第二十一話 夕張バリ子
夕張バリ子は多分本名じゃないし、高松部品なんて会社は多分存在しない。
だけどチャップマンは確実に偽名だし、ソ連は今も存在していたし、ぼくの口の中にはマカロフ拳銃が突っ込まれて、奥歯をガタガタと言わせている。
9×18ミリマカロフ弾が九発装填され、先端に取り付けられた消音器が知覚過敏気味の奥歯をえぐって今にも左頬から眼球に向けてのぼくのお世辞にもハンサムとは言えない傷だらけの顔をふっ飛ばそうとしている。
マカロフPM拳銃は消音器が取り付けられるとマカロフPB拳銃に名称が変更される。
中身は直径九ミリ、薬莢長十八ミリの弾丸、部品点数は二十七。作動方式はシンプル部ローバック。
違いは外に取り付けられた消音器の有無だけ。
そして、この違いがぼくが今、この薄汚いぼくの住んでいる部屋でぼくが死んだとしても誰も気づかない理由だ。
「夕張に近づくと、死んじゃうよ?」
彼女はサングラスを取ると、ぼくの額にかけさせる。そして薬室に弾をこめ、引き金に指をかける。
そしてさらにもう一度。
「夕張に近づかないって約束したら殺さないであげる」
口に拳銃を突っ込まれたまま喋るのはマジで難しい。
ぼくから近づいた訳じゃないは「ほふからひかふいたふぁけふぁふぁい」になるし、殺さないでは「ふぉふぉふぁないふぇ」になる。
その度にチャップマンは愉快そうに口角を上げてニヤリと笑い、睾丸をピタリと抑えつけるヒールがねじ込まれ、ぼくはまた言う。撃つならさっさと撃ってくれ。
もう、疲れたんだ。
訳の分からない奴らが急に周りに大量に表れて、次はぼくを殺すなんて。現実に返してくれ。
未来が見える女も、ぼくを殺そうとするスパイも、カルト教団の教祖も、変人気取りの大学教諭も、殺し屋も刑事も、何も必要ない。
ぼくにいるのはよく眠れえる分厚いマットレスと、カバーが黄ばんでいない枕とハイボールなんだから。
ぼくのリアルを返してくれ。
でもそんな言葉は呻き声と菓子パンの袋が破裂したみたいな銃声にかき消された。
チャップマンの白髪と金髪の中間みたいな髪は首元まで滝みたいにバッサリと下ろされ、彼女はジェームスボンドをひねくれ者の脚本家が限りなく邪悪にしたみたいな笑顔を浮かべていた。
ソビエト社会主義共和国連邦日本大使館職員を名乗った彼女は映画のシュタージが着るみたいな分厚い羊毛のコートを翻して、流ちょうな日本語でぼくに挨拶をして、拳銃を突きつけて、そしてゴミ捨ての途中だったぼくを部屋に連れ戻した。
ぼくは嘘つきだ。ペットボトルを紙袋に入れて、それを指定のゴミ袋に入れて、あたかも燃えるゴミみたいな風貌にして捨てに行く。
マカロフ拳銃のヴァリエーションもゴミ捨ても本質は一緒だ。
関数は常に簡潔に。変数も常に少なく。
関数名 ゴミ捨て()
もし(曜日==火曜日)
{
燃えるゴミ袋にペットボトルをいれる()
ゴミ出し()
実行
}
ぼくらに自由意志なんてのは存在しないのかもしれない。抗不安薬で高揚して自信過剰になって、ぼくらを縛る何者かを忘れてしまっているのかも。
未来が見える夕張みたいな連中が十人くらい集まってこれから地球をどうするか、原子軌道から誰が明日死ぬか、次はアフリカのどこの国が内戦を起こすか決めているのかも。
痛みと恐怖がぼくを誇大妄想にする。情緒が滅茶苦茶で、演技どころじゃない。
チャップマンは、ぼくの膝にあいた大きな傘上の穴に、まだ熱を持った銃口を押し付ける。
その切れ長の目の中で、瞳をぎょろりと二回回転させて。
「君みたいなのを」チャップマンは言う「痛めつけるのが好き」
「殺さないで」
「君次第」
