S

@kokekokukuki

第1話

おかもとちはる

岡本千春


原稿文字数

三百十二枚



 
















タイトル 起水線をやや犯すのあらすじ

      岡本千春

四百字詰め原稿用紙換算枚数 三百十二枚



 都内の大学に通う浜名美麗十九歳は偶然参加した合コンで橘 樹稀也と出会い恋に落ちる。けれどこの恋は樹稀也の幼なじみで美麗に恋心を抱いている金子トオルから妨害を受ける。それは樹稀也が本当は女だからだった。たとえ樹稀也が女でも愛を貫き通そうとする美麗と樹稀也、がその周囲では二人の思いとは別の所で様々な出来事が動き始めていた。

美麗の父浜名泰造が社長を努めるUOJグループと東京三西フィナンシャルグループとは統合をし、世界一のメガバンクを誕生させようとしていた。その矢先、東京地裁に統合差し止めの判断が下る。これによりUOJと東京三西との統合は容易に進まなくなってしまう。そこへ光井国友から突然の統合話が提示される。光井国友グループの社長金子聡一郎は金子トオルの父でもある。UOJは当期赤字6500億円を抱え、不良債権処理も容易には進まない。さらには金融庁の検査忌避も発覚しており、金融界に生き残るには今すぐの統合が必要になっていた。そこへもってきて浜名が突然他界する。急遽美麗の母芙蓉と愛人関係にある故浜名の秘書高岡が社長の座につく。光井国友も父の後を継ぎ社長となった金子トオルがUOJに統合提示し、さらには美麗との縁組をも申し入れる。会社の建て直しの一時的な結婚との約束で美麗は金子との結婚を了承するが美麗は金子と夫婦の契りを結ぼうとしない。樹稀也は美麗に別れを告げ、自分の卵子を担保に母の栄子からお金を借りると性転換手術を受け、完全なる男に生まれ変わる。

その一方で、統合後の策略から高岡は社長の座を追われ自殺する。高岡の葬式を口実に

家を出た美麗は樹稀也と再会し駆け落ちをする。そして樹稀也の卵子と精子バンクから買った精子で妊娠する。そんな二人を金子の命を受けた刺客達が追いかける。樹稀也と美麗は船に乗り込み逃走を図るがその船は転覆してしまう。

それから半年を過ぎ、金子は経団連副会長となりその妻としての美麗、そのお腹には樹稀也の子供が。あの転覆した船で美麗だけが奇跡的に一命を取りとめたが樹稀也は行方不明のままだった。樹稀也はきっと生きている。熱い信念のもと美麗は再び金子の元へと戻り金子の子として樹稀也の子供を生む決心をする。いつか樹稀也と再会できる日を信じ。



初めて「彼」に出会ったのは、気の進まぬままに参加した合コンだった。


「合コンねぇ」

 誘われた相手が由美でなければ、と思いながら眉根に皺を寄せた浜名美麗に、

「暇なんでしょう、だったら」

 一度も合コンに行ったことがないわけではなかった。

女子大生ともなれば誘われて何度か行ことはあるけれど。そのどれもが男にとっては女漁りの、女に取ってはあわよくば将来セレブな暮らしの出来そうな先物買いの男を物色するようなものだった。その中からまともに恋をできるような男など、大海に落とした針一本を探し当てるほどの確率だといえた。普通の合コンでさえそうなのに、由美から誘われる合コンとなると……。

「気が乗らないからいいわ」

即座に断ろうとすると、

「お願いだから来てよ」

 強引なまでに誘ってくる。

 高瀬由美は他大学で作っているサークル、ダイナマイトフリーダムに幹事の一人として加わっていた。名目は大学生活を有意義にエンジョイさせるのが目的だと言うことらしいが、その実態と言えば、ただ遊びたいだけの、ただやりたいだけの大学生の集団といったもので、金銭トラブルからわいせつ行為などといった問題も多々引き起こしていた。

女子大生の間では誰言うとなく、

「ダイフリのイベントに参加すると絶対にやられる」

 そういう噂がまことしやかに囁かれていた。それだけに断固として断るつもりでいたが「私、人数集めないとどうなるか」

 妙に深刻な表情をし、その頬に一筋涙まで流しているである。

 合コンぐらいでそんな、何も泣くほどのことでもないじゃないの、それっていくら何でも演技過ぎない。内心そう思う美麗に、

「私、もし集めなかったら捨てられるかも」

 由美がダイフリに参加しているのは一重にリーダーの金子トオルの存在ゆえなのである。金子は早鞆大学の三年生、といってもその実質はかなり留年しているらしく歳は二十五ではあるが、学内では早鞆のロミオとあだ名され、テレビや雑誌でも度々紹介されるほどのイケメンだった。ダイフリに参加する女のほとんどは、

「金子君ならやられてもいい」

を覚悟で参加してくると言ってもいい。そんな道端に落ちたアイスに群がる蟻ほども寄り集まってくる女達の中から由美は見事、金子に「彼女」として選ばれたのだった。

 金子の彼女となるや、すぐにダイフリのナンバー2としてその地位を確保していたが、ここに来てその地位が危うくなっていた。

ダイフリにとってクラブでイベントを催し、その会費でサークルを運営していたのだが、最近では思うように参加者が集まらないばかりか、ダイフリメンバーによる婦女暴行事件が発覚するに至って、ダイフリはその存続自体危ぶまれていた。

また世間の風当たりも強かっただけにあまり表立って大規模なことはできない。

そこで考えついたのが、小規模な合コンでメンバーを増やしていくというやり方だった。

 ここでも由美はこの合コンを仕切っていた。合コン回数から人数までもノルマを課せられているようで、それもあって由美は必死の形相だった。

「女の子が集まらなくて困ってるのよ。美麗、助けると思ってお願い」

 由美には恩がある。一度ひつこく美麗につきまとうストーカーまがいの男を撃退してもらった。美麗は追い払った後の恨みが怖くて警察にも届けられずに我慢していたのだが、

「ちゃんと警察に届けなきゃ。あんたへたしたら殺されるわよ」

 由美と共に男を尾行してみると、男は地方から出て来た大学生で、このことが親元に知れると就職にも将来にも影響するからと、土下座して謝ってきた。そんな男に由美は、

「だったらこんなことやめなさいよ!」

 一喝すると、つきまとうのを止めれば警察にも届けないと約束し、男に二度としないの誓約書を書かせた。それから男の姿はぴたりと見えなくなった。

「美麗って男が押し倒したいと思うような、そそられる魅力があるのよ。だからそこのとこ、自分でも気をつけな」

 二重の大きな目には涙が蓄えられ、いつも潤んでいる。いわゆる桃眼と言われるこの潤んだ瞳で見つめられれば大抵の男達は制御不能になるだろう。

その目の回りにはマッチ棒なら軽く十本は乗せられそうな長く黒い睫が生え、ほんの少し上向き加減な鼻が愛くるしさを醸し出している。

百六十㎝に満たない身長で、細身の体のわりに胸元は意外に豊かでCカップは優にある。その胸がときにたわわに揺れると大抵の男なら思わず手を伸ばしてみたくなる。 当然合コンに参加すれば声をかけてくる男は一人や二人ではない。

 男だけでなく芸能プロダクションの誘いもひっきりなしにあるのだが、それらすべてはいつも断っている、というか断らされていた。とにかく父の浜名泰造のガードがきつく、

「大学卒業するまでは男とつきあうことはならん! 恋愛も禁止だ!」

 きつく言われていた。つきあおうと思えば浜名に隠れて付き合えないこともないが、浜名は美麗の一日の行動を把握するため、ときに秘書に尾行させたりもする。いつ尾行がつくかわからないとなれば、どうすることもできなかった。

それでも十九にもなれば、好きな男の一人や二人、いないわけはない。浜名の目をかいくぐりデートした男もいたにはいたが、いつもそれは二度か三度目のデートで終わりを告げていた。

「美麗も大学卒業までに一度ぐらいはきちんと男と付き合うべきよ」

 由美の言葉に半ば背中を押される感じで合コンに参加した。

 場所は大学生御用達ともいえる居酒屋チェーン店の二階の和室。

 畳敷きの六畳一間で一部屋ずつ区切られていた。大学の合コンだけでなく各種団体等の飲み会に利用されることも多く、各部屋は完全に仕切られてはいても両サイドの壁を通して、あるいは部屋を出入りするたびに開け閉めされる入り口の薄い障子の扉から漏れ聞こえてくる歓声や手拍子などで個々の座敷は多いに盛り上がっていた。

 畳に正座する女性メンバーは由美と美麗の他にもう三人。どの娘も大学では見かけない顔だが、由美の顔の広さから他大学からもかき集めて人数尻を合わせたのだろう。女性陣は5人ほど。それに比べて男性陣はたったの三人しか顔を揃えていなかった。これにはさすがの由美も、

「ちょっと三人はないんじゃないの」

 不満を露にした。そんな由美に一人の男が言った。

「いや後から金子も来るから」

 あいつちょっと遅れるって言ってたけどと話すと、途端に由美の相好が崩れた。由美にとって合コン本来の意味はどうでもよく、恋人の金子さえいればそれでいいというのだろう。これじゃ集まった人間は由美と金子のデートを盛り上げるための太鼓持ちでしかない。

 美麗はやはり来なければよかった、内心そう思いながらも一人ずつ自己紹介を始めた男達に目をやった。

「早鞆大学二回生、人呼んで早鞆のキムタクでーす」

 などと言うたびに両サイドに座った男二人がイエーイ! と奇声を上げて盛り上げる。美麗は喉ちんこ丸見えにせんばかりにして騒ぐ男達よりも彼らが背にして座る壁紙の方が気になっていた。

 壁紙は茶色地でそれに毛筆タッチでかな文字が縦書きに幾列も書かれていた。

かな文字は途切れることなく、まるでよくかきまぜた納豆の糸がいつまでも続くようなタッチで書き綴られていた。

かな文字は時々“ういのおくやまけふこえて”などと読める部分もあるかと思えば“にほんこいしやこいしやにほん”などと急に文面が変わったりもした。すべては何かの一節を引用しているようでも、その引用の仕方にはこれといった脈絡はなかった。けれどもかなりくせのある行書で書かれたかな文字を読み解くのはまるで古代エジプトの絵文字を読み解くのにも似て、面白かった。

 美麗はうなぎの階段落ちのごとくに続くかな文字を必死になって目で追っていた。おかげで由美が「美麗の番よ」と言われるまで合コンの参加メンバー達がどんな自己紹介をしたのかまるでわかっていなかった。 一応の自己紹介が終わり、それぞれに注文したチューハイやつまみが席に届けられた。話すにつけ飲むにつけ、

「こうやってテーブルを挟んでじゃ打ち解けないから交ざろうよ」

 男達の一人が提案したことで、それぞれが自分のグラスを持って席を移動することになった。といって所詮女五人に男三人である。

必然的に男一人に女二人ということになりそれはまるで一人の男に女二人がお相手をするという格好になっていた。美麗にはそれがひどく嫌悪を覚えるものに思えた。それは由美も同じだったようで、

「なんで私がこんな野郎共のために銀座のホステスよろしくお相手しなくちゃいけないのよ。冗談じゃないわ」

 そっと美麗に耳打ちするも由美は一応主催者という責任上、ことさらに自分だけが知っている芸能人の裏話などをし、その場を盛り上げていた。

それはそれで会員集めを任されているだけに由美のプロ根性というものなのだろうが、美麗には別に責任などがあるわけではない。

合コンに参加したこと自体にやはり後悔を覚えながら不機嫌なままでいた。しゃべりかけてくる男に対しても、素っ気ない態度でしか答えなかった。次第に男達の方も美麗に背中を向けるようになり、気がつけば美麗は一人でチューハイを飲んでいた。帰る時間ばかりを気にしながら。そんなときだった。

「悪い悪い遅れて」

 幾分前髪を揺らしながら金子がやって来た。その途端に座敷に座る女達の目はすべて座敷口に立つ金子に向けられた。噂に違わぬ美男ぶりで女達の目は全員ハートマークに変わっていた。

「もう遅いじゃない、待ってたのに」

 ちょっとすねるように言う由美。それはまるでそこにいる女共に、金子は私に所有権があるのよ、と誇示するかのようだった。

 当の金子は由美の思惑など気づくふうもなく、来るとき渋滞に巻き込まれてなどと言いながら頭をかいていた。

「いいから早く入ってよ」と促す由美に靴を脱ぎながらの金子は座敷に入るや、ここに座ってと目で合図する由美の側に行こうとして、思い出したように座敷の入り口から外に顔を出した。かなり体を座敷外に斜めに傾けながら右手でおいでおいでと大きく手を振った。

