波乱1


 チャイムが鳴り、美弥は慌てて立ち上がった。


 浩太が帰る前には灯りをつけておいてあげようと思っていたのに、そのままだったからだ。


 玄関先まで行き、スイッチを入れると、ドアを開ける。


「お帰り浩太」

「ただいま」


 そう言う彼の表情は晴れ晴れとして見えた。


「夜景、見てたの?」


 中に入りながらそう問う浩太に、なんで? と訊くと、


「だって、下から見上げたら、部屋、真っ暗だったから」

と笑う。


 うん、そう―― と言い終わらないうちに、浩太は灯りを消した。


「見てれば?

 美弥ちゃんのとこからは見えないでしょ?」


「いーやーみーっ」


 そう言いながらも、お言葉に甘えて、勝手に窓際の浩太の椅子に腰を下ろす。


「ねえ」

「んー?」


「そういうときって何考えてんの?」

 後ろから、そんな浩太の声が聞こえてくる。


 ビニール袋の音がした。


 なんで? とデスクに頬杖をつき、夜景を見たまま美弥は問う。


 浩太が言っていたように、この時間になると、駅周辺よりも、遠くの住宅街の方が、より明るく見える。


「いや、僕は大抵、何か思うとこあるとき、そうやって外見てるから」


「そうねえ。

 さっきはあんたのこと考えてたかな。


 それと――」

と言葉を止めたが、


「ああ、あのオッサンのことね」

と言う。


「オッサンってね……」


「もういいオジさんだよ。

 君の中では時が止まってるかもしれないけどね。


 他には?」


「後は……

 前田さんのことかな」


「頼まれてもないのに、仕事熱心だね。

 ところで肝心の前田さんは?」


「本社に呼ばれて帰っちゃったわ」


 え、それは―― とさすがに浩太も詰まる。


「昼間、挨拶に来られたの。


 でも……きっと戻ってくる。


 向こうで自首してもいいはずだけど。


 なんでだろ?

 なんだかそんな気がするの」


 ふうん、と言う声とともに、戸棚を開け閉めする音が聞こえた。


「ところで、叶一さん、最近、捕り物とか参加してないね。

 なんで?」


「だって、あんまり顔合わさないのよ。

 どうしちゃったのかしら?」


「そりゃー、逃げてるんじゃない?」


 逃げてる? とようやく美弥は振り向いた。


 はい、と近くまで来ていた浩太が左手に二つ持っていたグラスをひとつ差し出す。


「だって、君の顔つき、最近違うよ。

 今にも何か言い出しそうで。


 だから、逃げてるんでしょ」

と開けたワインを注いでくれる。


 美弥はデスクの上に置かれた黒いボトルを見て、


「ん。

 私、これ好き。


 どうしたの?」

と問うた。


「君、渋~い赤、好きだもんね。

 オッサンみたいに」


「殴ろうか? 浩太」

と言いながら、一口、口にする。


 言った通りの渋い味がした。


「今、買ってきたんだ。

 天敵をちょっとやっつけたお祝い」


「やっつけたって言うのかな~」

と苦笑いしたが、確かに、浩太の中ではそうなのだろう。


 天敵とは、龍泉そのものではなく、自分の中の、いつか乗り越えねばならないと思っていたもの。


 それが克服できたと思える瞬間が、わずかばかりでも、今回訪れたのに違いない。


 へへへ、と笑うと、

「なに、もう酔ったの?

