太陽と月

栗原ササメ

ことの始まり

一九五一年 三月二十六日 月曜日 午前七時三八分




「う、うわあーーーっ‼︎」

「た…大変だ‼︎」

「早く、医者、医者を呼べーっ‼︎」

「ダメだ‼︎ガキが居るなら、其奴は目を塞いでおけ‼︎絶対に見るんじゃねえっ‼︎」



人が動き出した東京・飯田橋。


雲間からようやく覗いた太陽。生ぬるい風。いやな湿気が、街全体をだらりと覆っている。


古い低層の木造建築が立ち並ぶ住宅街の、春風に砂塵舞う街路の真ん中。そこには何かを取り囲むように、大きな人だかりができている。

閑静なこの街には似つかわしくない騒々しさ。その光景の珍しさに、ひとり、またひとりと、人だかりに野次馬が吸い寄せられてくる。



「…あれ。おっかあ、人が大勢集まってるよ?」

母に手を引かれた子供が、目をきらきらさせながらその群衆を指さした。

「なにかな。あれ、かみしばい屋さんとかだったらいいなあ。あ、もしかしたらあめ屋さんかもしれないし…」

「あらほんと…どうしたのかしらねぇ」


砂埃の中、そう言って母親は人だかりに近づいていく。今日は特別、風の強い日だった。


––こんな朝早くから動いてる紙芝居屋なんて、見た事がないけどねぇ。

子の独り言を思い出してひとり笑いながら、母親は、その中を背伸びして覗き込んだ。


ざわつく人だかりの中、大きな男たちが中央を取り囲んでいる。いまいち、何が起きているのか把握できなくて、母親は空いている左手で誰かの肩を掴んで、もう一度うんとその背筋を伸ばした。

目を凝らす。最前線、触れ合う男たちの肩。その隙間から、どす黒い地面が見えた。


––その瞬間母親は、自分の行動を強く後悔した。自分の顔から血の気が引き、身体が固まって行くのが、これ以上ないほど感じられる。


隣の娘のことなどすっかり忘れて、母親は目の前の光景に、ただ、ただ目を見張った。


「…今日はこっちの通りから帰りましょうか」

「えー、なんで?こっち、遠いん…」

「いいから‼︎」

大声を出した自分に、我が子はびくりとその肩を震わせた。

娘はきっと、人が変わったように声色を変えた自分に、ひどく狼狽したことだろう。しかし––

人だかりの中央、野次馬の視線の先。


そこには、或る男の死体が一つ、転がっていた。


どす黒く滲んだそれは、そこら中に飛び散った血液だった。首と足はあり得ない方向へと無理矢理ひん曲がっている。道の上の砂に、鈍い赤彩がじわりと滲んでいた。


「自害だ…」

「け、警察寮だろう…まさか、そんな…」

「と…とにかく仏さんを隠せ‼︎救急が来るまでの間…」



「お…おっかあ…?」

娘はか細く、不安そうな声で、自分の名前を呼んだ。

「か、かみしばいは…?」

それを聞いた母親は、娘の目線と同じ高さまですっくとその身を屈ませた。


––顔を覗き込み、できるだけ静かに、それでいて強く、強く言い聞かせる。

「…いいかい。絶対、左側を見てはいけないよ」

何が起きているのか全くわからない––目を丸くした娘の顔は、そう自分に訴えかけている。

––分からなくて良い。絶対に、知るべきじゃない。

母はぐいと強く、その袖を引っ張った。娘の小さな手指も、それに呼応するようにしっかりと自分の指を掴む。そしてできるだけ早足で、駆け込むように木造の掘立て小屋が立ち並ぶ、狭い路地へと入っていった。



一九五一年 三月二十六日 午前八時〇八分


大きな黒革のハンドルを、右いっぱいに切る。車体は唸りを上げて大通りを横断し、礫を蹴散らしながら狭い路地へと侵入していった。


大きく揺れる車体の中で、後ろに猛烈な速さで流れる景色を見ながら、警視庁刑事・細田は、ちらと助手席の方を伺った。二人を隔てるように、足元から伸びる適当に置いた警棒。ダッシュボードに貼り付けてある付箋には、何やら走り書きがある。それらを目の前にして、依然、細田の上司、新村刑事はその鋭いまなこで、進行方向をじっと見据えていた。


(…本当に、表情の変化が読み取れない人だ)


そう思っていると突然ごりごり、と、なにか鈍いが車内に響き渡った。


––やってしまったか、細田はそう思って瞬時にサイドミラーを見たが、車両と家の間には十分な余裕がある。

恐らく、タイヤが小石を踏みつける音だ。細田はおおよそそう検討をつけてほっと一息して、また一段と運転の気を引き締めた。


車両二台、通れるか通れないかといった狭い路地を、慎重に走行する。


––通学中の子供がひょいと物陰から飛び出してきたりでもしたら、たまったものでは無いからな。


細田はそう頭で独り言を唱えて、入念に左右を確認する。


狭く寂れた路地だが、周りには案外、各々の行き先へと向かう人達が多くいた。三月も下旬になったが、大抵の人がコートを羽織るなどして厚着をしている。そして全員が、傍を通過するパトロールカーを物珍しそうに覗き込んだ。