「おーいこっちこっち」

 声を張り上げた。

 カツカツとコンクリートの乾いた床を踏みしめる靴音が遠くから聞こえてくる。靴音は次第に大きくなって行った。

 美麗にはその靴音がなぜか自分の人生の、一生分の時間をすべて費やしてしまう運命の足音のように聞こえた。同時に座敷の出入り口にはめ込まれた障子に、少し折れ曲がり加減に影が写し出された。

折れた影は折れたまま移動して行き、座敷口付近でふっと一瞬消えた、と思った瞬間、その影はまるで真っ黒のテレビ画面にスイッチが入るようにして姿を現した。


「それって本名?」 

 真剣に聞く美麗に、

「本名って、本名でなかったら何になるんだい?」 

 笑って首を傾げた。美麗は、

「たとえば芸名とか」

「僕は別に芸能人じゃないよ」

 そう言って笑った。笑う口元から白い歯がこぼれ、その度に前歯の左端に一本だけある八重歯が顔を覗かせた。その笑顔見たさに「もう一度笑って」と言いたくなるほど、樹稀也の笑顔を見るたび、美麗の胸に宿る女心のベルはチリンと一つ音を立てて鳴った。

「どんな字を書くの?」

「樹木の樹に希望の希にのぎへんの付いた奴で、それに也だよ」

 そう言ってチューハイグラスに着いた水滴でひと差し指を濡らすと、その指でテーブルの上に自分の名前を書いていった。

長いひと差し指が木目模様のテーブルの上で蛍が飛ぶように動いて行く。透明な水文字は書いたその場から蛍の明かりと同じにすぐに消えて行った。   

 そのはかない文字を美麗は目を凝らして見つめた。

「樹稀也」

 口の中で何度となく繰り返しつぶやいて見る。心地よい響きが口元から喉へと吸い込まれて行く。響きはすぐさま微粒子に形を変え、血液の粘膜に入り込むと、全身の血液を通って美麗の体の隅々にまで行き渡っていった。

 由美と女同士で座っていた間に橘 樹稀也は座った、というか、

「ここだけ女同士でさびしく飲んでるんだから、こっちこっち」

 樹稀也は半ば強引に座らせられた。当の由美はというと樹稀也が座ったと見るや、

「後そっちでよろしくね」

 それだけを言うと、チューハイグラスを手に金子の座った側へとさっさと移動して行った。金子が座る周囲は由美だけでなく、女の子達すべての視線が金子に集まっていた。「金子の彼女」を自負するとはいえ、どこかにその地位に危うさをもっている由美としては、万が一にも金子の目が他所へなど行かないようにと必死なのだろう。

金子の横に本一冊分空いたスペースを見つけるや、スーパーの特売日にビニール袋に詰め放題に押し込むにんじんのようにして肩から半身を押し込めるとそのまま強引に座った。

 金子の周囲では金子を中心に話が回っていた。他の男の子達も金子を核にして盛り上がる。おかげで樹稀也と美麗は同じテーブルを囲んでいながらも、まるで距離を置いた南の島に流されているようだった。けれど美麗にはこの孤島が二人だけの場所のように思え、ひどく心地よかった。おかげで回りで話す言葉や奇声を上げはしゃぐ声も耳に入らなかったし、周囲の人間さえも目に入らなかった。

当然、由美や他の女の子達に囲まれながらも、ときおり美麗と樹稀也に投げかけられる金子の鋭い視線にさえも。

 一次会は予定の八時を過ぎたところで終わった。そのまま二次会はカラオケへ移行することになった。ひと塊になって移動しようとしたときだった。美麗は自分の体の軽い異変に気づいた。そして由美の袖を引くや「ちょっと先に行ってて」と言った。

「どうしたの?」 

 軽く首を傾げる由美の耳元に小さくささやくと、由美はすぐに「あぁ」という顔をした。

「じゃあカラオケジャンジャンに行ってるから後で来て」

 美麗を残し、そのまま前を行く金子達のもとへ合流して行った。

 一人だけ別行動を取る美麗を「彼女は?」と金子が聞いた。

「旗、上がっちゃったのよ」

「旗?」

 何だ? という顔をする金子に由美は、

「ちょっと、急な日の丸で」

 そう言うとその意味するところがわかったようで、

「やっぱ男は簡単でいいや」

 意味ありげな苦笑いを一つした。


 居酒屋を出たすぐ後だったこともあってトイレを借りられたことはラッキーだった。けれど美麗は激しい腹痛に襲われた。どちらというと重い方の美麗にとって一月のうちでも特に敏感な一週間は下腹部全部が鈍痛に覆われる。それはときに立ち上がれないほどの痛みを伴うこともあり高校時代はときとして学校を休んだこともある。 

さすがに一九となった今では次第に軽くなっては来ていたが。

 一日目だけは相変わらず重い。と言っていつまでも座り込んでいるわけにもいかない。美麗はどうにか立ち上がると居酒屋を出た。 もう由美達の後を追いかける気力はなかった。第一、カラオケに行って歌えるような体調でもない。美麗はゆっくりとした足取りで通りを行き過ぎると、携帯電話を手にダイヤルした。

「はい、藤井でございます」

 まるでニュースを読むアナウンサーのような感情を圧し殺した声が聞こえてきた。女にしては少し低めの耳慣れた声。美麗が送迎を依頼するとその無機質な声は居場所を聞いてきた。美麗は目にした住所掲示板をその通りに読むと、

「二十分ほどでお迎えにあがります」

 事務的に答えると電話は切れた。美麗は迎えに来る間、ここで待つことにした。道路脇の植え込みの縁に座り、ただなんとなく通り過ぎるカップルやグループの飲み会などを見ていた。とふいに、

「一人?」

 低めの声が耳元で聞こえた。びっくりして目を向けると、美麗に肩を並べるようにして植え込みの縁に男が座ってきた。男は三十半ばとおぼしき中年男だった。美麗が何も言わずに黙っていると、

「一人じゃつまらなくない? どっか遊びに行こうよ」

 美麗はそれにもどうとも答えなかった。というか答えられなかったのだ。見も知らぬ男にいきなり声をかけられても由美のように気軽に受け流せる臨機応変さがあればいいけど、美麗にはできなかった。ストーカーに追いかけられて以後、そのトラウマからこの手の男には妙に緊張するのだった。邪険な態度を取ると、また前のように付け狙われるのではないか、と言ってもちろん誘いには乗りたくはない。どうしようと思い迷っているうちに、体は金縛り状態になり「うっ」と言ったまま声が出なくなってしまった。

「僕がいいとこ知ってるから、行こうよ」

 ねっねっと男は念を押すと美麗が何も答えないのをいいことに「OK、OKだね」一人納得顔で美麗の腕を取るや強引に引っ張って行った。

 気がつけば美麗は商店街の外れへと連れて来られていた。辺りは休憩や泊まりの文字がネオンの明かりのもと瞬いていた。

「嫌!」

 どうにかして男の手をほどこうとするのだが、握り締める男の手は思いのほか強かった。そして嫌がる美麗を面白がるようにして、

「嫌よ嫌よも好きなうちってな。ここまで来ていまさら……そんな見え透いた芝居するなよ」

 さらに時間給に俺が上乗せしてやっからなとも言った。

「私、そんなんじゃありません!」

 どうにか声を張り上げ否定をしても男はにやりと笑いながら「みんなそう言って素人を装うんだ。そっちの方が高く売れるからな」

 こっちもその手はお見通しだけどお前なら素人娘ってことで騙されてやってもいいぜとも言うと、嬉しそうな顔で美麗をラブホテルの中へと連れ込もうとした。

 誰か助けてー! 声を張り上げたい美麗なのだが、恐怖と慄きのあまりどうにも声が出ない。このままではこの男にいいようにされてしまう。しかも相手が美麗を売春婦と勘違いしている以上はこの性行為は合意のもとに成立したものだと判断されてしまうかもしれない。

 そうなったら……。

 美麗はラブホテルの入り口近くに生えていた楠の木の枝にどうにか掴まると最後の抵抗を試みた。そんな美麗に男は苦笑いしながら、

「はいはいお譲さん、もうわかったからさ」

 そう言うと「花の変わりに楠木でも敷き詰めてやって見るっていうのもいいかもな」

 楠を枝ごと折った。そしてお前その手の趣味があるのかよと笑いながら折った楠で美麗の顔を撫でた。楠の枝のちくちくと痛痒い感じが頬をなぞって行く。それは男にとっても望むものだったらしく、よしこいつを使ってやってみるかと言ってにやりと笑った。

 もう逃げられないとあきらめかけたそのときだった。男のこめかみ付近に弾丸がヒットし。、同時に男は美麗の足元に転がっていた。

「何するんだ!」 

 起き上がると同時に、男は殴り返しに拳を振り上げた。その手を右手で器用にブロックすると、さらに男目がけて容赦なく拳を振り上げた。打ちのめされ、果ては股間に一撃を食らわされた男はその場に仰向けにひっくり返った。何が起きたのか、わけのわからないままあっけに取られる美麗の手が「さあ早く!」という言葉と共にいきなり引っ張られた。思うまもなく目の前のラブホテルが段々と遠ざかって行った。

 樹稀也の右の拳の先からは血が一筋の細い線を描くようにして滴り落ちていた。

「大丈夫?」

「別にこれぐらい平気さ」

 軽く言いながらも滴る血を払い落とすようにして拳を二、三度振った。

「ごめんなさい、私」

 あやまりながら美麗はハンドバックから白い花柄のハンカチを取り出すとそっと樹稀也の拳に巻いた。

 夢中で樹稀也に手を引っ張られ、連れて来られたのは駅前の広場だった。広場のベンチに二人で座った。美麗は白いハンカチにうっすらと滲んだ血をじっと見つめていた。まるでそれは今、生きている樹稀也の鼓動を見るようで、幼い日、レールに耳を当て近づいて来る列車の音を聞いたのにも似たドキドキ感を覚えた。

「ごめんなさい」

 もう一度謝る美麗に樹稀也は、

「君みたいなお嬢さんはあんまり一人でうろつかないほうがいいよ」

 それだけを言うともうベンチから立ち上がり行こうとした。

「どこへ行くの?」 

 首を傾げる美麗に、

「今から仕事だから」

 振り向きざま答えた。

 金子とは昔馴染みでもある樹稀也はたまたま出勤前に出くわした金子に合コンに誘われ、断れずに顔を出しただけらしかった。一次会が終わったところで出勤時間にもなったので、樹稀也はグループとは離れ、仕事場へ行こうとした。そのとき偶然にも無理やりラブホテルに連れ込まれようとする美麗を目にし、助けたというわけだった。

「あのお礼を……」

 と言いかけた、そのときだった。

「美麗様、お迎えにあがりました」

 低めの声が背後から聞こえてきた。振り向けば黒塗りの乗用車と共に見慣れた黒のスーツに身を包んだ藤井享子が立っていた。

 夜だろうと黒縁眼鏡の奥から見つめてくるこの人の細い目はいつも厳しげに光っている。

「お知らせいただいた場所より移動されていらしたので捜すのに大変苦労致しました」

 場所をお移りになる場合には前もってご連絡いただきませんと、眉毛一つ微動だにせずに言う。浜名泰造の秘書という名目だけでなく、美麗の生まれたときから今に至るまで、浜名家全般を仕切る世話係りとして浜名家に仕えている。四十五歳になる今日まで未だに独身なのは婚期を逃したゆえのことではなく、一生を浜名家に捧げると決めたが理由らしい。どうして真っ赤な他人がそこまで尽くすのかと美麗は訝しげに思っていたが、最近になってその理由がわかった。

 いまではそれは浜名家にとっての暗黙の了解になっていた。

 自分の一生を捧げただけに享子の浜名家に対する思い入れは殊の外強い。美麗にとっても親よりも怖い存在だといえる。同時にうざい存在でもあるけれど。

 その享子が美麗の傍らに立つ若い男に誰? という視線を投げかけてきた。

「あのこの方、橘 樹稀也さんて言うんだけど、危ないところを助けていただいたの」

 事の顛末を話し、樹稀也を紹介した。享子は少し納得のいかないような顔をしつつもどこか胡散臭い目で樹稀也に一瞥をくれた後、

「それはそれはお嬢様の大変なところを助けていただきありがとう存じます」

少し顎を引き加減にしながら会釈程度に軽く頭を下げた。

それに樹稀也もあわせるようにして軽く頭を下げた。その一連の

動作はひどくぎこちないものに見えた。

「あのお礼を」

 の言葉を再度美麗が出しかけると、享子の目は美麗に向けてそれを押し留めでもするように光った。そこをすばやく察知したのか、

「いやいいんだいいんだ、そんなこと」

「でも……」

「お礼って言うのなら今度飲みに来てくれたらそれでいいから」

 それだけを言うと後ろ手で手を振り、そのまま去って行った。

 背の高い、それでいて男にしては幾分肩幅の狭い背中が段々と遠ざかって行く。その後ろ姿を見つめていると、美麗は急にその背中に愛おしさを感じた。さらに追いかけて行きたいという衝動がまるで筍が頭を出すように胸を突き破って行った。追いかけて携帯の電話番号を聞いておかなくちゃ。何よりもう一度会いたい! なぜか会わなくてはいけないような衝動に駆られた。よし、追いかけよう! 一歩踏み出そうとする美麗に、

