第十四話 サフランメンタルヘルスクリニック
物性物理を三年間調布の大学で学んだ後、金属と磁性体のヒステリシスを計算するよりは女性のヒステリーを治療する方がマシだと考えて適当な医科大学に入りなおして精神医学を学んだ十日町先生はこの診察室の中で誰よりも医者が必要そうな顔をしていた。
「ジアゼパムとマイスリーも出しておきますね。次……一か月後にお薬の量についてまた相談しましょう」
お決まりのセリフ。
ある種、マクレーンの「イピカイエー」や、ドクの「ジゴワット」やロボコップの「デッドオアアライブ」に近い期待感を持って、先生が口を開くのを待つ。
建設的なアドバイスよりは、機械的なルーティーンを期待する。それがぼくの精神を安定させてくれた。
できるなら鳩にぼくはなりたかった。
ボタンを押す。
餌が出る。
ボタンを押す。
餌が出る。
ボタンを押す。
餌が出る。
エンターキーを押す。
糞みたいなメールが送信。
エンターキーを押す。
コピペまみれのレポートが送信。
エンターキーを押す。
図とグラフだらけの発表資料が送信。
もしかしたら情緒的なものより数学的にぼくは先生に期待しているのかも。
ジアゼパム、マイスリー、薬の量の調節。
この三語はマンデルブロ集合に囚われていて、ここ三年、ぼくが酒かオナニーなしじゃ眠れなくなってから、どの診察日を覗いてもこのお決まりのセリフが飛び出す。
ぼくと先生は診察って名前の迷路に閉じ込められていて、数学者がぼくらの状況を見たらチョウザメのエサの周りを回る軌道や、原子の軌道みたいにフラクタル図形を見出すかも。
サイコブロ、イカレブロ、集合につく名前はそんなところだろうか。
次に十日町先生がやることは足を組み、眼鏡のフレームをいじり、カルテを入力すると、椅子をキイッと鳴らしてこっちを振り向き。
「大丈夫です、良い進歩が見れてますよ。一緒に、一歩ずつ頑張りましょう」
その一が重要だ。一が全てを変えてしまう。
サフランメンタルヘルスクリニックはサクランメンタルヘルスクリニックになってしまうし。
一錠多く飲んだら次は目を覚まさないかもしれない。
その点で言えば、ぼくの治療については判断が難しい。
一歩前に進む。
すると三歩分揺り戻しがくる。
それを薬の力で二歩進み。
現状維持。
その間に世間はマクドナルドのプラスチックフォークが木製になって、ストローは紙製になっているし、サクラダファミリアの十八の塔は更にまた一つが完成している。
現状維持というよりは、くたくたの十日町先生が見ているアマゾンプライムの映画の中に、ぼくは出演していて、眠りこけて先生が一時停止した画面の中から暖房がサンセベリアの観葉植物の葉を揺らしたり、炊飯器がアラームを鳴らしたり、零れたサッポロビールがゆっくりとテーブルに広がるのを画面の中から見せられている感じ。
そんな感じ。
「それじゃあまた来月。今朝雨降ったから玄関滑ったでしょ? 足元にお気をつけて」
お決まりのセリフ。
先生は立ち上がって、わざわざ診察室のドアを開けて、首だけでお辞儀をするとぼくを見送る。
待合室は午前四時のNHKチャンネルと同じ色をしていた。
お決まりのローファイな音楽と、芳香剤の匂い。
しなびたサボテンが角に置かれ、天井のファンが回って埃を巻き散らし、白を基調とした家具と壁紙が清潔感を醸し出し。
「お気をつけてお帰り下さい」
僕のクレジットカードと領収書を一緒くたに受付が渡し、自動ドアが閉まる。
待合室には毎回、夕張がいた。
これもお決まり。
左目に眼帯をして、髪はお世辞にも綺麗とは言えないし、血色の悪い青白い肌には分厚いファンデーションを塗りたくり、大きな猫みたいな眼の下には痣みたいに下手糞な化粧、首元には絆創膏を貼り、いつも長袖の作業着を着て、作業着の胸元には何とか部品って会社名が書いてある。