それもそうだ、と、細田はあえて彼らの目を気にしないようにしながら思った。このパトロールカーは、犯罪増加の一途を辿る東京の治安維持、そして警察の機動力強化のために、GHQによって二年前に初めて警視庁に配備された。そのため民間人は滅多にお目にかかれない珍しい車両ということになるが、今日、こんな朝っぱらからこいつを出動させているのには、訳がある。



その内、大きな人だかりが段々と道の向こうにはっきりと見えてきた。細田は、走るたびガタガタと大きく揺れる車を減速させ、路肩に車体を寄せると、ぐいと思い切りブレーキレバーを引いた。


「ご苦労」

車が完全に停止したのを確認すると、新村は簡単に細田を労った。ガコン、と重そうな助手席のドアを開け、身体を小さく折り畳んで、器用にパトロールカーの外に出る。


「お疲れ様です!」

先に駆けつけていた地域の交番の駐在が、車から出てくる二人に敬礼をした。鍵を抜いて車外に出てみると、やはり少しだけ肌寒い。コートのボタンを閉め、身を縮めながら彼に敬礼を返して、細田は先に歩いていってしまった新村さんの背中を急ぎ足で追いかけた。


大きな人だかりの中に敬礼をして入り込む。先に着いていた新村さんは、すでに駐在と何やら話し込んでいたらしく、彼は自分に気付くと、目線で自己紹介をするよう促した。

「…警視庁の細田です。お勤めご苦労様です」

「…お疲れ様です。それでは、どうぞ、こちらに」

お互い軽い会釈を交わし合うと、その青帽の駐在は、カチャカチャと身体に引っ付いた装備品を揺らしながら人を押し除け、何やら人だかりの中央へと歩いて行った。示されるがままに、二人もその後を付いていく。


周囲は数十人の警察関係者でごった返していた。

それから、その人混みの向こうに、近所の住民と思わしき人間が見物に来ている。背伸びをしてこちらを覗き込む彼らにとっては一種、祭りのような物珍しさもあるのかもしれない。閑静な住宅街に突然、何十もの男たちが物々しい捜査を繰り広げ始めたとなると、いやでも関心が惹かれるだろう。


「飛び降りたのは…この独身寮に住む脇田耕一。東京出身で齢は二十九、警視庁は刑事部に所属、階級は巡査です」


駐在が胸から手帳を取り出し何やら読み上げ始めると、乱立する人間の足の隙間から何やら白っぽい者が見えて、細田は眉を顰めた。


「これは…」

「ああ、仏さんの方が、この風呂敷の中に」

人混みを抜けると、土が露出した未舗装の道路に、大きな白風呂敷が被せられているのが、はっきりと見えた。公園の砂場ほどの大きさの白い布が一面茶色の土に置いてあるさまはどこか非日常的で、細田は思わず眼前の光景に目を見張った。仏様が中にいると言うが、たしかによく見てみると、風呂敷の中央が不自然に盛り上がっている。

「…失礼」

細田はそのまま屈みこんで、誰が被せたかもわからない白い風呂敷を、少しだけ捲ってみた。

「うっ!」

風呂敷を少し捲った瞬間、何か黒い物体が一斉に、自分たちの方に飛び出してきた。ブン、と低い音を出しながら飛んできたそれに不意を突かれて、細田は思わず尻餅をついた。

「畜生!」


正体は、腐肉の匂いを嗅ぎつけた蝿だった。気持ちの悪い羽音を低く鈍く響かせながら、蝿たちは何処へ行くでもなく、ただ空中に群れをなして飛び続けている。


「…心の準備もせずに事を起こすと、そうなるのだ」

道路に転がった細田に、ニヤニヤと呆れ口調で新村さんは言った。意地悪な顔で笑うその顔を仰ぎながら、細田は小さく呟いた。

「…すみません」

立ち上がろうと地面に手を付いた。地面に目をやると、どこからともなく湧いてきた蛆が、ぼそぼそと地面を這っているのが見えた。

「…こちら、捲っても?」

自分が立ち上がったのを見て、新村さんが聞いた。恐らくそれは駐在と、自分に向けた最終確認だろう。改めてそう確認されると、やはり少し緊張する。はい、と、小さく細田は相槌を打って、覚悟を決めた。


「失礼する」

そういうと新村さんは白風呂敷に手を掛け、子供の布団を治すように優しく、ゆっくりとそれを持ち上げ始めた。

段々と捲れ上がる風呂敷から、まずはどす黒い塊があらわになってきた。


今見えているそれは、球形だ。形と位置から考えられるように、恐らく脇田の頭部だろう。ただしそれは、黒い粘ついたタールのような物に覆われていて、判別が難しかった。匂いはそこまででは無いが、遺体の損傷が激しい。


この死体––いや、彼は、三階建ての警察独身寮の高所から顔面真っ向を向きながら落ちたのだろう––その頭部は見るも無惨に砕け散っていた。左目は完全に潰れ、頬が裂けて舌がだらんと垂れ下がっている。そのため、容姿を判別することは非常に難しかった。