「お急ぎになりませんと、もうすぐ門限の十時でございます」

 低めの声がまたも美麗を押し留めた。

享子は車のドアを開けて、乗るように促してくる。こうまでされれば乗らざるを得ないだろう。多分に享子の策略ではあるが。否応なく車に乗り込む、同時に車は発進した。スムーズな加速で背後の公園がどんどんと遠ざかって行く。

 思わず振り向いてしまう。もういないはずの樹稀也を公園のどこかに捜している。そんな美麗の姿を享子の細い目がバックミラー越しにじっと見つめていた。


 待ち合わせたのは駅前の喫茶店。ビルの二階にあるガラス張りの喫茶店からは階下の交差点がよく見通せた。ちょっと早めに来ると、美麗は窓際に席を取り、階下を行き交う人の群れを見つめた。

 赤信号ではメールを打ったり、煙草を吸ったり、ビルの大画面に映し出される広告を見つめたりと、それぞれに所在なさげに信号待ちをしている群集も、青となると一斉にまるで騎馬戦でも始めるかのように四方八方から横断歩道を渡り始める。その群集の中に一つ分飛び抜けた頭が喫茶店目掛けてやって来る。幾分弾む足取りで、そのまま喫茶店の外にあるむき出しのらせん階段を上がって来るとドアベルが鳴り、同時にいらっしゃいませの声が店内に響き渡った。

美麗が入り口に目をやると「よっ!」と片手を上げ、金子は美麗の前に座った。

「いきなり呼び出されたからびっくりしたよ」

 金子はひどく上機嫌だった。思いもよらぬ美麗からの呼び出しに何かを期待したのか、注文を聞きに来たウエイトレスにアイスコーヒーと頼むのももどかしげな様子だった。さっそく昨日の合コンでの二次会の様子をしゃべり始めた。

「俺らはたいして歌うわけでも飲むわけでもないのにさ、由美と由美の友達連中、あいつら飲むは食うはおまけに歌いまくりで、もう一軒もう一軒で、何軒梯子したかな。おかげで男達四人はみんなつぶれちゃってんのにあの女達のおかげで朝までつきあわされて」

 金子はどこかうれしそうにしゃべりながらも美麗のいなかったことを残念がった。

「美麗も来たらよかったけど、君、お迎えの人がいつも待ってるってほんと?」

 由美から聞いたらしい情報を改めて美麗に聞いてきた。

「いつもではないけど。用事のあるときだけよ」

「でもそれってやっぱお嬢様なんだなぁ……」

 感心するような、半ばちょっとあきれるような顔をしながらも、

だったら今度は日を改めて会おうよ、いつが暇? とさっそく誘ってくる。美麗は金子の誘いに幾分困ったような顔をしながら、

「いや私もう合コンは……」

 そう言って断ろうとした。すると金子は、

「俺も本当言うと合コンってあんま好きじゃないから」

 煙草に火を点けながら東京ディズニーランドだったらいいだろう、

いつにする? またも誘ってくるのである。仮にも金子は由美の彼氏のはず。その一応「彼女」の友達でもある美麗を平然とデートに誘う金子に、美麗は不信感を抱いた。けれど所詮由美の彼氏である。

美麗にとってこの男の人間性など問題ではない。

「私達だけで決めても、やっぱり行くのなら由美やみんなの都合も聞いてからじゃないと」

 美麗がこう言うと金子は少しムッとした様子を見せながら、

「みんなの都合なんて……やっぱ東京ディズニーランドは合コンなんかで行くとこじゃないから。二人ぐらいの方が楽しめると思うよ」

 ねっいつが暇? また強引に誘ってくる。美麗が金子を呼び出したのはただ一重に聞きたい一つの事があっただけなのに。勘違いしてるふうの金子に美麗は、

「だったら金子さんは由美と行ったら? 私はちょっと」

 やんわり断ると金子は急に不機嫌になった。金子の腹のうちはいきなり呼び出しておいて、その気があったからだろ。ないなら思わせぶりなことするなよ、とでも言いたげだった。

 そんな金子に美麗は思い切って、

「携帯の番号、知りたいんだけど」

 自分の携帯を手に切り出した。すると金子の不機嫌さは見る見る和らぎ「いいよ」と笑顔になった。自分の携帯を取り出し、画面を見ながら「090の」と一つ一つの数字を押しピンで留めて行くようにして声を上げた。

「いやそうじゃなくて……あの……」

 幾分赤らめた頬で美麗は樹稀也の携帯の電話番号と住所を教えて欲しいのだと告げた。すると金子の右の眉毛がほんの少し跳ね上がった。その跳ね上がった眉毛のまま、

「何で?」と一言聞いた。

 そこで美麗は合コン後の顛末を話した。ラブホテルに連れ込まれそうになった美麗を助けた樹稀也にどうしても会ってちゃんと挨拶がしたいこと、そして気持ちばかりのお礼がしたいことも話した。

「だから知ってるんでしょ、ねっ教えて」

 懇願する美麗を金子はじっと見つめながら、

「あいつとは関わらない方がいい」

 至極冷ややかな口調で言った。どうしてと首を傾げる美麗に、

「どうしてって……あいつは」

 と言いながら唇の端をほんの少し上げてにやりと笑った。その笑いが嘲笑を含んだもののように感じたので、

「あの人、何かあるの?」 

 すると金子は何がって……と言いながら、今度は美麗を思惑ありげな目で見た。一体樹稀也に何があるというのだろう。訝しげな顔をする美麗に、

「もしかして美麗、あいつに惚れた?」

 半分笑いながら聞いてくる。美麗はそんなんじゃなくただお礼がしたいだけだと告げると、

「お礼ねぇ……」

 言いながらも、そのやぶ睨みな細い目で再度美麗を見た。そして樹稀也の住所を教えてくれた。そして携帯の番号は、

「あいつの携帯電話の番号は俺も知らないから」

 樹稀也の勤め先でもあるアダムスの電話番号だけを教えてくれた。

 美麗はそれを素早く携帯のメモリーに打ち込んだ。そんな美麗の様子を見ながら、

「僕を呼び出したのって樹稀也の連絡先を聞くだけのため?」

 問い質した。美麗がそうと答えると、急に「何だよ」という表情に変わった。

「冗談じゃねぇぜ。なんで俺があんな奴のために恋の太鼓持ちさせられなきゃいけないのかよ。あほらし」

 誰に言うでもなく吐き捨てるように言うと、

「俺もせっかく出てきたんだから、これから飯でも食いに行かない?」

 なおも誘ってくる。けれど美麗は、

「父にお礼は一分でも早く、お詫びは一秒でも早くって言われてるから。ごめんなさい」

 それだけを言うとすぐに喫茶店を後にした。その後ろ姿を見つめながら金子は、

「樹稀也か、あんな奴……お嬢様の恋の相手はこの俺だろ、俺」

 自身にぶつけるようにして言うと、すぐさま美麗の後を追いかけるようにして喫茶店を出た。


 アダムスは歌舞伎町からほんの少し外れた場所に立つ雑居ビルの三階にあった。四、五人が乗れば一杯になってしまうエレベーターはこんな夜九時を過ぎて乗るにはどうにも危ない。女の直感を感じ、美麗はあえて階段を使った。

 三階フロアーの階段を上がると、一番奥まった所にアダムスはあった。臙脂色したドアに金色のローマ字で書かれた文字。少しの気後れを感じてしまうが、それでも思い切ってドアをノックすると、いきなりドアが引かれ、入り口付近に立った黒服の男が「いらっしゃいませ」の言葉と共に額を膝に付けるようにして頭を下げた。すぐさま「お手荷物をどうぞ」と美麗のバックを両手で受け取るやクロークへと持って行った。

フロアーを直角に曲がるようにして歩く男のスマートな身のこなしに美麗は目を奪われた。すぐに男は「ご指名は?」と聞いてきた。

ご指名? と言われ訳のわからないままでいる美麗に男は「こちらを」と言って壁を指差した。ビロード張りの壁には一面に男達の写真が何枚も貼られていた。皆一応に片手を顎に置き、不自然な作り笑いをしている。そのどれもがカメラ目線で、カメラのレンズを通して見つめてくる女共をまるで視姦でもするかのように勢いのある目線だった。その中を目で追って行く、と一つだけ見覚えのある顔に出くわした。

「この人を」

 指差すと美麗は促されるままにテーブル席に着いた。


 女に媚を売り、女のご機嫌を取り、そしてその女達に寄生しながら生きている。美麗にとってホストとはそういうイメージの職業だった。だからこそお礼を言って心ばかりのお礼の品を渡したらすぐに帰るのよ、そう自分に言い聞かせていた。それなのに……。

「僕はやっぱりショパンが好きなんだ。あのやさしい調べが好きで」

「私もよ。幻想即興曲って弾いたことある?」

「あるよ、もちろん」

「私初めてコンクールに出たときに弾いた曲があれなの」

 樹稀也とはこれが二度目なのに趣味の話から好きな本、いままで旅した所やどんなことでも話せた。そして何より話しているとき、

遠い過去にもこうして何度も話をしたような錯覚に襲われた。

 まるで前世でも同じことをしていたような……。

「もう十時過ぎたよ」

 樹稀也は美麗を心配して帰るように促した。もっと一緒にいたい思いの美麗に「この前のようなことがあるといけないから早く帰った方がいい」そう言うとそのまま店の入り口まで美麗を送り出した。

「また今度来ていい?」 

 甘えるような顔で言う美麗に、

「君のようなお嬢さんが来る場所じゃない」

 二度と来ちゃだめだと念を押した。樹稀也にもう一度会いたい!

 どうしようもなく突き上げて来る思いに、

「だったら今度いつ会える?」 

 それにも樹稀也は「二度と会わない方がいい」と首を振った。

樹稀也とこれっきりだなんて……すがる美麗の瞳に樹稀也は、

「それが君のためだし……何より僕は」と言いかけたとき、

「樹稀也さん、ご指名です」の声が掛かった。

「はい今行きます」

 答えると「仕事あるから」の言葉を残し、店の奥へと消えて行った。さっそく「ジュッキー、待ってたのよ」と黄色い声が聞こえ、待ち侘びたように樹稀也の首に抱きつく女の姿があった。


 どうしてそんなことをする気持ちになったのか、自分でもわからなかった。気がつけば美麗はアダムスの従業員出入り口に一人立っていた。

 楽屋口で芸能人の出待ちをする熱烈なファンのように、樹稀也が出てくるのをじっと待つ。時間は午前四時を過ぎている。美麗の門限はとうに過ぎている。普通ならとてもこんな所にいられる時間ではないが、幸いなことに今日、父の浜名は香港に出張中で留守だし、さらに母の芙蓉も同窓会での一泊旅行で伊豆に出かけている。こんなチャンスはめったにない。いつも藤井享子の監視下のもとでは息が詰まるというものだ。ときとして気分転換もしなくちゃ。

 と言ってこれが気分転換になるというのも……。

 そんなことを思いながら、小一時間も待っただろうか。樹稀也が出てくる気配はいっこうにない。このままでは夜が明けてしまう。

 ホストの仕事は朝日と共に終わるほど長時間なものなのか。

 それでも美麗は帰ろうという気持ちにはならなかった。むしろ何時間でも待つ、待ちたい気持ちの方が強かった。そんなとき美麗の背後から声がした。

「待っても無駄だぜ」

 低めの声に驚き、振り向けばそこには金子が立っていた。

 そして「当分樹稀也は上がりにはならないから。待ってたってだめだよ。今日のところは帰った方がいいよ」

 いきなり美麗の手首を掴んだ。

「だいたいが君みたいなお嬢さんが来る場所じゃない」

 さあ帰ろうと美麗の手を引き、道路脇に路上駐車している金子の車らしいジャガーに連れて行こうとした。

「いいんです。何時になろうと私、待っていたいから」

 ごつい手を振り切ろうとすると、金子は力を込めて握り締めてきた。おかげで美麗の細い手首など金子の太い手で完全にロックされ、どうあがいても外れなかった。

「嫌よ、やめて」

 どんなに声を上げようと金子は耳も貸さずにそのまま引きずるようにして自分の車へ連れて行こうとする。そのときだった。

「おいちょっと待てよ」

 引き止めるように声がした。振り向けばそこに樹稀也がいた。

「樹稀也……」

 何十年振りかで初恋の人にでも巡り会えたとでも言える感動に美麗はうち震えた。でも男達二人はそうはいかなかった。

「何してるんだよ」

 樹稀也の鋭い視線が金子に投げかけられた。金子は美麗の手首を握り締めたままで、

「お前が仕事上がりになるまではまだだいぶん時間が掛かるだろうと思ってさ。こんなお嬢さんをこのままここに一人で置いておくわけにはいかないだろう。だから俺が送って行こうかと思ってさ」

