異邦者 2

「お前は常日頃から私のことを馬鹿だの阿呆だのと罵るが、今回ばかりはお前の方が考えなしだったと断ずるほかないと思うのだが」

 森の中を走りながら呆れた声でそう言ったのは、グランデル中央王立騎士団第一部隊の若き副隊長、ロステアール・クレウ・グランダである。

「うるせぇな。あの状況で見捨てる訳にもいかないだろうが。助ける力があって、助けれられる状況だったんだから、助けるのは当然のことだ」

 ロステアールの言葉にそう返したのは、次代のロンター公爵の座を継ぐ青年、レクシリア・グラ・ロンターだ。その腕には、さきほど助けた子供、グレイが抱えられている。

「ふむ。そういうものか?」

「そういうもんだ」

 レクシリアの言葉に、ロステアールはそうかと言った。

 この二人、実はここロイツェンシュテッド帝国には、とある潜入捜査をしに来ていた。といっても、誰かの命を受けての捜査ではない。最近帝国の動きがどうにもきな臭いから見に行ってくる、と言ったロステアールに、例によってレクシリアがくっついてきたのだった。なお二人とも無断で国外に出てきたため、帰ったらレクシリアの父であるロンター公にこっぴどく叱られることだろう。まあ二人とも慣れたものなので、その辺は判った上での行動である。

 とにかく、帝都から少し離れたこの森の奥地で帝国の魔導実験所らしきものを発見した二人は、気配を殺してその様子を窺っていたのだ。

「しかし、連中が本当に次元魔導を完成させつつあるたぁ驚きだな」

「ああ、以前訪れたときは成功の片鱗すらなかったのだが、こうして実際に異世界から生き物を喚び寄せてみせたとなると、侮れんな。……しかし、それにしても随分と急速に発展している。もしかすると、ここ数か月の間に何かあったのやもしれんぞ」

「でもまあ、この程度じゃ円卓が動くことはないだろうな。確かにこの次元外から何かを召喚すること自体はそこそこできるようになったみてぇだが、肝心の使役魔導の方がからっきしみてぇだし」

 そう言ったレクシリアに、ロステアールも頷く。

「だが、十年後にどうなっているかは判らない。今日のことを父上に報告した上で、警戒を怠ることないよう円卓の連合国全体に進言して頂くべきだろう」

 ロステアールがそう言ったあたりで、二人はようやく足を止めた。止まることなく走り続けていたから、さきほど暴れてきた魔導実験所からは随分と離れたはずだ。

「追手は?」

 ロステアールの問いに、レクシリアが首を横に振る。

「途中で“虚影の膜ミラージュ”かけたからな。大丈夫なはずだ。そうだろう、風霊」

 レクシリアの言葉に、風の乙女たちが二人の目元を撫でる。そこでようやく、二人は顔に巻いていた布をほどいた。

 ロステアールの特徴的な赤髪と、レクシリアの整いすぎている顔立ちは、潜入捜査にはこの上なく不向きなのだ。故に、彼らは過剰なほどに顔を隠していたし、身元が悟られぬように魔法や剣の使用も控えていた。あの場を敢えて拳と脚だけで切り抜けたのには、そういう理由があったのだ。

「さて、自己紹介もままならないまま連れてきちまって悪いことしたな。大丈夫か?」

 そう言いながら腕の中の少年を見たレクシリアは、ぱちぱちと瞬きをしてから、少しだけ困った顔をしてロステアールを見た。

「気ぃ失ってるわ」

 道中、身体強化魔法を駆使し、そこそこ人の域を逸脱した速度で走ってきたことを思い出したロステアールが、ひとつ頷く。

「まあ、そうだろうな」

 途中で吐かれなかっただけマシというものだ、という彼の言葉に、レクシリアはやはり困った表情を浮かべるのだった。






 はっと目を覚ましたグレイは、がばりと身体を起こした。そのままの勢いで素早く辺りを見回す。あまり広くない部屋に、ふかふかのベッド。

(……しらないへやだ)

 不安そうにグレイの眉が寄る。

(どこだ、ここ?)

