異邦者 3
『……落ち着いたか?』
あれからどれくらい泣いただろうか。五分くらいの気もするし、三十分くらい経ったような気もする、とグレイは思った。
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら男から離れようとすると、男は拍子抜けするくらい素直にグレイを解放してくれた。
赤く腫れてしまったグレイの目尻を長くて綺麗な指が撫でてきたが、抵抗する気は起きない。今しがた酷く情けなくて恥ずかしい姿を見せたばかりなので、もう今更だと思ったのだ。
それに多分、恐らく、この男は悪い人間ではないのだろう。食事もくれたし、世話をしようという意思があるのはグレイも理解した。
若干冷めてしまったスープとサンドイッチの残りを平らげ、ふぅと息を吐いたグレイの前に、男が椅子を引いて持ってくる。それに腰掛けると、彼はグレイへと笑いかけた。
『ちょっとはすっきりしたか? 取り敢えず、まずは自己紹介から始めるか。つってもここはまだ帝国領だからな。下手に身分を口にできねぇというか、そもそもお前に言っても通じねぇよな。つーわけで、取り敢えずは名前だけな。本当はもう一人いるんだが、そいつは今買い出し中だから、帰ってきてから紹介するよ』
そう言った男が、笑みを深める。
『俺の名前は、レクシリア、だ』
男は自分の名前を言うときだけゆっくりと発音し、自身を指差した。
(なんだ……? ……自分のことを指差してるってことは、名前、とか……?)
しかし、いくらゆっくり言われたところで、グレイにはそれを上手く表音として変換できない。
「……れ……?」
言われた言葉を繰り返そうとして上手くいかなかったグレイが、眉を寄せる。それを見て、男はもう一度、今度はさらにゆっくりと言葉を繰り返した。
『レクシリア』
「れぅ……り……ぁ……?」
上手に発音できない子供に苦笑したレクシリアを、グレイが睨む。言えていないことくらい、自分でも判っているのだ。
『ああ、悪い悪い。上手く聞き取れないんだな。それとも発音が難しいか?』
グレイがむっとしたことに気づいたのか、レクシリアは素直に頭を下げてきた。どうやら謝ろうという意思があるらしい。それは理解したので、グレイは許してやることにした。
『もう一回いくぞ。レクシリア、だ。レ、ク、シ、リ、ア』
さらにゆっくりとした発音に、グレイは段々馬鹿にされているような気さえしてきた。だが、それもこれも自分が上手に発音できていないせいなので、文句は言わないでおく。
『レ、ク、シ、リ、ア』
「れ……ぅ、り……?」
『れー、くー、しー、りー、あ』
「……りぃ、あ?」
ようやく言葉らしさが出てきた音に、レクシリアが頷きつつ首を傾げるような変な反応を返した。
『あー、なんか若干惜しいような、別にそうでもないような。……もう一回な。レクシリア』
「れぅ……りー、あ」
男がゆっくり言ってくれているのは判る。できるだけはっきり発音してくれているのも判る。だが、どうにもグレイには上手く聞き取って言葉にすることができないようだった。
そのことにグレイの眉間の皺はどんどん深くなっていったが、レクシリアはそんな子供を励ますように明るい声を出した。
『おお、近づいてきたんじゃないか? レ、ク、シ、リ、ア』
「……ぅ…………、りーあ」
『……お前、今ちょっと諦めなかったか?』
少し呆れたような顔をしたレクシリアに、グレイがむっとした顔をする。これでもグレイは精一杯やっているのだ。そんな顔をされる謂れはない。
機嫌を損ねたグレイは、怒りのまま、びしっと男を指差して高らかに叫んだ。
『りーあ!』
これでどうだと言わんばかりの威勢に、レクシリアはゆっくり首を傾げた後、苦笑した。
『…………いや、レクシリア、な?』
『りーあ!!』
どうやら、グレイには譲る気がないらしい。お前の名前がなんだかは知らないが俺がこう言うんだからこうだ、という強い意思をレクシリアは感じた。
『…………ああ、まあ、好きに呼んでくれ……』
リーア、というのはどちらかというと女性名なのであまり好ましくは思えない呼び名だが、レクシリアは諦めることにした。
『で、お前の名前は?』
そう言ったレクシリアが、自分を指して、レクシリア、と言い、グレイを指して首を傾げてみせる。その意図を正しく理解したグレイは、少しだけ迷うような表情を浮かべた後で、口を開いた。
「グレイ」
『……ぐ……? ぐ、……ぐれい?』
グレイにこの世界の言葉が発音しにくいように、この世界の人間にはグレイの世界の言葉は発音しにくいらしい。と言っても、目の前の男は僅かな戸惑いの後で及第点の発音をしてしまったので、グレイはとても腹立たしくなった。
『ぐれい……。ぐれい。……グレイ。ああ、こんな感じか。グレイ』
音を何度か舌で転がした男が、あっという間にそれらしい発音でグレイの名を呼ぶものだから、グレイはますます不機嫌になった。
ぶすくれた顔をしたグレイに首を傾げた男が、ぽんぽんと子供の頭を撫でる。
「さわんな!」
拗ねたような声と共にぺしんと払われた手をまじまじと見てから、レクシリアはそのままその手をグレイの前へと差し出した。そしてその整った綺麗な顔が、親しみを籠めた笑みを浮かべる。
『ま、取り敢えずよろしくな、グレイ』
そうやって呼ばれた自分の名は、自分が知っている音とは少し違うのに、心にすとんと落ちてくるような心地良さがあって、グレイはまた少しだけ泣きそうな気持ちになってしまった。だから、それをごまかすように、乱暴にレクシリアの手を掴む。
そして、少し潤んだ強気な目が、キッとレクシリアを見た。
『りーあ!』
これが、後に冠位錬金魔術師となる少年と、未来のグランデル王国宰相の出会いだった。
かなしい蝶と煌炎の獅子 ~おまけ2~ 倉橋玲 @ros_kyo
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