 そんな金子に樹稀也は、

「余計なことするなよ。僕の仕事は今日はもう上がったよ。だから美麗は僕が送って行くよ」

 すると金子は唇の端に笑いを乗せながら、

「お前がか? 何、色男気取りでいるんだよ。ちゃんちゃらおかしいぜ。お前なんて所詮」

 言い終わらぬうちに鉄拳が飛んだ、と同時に金子はその場に将棋の駒のように転がっていた。そんな金子を見ながら、

「僕が美麗を送って行く。お前は今すぐ帰れ!」

 吐き捨てるように言った。金子は唇の端に血を滲ませながら立ち上がると、

「お前、自分がどういう立場にあるかわかってそんなことを言ってるのか」

 どこか笑いを込めた口ぶりだった。そしてなおも、

「お前は女をどうのこうの出来ないことぐらいわかっているだろ」

 厳しい口調で言う金子に樹稀也は、

「僕の立場なんてどうでもいい。ただ今日のところは僕が美麗を送って行く、ただそれだけだ」

 静かに言い返した。そんな樹稀也に金子は、

「どっちに送られたいか、それを決めるのは彼女だ」

 挑発するように言った。その挑発にあえて乗るように、

「あぁいいぜ。美麗に決めさせろ」

 金子はしっかりと捕まえていた美麗の手首から手を離した。

 美麗の手首は金子の指跡がくっきりと残り、またあまりに強く握り締められていたせいもあって血が止まり、白くなっていた。金子が手を離した瞬間から堰止めされていた川の水が大海に流れ落ちるように血が流れ、美麗の白い手首は見る見る赤みが増して行った。

 男達の方はというと、かなり真剣だった。金子と樹稀也の二人は瞬きもせず、美麗を見つめている。その思いつめた視線が美麗に一心に注ぎいれられると、遊びでは答えられないような迫力があった。

「どっちなんだ、言ってくれよ」

 迫ってくる金子。樹稀也は何も言わずにただ黙って美麗を見つめるだけ。その切れ長な目に、

「私は樹稀也に」

 はっきりと答えた。その瞬間、三人の間を手ですくえるほどの風が静かに美麗のスカートの裾を揺らし、吹き抜けて行った。

 勝利者となった樹稀也も、敗者になった金子にも決断した美麗にも、この結果にどうという感慨はなかった。金子はただ黙って自分の車へ戻ろうとした。その後ろ姿に何か言わなければと思うのだが、

美麗には言葉がなかった。逆に金子の方が振り向きざま、

「樹稀也、お前もう一度自分の姿を鏡でよく見てみろよ」

 冷たく言い放つとその場から車を急発進させて行った。


「何度も伊豆には来たけれど、こうして来るとまた格別なものがあるわねぇ」

 真夜中の月を見ながら、浜名芙蓉はつぶやいた。ほぼ満月に近い月が開け放ったベットルームのバルコニー越しに見えている。月明かりはバルコニーを丸く照らし、そのままベットルームへと入り、傍らで眠る男の背中をほの暗く写し出していた。

 月明かり越しに見る男の背中、鍛え抜かれた胸とはまた違った背中は肩甲骨が二つくっきりと盛り上がり、背中の中央付近で深い谷を作っている。その背中に指先を這わしてみる。ほどよくピンクに染まったマニュキュアの先がアイスリンクの上を転がるようにすべって行く。なめらかな肌にそっと唇を近づけると、小麦色に日焼けした背中はまるでイルカの背鰭のようだった。その中ほどに芙蓉はいたずら心からキスマークを着けた。

 このまま帰ったら、妻にはどう言い訳するのだろうか。ちょっと面白くもある。にやりと笑うと芙蓉はベットサイドの煙草を手に取り、火を点けようと辺りを見渡した。ライターはない。仕方なくベットから降りようとしたとき、目の前に閃光が焚かれた。

「あっ!」 

 軽い驚きの声を上げる芙蓉にライターを差し出す太い腕。そして、

「何をお探しですか、マダム」

 オレンジ色に燃えるライターの炎の中で一重の細い目が笑顔でライターをかざしている。芙蓉は煙草をかざしながら、

「てっきり眠っているかと思ったのに」

「芙蓉さんとせっかくの一夜を眠ってしまうなんて、そんなもったいないことしませんよ。起きてますよ」

 そう言うとベットに起き上がった。胸板が厚く引き締まった筋肉に腹筋の割れた上半身が芙蓉の目の前にある。背中とは赴きを変えたたくましさに思わず息を飲む。当然のことながら夫である浜名泰造とは比べものにならない。もうどこもかしこもたるみきった七十歳と三十歳の若さあふれる高岡純とを比べれば、それは至極当然のことではあるけれど。その縦に割れた腹筋の下には女を虜にする下半身がある。それが熱くときに激しく、芙蓉を魅了する。

 何よりそれが浜名とは違う。だからこそ高岡とこうなった、というわけではないけれど。芙蓉とてまだ三十六歳の女盛りである。

 浜名とただ添い寝するだけの毎日では、夜は長過ぎる。

 こうして何度高岡に抱かれたことだろう。けれど何度抱かれてもその度ごとにもう一度、と繰り返しせがんでしまう。芙蓉は自分の中にある淫乱な部分を高岡によって閃かれた、といってもいい。

完璧に作り上げた肉体を目にすると芙蓉の心は毎度この淫乱な女の部分が蠢き、何度でも両足を大きく左右に開いてしまうのだった。

「どうしたの?」

 幾分面長な顔がほの暗い月明かりの中で芙蓉の顔を覗き込むようにして近づいてきた。その顔に軽く煙草の煙を吹きかけた。

「いい月だな、と思って」

 芙蓉が煙草を手に指差す先を高岡も見た。ベットルーム越しに見える空から丸い月が浮かぶ。高岡も「ほう!」と感嘆の声を上げた。

「月かぁ……そう言えばしばらく月を見るなんてことなかったなぁ」

 都会ならば夜のネオンに隠れ、静かに浮かぶ月など高岡もじっくり見る暇などなかった。それが伊豆に来たおかげで思わず知らず見ることができた。

「社長のおかげですかね。いよいようちと東京三西との統合が正式に調印されるんですから」

「何事もワンマンで通してきた人が……」

 芙蓉は何とも言えない秋霜感を覚えた。浜名が他に追随するなどといったことは今までなら考えられないことだった。

それがなぜ? やはりあのことが……。

「今、うちの銀行はうまく行ってないのかしら」

「そんなことはないですよ。銀行再編でどこも不良債権を抱えて四苦八苦してますからね。生き残っていくためには手を握れるところとは握って行かなくちゃ。社長もそこら辺を考えたんだと思いますよ」

 これでUОJグループも資産130兆円を越える世界一のメガバンクになりますよ……幾分嘲笑まじりに話す高岡はその眼差しに闘志をたぎらせていた。煙草を吸うその仕草も今では肩書きは浜名の秘書、でもその実は社長夫人の年下の愛人、というだけの存在ではなくて、どこかに出来る男をイメージさせるものに変わっていた。

「これから半端じゃない忙しさになるから、その前のつかの間の休日ってことですかね」

 芙蓉の吐き出す煙が静かに上っていく。紫煙はベットルームに入ってくる月明かりに包み込まれると、天井近くでふっと消えた。

「社長は香港ですよね」

「私も同行するように言われたけど、何だか私、行く気がしなくて、残ったのよ」

「じゃあ社長は一人で行ったんですか?」

「まさか、享子さんが同行したわ」

「あぁ……彼女が同行してもいいんですか」

 愛人を亭主に同行させるなんて……誰もが驚くことかもしれないが、芙蓉にとっては気にも留めるほどのことでもなかった。

「いいわよ。昔はどうでも今はあの人は役立たずのただの爺さんなんですもの」

 かつての浜名は旧UОJ銀行の社長として気力も充分で、何千人という部下を携え精力的に仕事をこなしていた。体力も気力も充分なはずの浜名も老いには勝てなかった。ある日突然、男としての機能を完全に失ってしまったのだ。何も恐い物なしで生きてきた浜名にとってこれは人生最大のショックだったらしい。これは浜名に限らず男ならばすべてが同じ思いを抱くに違いない。

 病院にも通い、薬も試した。様々な器具も使った。強精剤を取り寄せて試してもみたが、どれも思うような効き目はなかった。何より焦れば焦るほど益々思うように行かない自身の体に苛立ちを覚え、それはときに三回りほども下の若い妻の芙蓉にも向けられた。 

「お前、俺がこうなったらさっそく男を作るんだろう」

 そしていつかこんな俺を捨ててそいつと手に手を取って駆け落ちするつもりだろう。嫉妬に狂った浜名は「いつか俺を捨てて、いつか俺を捨てて」を繰り返しながら芙蓉を殴り蹴り、ときには首を絞めるような暴挙にまで及んだ。そんなとき中に入りいつも助けてくれたのが秘書の高岡だったのだ。入行して八年目にして浜名直属の秘書を任命され、その最初の仕事が上司の女房への暴力を諌める仕事だったとは……。

 度重なる暴力を諌めているうちに芙蓉へのいたわりはいつしか愛に代わり、二人は深い関係になってしまった。そのことに浜名はうすうす気づいているようでもあり、あえて気づかない振りをしているのか本当のところはわからない。ただ芙蓉と高岡が関係を持ってからどういうわけか浜名の暴力は徐々に収まっていった。

 男としての機能は相変わらず思うにまかせないままだが、第一秘書として藤井享子が配属されてきたことが、浜名にとってはかなりの救いとなったのだろう。

 藤井享子、かつての浜名の愛人。それも浜名が最初の妻と別れる以前からの関係である。会社の誰もが離婚後は享子と再婚するものだとばかりに思っていた。享子自身も長年待ち望んだ妻の座をやっと手に入れられると信じていた。ところが浜名は政界のドンともあだ名される大河原作栄の娘でもあった芙蓉と再婚したのだった。 

当時、芙蓉はまだ高校二年生。十七歳と五十歳の年の差カップル。

世間は驚き、週刊誌の格好のネタとなり特に浜名はロリコン趣味だの果ては女子高生愛好家だのといった言われ方もした。誰も予想だにしなかったことだけに世間の驚きと好奇の目が向くのは仕方のないことではあるけれど。しかも芙蓉のお腹にはすでに美麗がいた、いわゆるできちゃった再婚でもあったことも話題に拍車をかけた。

 突然の芙蓉の出現で浜名と享子の愛人関係は終わった。関係は終わっても享子はそれ以後もずっと独身のままUОJ銀行の社員としての仕事に携わっていた。

 その昔の愛人をまた秘書に呼び寄せたのだ。このことは浜名には特別な意味を持っていた。豪放磊落なようでいて浜名はひどく繊細な人間だった。いつも軽い鬱気味で心臓にも持病があり、仕事に行き詰ると、悪い方へ悪い方へと持っていってしまう。最後には身動きのできない状態にまで自分を追い詰めてしまい、最悪の場合には自の手で命を絶つということもやりかねない。そこへ持ってきてのEDである。どうにも逃れられない袋小路に追い込まれた浜名にとって享子は何よりの「癒し」となったのである。

それからでも享子は仕事だけでなくメンタル面においても浜名を全般的にサポートするようになった。おそらく今度も。

「でも藤井さんはどういうつもりで社長とよりを戻したんですかね」

 ベットの中で抱き合ったところで、どうせ浜名は役立たずのただの爺だ。女ってのは腕の中で眠るだけでも満たされるものなのかな、と高岡は嘲笑もこめて言った。

 俗に性を越えたところから男と女の究極の愛が始まるというが。

 浜名と享子の関係ももしかしたら、もう愛だの恋だのというレベルのところから超越しているのかもしれない。もし仮に四十五の享子が今もまだ浜名との結婚を夢見ていたとしても、待っているのは近い将来訪れるであろう浜名の介護だけである。芙蓉はもしその時が来たら浜名とはおさらばするつもりにしている。浜名の老後の面倒を看るつもりなど真っ平ごめんだ。第一浜名には昔から現在に至るまで愛情のかけらもない。たまたま母の留守に訪れてきた浜名に半ば強引にレイプされる感じで関係をもったのだから。