 大別するならば簡素なホテルのような内装の部屋だ。少なくとも、グレイが殺されかけたあの部屋とは随分と雰囲気が違う。取り敢えずの危機は脱せた、と思って良いのだろうか。

 そう考えながら、グレイはそっとベッドを降りて、窓に近寄った。とにかく、少しでも現状を把握するための情報が欲しかったのだ。

「……なんだここ」

 窓の外に広がる景色に、グレイは呆然とした。

 町だ。けれど、そこを歩く人々は皆見慣れない服を着ていて、道には車どころか自転車すら走っていない。建物は一昔前の外国のようなレンガ建てばかりで、ビルのような近代的な建物はまったく見当たらなかった。

 本当に、全く知らない土地だ。

 ぼうっとグレイが窓際で立ち尽くしていると、不意に背後でドアの開く音がした。

 びくりと肩を跳ねさせたグレイが慌てて振り返れば、部屋の入り口には金髪の男が一人立っている。その男の顔を見て、グレイは思わずぽかんと惚けてしまった。

(うわ……めちゃくちゃイケメンだ……)

 淡い金色の髪をした男は、グレイがこれまでに見たことがないくらい、とんでもなく美形だったのだ。美しいという表現がこの上なく似合うのに、顔立ちはしっかりと男性らしいという、不思議な類の美人だ。

 今自分が置かれている状況も忘れ、ぽーっとした顔で美丈夫を見つめ続けるグレイに、男はぱちぱちと瞬きをした後、優しげに笑って見せた。

『目ぇ覚めたのか。良かった良かった』

 声を掛けられ、はっと我に返ったグレイが、訝しむような目を男に向けた。

『あのときはさっさと逃げる必要があったから全力で走らざるを得なかったんだが、そのせいで酔っちまったんだよな? ごめんな』

 美人の癖に親しみやすそうな笑顔を浮かべる男に対し、グレイがぎゅっと眉を顰める。

 男が何かを喋っていることは判るのだが、何を言っているのかがさっぱり判らなかったのだ。あの薄暗い部屋でのときと同じである。酷く耳慣れない言葉らしきそれは、外国語を聞いているというよりも、最早ただの音の羅列を耳にしているような気分になった。

(……なんか、ほんとに、べつのセカイにきちゃったみたいな……)

 グレイが難しい顔をして黙り込んでいると、男は片眉を上げてから歩み寄ってきた。それを見たグレイが、警戒するように身を固くする。

 男の態度は友好的に見えるが、何を考えているのかまでは判らない。状況的に味方である可能性が高いとは思うものの、真実が判らない以上、無条件に信用するのは難しかった。

 精一杯肩をいからせてギッと睨み付けてくるグレイに、男はどう思ったのか、ぴたりと足を止め、困った顔をした。

『あー……まぁ、なんだ。疑うのも判るが、別に怪しいもんじゃねぇぞ?』

「…………」

『……もしかして喋れない、とかか?』

 話している内容は判らないが、明らかに“可哀想だ”という顔をした男に、グレイが反射的に口を開く。

「テメェ、かわいそうって顔するんじゃねェ!」

 思わず怒鳴り返してしまったグレイに、男は少しだけ驚いた顔をした後で、やはり困った表情を浮かべた。

『何言ってるのか全然判んねぇな。やっぱエトランジェだと使う言語も違うか。そりゃそうだな』

 むすくれた顔で再び黙り込んだグレイを見て、男は顎に手を当てて小さく首を捻った。どうやら、男の方もグレイのことを扱いかねているようである。

 少しの間思案するような素振りを見せていた男は、じっとグレイを見た後、子供に目線を合わせるように膝をついた。

 そのまま彼は両手を開いてグレイに向けると、ひらひらと手を振った。グレイに伝わったかどうかは不明だが、何も持っていないから安心しろ、という意図である。

『言っても判んねぇだろうが……。取り敢えず、俺はお前に危害を加えるつもりはない。だからもう少し落ち着いて、警戒を解いてくれないか?』

 男としては努めて優しい声で言ったつもりだったのだろうが、その声を得体の知れない音としてしか認識できないグレイには効果がなかったようだ。

 相変わらず警戒の色が濃いグレイの表情に、男は困ったように笑って後頭部を掻いた。

『やっぱ通じねぇよなぁ』

 寄らば噛み付くと言わんばかりの態度を崩そうとしないグレイに、男が小さくため息をつく。そんな、一種の膠着状態の中、

 

