縁側の月 ―浩太―

 


 呼び鈴を鳴らすと、如何にも人のよさそうな丸いおじさんが出てきた。


 行きたくない気持ちも相まって、つい、いつもより畏まって用件を話す。


「どうぞどうぞ」

とすぐに奥の離れに行くよう勧められた。


 どうしてこんなおじさんから、あんなきっつい娘が生まれるかな、と思いながら、浩太は庭を横切る。


 几帳面に手入れされた広いその庭をいつも整えているのは、あの人だと聞いた。


 離れに着くと、部屋の障子は開いたままで、彼は法衣姿で机に向かい、何か書き物をしていた。


 写経かな? 此処、何宗だっけ?


 そうしていると、確かに坊主に見えるな、と思いながら、縁側に片膝をかけ、


「ねえ」

と呼びかけた。


 振り返った龍泉は、

「うわっ、瀬崎浩太!」

と何故かフルネームで呼ぶ。


 どうやら向こうにとっても、こちらは天敵らしい、と思った。


「あのババア元気?」

と言うと、また、君も顔に似合わず口の悪い、と眉をひそめる。


 彼は手をついて、こちらに向き直った。


 浩太はその視線を避けるように、縁側に腰を掛け、脚を組む。


 龍泉は少し離れた場所に座り直し、ただ黙って、そこに居た。


 何かの虫の音が聞こえた気がした。


「僕は……なんにもわかってあげられなかった」


「君を信じていたからこそ、ああしてサインを出していたんですよ」


 龍泉の声がやさしく響く。


 浩太はそれを振り払うように月を見上げた。


 真っ黒な空にぽかりと穴が開いたように、そこだけ白かった。


 自分を訴えていた依頼人が手首を切ったと聞いた。


 彼女はいつも強気だったけど。


 ほんとは放蕩息子のことで悩んでいて、常に誰かに話を聞いて欲しがっていた。


 でも、それはただの繰り返される日常の一コマなのだと、浩太は思い込んでいた。


 ああやって、突然、浩太にいちゃもんをつけ、訴えることで、もう此処が限界だと、彼女はサインを出していたのに。


 自分が突き放したあと、彼女の話を聞いてやっていたのが龍泉だったらしい。


 彼もまた力及ばなかったかもしれないが、少なくとも、早くにそのサインを察知し、最後まで見捨てず、側に居てくれた。


「貴方に謝りたいそうですよ。

 告訴も取り下げるそうです」


「いいよ、別に。

 僕はなんにも出来なかったんだから」


 あーあ、と振り注ぐ月の光を見上げ、伸びをする。


「あの婆さんには、バレちゃったな。

 僕の力がインチキだってこと」


「そんなこと、関係ないと思いますよ。

 結構わかってる人は居るんじゃないですか?


 大輔さんの調査もそう完璧とはいかないでしょう。


 相談はその人の今までの人生すべて、今の生活すべてに及ぶわけですから。


 それでもみんな貴方に話を聞いて欲しがってるんですよ」


 再び俯いた浩太は、やがて、すっくと立ち上がる。


 正面から龍泉に向き直り言った。


「あんたのこと嫌いだし、許す気もないし、こんなとこ来たくもなかったんだけど。


 でも、此処で言わないと、僕の方が人間として、あんたより下ってことになる気がするから、言っておくよ」


 ありがとう――。


 そう言い、浩太は行こうとする。


「よく……此処まで来ましたね」


 浩太は、ふと足を止める。


 龍泉は、なんの気なしに言ったのだろうその言葉が、何故か、天竺で出迎えてくれた釈迦如来の言葉のように聞こえた。


 よく、此処まで来ましたね――。


 それは、ぐずぐずと自分の内で駄々を捏ねるように来たこの寺への道程ではなく。


 幼い頃、予見をしたあの日から、今までの人生に対しての言葉のように聞こえた。


 ふいに泣きそうになる。


 ああそう、美弥ちゃんはきっと知っていた。


 こいつを許さない限り、僕の心に平安は訪れないと。


 浩太は振り向いて言った。


「来たくなかったよ、こんなとこへなんか。

 あんたの顔も見たくない。


 例え――


 例えいつか、僕があんたと和解する未来が、遥か昔から見えていたとしても」

 

 え、と龍泉は虚を突かれたような顔をする。


「その未来こそが僕を苦しめた。

 だから、あんたに近づきたくなんかなかった。


 でも、美弥ちゃんが……」


 近衛が? と彼は、ふっと佐田圭二に戻って問うた。


「美弥ちゃんが言ってくれたから。

 許さなくていいんだって。


 あんたを許さなくていいんだって言ってくれたから。

 だから、僕は此処に来れた」


 そうか……と教師の顔で、彼は俯き嬉しそうに笑う。


『なんだ、お前、はぐれたのか?

 見かけない顔だが、付属の子か?』


 あの日の昼間、まだなんの罪も犯していない佐田が自分に向かい、話しかけてきた。


『そうだ。

 明日、釣りするから、お前も来いよ』


 彼は、面倒見のいい美弥たちに自分を紹介するつもりだったのだろう。


 屈託のない真っ黒な顔で笑い、じゃあな、と肩を叩いていった。


 大きな手だった――。


 僕にはやるべきことがあって、此処へ来ているのだから、誰とも馴染めなくても関係ない。


 そう思ってはいたが、やはり心細かった。


 それが佐田には見てとれていたのだろう。


 彼がいい先生だということは、自分でも身をもってわかっていた。


 そんな彼から教師の職を取り上げたのは、叔父の過去の罪だということも。


 彼はただ、家族を愛していた。

 それだけなのに。


 でも、許さない。


 そう思う心の自由を彼女が与えてくれたから。


 だから、残念ながら、僕は、いつかこの男を許すだろう――。


「じゃあね、さよなら」


 今度こそ、浩彼に背を向ける。


「ああ……また気が向いたら遊びに来てください」


「だから来ないって言ってるよねっ!?」

と浩太は懲りない男を振り返る。


「今日はねー、帰ったら美弥ちゃんに頭撫でてもらうの。

 だから来たの!」


 龍泉は困った顔をする。


「瀬崎……ああいや、瀬崎さん」


「どっちでもいいよ」

と投げやりに言うと、龍泉は眉根を寄せて言った。


「お前ら、近衛に頼り過ぎだ」


「あんたもね」

と言い返す。


 冷たい砂利を踏みしめ、浩太は月だけ見上げ、歩いていった。



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