 そのたった一度の関係で不幸にも美麗を妊娠してしまった。それで仕方なく好きでもない男と……浜名への憎悪は今も心の隅にある。

「芙蓉さん、夜明けにはまだ早いですよ。だから」

 高岡は芙蓉の口元から煙草を奪い取ると、ひと差し指で灰皿に煙草を押し付けた。その節くれだったひと差し指を見つめていると、芙蓉の体に熱いものがこみ上げてくる。そう、あのひと差し指が…。

下半身へと伸びて行き、いつも小指の先ほどに飛び出した突起を激しく上下に往復すると、そのたびに芙蓉は我を忘れてしまい、もっともっととせがんでしまうのだった。

「いいわよ、何度でも」

 月明かりは相変わらずベットルームに差し込んでいる。だが芙蓉の目にはもう月は消えていた。覆いかぶさってきた高岡の分厚い上半身に視界を奪われ、月はまるで見えなくなっていた。


「満月か」

 ウィスキーグラスを手に浜名はホテルのバルコニーのデッキに座り、丸く輝く月を見つめていた。最上階のスイートルームなら部屋だけでなく、景色ももちろん格別である。香港の百万ドルといわれる夜景もさることながら、そのダイヤモンドのようなきらめきの上に二十八金とも言える月が夜空に浮かんでいた。

「どうされたんです? そんなに月に感激するなんて」

 バカラのグラスを手に享子は浜名の隣に座った。

「こうやってゆっくり月を見ることなんてなかったなぁと思ってな。丸い月も、いいものだな」

 年を重ね、そろそろ人生の終焉が近づいて来た浜名ゆえか、最近いろんなものにひとしおの感慨を持つようになった。享子は傍らでもうすっかり白くなってしまった浜名の鬢、白髪交じりの髭、深く刻まれた眉間の皺を見つめる。その一つ一つが年月を物語っている。

 出会った頃の浜名は四十になるやならずの実業家。あふれ出すエネルギーでUОJグループの頂点に立ち精力的に仕事をこなし、そのエネルギーッシュさに享子は夢中になった。いつかは終わる不倫を承知の上で恋をしたのだけれど。結果的に終わることはなかった。

 浜名の一度目の結婚から二度目の再婚の今に至るまで、関係は終わることなくずっと続いている。

「でもこうして香港で社長と月が見られるなんて。何か夢のようですわ。でもどうしたんです? 急に」

 享子は不思議そうな顔で浜名を見つめた。傍らでゆっくりグラスをくゆらしている、その横顔はひどくおだやかで静かなものだった。

「今行っとかないと、もうこの先二度と行くことはないだろうから」

「そんなことはないですよ。これからだって行こうと思えばいくらでも行けるじゃないですか」

 努めて明るく言う享子を浜名はちらりと見た。その目は幾分濡れているようにも見えた。浜名の瞳がなぜ濡れているのか……そのことを浜名自身は口に出して言おうとは思わない。医者からは余命半年の宣告を受けている。それをそのまま鵜呑みにしようとも思わないが、確実に終わりが近づいていることは間違いない。だから急いだというわけでもないが。

 来るべき日に東京三西との経営統合に無事調印が済めば銀行マンとしての役目は終わる。二十歳でUОJの前身である旧三亜銀行に入行して以来銀行畑一筋に五十年、よくぞここまで来たと我ながら感心する。しかしこの金融界で長年生き抜いてきた、そのことが浜名の体に多大なる負担とストレスを与えたようだ。体中のあらゆる部分が悲鳴を上げ始め、寿命を縮めることに繋がってしまった。

だがもう後悔はない。この引き際がうまく行ったならばそれでいい。後はUOJからもそして人生からもすっぱり身を引くだけだ。 

その集大成を控えていまさら思い出作りでもあるまいに……。

 妻の芙蓉は早々に「私は行かない」の返事、伊豆で同窓会ということらしいが、その程度の嘘など宣告承知の上、おそらく今頃は高岡と抱き合っている頃だろう。娘の美麗にしても用事があるからと断られた。

結局、享子だけが快く香港同行を希望してくれたのだった。おかげで旅は楽しいものにはなったが……。

浜名は享子にももちろん芙蓉や美麗にも何も言わないつもりにしている。こういうことは自分のみぞ知る、で自分一人で苦しめばいいことだから、

「社長、どうかされたんですか? いつもと様子が違うから」

 首を傾げる享子に浜名は、

「別に。ただ人間は一寸先は闇。何があるかわからない。そのときにあぁしとけばよかったこうしとけばよかったと後悔しないように今からやるべきことや言うべきことは言っておこうと思ってな」

 私もそろそろ準備をしなくてはいけない歳になってきたからとそう言って浜名はグラスを飲み干した。あと何度こうやって月を眺められるだろう。月だけでなく、すべてのものに感動し、喜びを持てるだろうか。そのときふと浜名の心にある思いが蘇った。

「君に頼みが一つあるんだが」

 浜名の頼み、それは享子にとってはひどく唐突なものだった。

 けれど拒否する気にはならなかった。

 少し明かりを落とした部屋で享子は一枚ずつ服を脱いで行った。

 浜名は椅子に座りなおすと、杖を両の手で支えながら享子の一つ一つの仕草をじっと見つめていた。

「もう四十も半ばを過ぎたから、若い頃のような張りもなければみずみずしさもないんです。こんな私の裸で社長、いいんですか?」 

 両手で陰部を隠しながら恥ずかしげに立つ享子に浜名は言った。

「その両手も外してくれ」

 その言葉に躊躇しながらも、陰部を覆っていた手を外し、一糸まとわぬ裸体を浜名の前にさらけ出した。じっと見つめる浜名の目がゆっくりと首から下へと降りて行った。

「二十代、三十代、そして四十代と、女の体はそれぞれの年代ごとにその良さがある。二十代は弾けるような肌の張りで私は享子を夢中で抱いた。三十代の享子は包み込むような柔らかさを醸し出した肌に変わり、私は魅了された。そして四十代の今は」

「今は?」

「もう私の体の方がどうにもならなくなったときから享子は私にとって犯さざるべき存在のマリアになった。もう見つめるだけで心も体も充分に満たされる」

 このまましばらくずっと見させてくれ、そう言って浜名は杖をついた両手に顎を乗せると、享子の幾分下がり加減の乳房、薄く陰毛に覆われた下半身を慈しむようにじっと見つめ続けていた。


 目の前には二つほどの夏蜜柑がある。丸く形のいい夏蜜柑二つはたわわに育ち、はちきれんばかりに実っていた。

 形のいい夏蜜柑にはつんと上を向いた乳首がピンク色をして乗っている。今自分の目の前にある光景に思わず美麗は目を疑った。

「これってどういうこと?」

「見ての通りさ」

 これが僕の本当の姿だよ、そう言って樹稀也は惜しみなげに自身の裸体を美麗の前にさらけ出した。太い眉毛、切れながな眼差しに形のいい白い八重歯が覗く口元、そのさわやかな笑顔から下は筋肉の張ったたくましい上半身が存在しているものだとばかりに思っていたのに……。

 美麗は目の前に広げられる光景をすぐには理解することはできなかった。目の前にある夏蜜柑二つは間違いなく乳房だ。ということは……。

「これでわかっただろ。僕の正体が。さあ今すぐ帰れよ」

 気がつけば樹稀也のマンションを飛び出していた、泣きながら。

 ただわけもなく同じ言葉を繰り返しながら……。

「どうして……どうして……」

 あんな素敵な男が……。

「嘘! 嘘!」

 あれは何かの間違いよ。きっと彼の悪ふざけよ。

 でも……。

 信じようとしない美麗に樹稀也は美麗の手を取ると、白のトランクスの中へと導いて行った。そこに男としてあるべきはずの男根はなかった。逆にひと指し指の指先にほんの少し飛び出た突起に付き当たった。なおも指先をさぐって行くと深い茂みの奥で、ひと指し指の第二関節までもがふっと窪地に吸い込まれていった。

 その瞬間、樹稀也は一瞬恍惚の表情を見せた。その表情が何を意味するのかが理解できなかった。けれど次の瞬間、

「あっ!」 

 思わず美麗はひと指し指を引き抜き樹稀也のトランクスから手を出した。

 ひと指し指にほんのりとした湿り気がまとわり着いていた。樹稀也の下半身は……そう、美麗とまったく同じ。そこまで知らしめられたなら信じないわけにはいかない。だけど心のどこかで信じたくない、これは何か冗談であって欲しいという思いにも駆られていた。

 今、目の前に決定的な事実を突き付けられてもまだ美麗は樹稀也のことを信じられずにいた。

「どうして、あの人が……女なの」

 美麗は一人この言葉を繰り返しながら夜の道を夢中で走っていた。


 慌ただしく駆け回る社員達。次々と鳴る電話のベル。社員達はひっきりなしに鳴る電話の応対に追われていた。

 蜂の子をつついたような社内に比べ、社長室にいる浜名はただ腕組みをしたまま外の景色を見つめていた。見つめながら一言つぶやいた。

「なぜだ」

 高い山の頂上はもう目の前に来ていたはずなのに、なぜ? 唇を噛み締める浜名の耳に慌ただしく廊下を走って来る靴音が聞こえた。

「社長!」

 社長室のドアを蹴破るような勢いで高岡が入って来た。

「東京地検からの交渉差し止め請求が出ているのはやはり事実のようです」

 ここへ来てUOJグループと東京三西フィナンシャルグループとの経営統合に待ったがかかったのだ。

UOJグループ傘下にあるUOJ信託銀行と経営統合する予定であった国友信託は信託を含めたすべてをUOJグループが東京三西と経営統合するということに話が違う、契約違反だと東京地裁に訴えを起こしたのだった。

その請求が受理された。となれば東京三西フィナンシャルグループはUOJグループと経営統合することができなくなってしまう。

「どうにかできないのか」

「どうにかって。こうなれば信託部門を切り離して東京三西と統合という形でしかできないでしょう」

「それなら統合する意味がない。UOJグループすべてと統合するからこそ世界一の銀行になれるのだ。信託部門を切り離すのでは何の意味もないだろうが!」

 の言葉と共に浜名は激しく机を叩いた。その激しさは社長室の壁を大きく揺らした。おかげで壁にかかっていた岸田劉生の絵が止めビスから外れ、宙ぶらりんの状態になり、壁の中央で揺れた。

少女の横顔が描かれた絵はまるで今にも正面を向きそうな勢いで宙をさまよっていた。

「よしこうなったら奥の手を使うしかない。行くぞ」

 と言う浜名に、

「はい」

 いつもなら高岡はこう答えたはずだ。こんなときに「どちらへ?」

などと言おうものなら浜名の雷が落ちる。あのあれは、これはどうなったか、の浜名の代名詞だけの問いかけに、それが何を意味するかを瞬時に嗅ぎ分け対応できるようでなければ浜名の秘書は務まらない。それをわずか入行二年目からすべて身に着け、以来六年間、浜名の秘書を任されている。

 それだけに浜名の信頼は厚い。だからこそすべてをまかせきっているともいえる。仕事だけでなく私生活のすべて、妻までもを。

 だがさすがの高岡も今回の浜名の「行くぞ」にはどこへ行くのか皆目検討がつかなかった。殴り飛ばされるのを承知の上で、高岡は浜名に聞いた。

「社長、どちらへでしょうか?」

 その言葉が終わらぬうちに高岡の目の前に真っ白な光線が放たれ、気がつけば社長室の隅に転がっていた。

「馬鹿もん!」

 そう一言言うと浜名は大股で社長室を出ていた。高岡はその背中を見失わないように慌てて立ち上がろうとしたが、見事に顎にヒットした浜名の一発で、室内の景色は大波に船出した小船のように揺れていた。ふらつく足元で床を踏みしめながらも高岡は必死に浜名の背中を追った。


「ねぇアダムスに行ったの?」

 午後のゼミの講義を終え、いっせいにあふれ出す生徒達共々廊下を歩いているときだった。背後から由美に呼び止められた。

「えっえぇまあ」

「お目当ては樹稀也?」

「そんなんじゃないけど……」

「じゃあどうしてアダムスに行ったの?」

 今日の由美はひどく攻撃的だった。どこかに美麗を問い詰めるような口ぶりに、

「一度っきりよ、行ったのは。どうして?」

「いや……リナがさ」

 坂井リナは同じく経済学部の一年生。リナはいわゆる地方出身のお嬢様で長野駅を降りて見えるビルはすべて自分とこの持ち物だという資産家の娘でもある。そのリナが今夢中になっているのがホスト通いで、気に入りのホスト健斗を目当てに毎日アダムス通いをしているらしかった。そのリナが言うのにアダムスで美麗と樹稀也を見かけさらに、

「金子君もいたって言うんだけど」

 おそらくアダムスでの金子と樹稀也、そして美麗の一部始終をリナに見られていたのだろう。そのことで由美は金子と美麗との仲をも疑っている。

「たまたま偶然会っただけで、別に何も関係はないから」

 それだけを言うと逃げるようにして廊下を走って行った。

 美麗にもどうしてあの場に金子がいたのか? そっちの方が不思議に思うことだった。それからでもたびたび金子から美麗の携帯に連絡が入る。そのたびに誘いを断っていた。そんな美麗に金子は、