ぼくらは目も合わせないし、ぼくは診察室と先生が好きでも、待合室の清潔感が落ち着かないから好きじゃない。だからいつも足早に去った。
夕張は駅前のマクドナルドにもいた。
これはビッグマックがペシャンコで、レタスが箱中に飛び散ってるのと同じくらいお決まり。
夕張は八王子行きの電車にもいたし、タワレコにもいたし、近所のセブンでぼくがコカ・コーラとボスの缶コーヒーを買う時もいた。
夕張はどこにでもいた。
正確には。
夕張はいつ、どこにでもいた。
ぼくがいくところには。
店員のベトナム人、ホアンが注文を取る。
「ご注文はお決まりですか?」
チキンフィレオのセット、アイスティーのエルと、サラダで。
ご注文はお決まりですか? これもぼくのお気に入りだ。後はクレジットカードを差して、抜いて、レシートと注文を持って窓際のカウンターに向かう。
アイスティーを飲み干し、ペラペラのチキンとカサカサのレタスを無理に口に突っ込み、コンビニの袋から取り出した酎ハイをコップに移すころには氷は半分以上溶けていた。
ライム味の酎ハイは公衆トイレの臭いがする。
だけど今は。
薬を、酒で、流し込む。これが目的だった。
抗不安薬の蛾の鱗粉を死にかけの老人の小便で煮込んだみたいな色の錠剤を酒で流し込むと頭に一発。
金槌でぶっ叩かれるような衝撃って言うには強すぎる。
蛍光色の未来が広がる。
でも憂鬱は晴れない。
Spotify、アマゾンプライム、ネットフリックス、キンドルアンリミテッド。
何だっていい。
サブスクリプションの波がぼくを満たし過ぎていた。
聞かない何億個の音楽も、何千万のプレイリストも、大して面白くもないオリジナルドラマも、情報商材のおかげで出来上がったペラペラのビジネス書も、全てがワンフリックで手に入るのに。
月額五百円でぼくは腑抜けにされていた。
意識はゆっくりと上に吸い込まれていく。
ビジネス書とCDの山がぼくを飲み込み、ぼくのただでさえ繊細な神経は情報の飽和に麻痺させられ、腑抜けにされた。
満たされ過ぎて、何だか空虚なの。全部が手に入るから、寂しいの。ぼくはケーンじゃない。
ホアンだか、グエンだか、ビッグマックの注文を取る。ごめんなさい、今は海綿体何とかの流行のせいで牛肉の流通が絞られてて、ビッグマック用のパティが無いんです。
舌足らずな謝罪。
クーポンを渡すのもお決まり。
ぼくは酎ハイを飲み干し、抗不安薬と、頭痛薬と、風邪薬と、ビタミン剤を袋から取り出したビールで枝みたいに細い喉に押し込んだ。
ビタミン剤の取り扱いには注意。二個以上飲むと次の日、小便が臭くなる。そして放っておくと、トイレが黒カビまみれになる。
地下室風に言うと、ぼくの内臓は腐っているのかも。
「マクドナルドなんかより、自炊して、栄養のある物を食べると良いですよ。何か……暖かいものを」
先生は言う。でもぼくが欲しいのはフラクタルなアドバイスだ。
眼鏡のつるを噛み、すっきり切りそろえられて、ムースで撫でつけられたツーブロックを掻きながら先生は、処方箋とカルテを書き、つるを噛む。
先生がアドバイスをくれて、酒を飲んで、睡眠薬をかみ砕くとぼくはようやく眠れる。
ニュースサイトはどっかの有名人が宇宙旅行に行ったことをコピーアンドペーストする。
「申し訳ありません」グエンだ「まことに申し訳ありません」
いや、ホアンかも。
「良い兆候が見られてますよ。この調子ならじきによくなります」
先生、ぼくは視界の端に偶に虫が飛んでいるような気がして怖くなるんですよ。ぼく以外にも見えてるのに見えてないふりをしていたら?
