第五章 通り魔
離婚届け
美弥のデスクは事務所の中で一番日当たりのいい場所にある。
一応、所長ということになっているからだ。
皆まだ帰って来ないので、そこで一人、叶一の名の記された薄い紙を広げる。
そこにはまだ、美弥の名前はなかった。
――っていうか。
これ出すんなら、もっといっぱい書き込まなきゃいけないとこがあるわよね。
あっ、証人欄にもサインが必要じゃん。
一体誰が離婚届けの証人になんてなってくれるっていうのよ~。
大輔じゃ、なんとなく気まずいし。
ん?
協議離婚のときだけ必要ですって書いてある。
あ、でも、うち協議離婚だよね。
双方合意の上だから。
「あのー、美弥さん?」
うわっ! と悲鳴を上げた美弥は慌ててそれを隠した。
「すみません。
何度かお呼びしたんですけど」
前田が申し訳なさそうな顔で立っていた。
「ああっ、すみませんすみませんっ。
ちょっとボーッとしてましてっ」
と美弥はそれを所定の位置に戻す。
「どうされました?」
「いえ。
社長を刺した凶器のこと聞いたりして、なんだか落ち着かなくて」
「お茶でも淹れましょうか」
と美弥は立ち上がる。
「それ、離婚届けですよね」
前田の声が後ろからした。
「……よくわかりましたね」
「色でわかるじゃないですか」
それ出されるんですか? と前田は問うてきた。
「どうなんでしょう。
なんだか自分でもよくわからなくて」
「叶一さんは納得されてるんですか?」
「そりゃ、これ、くれたくらいだからそうなんでしょう。
紅茶でいいですか?」
前田の前に、貰い物のウェッジウッドの茶葉で淹れた紅茶を置く。
美弥もソファに腰を下ろした。
少し熱そうに紅茶を吹いた前田を見て問う。
「前田さん、ほんとはもうご存知なんでしょう?」
「何をです?」
「うちの事務所になんで依頼が来ないか。
こんなところと関わるなって、会社の方で言われませんでした?」
ははは、と前田は誤魔化すように笑っている。
「いいんですよ。
皆知ってることですもん。
うち全員前科持ちなので、いまいち信用ないんですよね。
でも、叶一さんが刑務所の中で作ってきた情報網というか、ネットワークはなかなかですよ」
ついそんなことを言ってしまう。
はあ、と前田は困ったような相槌を打った。
「あの人、なんだか水が合ってたみたいで、刑務所の中。
大輔の方は、胃を悪くして帰って来ちゃったんですけどね」
「はあ。
如何にも少年院なんかに居る人たちとは合わなさそうな人ですもんね」
どちらかと言えば、目をつけられる類の人間だ。
それはそれは、暮らしにくかったことだろう。
「大輔に関しては、もうちょっと刑を軽く出来たと思うんですけど、本人が望まなかったので」
大輔がそうしなかったのは、もしかして――
と思ったとき、前田が言った。
「それってもしかして、叶一さんに対しての遠慮だったんですかね?」
「え?」
「だって、叶一さん一人が前科者になったら、自分だけが圧倒的に有利になるわけでしょう? 貴方に対して」
「そんな理由で?」
と美弥は首を傾げる。
「なんだかあの人、正々堂々って感じだし。
ああでも、もしかしたら、或る種の自己弁護だったのかも。
圧倒的に有利なはずなのに、貴方が叶一さんを選んじゃったりしたら辛いじゃないですか」
「でも、そこで逆に叶一さんを選んじゃいそうなのが美弥ちゃんなんだよねえ」
また勝手に部屋の中で声が聞こえて、美弥たちは振り向いた。
目立たないシンプルな装いなのに、誰よりも人目を引く男が立っている。
「浩太。
ノックくらいしなさいよ」
「あれ?