「俺と由美とは何でもない。彼と彼女の関係じゃないから」

 そこをやけに強調するのだが、金子にそのつもりはなくても由美は彼女のつもりでいる。そんな由美を裏切るようなことはできない。

第一、美麗は金子に何の感情も持ってはいない。今、美麗の心にあるのは樹稀也だけだ。もう一度樹稀也と会いたい、でも……。

「あいつは男じゃないんだ。わかってるだろ」

 それでも金子の誘いに応じたのは樹稀也のことをくわしく教えてくれると言ったから。喫茶店で向かい合わせに座った金子の口調はひどく説教じみていた。

「保育園からの付き合いで、樹稀也、いやあいつの本名は橘 洵子って言うんだ。洵子と俺は幼なじみなんだ。昔からあいつは男の子のようだったけど」

 金子は樹稀也との昔話を始めた。保育園、小学校の間は金子はいじめられるとすぐに泣いてしまう泣き虫で、そんな金子をいつも助けてくれたのが樹稀也だったと。

「僕の代わりにずいぶんいじめっ子をやっつけてもらったよ」

 頼りになる姉御肌の女の子だった。それでもまだ小学校の間はスカートも履き、女の子らしくあろうとする努力も見られたが、中学に入ってから変わった。女子生徒用の制服を着ようとせず、男子用の学生服で通学するようになった。そのことで随分と学校側からも指導を受け、スカートを履くようにと何度も注意をされたが、樹稀也は頑として応じず学生服で通学し通した。それは高校に入ってからも同じで、さすがに高校では中学のようには行かず、再三の注意にも関わらず学生服着用を通すので、結局風紀を乱すとの理由で退学処分になった。退学と同時に樹稀也はまったくの「男」として生きるようになったと話した。

「その当時は洵子の奴、頭おかしいんじゃないかと思ってたけど、今で言う性同一性障害ってのになるんだろうな」

 金子は昔話に浸りながらも自身の幼なじみがある日と突然「男」に変わってしまったことは驚きでもあり、どこかしらショックを伴ったものでもあったとも言った。

「それでもどうしてかあいつとはつかず離れずのつきあいがずっと続いている。俺の親父が銀行畑の仕事をしてた関係であいつのお袋の事業拡大にも関わってて」

 そこまで言った後急に口をつぐみ、煙草を吹かした。立ち上る紫煙が金子の頭上付近で一度軽く渦を巻いた後、静かに天井へと上り、消えた。

「あのときの合コンもあいつを呼ぶつもりなんかなかったけど」

 急に行けなくなったメンバーの代わりに偶然、駅でばったり会った樹稀也に声を掛けた。樹稀也も仕事場へ行くまでの時間潰しのつもりで合コンにつきあっただけのことで、

「だからあいつは女子大生になんか興味はないんだよ。あいつが興味があるのはとにかく金を持ってアダムスにやって来る女だけだ」

 そんな男、いや女の樹稀也を好きになったところでしょうがないだろうと金子は説得した。

 そんなことはわかっている。あのとき、樹稀也のトランクスに手を差し入れた瞬間、ひと指し指が窪地にすっぽりと収まった感触は今でも指先にはっきりと残っている。あの人は女……なのに心が彼を思っている、どうしても彼を追い求めてしまう。金子じゃなく他のどんな男もだめ。そんな美麗に金子は言った。

「君はきちんと男とつきあったことがないだろ」

 金子の問いかけに美麗は黙って下を向いた。

「だから本物の男の良さってものがわからずに宝塚の男役にあこがれる女子高生のように樹稀也に恋してるんだよ」

 本物の男ってものがどういうものかを君は知る必要がある。たとえば君が今、俺のことを好きでなくてもいい、本当に好きな人が現れるまでの繋ぎでもいいから、

「俺とつきあって」

 金子は唐突に言った。

「そしたら君は俺を通して本当の男ってものが勉強できるから」

 美麗をまっすぐに見つめて話す金子は、その瞳にこれが本気なのだという思いを滲ませていた。けれど美麗はどうしてもそんな気にはなれなかった。

「じゃ由美はどうなるの? 由美はあなたのことが好きよ。あなたの彼女のつもりでいるわ」

 由美には別に何の感情もないを繰り返す金子に美麗は、

「由美のこと、好きじゃなかったらつきあえないでしょう。それと同じに私も金子さんのこと、好きでもないのにつきあえないわ」

 たとえ男を知るためにという理由だけでも、とだけ言うと美麗は立ち上がった。急ぎ足で喫茶店の階段を降りて行った。その姿を喫茶店と道路をへだてて向かい側にあるマックの二階から由美がじっと見つめていたのを美麗は知らない。

「了解しました」

 ではどうぞお入りくださいの警備員の声と同時に黄色の遮断機が上がった。黒のリムジンが軽く東京ドームの三倍はあろうかという広大な敷地内をゆっくりと走って行く。よく手入れされた緑の芝生がところどころに敷き詰められた社有地を十分ほど走るとやがて二つ仲良く並んで建つ五十階建てのビルが見えてきた。

「やっと本丸のお出ましか」

 後部座席に座った浜名が一言つぶやいた。そんな浜名の一言に耳を貸しながら、助手席に座る高岡はたた黙って視界に入って来たツインタワーをじっと見つめていた。

 社長室の来客用ソファーに座る浜名の姿はまるで教官室に呼び出しをくらった生徒のようだった。両膝を合わせ、背筋を伸ばし鮫島に対する姿はUOJグループのドンといったイメージはどこにもなかった。いやむしろそのドンという立場をかなぐり捨て浜名はトーヨド自動車社長の鮫島の前にたたずんでいるのだった。

「お願いします。どうか我々の苦しい立場をぜひとも理解していただきたい」 

 懇願する浜名に、鮫島は大きく突き出た腹で、その身には低すぎるソファーに深く体を沈めていた。気に入りのパイプをくゆらしながら黙って浜名の話を聞いていた。八十は優に越え、今は一線から退き、息子に社長職を譲ったとはいえ、まだトーヨドグループだけでなく日本財界のドンとして絶大な力を持つ。何よりUOJグループの70%の株を保有する筆頭株主でもある。この大株主詣でをすることで東京三西グループとの統合を決め、あわよくば増資への協力、さらには資金調達への道を確保しておこうとの腹積もりが浜名にはあった。その一方で鮫島は備長炭二つ横に並べたような眉毛と、大きく見開いた目を閉じ、ただ黙っているだけだった。

「どうかお願いします」と浜名が土下座せんばかりに頭を下げると、

鮫島のぎょろ目が人形浄瑠璃よろしくかっと見開いた。

「刑事告発の可能性はどの程度掴めているんだ」

 こう言い放つ鮫島に浜名は言葉が詰まった。

 問題の発端は金融庁によるUOJグループへの検査だった。その中で段ボール箱100箱分もの資料が見つかったのだ。

「これは何だ!」 

 詰め寄る検査官に、

「融資先のシュミレーションをしただけのものです」

 反論するUOJ側に検査官達は融資先の財務内容ではないのかとの疑念を持った。双方の間に意見の対立が生まれて激しく対立した。

 組織的に隠蔽しようとした疑いもあるとして金融庁はUOJ側への検査忌避、さらには業務改善命令を発動した。さらには検査忌避を刑事告発する可能性もなきにしもあらずの状態になったのだった。

「英米当局も検査忌避を起こしたUOJを問題視すればUOJは交際社会からも追放される恐れがある。そうなればトーヨド自動車として増資への協力は拒みUOJは資本調達の道も閉ざされてしまう。

「金融庁には組織的隠蔽ではないということを切に訴えておりますので……」

「だが松中金融相はUOJへの不信感を募らせているのだろう、となれば刑事告発は免れないのではないのか。そうなったらUOJにとっても死刑宣告にも通じるだろう」

「松中金融相にはUOJと東京三西の経営をよくすることが日本経済を良くすることに繋がるとのお考えをお持ちのようですので」

 刑事告発は検討中との返事をいただいておりますと浜名はか細い声で言った。そこでUOJグループの信託部門だけを国友信託に三千億円で売却し、巨額不良債権処理をしようとしたのだが、国友信託が約束不履行で東京地裁に提訴した。このことで交渉差し止めの判決が出てしまい、UOJグループ単独で生き残るシナリオはもろくも崩れ去った。そこでUOJグループは東京三西に救済合併を申し入れたのに、ここでこうした形で待ったがかけられるとは。

「どうか東京三西さんとの統合に鮫島さんのお力を借りたいと」

「私にどうしろと」

「今交渉を中断されているUOJと東京三西との統合交渉を再開したいのです。そのためには国友信託に差し止め請求を取り下げていただければと思うのですが……」

 必死の形相を示す浜名に、鮫島は葉巻を醸し出す煙をじっくり味わった後、静かにこう言った。

「できるとはっきり断言はできん。私でやれるとこまでのことをやるとしか言えないが、たとえできてもできなくても口利き料はいささか高くつくぞ、それでもいいか?」

「もちろんでございます」

覚悟を持った男の言葉に、鮫島は顎に蓄えた口髭を左手で二、三度撫でると、浜名に目線を動かし、にやりと笑った。その瞬間、鮫島の口元からヤニでまっ茶色に変色した歯が数本まとまって見えた。


自分でもどうしてこんなことをしているのかわからなかった。

気がつけば美麗は樹稀也のマンションの前にたたずんでいた。

チャイムを押そうとドアベルに手を伸ばすのに、いざとなったら躊躇してしまう。もし追い返されたらどうしよう、ひょっとして恋人が出てくるかもしれない。そしたらどういいわけをしてその場を立ち去ろうか。思いを巡らし、どうとも出来ずにドアの前で立ち尽くしてしまう。やっぱり諦めて帰ろうとしたそのときだった。

美麗の目の前にあの憂いを含んだ瞳が飛び込んできた。きれいに重ねた二重の切れ長の眼差しは驚いた顔で美麗を見た後、言った。

「何か用事?」

 ほんの少し小首を傾げる樹稀也の右手にはスーパーの買い物袋が下げられていた。買い物袋からはセロリの青い葉先がはみ出、じゃがいも、玉ねぎ、さらにはまるで男の体型のように逆三角形をしたにんじんのオレンジ色がビニール越しに透けて見えた。意外という顔をしたままの樹稀也に、やっと会えたことだけで美麗の方は言葉もなく立ち尽くしていた。そんな美麗におかまいなく樹稀也の右手が美麗のもとへと伸びてきた。あっ! 一瞬抱きしめられると緊張が走った。樹稀也の右手は美麗のウエストを通り過ぎ、ドアへと伸びていた。長い指先で鍵穴にキーを差し込んだ、ただそれだけのことなのに妙に身構えてしまう。そんな自分に嘲笑を送った。美麗の思いになどおかまいなく樹稀也は、

「ちょうどよかった。食材買ってきたとこだったんだ」

 そう言いながらスーパーの袋を肩ほどまで上げて見せた。

「自炊するの?」と聞く美麗に樹稀也は少し照れくさそうにしながら、

「まあ一応ね。だけどあんまり得意じゃないから。美麗だったっけ? 名前。よかったら作ってくれないかな、カレー」


 樹稀也は顔に似合わずよく食べた。一口では頬張れないほどのカレーをスプーンに掬うと、それを勢いよくかき込んでいく。おかげでカレー一皿はまるでハリケーンに飲み込まれでもするようにあっけなくなくなった。美麗が一皿食べ終わる頃にはもう三皿目をお代わりしていた。

「やせの大食いね」

 と言う美麗に樹稀也はカレーだけはねと答えた。

「お母さんもきっとカレーが上手だったのね」

「あぁおふくろのカレーは絶品だった」

「じゃあ今も時々食べに帰ったりする?」

 何気に聞いただけなのに樹稀也の表情はひどく暗いものに変わった。何か悪いことを聞いてしまったのかしら……どうしようと思い迷う美麗に、そのことは聞かなかったとでも言いたげな表情で、

「美麗が作るカレーは誰が作るのより美味しいよ」

 初めて会ったときと同じ白い八重歯を覗かせ笑った。この笑顔に魅了される。それは美麗だけでなく他の誰かだって同じだろう。そう思うと樹稀也を他の誰かに渡したくない。私だけの樹稀也にしたいという思いが美麗の中に沸々と込み上げていた。