 きゅう、くるるる……。


 突然、場にそぐわない間抜けな音が鳴った。緊張感の欠片もないそれに、男はぱちぱちと瞬いて、グレイは咄嗟に自分の腹を押さえた。

『……お前……』

 グレイの顔がどんどん熱くなっていくのに比例するように、男の顔がどんどん笑み崩れていく。そして最後には、耐え切れなかったらしい男は噴き出してしまった。

「笑うな!!」

 恥ずかしいやら腹立たしいやらで怒鳴った少年に、男が口元を手で隠す。互いに互いの言葉は判らないはずだが、状況的に何を怒られているのかは判ったのだろう。

『はっ、ははっ、ああ、悪い悪い。腹減ってんだなぁ』

 努めて落ち着きを見せようとした男だったが、その声にはまだ笑いの残滓が多分に含まれていて、グレイの神経を余計に逆撫でした。

『じゃあ、少しここで待ってろ。部屋出るなよ』

 男の指が床を指差し、それからグレイを指差す。その後、何かを抑えるような、宥めるような動作をしてから、男は部屋を出て行ってしまった。

(……へや、出るなってことか?)

 確証は持てなかったが、多分そういう意味合いなのだろう。

 男の言うことを聞くのは癪だったが、ここを出て行っても困るのは自分の方である。こんな右も左も判らないような場所で路頭に迷うのだけはごめんだった。

 渋々部屋で待つことにしたグレイは、ぼすっと布団に腰掛けた。そして、忌々しそうな顔で腹をさする。

 最後に食事をしたのは、確か母たちと出かける前だ。これだけ空腹だということは、あれからそれなりの時間が経ったということだろうか。

(……おかあさん、ちよう……)

 共に出かけた二人を思い出し、グレイはベッドの上で膝を抱えた。胸中に湧いて出てきた心細さに、きゅっと唇をかみ締める。

 お腹も空いたし、変なところだし、怖かった。本当は全部夢で、自分はあのとき何故だか倒れてしまっただけで、目が覚めたら家族がいるんじゃないだろうか。

 そんなことを考えていたら、じわっと目頭が熱くなったような気がして、グレイは膝に顔を埋めた。今にも泣き出してしまいそうだったが、勝気な心は泣いてたまるかと訴えている。

 その時、コンコンとドアがノックされる音がして、グレイは慌てて目を拭って足を下ろした。同時にドアの向こうから聞こえてきたのは、先ほど出て行った男の声らしき音である。タイミング的に、入室を告げるものだろう。

 少しの間をおいて、ガチャリとドアが開かれる。顔を見せたのは案の定、あのやたら顔のいい男で、手には何かが乗ったお盆のようなものを持っていた。

『お、ちゃんといい子で待ってたな。ほら、食い物持ってきたから食えよ』

 何かを言いながら男が近づいてきて、再び身構えようとしたグレイはそこで、とても良い匂いがすることに気がついた。そしてその匂いを認識すると同時に、また腹の虫が小さく鳴く。

 匂いの出所は、男が持ってきたお盆だった。ぐいっと差し出されたそれを反射的に受け取ってから、盆に目を落とす。

 盆の上に乗っていたのは、色の薄いスープが入った深皿と、焼いたパンに葉物野菜と肉らしきものが挟まれたサンドイッチだった。スープからもサンドイッチからも湯気が上がっており、温かいことがよく判る。