君うちに来るとき、ノックするっけ?」
「……気が向いたらね」
と言いながら、美弥は立ち上がる。
「お茶淹れようか」
「珈琲がいいなあ」
圭吾に続いて、こいつもか……と思いながらも、美弥はフィルターを捜した。
「珍しいわね。
此処に来るなんて」
「うん。
開店以来かな」
「パチンコ屋じゃないんだから……」
「短い周期ですぐ閉店しちゃうところが似てるかなー」
あはは、と笑って浩太は大輔のデスクの上にコートを投げる。
「うち、まだ潰れてないわよ。
ああ、前田さん。
この人、客じゃないから、いいですよ」
と立ち上がろうとした前田を制す。
「私も飲んでみようかな。
発見したのよ。
この近所の水で淹れるとマイルドで飲みやすいの。
前田さんもたまにはどうですか?」
ああいえ、私は、と前田は遠慮がちに言う。
浩太が居るから落ち着かないのかな、と思い、振り向いて紹介した。
「この人、瀬崎浩太っていう、怪しい霊感占い師なんですけど……」
「いや、怪しい占い師って――」
と浩太が文句を言おうとしたとき、美弥は前田の様子がおかしいのに気がついた。
「あの、もしかして」
と浩太を見上げて言う。
「ああそうだ。
もしかしてご存知ですか。浩太の名前」
そうぼかして訊いた。
前田は、小久保から浩太のことを聞いていた可能性がある。
「あっ、えーと、なんだか凄くよく当たる霊能者の人だとか」
そりゃどうも、と大輔のデスクに腰掛けていた浩太は立ち上がり、前田と握手をすべく手を伸ばした。
前田は伸ばしかけた手を止め、びくりとしたように、彼を見上げる。
「心配しなくても、料金も頂かないのに、なんでもかんでも覗いたりはしませんよ」
と浩太はソフトに笑って見せる。
「ああ……そうですか」
と微妙な笑いを浮かべる前田を横目に見ながら、サーバーから珈琲を移した。
前田が帰ったあとで、まだ、大輔のデスクに腰掛けたままの浩太が言った。
「あの人、なんか
「さあ。
人によっては、些細な秘密も知られたくなかったりもするだろうし」
「まあね。
ああ、珈琲おいしいよ。
自分じゃ飲まないのに、これだけ淹れられりゃ充分じゃない?」
「それ、褒めてんの?」
とその微妙な言い回しに、美弥は苦笑いする。
「前田さんの秘密―― か」
小さくそう呟いた浩太に、
「なんか見えるの?」
と問うと、
「だからさあ。
見えないんだって。
あの人、間違ってるよね。
警戒すんなら、僕じゃなくて、大輔の方だって。
あいつ、今でもバリバリだから。
やっぱ、なんていうか、純粋だからかねー」
と浩太は窓の外を見て言う。
「なに? 元気ないじゃない」
そうでもないけど……と呟く浩太に美弥は言った。
「前田さんの秘密なら、ひとつは想像つくんだけど」
「え?」
「奥さんとうまくいってないんじゃない?」
「そうなの?」
「さっき、私が見てた離婚届け、一発で当てたわ。
あんな離れた場所から。
普通の人って、あの薄い紙と色見ただけで、わかったりはしないのよ。
離婚届けが何色なのか、知らない人も多いしね」
「それって、物凄い憶測じゃない?」
浩太の横、大輔のデスクに一緒に腰を預け、そう、憶測、と美弥は微笑む。
「でも――
君の憶測はいつも当たるから怖いんだ。
たいした理由もなくてもさ。
君がこうかもって言ったら、大抵、本当にそうなの」
「じゃ、さっきのも当たってるの?」
「んー?」
「あんた此処んとこ、おかしいわ」
美弥ちゃん、と浩太は美弥の背に触れてくる。
「……僕らの力ってなんのためにあるんだろうね?
この力で、僕は誰かを救えたのかな?」
「浩太?」
浩太は美弥の肩に額をぶつける。
そのやわらかい髪が振り向く美弥の頬をくすぐった。
「僕、昔、大輔に教えてあげたんだよ。
美弥ちゃんは大輔じゃなく、叶一さんと結婚するはずだって」
「え――」
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