水面に突入する準備を行う。数秒後、ばっしゃあん、という大きな音や、派手な飛沫を立てて、海中に突っ込んだ。

(足を滑らせた時は、しまった、と思ったが……これは、ある意味、チャンスだ……! 甚三紅のやつらは、まさか、海に飛び込んでまで、追いかけてはこないだろう……このまま、泳いでC地点に行こう……!)

 そう心中で呟くと、橙一は、体勢を整えた。目的地に向かって、泳ぎ始める。胴体が七色に発光しているおかげで、周囲が照らされており、移動しやすかった。なお、崖の上にいるであろう構成員たちに撃たれることを回避するため、海面には近づかないよう、気をつけた。

 数秒後、視界の奥、彼の数十メートル前方で、何かが、きらっ、と銀色に光った。思わず、そちらに視線を遣る。

 正体は、魚の群れだった。いずれも、体は、とても細長い形をしていて、口は、裁縫針のように尖っていた。

(あの魚は──ダツ、だ……!)橙一は両目を瞠った。(不味いぞ……たしか、ダツには、光に向かって高速で突進する、という習性があったはずだ……!)

 彼は、慌てて、ダツの群れから離れ始めた。しかし、魚たちのほうが、はるかに速く、両者の距離は、どんどん縮まっていった。

 そして、十数秒が経過したところで、ダツが十数匹、橙一の胴体に突っ込み、樹脂をずたずたに穿孔し、機械をめちゃめちゃに破壊した。


   〈了〉

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