「また今度機会があったらカレー作りに来てよ」

 美麗の思いに気づくでもなく、大口開けてカレーを頬張りながら言う樹稀也に、

「あれだったらこのまま……」

 ずっとこここであなたのために毎日でもカレーを作ってあげてもいいけど……と答えると、カレーを食べる樹稀也の手が止まった。

「ありがとう。でもまだそれは……」

 戸惑いの表情を見せながらもまっすぐに見つめてくる視線と美麗は向き合った。そしてそのままその視線に吸い込まれていった。

 樹稀也との初キッスはカレーの味がした。


光井国友フィナンシャルグループ、UOJに統合表示か? の報が財界を駆け抜けたのは東京三西への交渉差し止めの仮処分が出て三日後のことだった。

「どういうことだ!」

 浜名が言葉を荒げた。

「不良債権処理で体力の低下したわが社は早期に他のグループとの統合が必要になっております。そこで国友は東京三西よりも早い今年度中にもうちとの統合を目指したのではないでしょうか」

 もしも光井国友とUOJとの統合が実現すれば、こちらも総資産180兆円を超える世界最大の金融グループが誕生することになる。

「現在中断したままうちと東京三西との交渉が信託の行方如何によってはどうなるかを考えれば東京三西の態度が変わる可能性は充分にあります」

 UOJは不良債権処理で体力が低下している。早期に他グループとの統合が必要になっているのは間違いない。そこに目をつけての光井国友の統合提示である。ここへ来て東京三西に手を引かれては困る。どうあってもここで無用な綱引きはやめにしたいのだ。

 トーヨドの鮫島に力添えを頼んではみたが、事態は急を要するところに来ている。もう財界人頼みでは拉致があかない。

 浜名はよし、と自分に小さく勢いをつけると、

「こうなれば奥の手を使おう」

 すぐに芙蓉に連絡を取るように言った。さっそく受話器を上げた高岡だが、芙蓉と連絡は取れなかった。

「自宅にもおられないようですし携帯も出ませんが」

「こんなときに一体どこに行っているんだ、まったく。高岡、早急に芙蓉に連絡を取れ!」

「いやですがわたくしも奥様の行き先は……」

「少なくとも私よりお前の方が芙蓉の行き先については心当たりはあるはずだ」

 それだけを言うと浜名はソファーに深く座ると、気に入りの葉巻を取り出し、口にくわえた。すぐさま火をかざそうとする高岡にいらん世話だとばかりにその手を払いのけ、自分で火を点けた。

 その場に立ち尽くす高岡に「ぼさっと立ってないで早く連絡を取れ!」一喝した。その言葉に高岡は軽く一礼すると、そそくさと社長室を出て行った。

「まったくどいつもこいつもいざどいう間際になると裏切りやがる」

 葉巻からは据えたなめし革のような煙が吐き出されている。その煙に包まれながら、浜名はうめくようにつぶやいた。


 芙蓉は行きつけのエステサロンのベットに横たわっていた。唯一ここだけが芙蓉が一人寝するベットだとも言えた。傍らに手を伸ばせばいつも芙蓉を抱きかかえる太い腕がある、それがあるだけで芙蓉は安らかな眠りに入れた。独り寝できない性質の芙蓉がここのベットだけは違った。エステティシャンの指が芙蓉の頬の上でビー玉を転がるようにリズミカルに動き出すと、芙蓉はいつも深い眠りに落ちてしまうのだった。今日もマッサージが始まった途端、瞼を閉じ、夢の世界へ誘われてしまった。そのときだった。

「困ります。施術中は出入り禁止なんです」

「急用なんだよ」

「急用でもちゃんと受付を通していただかないと」

「そんなことやってる暇があるか!」

「お客様! おやめ下さい」

 外部での騒動に目を覚ました芙蓉にエステティシャンは何か騒ぎのようで、見てきましょうかと言った。

「いいわ別にこのままで」

 その騒ぎの声に聞き覚えがあった。もしかして……の予感が走る。

外では忙しなげにドアを開け閉めする音がし、「ここにはいない」の声がするたび、キャーという悲鳴があがる。止めて下さいと絶叫する従業員の声と、数人の足音とが入り乱れるようにして段々と大きくなって行く。その足音が確実に近づいて来るのをエステティシャンはどこか不安げな顔をしていたが、芙蓉はある種の期待を持って待った。やがて部屋のドアが荒々しく開いた、と同時に高岡と引き留めようとする女性従業員とがなだれ込んできた。

「キャー、何ですか、あなたは?」

 芙蓉付きのエステティシャンが立ち上がった。お引取り下さいと高岡を押しとどめようとする手を振り切って、高岡はベットに横たわる芙蓉のそばに跪いた。

「芙蓉さん、社長がお呼びです。すぐに会社へ」

「会社? どうして私が会社に行かなきゃいけないの?」

「いろいろとございまして」

 周囲にいる従業員達を気にしながらの高岡に、

「回りを憚らなきゃいけないような用事なら私、行きたくないわ」

 その言葉に周囲を囲んでいた女性従業員達は皆、引き上げて行った。周囲に人気がなくなったことを確認したところで高岡は言った。

「浜名社長としては信託部門を国友へ売却予定を白紙撤回したいのです。ですからぜひとも」

「売却撤回を同意するよう圧力をかけて欲しいとパパに言ってくれっていうわけね」

「そうです」

「そんなの無理よ」

「どうしてですか?」

「だってママが生きていれば別だけど、もう死んだ今となってはパパとはほとんど会わないし……」

「そこをどうにか……」

「浜名には大物政治家の娘だから結婚しといて損はないって思惑があったんでしょうけど、娘ったって所詮私は外腹だし、ママが生きてりゃ別だけど死んだ今となっては愛人の娘なんて立場の弱いものよ」

「でも芙蓉さんは大河原の娘には間違いないわけでしょう、だったら」

「父親は何でも言うことを聞く?」

 芙蓉の父、大河原作栄は言わずとしれた政界の黒幕である。一度は総理まで上り詰めた男ではあるが、収賄事件での刑事告発がもとで、今は現職からは身を引き、院政を敷くことで陰から政財界を操っている。

 浜名にとって大河原は義父という存在になるが、そうなる以前のUOJの前身である旧三亜銀行時代からの付き合いである。

 旧三亜からバブル期に実に100億とも200億とも伝えられる極めて不自然な融資が繰り返し行われていた。そのほとんどが回収不能に陥っていたが、融資先は大河原のバックにあると言われる暴力団が深く関わっていたとの噂があった。

浜名にすれば旧三亜銀行員だった昔からUOJグループの社長へとのぼりつめるまで、さらには東京三西と合併をし世界一のメガバンクを作りあげるという構想を練り上げる場においてもこの大河原の力なくしてはありえないことであった。大河原がここまで浜名に肩入れをしてくれたのは一重に芙蓉の存在なくしては考えられないものであったが。

 大河原にとって芙蓉は五十も半ばを過ぎての子供で、殊更に可愛い娘ではあったが、大河原の妻、並びに親戚一同にとっては芙蓉親子は目障りな存在でしかなかった。

 何が何でも認知させまいとする彼らとの戦いに母の結衣は疲れ果てていた。それでも芙蓉十六の秋にやっと認知を勝ち取ることができた。その喜びも一瞬だった。結衣はすでに乳がんにおかされていたのだ。認知などで煩わされなければ、もう少し発見も早かったかもしれない。悔やむ芙蓉に母結衣は臨終の床で、

「これで安心して死ねる」

 芙蓉の手を握り締め、死んだ。母の死をかけてもぎ取った認知である。

「後々遺産相続で揉めるのがあの人達は嫌だったんだろうけど」

 だからって母を泥棒猫呼ばわりした大河原一族を芙蓉は許すことはできない。それだけ芙蓉にとって大河原家には並々ならぬ遺恨がある。

 その芙蓉に、浜名の命を受けた高岡が信託部門の白紙撤回させるよう圧力をかけてくれと言うのである。

「嫌よ! 絶対に嫌!」

「お願いします……芙蓉さん」

 バスローブ一枚だけでベットに座る芙蓉。Vの字に開いた胸元からは豊満な胸の谷間が見えている。胸の谷間が嫌よ! と叫ぶたびにぶるんと揺れた。バスローブの上からでも乳首の突起は生地を通過し、丸く大豆ほどに二つ分白いタオル地を突き抜けていた。

 芙蓉は高岡の視線を感じながらベット横に跪く高岡を濡れた瞳でゆっくりと見下ろした。どうぞと出されたならば食べないわけにはいかない。客が出した物はしのごの言わずに全部食う、これがビジネスマンの神髄だと浜名自身が高岡に教えた。高岡は浜名の手ほどきを実行に移すべく、芙蓉のバスローブに手を入れた。

 片手にあますほどの乳房が心地よい感触を手の平に乗せている。

 指の間に乳首を挟むと、二、三度揉みしだいた。すぐさま反応した様子の芙蓉は胸の鼓動を少し早くしていた。

 狭いエステサロンで二人きり。ベットの上で薄い壁だけで仕切られた両隣を気にしながらの逢瀬。女一人が横たわるだけの幅しかないエステサロンのベットの上に二人四つん這いになると、高岡は背後から芙蓉に入って行き、そのまま突き上げた。思わず芙蓉の口から吐息が漏れる。高岡は自身の太いひと指し指を芙蓉の唇に押し当てると吐息が漏れないように配慮した。突かれるたび、芙蓉は幾度となく高岡の太いひと指し指を噛んだ。ひと指し指に何度なく痛みが走る。けれどこんな痛みなど、この快感に比べればどうということはなかった。

高岡は芙蓉の芯までも届くような勢いで強く激しく突いていく。

幾度目かの快感を感じたそのとき、芙蓉の口元から一筋の涎が落ちていった。涎は銀色に輝くひとしずくとなってベットへと落ちて行き、シーツを丸く濡らした。


金子はマンション横の路肩に車を止め、窓ガラス越しに見える8階の角部屋をじっと見つめていた。もしあの明かりが消えてしまうようなことがあったら……。金子は携帯を手にした、と、五分と経たないうちに樹稀也はマンションから降りてきた。助手席に乗り込ぬ樹稀也に、

「知ってんだろ? 俺が美麗を好きなこと」

「あっあぁそうなのか」

「そうなのかじゃねぇよ。お前、俺がどんな気持ちでいるかぐらいわかんだろが。昨日今日のつきあいじゃねぇんだから、洵子ちゃんよ」

 洵子の名前を呼ばれたとき、樹稀也の眉間に一筋皺が入った。金子は樹稀也の眉間の皺になど頓着せずに続けた。

「所詮女のお前が女を好きになったって相手を不幸にするだけのことだろ」

 それはお前も充分過ぎるぐらいわかっているはずだと念を押す金子に何とも言い返せずにいた。

「俺もお前の恋の後始末でいつもこうして別れさせるのはつらいんだぜ、ほんとは」

 そう言いながらも金子の顔はどこかにやけていた。

でも今度の美麗だけは違う。樹稀也は心底惚れている。それが本音ではあるけれど、自分に美麗を恋せる資格はない。どうせ恋したところで先は見えている。好きな女だからこそ不幸にはしたくない。

 じゃあ十五分後に、いつものように段取りよくやろうぜ、俺、メンバー揃えとくからと金子は笑いながら樹稀也の肩を軽く二、三度叩いた。

 何も言い返せない自分が辛かった。だけど結局いつもこうすることでしか好きな女を諦めるしかない。そんな自分が情けないと思いつつも、樹稀也は胸に鉛を一つ抱きかかえたような思いでマンションに戻った。そこにはキッチンに立つ美麗の後ろ姿があった。

「友達が何の用?」

 軽い調子で聞く美麗に、別にたいした用事じゃないからと答えると樹稀也はソファーに腰を下ろした。キッチンで皿を洗いながら鼻歌を歌う美麗の背中がリズミカルに揺れている。その後ろ姿が妙に愛おしく思えた。背後からそっと近寄ると美麗の背中を抱いた。突然のことに軽い驚きの声を上げながら、

「今洗ってるから終わるまで待って」

 そんな美麗に、

「終わるまで待てない」

 樹稀也は美麗の首筋にキスをしながら背後からそっと胸に手を回した。そこには片手でちょうど収まるほどの乳房があった。小ぶりな乳房を揉むと美麗の右眉がぴくりと上がった。そのまま手を下ろし、スカートの中に手を入れ、腿を這わせた後、指を入れた、と同時に美麗の口元から微かな吐息が漏れた。こんこんと湧き出る源泉のように美麗の果汁はあますことなく樹稀也のひと指し指を濡らしていった。

「ここじゃ嫌よ、ベットで」

 蒸気した表情の中から絞るような声で美麗が言ったとき、樹稀也はふっと我に帰り、指を抜いた。そしてもう遅いから今日は帰ったほうがいいと言うと美麗は帰りたくないを繰り返した。樹稀也は拗ねる美麗を強引に外へと連れ出した。