チャップマンは拳銃から目を放さず、椅子に縛り付けられたぼくの上に向かい合うようにまた街、腕を、筋肉質な太ももを、ピッタリとくっつける。そしてぼくの耳に唇を押し付け。
「君のことは全部知っているから、家族も、友人も、仕事場も……」
ぼくは惨めだ。ブウウウー―――ンと時計じゃなく窓の外を車が走り去っていく音が聞こえた。
車の運転手はコンクリート壁と断熱材の向こうでこんなことが起こっている事なんて知らずに生きていく。
それどころか、良いマンションだななんて外壁のモルタル塗りを見て思うかも。
「私が悪人に見える?」
膝にあいた穴からどくどくと血液が流れる。
「それ、正解。私は悪い人……そして一番悪い人たちは手を噛まれる前に、他の悪い奴らに金を払って首輪をつけるの」
「夕張から」サングラス越しに空色に滲んだ彼女を見る「離れなさい」
人生は舞台。ぼくらは演者。
ハムレット「生きるべきか、死ぬべきか」なんて授業で読ませるくらいなら演技を教えてやれ。
これから五十年間、ぼくらはマトモで良い子で人生が満ち足りている演技をしないといけないんだから。
ユニクロの服も、トヨタのワンボックスも、マンションも、コンバースのスニーカーも、全部がウソに信憑性を持たせるためのものだ。
ぼくは嘘つきだ。
じゃあチャップマンは嘘をついているか。
それはあり得なかった。
チャップマンは正直だった。
正直だから、紙袋を取り出すとそれを逆さまにして中身をぼくの嘘にまみれたイケアのローテーブルにぶちまけた。
ぼくは言う。指? 誰の……指? 訳が分からない。訳が分からない。どうして死にそうなのに落ち着いているのかも、死にたくないよりもトイレに行きたいという欲求が強いのかも。
左右の指が計二十本。
「誰の指か分かる?」
チャップマンは身をよじってぼくにもっと顔を近づける。硝煙と香水と血の匂いがぼくの鼻の奥深くまで侵入する。自分が死にそうになるって感覚はyoutubeでつまらないビデオを見ている感覚に似ていた。
片目で、あくまで他人事。くだらないし、興味もわかない、なのに時間を無駄にしたって思いたくないから最後まで目を見開いてしまう。
「この指は君の両親の指」
両親の指。
「言ったでしょ。私は悪い人なの。君の両親を殺すのも、ペットを殺すのも、愛する人を殺すのも、私には簡単」
チャップマンの髪の隙間からぼくはキッチンの冷蔵庫をじっと見つめる。今日はゴミ出しの日だ。今日、この女のせいでぼくの生ごみは木曜日まで玄関に置かれることになる。
この指も一緒に。
「本当に」ぼくは言う。「これが僕の両親の指?」
「嘘は嫌い」
テレビの星占いは蟹座が一位。二位はうお座で三位はさそり座。
今日くらいは星占いを信じても良かったかもしれない。
「君と夕張に近づいたから、君の両親は死ぬことになった。夕張はその未来が見えたのに君に近づいて、そして私は君の両親を脅すためだけに殺さないとダメになった」
「これって」彼女は言う。「夕張が悪いのかな、君が悪いのかな?」
「次は君の番かも」
チャップマンは耳元で囁く。
「夕張は私たちの物。いい? 彼女に近づけば、みんなこうなります……だから、君もあの子のことは忘れて、またつまらない現実に帰りなさい」
夕張には未来が見える。
だけどそれ以上のことをぼくは知らなかった。
チャップマンが今すぐぼくの前から消えてくれるかどうかも、ぼくは知らなかった。
だけど。
その指は今すぐ持ち帰ってくれ。死って奴をぼくに感じさせないでくれ。
さよならトーキョー 平核 @chinpang
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