ぶうん、ぶうんと飛び回る蝿の羽音の中に、いつの間にか隣でそれを覗き込んでいた周囲の警察連中が、低い声で嘔吐くのが聞こえてきた。その中で、細田はまるで取り憑かれたかのように、じっと彼の顔を覗き込んだ。

––パックリと割れた顔の亀裂から覗く斑の赤が瞬刻、まるで一輪の赤い花のように見えたからだった。四方八方、滅茶苦茶に割れた顔の裂け目に、びっしりと蝿とウジが蠢いている。細かく動き続ける一つ一つの粒は血管の鼓動のようで––まさに、一株の花の元に群がっているような…

「う…」

細田は途端に背中から蛆虫が這い上がるような気持ち悪さを覚え、急いで後ろを向いて、その顔を隠した。

「…なんて、親不孝な最期なんだ」

新村さんが風呂敷を抱えたまま、ぶつぶつと独り言を言った。

確かに久しぶりに、こんなに酷い遺体を見た。今回のは今まで見てきた中でも、一、二番を争う死に様だった。

警察寮は三階建て。平家の建物が多いここらの土地の中では、一際目立つ建造物だ。あの三階の部分からストンと顔から落ちれば、こんな姿になるのは無理もない…

そう考えながら、細田は上を向いて深呼吸をした。まるで上空の新鮮な空気を吸うように、肺に空気を溜め込む。空には東から昇ってきた太陽がカンカンと照っていて、細田は思わず目を細めた。



「先輩方!」

遠くから自分たちを呼ぶ声が聞こえて、細田は振り返った。


自らを呼ぶ声の方を見ると、そこに立っていたのはこの春刑事課に配属された新入り警官、小池だった。

警察寮の入り口に立つ彼は、困惑したようにも見える神妙な顔つきで、入り口の引き戸を足で無造作に固定している。自分たちよりも先に現場に着いていた小池は、どうやら別の警官と共に聞き込みや現場周辺の警備を行なっていたようだった。


「何か見つけたか?」

自分の問いかけに、小池は背筋を伸ばして応答した。

「は、証拠の確認がひと段落致しましたので、報告しに参りました」

「了解した」

その報せを受けて、細田は新村さんの方を向いた。


どうしましょう、と彼に目線で訴えると、彼はチラっと遺体の方を振り返り、そのまま続けた。

「…俺はここで現場をもう少し調べる。お前は、小池と先に上を調べてこい」




小池に連れられて、寮の階段を上がる。

「脇田の住んでいた部屋は、三階に」

つい最近改築されたとは聞いていたが、もう既に壁などにはシミがつき、階段の隅には埃が溜まっている。いやいかにもここは、立派な男子寮だ。

キョロキョロとあたりを伺いながら階段を昇っていると、先を行く小池が階段から道を外れた。

そのまま、朝の薄暗い廊下を歩く。壁に何個も連続するドアからは、一切の生活音が聞き取れなかった。同業者の彼らの事だから、仕事で留守にしているか、非常事態の邪魔にならぬよう、密かに家に潜伏しているかのどちらかだろう。

廊下にはかつ、かつ、と二人分、革靴が床を叩く音が響いている。


「…こちらの部屋です」

その中で一つ、ドアが完全に開け放されている部屋の前で小池は立ち止まった。薄青いドアが廊下の方に、ぱっくりと口を開けている。


「…入るぞ」


恐る恐る足を踏み入れた彼の部屋は––

これは予想に反して、存外整然としていた。狭く古い部屋だったが、高い本棚が部屋をぐるりと取り囲み、綺麗に並べられた本はどれもこれも難しそうなものばかりだった。


警察の独身連中といえば、どいつもこいつも部屋はさんざんとっ散らかって、なんともいえない「男臭さ」が部屋に漂っているものだが、この男の部屋は床の隅まで清潔に保たれており、さらには見たことのない観葉植物まで飾ってある始末だった。


まるで最新家具の見本市のようだ、と前田は無駄に感心し、同時に一抹の気持ち悪さを覚えた。埃一つない机を指でなぞりながら、この男のもつ繊細さや謹直さというものを、前田は微かながら感じ取ったのだった。


––若い刑事、お前はどうして、自死と言う道を選んだ。


そう考えていると、階下から群衆の喧騒が聞こえてきた。部屋に一つだけある大窓はしっかりと開け放されていて、三月の風が名残惜しそうにこの部屋に吹き込んでくる。細田は揺れた観葉植物を、ちょいと人差し指でこづいてみせた。


「細田さん、こちらです」

小池の言葉で、細田は我に帰った。

「おう、どうした」

「…見てください」


小池は、窓のすぐ下に取り付けられている文机を指差した。年季の入った机の上には、卓上灯、万年筆、そして、一本の汚れた注射器が乱雑に置いてあった。


「この他にも、数点の注射器が現場から押収されています。恐らく脇田は、大量にヒロポンを摂取して、ここから飛び降り自殺を図ったと…」


一九五一年、春。巻き上がった砂塵の向こうがわに、昼間の月が透けていた。

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太陽と月 栗原ササメ @pleasedontsay_anythingmore

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