前田さんが来ました
えーと、一応お茶も買い足して、それから――。
美弥は事務所のある雑居ビルの廊下を歩きながら、今日すべきことを思い返していた。
お茶っつっても、ほとんど客じゃなくて、自分たちが飲んじゃってるんだけどね。
叶一は一度家に帰って着替えて来ると言うので、薄情な妻は見捨ててきた。
滅多に客が来ないとはいっても、一応事務所は九時には開けることになっているからだ。
全く、六時に起こしたのにあの人は……。
一人暮らしが長いせいか、叶一は本当に自堕落だった。
でも、もしかして私、単に叶一さんと一緒に来るところを大輔に見られたくなかったのかな?
そう自分に問うてみる。
鍵を振り回しながら、事務所のあるフロアに行くと、ドアの前に誰かが立っていた。
「前田さん……」
象のような目をしたその男はぺこりと頭を下げる。
お茶を淹れながら、どうもすみません、と美弥は礼を言った。
結局依頼は引き受けなかったのに、前田はわざわざ無駄足踏ませたお詫びにと、菓子折りを持って訪ねて来てくれたのだ。
「あ、おいしいんですよね、此処のみたらし」
若草色の包みに茶色い文字で、『たむら』と書いてある。
開けると、竹の皮みたいな匂いがした。
包み紙のせいだろう。
その中に、ねっとりとした飴色に光るまん丸なみたらしが八本並んでいる。
「らしいですね。
昔、地元の営業の方がよく使われると聞いて。
あれから僕も此処に来たときは、買うようにしてるんですよ」
美弥は彼の前にお茶を出しながら言った。
「今日はみたらし団子に合わせて、かぶせ茶にしました。
これ、貰い物の結構いいやつで、おいしいんですよ」
前田は一口それを飲むと目を見開く。
「ほんとに美弥さんはお茶淹れるの上手いですね。
おいしい」
「いっ、いえいえ、他にすることがないからです……」
謙遜ではない。
本当に仕事らしい仕事がないのだ。
浩太の仕事にまつわる雑務はあるが、それだけで。
それも、肝心なところを抑えているのは全部大輔だし。
心霊相談という内容上、ちょっと危うい内容のものも含まれているので、あまり美弥には深入りさせたくないらしかった。
「ささ、食べましょう。頂きますっ」
そう言ってつい、手を合わせると、前田は笑った。
「美弥さんは、本当にしっかりしたご家庭でお育ちなんですね」
「は? いえ、全然。
それより食べましょうっ」
さあ、今すぐにっと思っていると、大輔がやってきた。
「おはよう……」
と言いかけ、前田を見て、少し驚いた顔をする。
「あ、おはようございます、久世さん。
昨日は失礼致しました」
「ああ……残念でしたね、社長は」
素っ気無い言葉だが、大輔にしてはよく言ったと思う。
あんまりこういう客との会話は得意でない。
「大輔、前田さんにみたらし団子頂いたの。
食べようっ」
大輔はあまり甘いものは好きではないが、和菓子は別だった。
「こちらにお住まいではないんですよね?」
美弥は席を立って、大輔の分のお茶を淹れる。
大輔は前田の前に座り、そう訊いていた。
「ええ。
私は本社の人間なので。
だからもう、帰らなきゃいけないんですけどね」
事後処理もあるので、明日までは居るということだった。
「その後、警察から何か」
「それが色々訊かれたんですけど、私も社長とそう親しくさせていただいてた訳でもないですし。
ああ、そうだ。
社長が殺されたのは、前日の深夜なんだそうです」
「雨が随分降ってましたね」
「ええ。
雨宿りでもしてたんでしょうか」
「雨宿り?」
「あそこ、橋桁の近くだったでしょう?
下で雨宿りをしていて、ちょうど出ようとしたときに刺されたんじゃないかって」
「社長はなんであそこに?」
「わかりませんけど。
ただ、あそこ、勝手に河川敷ゴルフをやる人が居るみたいで」
ああ今、問題になってるやつ、と美弥は思う。
昔はよく子どもたちがサッカーしてたもんだけど。
最近見ないと思ったら、大人に追い出されてたのか。
「社長はゴルフ好きなんですよ。
それであそこに置いてあった古いゴルフ道具とか球を見てたんじゃないかって」
ふーん、と大輔は何ごとか考えている。
「失血死だと聞きましたが」
「ええ。
刺されて雨の中、放置されてたのがまずかったみたいで」
大輔は一瞬、顔をしかめた。
「ほんとにいろいろありがとうございました」
大輔と二人、廊下まで送って出ると、前田は深々と頭を下げる。
いやいや、何もしてないどころか、老舗のみたらしまで頂いて。
ほんとこちらこそ、申し訳ないのだが。
何度か振り返って頭を下げる前田に、美弥もその都度、頭を下げる。
彼の姿が消えたあとで、溜息を漏らした。
「丁寧な人だねえ~。
営業の人ってみんなあんなだっけ?」
「もともとの性格だろ。
叶一は?」
「あ、忘れてた。
そうだわ、叶一さんなにやってんのかしら。
とっくの昔に家は出たのにっ」
「また警察にでも行ってんじゃないか?」
素っ気無く大輔は言い、先に中に入ってしまう。
そうかも。
まったく懲りない人なんだから、と思いながらも、大輔の消えた扉を見つめる。
なんか怒ってるような、気のせいかなあ。
もっとも、倫子などに言わせると、『久世はいつも怒っている』らしいのだが……。
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