決断
事務所のドアを開けると、叶一はこちらに背中を向け、応接テーブルでファイルの整理をしていた。
普段は言ってもやらないのに……。
叶一がそういうことをするのは、考え事に集中したいときだけだと、美弥は知っていた。
ぱたん、と戸を閉め、ただいま、と言う。
「遅かったね」
と叶一は言ったが、振り返らない。
「……お茶でも淹れようか」
そう言って、美弥が簡易キッチンに向かおうとすると、
「大輔は?」
と訊いてきた。
「ん。浩太のとこ。
急ぎの報告があるからって」
「急いでんなら、早く行きゃいいのに」
ぼそりと呟いたその口調が、叶一のものとは思えず、美弥は息を止めた。
大輔にごちゃごちゃ言うことはあっても、いつも、言葉の何処かに弟に対する愛情はあったのに。
七年前だってそうだ。
大輔が自首しないのならば、きっとこの人は名乗り出なかった。
だって、この人は、私と同じ人種だから――。
私と同じ、自分が悪いと思わなければ、罪を犯しても、そのまま生きていける類の人間だから。
美弥は自分に向けられた背中をただ見つめていた。
迷いながらも、
「叶一さん」
と呼びかける。
だが、彼は何か感じているように、振り向かない。
「あ、あのね、私――」
だがそこで、ふっと、大輔のものとは違う、叶一の柔らかそうな淡い色の髪を見てしまっていた。
甦るのは、あの川原。
自転車で二人乗りして、叶一が何処かに連れて行ってくれた。
暖かい風に流れた叶一の髪が顔にかかり、もう~、と笑って、片手で払う。
叶一もまた笑っていた。
何処に行ったかは覚えてないのに、あの長閑な光景だけが、思ったより強く自分の中に焼きついていることに気がついた。
叶一さんは、家族が出来たらそんな風にしたかったんだ。
なんでだろう。
聞いたわけでもないのに、なんとなくそう思った。
あまりに長い
「み、美弥ちゃん、どうしたの?」
と慌てて訊いた。
美弥はその場にしゃがみ込んでいた。
ほんとは……嫌なことなんて、なにひとつなかったよ。
ただ、私が大輔を諦め切れなかっただけ。
「ねえ、どうしたの?」
さっきまで怒っていたくせに、側に来て、おろおろと美弥を窺う。
叶一はいつもこうだった。
大輔は自分に否があっても、素直に折れることはないのだが、叶一は怒っていても、美弥の様子がおかしければ、すぐにこうしてやってきてくれる。
叶一の方が大人だから。
ただ、それだけのことなのかもしれないけれど。
「どうしよう……」
膝を抱えたまま、床を見つめて、美弥は言った。
「私、貴方が好きなのかも――」
叶一が言葉を詰まらせる。
美弥もまた、自らが出した言葉に、自分でびっくりしていた。
さっき大輔と握り合っていた手の感触が今も残っているのに――。
「美弥ちゃん……言ってることおかしいよ」
そう言う叶一の声は少し震えていた。
「ごめん。
そうよね。
私もそう思うわ」
帰る、と立ち上がり、戸口に向かおうとする。
やっぱり駄目だ。
こんな自分でもなんだかわからないときに結論を出すべきではない。
「待って」
と叶一が美弥の腕を掴んだ。
振り返るより先に、後ろから抱き締められる。
ゆっくりと伝わるのは、いつも美弥の一番近くにあったぬくもりだった。
いつも一番側に居て、守ってくれていたのは結局、叶一だったのか。
自分はただ、その親のような無償の愛で守ってくれている叶一の側から離れたくないだけなのか。
そんなの、殻のついたひよこと変わりないではないか。
そう思ったとき、叶一が言った。
「美弥ちゃん、好きだよ」
え――。
「いつも言ってるのとは違う。
僕は……ほんとは、ずっと君が好きだったんだと思う。
大輔が好きなのと同じように。
そうだね。
きっと……たぶん、最初に出逢った頃から」
そう言って、叶一は自分でも困ったように笑った。
何と言ったらいいのかわからなくて、美弥も無理やり笑いを浮かべ、小さく震える声で問うた。
「最初って……私、小学生じゃない。
叶一さん、ロリコン?」
そうかも、と後ろで苦笑するのが、身体を通じて伝わった。
なんだか叶一が泣いているような気がして、怖くて振り向けなかった。
そんな顔を見てしまったら、きっと
きっと私は、何も言えなくなってしまう。
だが、叶一は美弥の頭に触れ、自分の方を向かせる。
ああ、やっぱり泣いてんのかな、と微かに赤くなっていたその瞳を確認する前に、叶一が唇を重ねてくる。
ずっとそうして来たから違和感はない。
でも――。
「美弥ちゃん、好きだよ」
叶一はそう言った。
「何処にも行かないでよ。
大輔が君を必要としてるのと同じくらい、僕も君を必要としてるんだよ」
決して、そんなこと言いたくはなかったのに、と叶一は唇を噛み締めた。
叶一さんはお義父様のようになりたくなくて、誰も愛すまいとした。
だけど、結局、あの人と同じになったのは、なんの血の繋がりもない私だった。
『美弥くん、私に一番似ているのは君だ』
そう言ったあの人には見えていたのだろうか、この未来が――。
「美弥ちゃん、泣かないで」
叶一は美弥の額に額をぶつけ、小さく囁くように言った。
「……うち、帰ろう?」
『大輔、七年は長過ぎたよ――』
廊下に立つ大輔は、ぼんやりそんな言葉を思い出していた。
古びた木製のドアを、黙って見つめていたが、ノブには手をかけずに、そのまま、そこを後にした。
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