 ごくり、とグレイは思わずつばを飲み込んだ。空っぽの胃は早く物を詰めろとうるさいが、しかしこれは手をつけて良いものなのだろうか。

 ちらりと男へ目を向ければ、男は首を傾げてから、パンとスープを指差し、グレイを指差し、最後に何かを食べるような動作をした。食べて良い、ということだろう。

『遠慮しなくていいぞ。それともなんか警戒してんのか? お前みたいな子供にどうこうするほど性根腐っちゃいねーよ』

 微笑んだ男が、サンドイッチをひとつ手にとってグレイの前に差し出した。それを受け、グレイの視線が男の顔とサンドイッチとの間を何度も往復する。

 この男を怪しむ気持ちが完全になくなったわけではない。だが、グレイの空腹はもう限界だった。

(……ちょっとだけ、なら……)

 グレイの手が、そっとサンドイッチを掴む。念のため男の顔を窺えば、彼はなんだかやけに嬉しそうな顔をしていたので、グレイは変な気分になった。

 バゲットのようなパンは少し固めで、薄切りの蒸し肉と、レタスのような野菜、それから、見たことがない鮮やかな水色の実が挟まっていた。

 一瞬、これは本当に食べても大丈夫なのだろうかと思ったグレイだったが、意を決して、あぐりと食いついてみる。味を確かめるようにゆっくりと咀嚼したグレイは、ぱちぱちと瞬きをした。

(……おいしい)

 シンプルな味付けだが、空腹の胃には良く沁みる。サンドイッチだけでなくスープも口に運べば、塩味の効いた優しい味がした。

 一度美味しさを感じてしまうと、後は止まらなかった。先ほどまでの警戒が嘘のように、無我夢中で腹に食事を収めていく。そうして腹が満ちて落ち着いたところで、ふと心が緩んだ。

 途端、再びグレイの目頭が熱くなってくる。今度は視界が少しだけ滲み、グレイは慌てて食器を置いて袖口で水気を拭った。

 ごく当然のように感じる満腹感と食事の美味しさは、これが夢などではないと突きつけてくるようだったのだ。

 本当なら今頃家族でご飯を済ませて、買ってもらった誕生日プレゼントを手にはしゃいでいた頃だろうに。それら全てが遠いことになってしまった。帰ることができるのかも判らない。もしかしたら、もう二度と家族には会えないしれない。

(くそっ……泣くな……!)

 嫌なことばかり考える自分を叱咤して、グレイは何度も何度も両目を擦った。強く噛み締めた唇から滲んだ鉄の味がとても不味くて、ただただ不快だ。

 そんなグレイの頭を、不意に温かいものがぽんぽんと撫でた。

 驚いて顔を上げると、グレイの頭に手を乗せている男が酷く優しい顔をしていて、グレイはかっと顔に血が上るのを感じた。

「なっ、に、すんだっ。やめろ、さわんな……!」

 優しい手を振り払おうと、頭を振って、男の腕をべちべちと叩く。子供の突然の反抗に一瞬驚いたように手を引いた男は、しかしすぐにまた困ったように笑って、今度はグレイの後頭部に手をやった。そしてそのまま、グレイをぎゅうと抱き締める。何が起きたのかすぐには理解できなかったグレイは、しかし男の腹の辺りに顔を埋める形になっているのだと気づくと、更に激しく暴れ出した。

 それでも、男に動じた気配はなかった。ただただ優しく、しっかりとグレイのことを抱き締めて、大きな手が宥めるように頭を撫でる。

『ああ、怖かったな。でも、もう大丈夫だ。今まで我慢して偉かったな』

 男が何を言っているかなんて、さっぱり判らない。けれど酷く穏やかな声は、蔑むでもなく哀れむでもなく、ただひたすらに優しいのだと。それだけは、明確なほどに判ってしまった。

 男の声を受けて、グレイの動きがぴたりと止まる。そしてその目から、遂にぼろりと涙が零れ落ちた。そのひと粒を皮切りに、後から後から込み上げては溢れるそれを、グレイはもう止めようとは思えなかった。

 男の服を強く握るようにしてしがみついたグレイは、この世界に来て初めて、声を上げて泣いた。

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