倫子 ―龍泉―
ま、今日はもういいか。
凶器を失ったからといって、本当にこのまま通り魔が居なくなるとは思っていないが、まあ、しばらくは大丈夫なのかな、と龍泉は奥へ引っ込もうとした。
美弥たちもああ言っていたことだし、と寺の門を閉めようとしたとき、誰かがこちらに走ってくるのが見えた。
ジャケットを羽織った髪の長い女。遠目にも見覚えがあった。
「倫子さん」
そう呼びかけると、倫子は暗がりに墨染めの衣の自分に気づき、駆け寄ってきた。
「龍泉さ~ん」
と言うなり、自分の両腕を掴み、座り込んでしまう。
「どうしたんですか?」
と言った言葉に被せるように、
「どうしよう。
私、美弥、ぶん殴っちゃった」
と言う。
「ぶん殴っちゃった?」
思わず上体を伸ばし、美弥の家の方を見ると、倫子は座り込んだまま駄々を捏ねるように言う。
「あー、今、私の心配より、美弥の心配したー」
「そっ、そりゃ、ぶん殴ったなんて言うからですよ」
……平手じゃなくて? と問うと、
「わかんない。
平手だったかも~。
どうしよう。
私に、美弥を殴る権利なんかないのに」
と倫子は言う。
「なんだかわかりませんけど。
それが本当なら、取り合えず、謝ってきたらどうですか?
あの人は許さないなんてことしないと思いますよ」
「そうなんですけど。
私が美弥に合わせる顔がないっていうか」
「はあ……まあ、女の人同士の話は私にはわかりませんけど」
上がっていきますか? と言うと、いや~、いいです~と言い、よろめくように立ち上がる。
「送りますよ、倫子さん」
いいです、いいです、と倫子は落ちていた鞄を拾い、とぼとぼと歩き出した。
いいですったって……。
龍泉は騒ぎに気づいて顔を出した美咲に、ホウキを預け、
「ちょっと送ってきます」
と言った。
倫子の後ろ姿を確認した美咲は、私も行きましょうか? と心配そうに言う。
基本的には優しい人なのだ。
でも、これが美弥を追っていくというのなら、こういう態度ではないのだろうなと思う。
美弥の何がそんなに美咲を警戒させるのか、自分にもわからないのだが。
「すぐ戻りますから」
と龍泉は駆け出した。
美弥は手が空いたときには、久世邸の掃除に来るようにしている。
莢子が退職したあと、隆利が新たに知らない人間を家に入れるのを嫌がったので、お手伝いさんは居ないままだった。
しかし、大輔と隆利の二人に任せておくと、家は荒れ放題になる。
仕方なく、美弥がときどき手入れに来るようになっていた。
二年前、年をとった莢子が、お暇をもらいたいと言ったとき、隆利は彼女に随分な退職金を払い、彼女の長男夫婦の近くの、かなりいい老人ホームを世話してやった。
あれでいいところもあるんだけどね……。
ま、そもそも、あの人がもうちょっと情の薄い人間だったらいっそ、こんなことにはならなかったか。
っていうか、いっつも愛情の方向性がおかしいのよね、と美弥は思う。
よく大輔のお母さんも、叶一さんのお母さんも嫌にならなかったもんだわ。
日頃の隆利に対する不満が、散らかし放題の家を片付けていると、余計溜まってくる。
ふと、昔、大輔が、心配してうろうろしている母親の残像がまだこの屋敷の中にある、と言っていたのを思い出した。
思わず掃除機を止め、見えるわけもない彼女の姿を捜そうとしたとき、高い鐘の音が鳴り響いた。
屋敷のチャイムの音だった。
はいはいはい、と美弥が玄関に行き、扉を開けると、妙な組み合わせの人たちが立っていた。
長身に黒っぽいスーツの男。
そして、その横には対照的に、何を着ても微妙にチャラい男が居た。
「あら、安達先生。
浩太まで。
どうしたの?」
「美弥ちゃんが此処に居るって大輔が事務所で言ってたから、お茶でも淹れてくんないかなと思って」
あいつが淹れたんじゃちょっとね、と言いながら、浩太は、もう勝手に入ってきている。
「はあ、まあ、そりゃいいけど」
ちょうど掃除も一段落するところだったので、美弥は二人を居間に案内した。
「大輔、まだ居たの?」
「これからどっか行くみたいだったけど。
なに?
美弥ちゃんの指令なの?」
と深緑の花柄のソファに腰を下ろし、浩太は笑う。
「指令って。
人聞きの悪い。
それより、どういう組み合わせなの? 貴方たち」
この二人なら珈琲だな、と美弥は一度奥へ引っ込み、珈琲を淹れてきた。
ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、偉そげに脚を組んだ浩太は、
「それが、僕、安達先生に訴えられちゃってさ」
と言う。
「訴えたのは私じゃありませんよ。
うちの依頼人で、瀬崎様のところの依頼人です」
はあ? と美弥は声を上げる。
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