ぼくは独りぼっちでいる術を知りません。先生、先生、先生。ぼくはまたビールを飲む。
わざわざ紙コップに移して。
「良い経過です。また来週でいいですか? 研究発表会があって、休みが開いちゃうので」
マクドナルドの店内には窓際にぼくがいて、窓に反射してちょうどぼくの真後ろのテーブル席で夕張が小指と薬指でロンビーをつまみ、吹かしながらフィレオフィッシュを食っていて、さらに奥の四人掛けのテーブル席には学生のグループがいる。
ぼくはまたビールを飲む。肌が気になってビタミン剤の量が増える。
ホアンはまだ謝罪をしているし、髪の毛がボサボサの男は可哀想なベトナム人に怒鳴りつけている。全員が自分のことに忙しかった。それもしょうがない、今日は月曜日だ。
ビールを飲み、飲み、飲んだ。
「上の者ですか? 少々お待ちください……少々」
かれこれ十五分。たかがビッグマックの為に?
ガタン、椅子が動く音を背中で聞く。
夕張がフラフラとトレイを持ちながら近づいてくる。
病人よりも細い腕がまくった作業着の袖から見えている。
彼女は津波みたいなウェーブがかかった髪を振って、ぼくの隣に座った。
「今から、人が死ぬよ」
今なんて言ったんだ? ぼくはまたカプセルを飲み込――その前にかみ砕き――み。
できればオキシコドンみたいに強い鎮痛剤で痛みと憂鬱をふっ飛ばしたかったけど、もう一度。今度は出来る限りハッキリした発音で。
今なんて言ったんだ?
「今から」夕張は言った「人が死ぬの」
「マネージャーが出てくると、あそこのクレーム男はナイフを出して、腹に突き刺す。そして肝臓に刺さったナイフを一気に引き抜いて、十五分後に救急車が来る頃には男は逃げて、マネージャーは死んじゃうの」
なあ、ぼくはラリるような薬は飲んでないぞ。
たかがビッグマックの為に?
人殺しが起こる?
夕張は九十年代のアニメみたいに大きな、死んだ魚みたいな目でぼくをじっと見つめて、ぼくに煙草を咥えさせるとフィレオフィッシュをかじった。
ぼくは咥えたまま見つめた。
ビッグマックの為に。
起こる殺人を。
口元にゴマが付いているのにも気づかず。
マネージャーが出てくる。
レジカウンターから外に出る。
男は苛立ち、ポケットに手を突っ込む。
夕張はフィレオフィッシュをまたかじる。白身魚のフライの代替魚も回転寿司の赤マンボウも全部嘘だ。だけど一度知ってしまうと頭によぎる。
そんなの全部嘘なのに。
ビッグマックのための殺人が頭によぎる。
だって夕張のせいで知ってしまったから。
マネージャーはクーポンを出す。ホアンが渡したクーポンを。
臨界点を超えた。
メルトダウン。
イカレた男はナイフをマネージャーの腹に突き刺す。
悲痛な叫び声なんて発さず、ただ「あっ!」とだけ言うとマネージャーは糸が切れたみたいにタイルに倒れこむ。ぼくは何もできない。ゆっくりとリノリウムのタイルの溝に赤黒い血が吸い込まれ、流れていく。
ビッグマックの為に。
殺人が起きた。
ぼくは木だ。ぼくは木。ぼくは岩かも。ぼくは、何も、出来なかった。だってぼくは背景だから。
役割をこなしただけ。
ぼくは鳩です。
ボタンを押してエサを食べます。
ぼくは鳩です。
平和の使者です。役割はボタンを押すことです。
百十九番を押すのはぼくの仕事じゃありません。
学生たちが救急に電話をし、グエンが母国語で叫び、ぼくの手からビールとカラフルなカプセルが零れ落ち、夕張はそんなのに見向きもせずにタルタルソースのついた指を舐めた。
目を閉じて。
ビールを飲んで。
息を落ち着かせよう。
そう、隣にいる夕張みたいに。
言ったとおりでしょ、と夕張は笑う。右上の犬歯がない笑顔で言うと、また指を舐め、ぼくの咥えたロンピーを取って、もう一度笑った。
救急車のサイレンは随分遠くに聞こえた。
形式ばかりの質問と、救急隊員との受け答えが終わり、質問を受け流し、その間ずっと横にいた夕張にぼくは聞いた。
ビッグマックの為に。
海綿なんたらのせいで。
クーポンを渡しに行ったから。
マネージャーはどうして死ななきゃいけなかったのか。
「そんなの知らない。私は未来が見えるだけなんだし」
夕張は笑った。
その日、ぼくはいつもより早く眠ることができた。
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