 確か強かったよね」

と目をしばたたいて浩太は言う。


「違うって~。

 なんか嬉しいの」

と美弥は椅子を回す。


 浩太が龍泉を許す必要は本当にないのだが、彼の中で何か晴れるものがあるのなら、それはそれで嬉しいことだった。


 そして、本音を言えば、自分にとって大事な二人が、一歩でも近づき合ってくれれば、こんな喜ばしいことはない。


「まあまあ、美弥ちゃん。

 今回はなんだか世話になった気もするから。


 ほら、君の好きなレーズンバター」


「あっ、それそれっ、そこのメーカーの好きなの」


 黄色い箱を振った浩太に、美弥は思わず立ち上がる。


 ご親切に浩太が切ってくれたので、美弥は、それの置かれた応接セットの方に行った。


「わーい、おいしいね、浩太」


「絶対酔ってるでしょ、君」

と膝で頬杖ついた浩太が苦笑いする。


 浩太にとってもいい日かもしれないが、美弥にとっても、今日はいい日だった。


 機嫌がよくなると、酔いが回るのも速くなる。


 側に腰掛けていた浩太が唐突に言う。


「頭撫でてよ、美弥ちゃん」


「はい?」


「今日頑張ったご褒美に」


「あらまあ、でっかい子どもが多いのね」


 そう言いながらも、一口飲んだワインがやっぱりおいしかったので、片手で片手間に撫でてやる。


「そうだねえ。

 最近、叶一さんだけじゃなくて、色黒くて年食った子どもも居るしねえ」

と言う浩太に、ははは……と笑う。


「あれ? 美弥ちゃんて、叶一さんと同じシャンプー?」


 ふいに気づいたように問う浩太に、自分の髪を摘んで、そう、と頷く。


「あの人こだわんないから、うちで付き合いで纏めて買ってるの、いつも持ってっちゃうの」


「ふーん……」


「いや、でも今日はいい日ね」


「気分晴れ晴れ?」


「ま、晴れ晴れとはいかないけどね」

と視線を落とす。


 毛足の長いベージュのラグが目に入った。


 やはり、前田のことが、いつも何処かで引っかかっていた。


「前田さん見てて思ったの。

 やっぱり思ってたことは言わなくちゃ。


 そうでないと、ずっとお腹に溜めてると――


 やらなくていいことまで、やってしまうから」


 美弥は後ろの肘掛に寝るように寄りかかる。


 やはり少し、いつもより酔うのが速いような気がしていた。


「叶一さんだって……ちゃんとお義父さまに話せてたら」


 ねむ……と思ったとき、上から冷ややかな浩太の声がした。


「わかってないね、美弥ちゃん。


 叶一さんがなんであのとき、腹にえかねたのか、何をおじさんがわかってないと思ったのか」


 叶一さんが、あのとき何を思っていたのか――?


「叶一さん自身も気づいてないみたいだけど、あの人、昔から君のことが好きだったんだよ。


 だから、無意識の内にあんな条件出したんだ。


 自分では、ただ父親を試しただけだと思ってるみたいだけどね。


 でも、ようやく君を手に入れたのに、君はすぐに彼を突き放した。


 そこに、『早く孫の顔でも見せてくれ』って言われて、カチンと来たんだ。


 いや、その無神経さに、父親の中に自分を見たのかな。


 それとも、この無神経のせいで、自分たち母子や兄弟がひどい目に合ってきたと思ったのか。


 いずれにせよ。


 君があの事件のことを、結婚話を受けてしまった自分のせいだと思っているのなら、やっぱりそれは、ほんとのことだよ」


 なんだかひどいことを言われているような気がしたが、眠かったので、ちゃんと聞いてはいなかった。


「安達先生も僕も倫子ちゃんも大輔も、叶一さんの気持ちに気づいていたけど、当事者二人がわかってなかった。


 いや、叶一さんはわかりたくなかったのかな。


 誰と結婚しても、君は大輔を好きなんだと思い込んでいたんだろう。


 でも、そうなのかな?」


 ……そうなのかなって?


「大輔が一番早くから側に居たから、手のかかるあいつを好きなんだと思い込んで。


 君はこうと決めたら引かない人だから、そのまま、突っ走った。


 叶一さんとか……あの人が先に出てきてたら、どうだった?


 まあ、あの人は年が離れてるからわかんないけどね」


 う~、頭痛くなってきた。


 でも、これはきっとお酒のせい。


 なんだか最近みんな、嫌な話ばっかりする。


 でも、全部私のせいだ。


 こんなにダラダラ長いこと引きずってきた私のせい……。


 ふっと前田の顔が頭を過ぎった。


『美弥さん、私の二の舞は踏まないで。

 ちゃんと向き合わないと、いつか必ず後悔するから』


 実際、言われたこともないのに、はっきりと前田の穏やかな声がそう告げた気がした。


 でも、ちょっと待って、前田さん。


 今はただ眠いから。


 明日になったら、きっと――。


 誰かが、そっと髪に触れた。


「叶一さんも、大輔も莫迦だよ。

 付き合わなければ、別れなくて済むのに」


 浩太? なに? 聞こえない。


「……ほんとに君を必要としてるのは僕だ。

 だから、僕は君を好きにはならない」


「浩太ー、何言ってるの?」

と目を擦って問うと、


「あれ?

 まだ意識あったんだ?


 うーん、そうだね。

 呪文かな」

と浩太は笑う。


「安易な方に走らないための内緒の呪文」


「誰に内緒なの?」

「美弥ちゃんに」


「私、聞いてるんだけど」


「頭に入ってないくせに。

 どうせ、朝には忘れてるよ、大丈夫」


 なにそれ、まるで予言者ね、という言葉は、口から出たものだったのか、頭の中で思っただけのものだったのか、どちらにせよ、答えは返って来た。


「……予言者なんだよ、忘れたの?」


 起きているときよりやさしい浩太の声が、耳に響いた。




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