後天性文字恐怖症
大枝 岳志
第1話
高校一年生で人一倍頑張り屋の石原有希は、志望校での新たな日常に胸を膨らませていた。中学三年まで、ずっとずっと母親の言いつけを守って来た。
「有希のお友達は母さんが選びます」
「イイ小学校に通ってるんだから、最低でも一番イイ中学校へ行って頂戴」
「お友達と遊ぶ時間は人生に必要ありません。塾や文化を嗜む時間を作りなさい」
「男性は不潔! 男性は不潔! 男性は不潔!」
ヒステリックな母の気分を諫めるには言葉ではなく、母の願いを全て叶え、叶えた姿を見せ続けなければならなかった。
抑圧された生活の中で、有希にとっての希望はさっさと大人になって自由を手にする事だった。
高校生活は今までと違い、自由の幅が広がる。多少親の手を離れても、自身の自由を認めてもらえるだろう。そう、思っていた。
初めての授業が行われたその日、有希は自身に起きている身の異変に気が付いた。
黒板に書かれた文字を見ているだけで気分が悪くなり、胃液が込み上げて来る。指先は震え出し、頭の中で何か言葉を思い浮かべる度に具合は悪くなっていった。
徐々に具合は悪くなる一方で、ついに有希は授業中に嘔吐し、意識を失くして救急車で運ばれた。
医師の診断結果に有希の両親は口をぽかん、と開いたまま固まってしまった。
「娘さんは……後天性文字拒絶症です」
二人はそれがどんな病気かも分からなかったが、事態はかなり深刻なようだった。
その病を発症した者は皆、文字を見るばかりか想像しただけでも身体に不調をきたす。嘔吐、下痢、頭痛に始まり平行感覚の喪失、眩暈といった身体の症状、言葉を発せない、想像すら出来ないストレスに起因する精神疾患など、とてもまともな生活を送る事は不可能だと言うのだ。
父は説明を聞かされ、絶望的な気分に落ちたのだが母は違った。
毅然とした態度で、医師と向き合う。
「リハビリは、出来ませんの!?」
「今の所、成功例がなく……予後もあまり……」
「お金は幾らかかっても構わないです。成功させて下さい」
「しかし……どれほど時間が……」
「娘はこれから大事な大事な大学受験が控えておりますの」
高校に入ったばかりだという有希の年齢を考えながら、医師は頭を掻いて目線を伏せた。そうして、いくらかでも症状が軽くなる事を願うような気持ちで、専門病院でのリハビリが始まった。
有希は日に日に痩せこけて行き、歩く事すらもままならなくなっていた。
文字を想像させる事が不可能な為、言葉を掛ける事すらも固く禁止されていた。徐々に文字に抗体を持てるよう、一文字を何日も掛けて口に出すリハビリが行われた。
やがて平仮名が読めるようになった頃、ようやく両親に有希に話し掛ける許可が病院から下りた。入院してから既に一年が過ぎようとしている桜の季節の事だった。
我が子との面会に頬を緩ませる父。そして、言いたい事があり過ぎてたまらない、と言った様子の母。
そんな二人を、有希は無表情のまま眺めている。
医師の立会いの下、面会が始まると母はハンカチで涙を拭いながら有希に語りかけた。
「有希はこんな所で時間を食い潰している暇なんか無いのよ! ご学友の学力はこの一年でグングン成長しているだろうけど、有希なら半年もあれば取り戻せるでしょう!? 先生はまだ退院は無理だって言うけれど、文字が読めるようになったんだから、せめて参考書くらいは読んでいるんでしょうね!? それからね、大学受験もあるんですから早く志望校を決めておきなさいよ? その中から母さんが決めてあげるから。けど、最低でも国立じゃなければ許しませんからね!」
そこまで話すと、有希が口を開き、何かを呟いた。
医師はその行動に驚き、直ぐに観察員を部屋へと呼び寄せた。
「石原さん、これは凄い事ですよ! 日本で初めての克服例になるかもしれない……有希さん、ゆっくりでいいから、話したい事を話してごらん!」
医師がそう有希に話しかけると、母は「うちの子ですから当たり前です!」と鬼のような形相で医師を睨み付けた。
「い」「え」と、母を指差して呟く有希に、父は優しい声色で語りかけた。
「有希、いえ、って事は、おうちに帰りたいんだよな? 早く、一緒におうちに帰ろうな」
そう言うと、有希は首をぶんぶん、と大きく横に振ったまま、母の顔を指差し続けた。
い、え、とたどたどしく繰り返し呟く有希の姿に、ついに痺れを切らした母が金切り声を上げた。
「有希! 言いたい事があるならハッキリと言って頂戴! そんな事じゃ到底家に帰れっこないわよ! 言いたい事があるなら早く言いなさい! ほら!」
「石原さん! 落ち着いて下さい!」
医師がヒステリックになった母を止める。有希は母を指差したまま、一呼吸置くと周りにハッキリと聞こえる声で、こう言った。
「死ね」
完
後天性文字恐怖症 大枝 岳志 @ooedatakeshi
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