 二人して歩く歩道。樹稀也と腕を組み、歩く美麗は幸せに満ちた笑顔だった。知らぬ誰かが見れば、二人はきっとお似合いのカップルに違いない。157㎝の美麗より恐らく20㎝は高いだろう樹稀也の横顔を見るたびに、どうしてこの人が女なんだろうと思わずにはいられない。もしも男だったならすべてを捨ててもいいのに……。

 そんな思いを抱きながら夜の道を歩いているうちに気がつけば人通りの少ない脇道へと足を踏み入れていた。樹稀也は立ち止まった。

「どうしたの?」

 不思議そうに顔を向ける美麗に樹稀也は深刻そうに考え事をしているようだった、が、何かを思い切ったようにふっと顔を上げると、

「今日は引き返そう」

 美麗の手を取ると急に走り始めた。二人の後を車で追っていた金子はいつもとは手筈の違う行動に声を上げた。

「何やってるんだ、樹稀也の奴」

 驚きの声を上げると後部座席に乗った男達三人に行けとばかりに顎で合図した。その中のリーダー格である黒崎は、

「じゃあ今回もいつも通りでいいですね」

 暗黙の了解のもと黒崎達はすぐさま飛び出して行こうとした。そんな黒崎ら男達三人に金子はあの娘だけは絶対に無傷でおくようにと念を押すことを忘れなかった。

 男達は素早く行動を起こすと、樹稀也と美麗の後を追った。

 腿を高く上げるやまるで100m走でも競うような樹稀也のスピードに美麗は連いていけなかった。途中で転び、したたかに膝を打った。膝からは血が滴り落ちている。もう歩けないと蹲る美麗をおんぶしようとしたところで男達に囲まれてしまった。

「おやおやお嬢さん、どうしたの?」

「けがしたんだったら俺達が面倒を見てやるよ」

「ほれほれそんな柔な背中よりこっちの大きな背中へどうぞ」

 男三人は美麗を樹稀也の背中から引きずり下ろすと、美麗を抱きかかえようとした。やめてーの声が上がり、樹稀也も何をするんだ! と叫ぶと同時に黒崎に一発お見舞いした。

「痛!」

 黒崎は予想以上のパンチに驚きながら殴るふりして樹稀也の耳元に近寄ると、

「手加減しろよ、痛いぜ」

 小さく囁いた。だが今日の樹稀也はそんなことにはおかまいなしに男達にパンチを食らわしていった。

「何だよ!」

 黒崎らは毎度の段取りとは違う展開にいささか戸惑っていた。

 どうしたんだ? という顔をする黒崎らに樹稀也は怯むことなく立ち向かって行った。

 木陰に車を止め、車内から自分の出番を待ち構えていた金子は手間取る黒崎らに登場するタイミングを失っていた。

「どうなんってんだ樹稀也」

 うめくようにつぶやいた。

 本気で立ち向かう樹稀也に黒崎も手下達に手加減をするなと目で合図した。こうなると多勢に無勢。どんなに樹稀也が頑張ったところで所詮本物の男達の腕力に勝てるわけもなく、とうとう打ちのめされてしまった。

「樹稀也!  樹稀也!」

 倒れた樹稀也に何度も叫ぶ美麗。その声がやがて悲鳴に変わった。

 男達に取り囲まれ逃げ惑う美麗を子供が追いかけっこを面白がるようにして男達は追い回していた。どうにも逃げ場を失ったところで男達は唇に笑みを漂わせながら近づいた。

「観念しろよ、お嬢さん」

 黒崎はゆっくりと近づいていくといきなり美麗を引きずり倒し、

白いブラウスを引きちぎった。裂けたブラウスから現れたブラジャーにはくっきり割れた胸の谷間があった。

 一人の男が黒崎に近づくと、

「今度の女は無傷で、じゃないんですか?」

 半信半疑なふうで聞いた。そんな男に黒崎は、

「外側だけ無傷ならいいんだろ。内側までとは聞いてねぇからよ」

にやりと笑いあうと男達は美麗を取り囲むとさっそく両足を持ち、抱えた。激しく抵抗する美麗を往生際の悪い女だと言いながら一人が取り押さえた。するともう一人は今日は俺からだと言いながらズボンのチャックを下ろし始めた。そうだったなと黒崎は言うと、抱えた美麗の両足を大きく左右に開脚した。

「いただき第一号!」

 叫びながら男は迫ってくる。美麗はもうだめだと覚悟を決め、目を閉じた、そのときだった。

 荒々しく押さえつけ黒崎の手が急に離れて行った。男達の怒声や笑い声も静まっていった。何? と思いながらそっと目を開けると、さっきまでの勢いはどこへやら黒崎を始めとする男達三人は美麗の周囲で市場に降ろされたばかりの鮪のように転がっていた。あまりのことに驚き立ち上がると、目の前に一抱えほどもある石を抱えた樹稀也が少しふらつき気味で立っていた。

「樹稀也!」

 驚く美麗に樹稀也は赤い血のしずくを地面に滴らせている石を放り投げると、行こうと言うと美麗の手を取り、そのまま夜の道を駆け出して行った。

 一部始終を見ていた金子はゆっくりとその現場に近寄った。

「あの野郎」

 樹稀也に惚れた女達をあきらめさせるためのいつもの手段。二人連れだってのところで金子専用の刺客でもある黒崎らに襲わせる。

 樹稀也は打ちのめされ、女は男達の餌食になる。気絶したままの女を自分のマンションに連れていき、介抱するのが金子の役目。

 傷ついた女を慰めることで金子は女にとってのやさしい王子様となり、女達すべては金子の意のままになった。こうして手にした女達すべてを支配下に置くと、彼女達はダイフリの駒となって会員集めに奔走するようになるのだった。由美も似たような状況で駒の一つになったのだが、由美だけでなく他の女達も駒として金子にいいように使われていることに気づいてはいない。

 たとえそんな利害が入っていたにしても樹稀也にすれば、やはり女とこじれることなく別れられるのは何よりだった。また黒崎ら男達にすれば金づるであるだけでなく美味しい思いもできるし、もちろん金子にすれば新しい女を次々に配下に置き、駒も増やせるで、三方三両得とも言える何よりの方法なのだった。

 それが今日はちょっと違った。

 頭や腹を抱えながら男達は立ち上がると、

「どうなってるんだ、おい」

「話が違うじゃねぇか」

「こんなにされておまけに女ともやれもしねぇじゃたまったもんじゃねぇや。こりゃいつもの倍の日当もらわなきゃ割りがあわないぜ」

 詰め寄る黒崎に、

「お前らだっていつもの半分の働きもしてねぇだろ。日当なんか出せるか。それに今度の女だけは手を出すなと言っただろう!」

 黒崎を一発殴った。殴られた黒崎はむっとした顔で金子を睨み返していた。そんな黒崎に金子は急に何かを思い立ったのか、

「まあ一応日当だけは出す」

 こう口にすると急に黒崎ら男達の表情が安堵の色に変わった。金子はそんな悪共を車に乗せると、猛スピードで夜の道を突っ走った。


 しばらくぶりで会う大河原作栄は変わってはいなかった。相変わらず政界のドン、あるいは闇将軍として陰から政界を操る辣腕さは揺るぎがない。その豪気さは九十に至る今となっても黒々として太い眉毛と人を睨み付けるようなどんぐり眼に象徴されている。

 大きく突き出た腹を大儀そうにしながら、どっかとソファーに座ると「どうした?」と言いながら気に入りのパイプをくゆらした。

 母結衣が生きていた時分から芙蓉はこのパイプが嫌いだった。

幼い日、ときおり訪れてくる大河原が芙蓉を抱きしめるたび、据えたなめし革のような匂いがした。芙蓉はこの匂いが嫌いで幾度となく顔を背けた。そんな芙蓉に母の結衣は困ったような顔をしながらも微笑んでいた。不思議なことに、大河原が帰った朝は必ずといっていいほど、母の胸元から同じ匂いが漂っていた。いつもなら石鹸の香りのする母が。そのたびに芙蓉が臭いというと結衣は微かに顔を赤らめながらも、ただ黙っていた。

「元気そうだな」

 場持ちの悪さに世間話をしてくる大河原に芙蓉は単刀直入に切り出した。

「刑事告発しないで欲しいの」

「UOJから手を引くよう特別抗告はしないって圧力かけて欲しい」

 唐突な芙蓉の申し出に大河原はいささか虚を突かれたような顔をしていた。

「それでなくても統合交渉差し止めの判決が出てる今、このままだと東京三西との統合交渉にも影響が出るわ。だからお願い」

 ソファーには座らず大河原に跪いて懇願する。そんな芙蓉を見つめる大河原の目は慈愛に満ちていた。その太い手で芙蓉の頬を撫でると、

「芙蓉、お前はますます結衣に似てきたなぁ」

 つぶやくように言った。

 うりざね顔に細くうっすらと描いた眉、それに合わせるように切れ長な目が続き、顔の中央では形のいい鼻が一際隆起している。そしてうっすらと紅を引いた唇へと続く。結衣はまるで博多人形を思わせた。誰もが美人だというその母のもとで、芙蓉は何度となくお母さんはあれだけ美人なのにねぇという周囲の大人達の落胆とも言える言葉を繰り返し聞かされ続けた。芙蓉自身も母にまるで似ていない自分の顔がコンプレックスでもあった。それが年を重ねるに従って似てきた。生き写しだと言われることも多くなった。うれしいと思ったときには母はもういない。

 大河原は芙蓉の顔を慈しむようにしばし見た後、

「まあ告発の是非については金融庁が結論を出すことだから、俺にはどうにもできん」

「そんなことないわ。金融大臣の松中さんはパパが引っ張ってきた人でしょう」

 某有名私立大学の教授であるだけでなく経済評論家としても幅広くテレビメディア等で経済についての持論を展開していた松中を、無理やり政界に引っ張ってくるというウルトラCの内閣人事をやってのけたのは誰あろう大河原である。周囲の国会議員達はあんな学者あがりに何ができると反発をしたが、大河原はそんな声を力でねじ伏せ金融大臣にすえた。それだけに大河原の影響力がないとは言えない。

「たとえそうでもそれとこれとは別だ。告発については彼だけでなく総理などとも相談して総合的に判断することだろうから」

「もし刑事告発されたらそれはUOJにとって死刑宣告にも通じるのよ。そしたら統合にも影響がするかも……」

 大河原は黙ったままパイプを吹かしながら、その大きなどんぐり眼を閉じ、考えていた。

「金融庁にとって結果的に日本経済を良くすることに繋がればそれでいいんでしょう。もし統合できなかったらどんな影響を及ぼすか、考えてよ、パパ」

 すでに特別検査で松中金融大臣はUOJを絶対に検査忌避で訴えてやると息巻いていた。事実松中金融大臣のUOJへの不信感は根強かった。何より金融財政では不良債権比率半減を目指す、が大前提である。UOJはそれにも反発するように大口の融資先を抱えている。これだけでも引き当て不足は充分考えられるのにあくまでも

「引き当ては充分」との見方を変えてはいない。このままでは金融庁との関係はこじれるばかりである。

「じゃあどうすればいい。どうすれば告発を免れられる?」

 真剣な眼差しで問いかけてくる芙蓉に大河原は言った。

「金融庁との関係修復に努める意外に方法はない」

「どうすれば修復できる?」

「それには方法は一つ」

 珍しく大河原はそう言うとひと指し指を一本立てた。大河原のひと指し指は太くて節くれだっていた。このひと指し指で……。母の結衣だけでなくどれほど多くの女を抱いてきたのだろう。そう思うと芙蓉は大河原のその太いひと指し指を切り落としてやりたい衝動に駆られた。たとえひと指し指がどうであろうともその絶倫とも言われた下半身があった限りには、抱いた女の数は両手両足を使っても数え切れないほどいたに違いない。

 母の結衣はその数え切れないほどいた女の中で、ただ一人子供を持つことを許された特別な女である。籍には入らずとも大河原の愛を一身に受けたとまで言われた。その愛しい女の娘である芙蓉の懇願に大河原はひと指し指を一本立て、どう答えようと言うのか。

「検査忌避への組織的関与を認め、全面的に謝罪しろ。それしか方法はない」

 まるで死刑宣告を下す裁判官のようにして大河原は言った。

「謝罪……」

「もう背に腹は変えられんところにまで来とるんだろうが」

「もし浜名がそれをすべて受け入れたらパパ、絶対に告発はしないように圧力をかけてくれる?」

 芙蓉の懇願に大河原は笑って頷いた。

 人に頭など下げたことなどない浜名が、そんなことを受け入れるだろうか。あれこれ思いを巡らす芙蓉に大河原は目を細めながら、

「どうだ、久しぶりで飯でも一緒に食うか?」

 仮にも父である大河原と食事するなんて一体いつ以来だろう。思えば母の葬儀が終わった後以来のような気がする。

 となれば軽く十年は過ぎている。親子で水入らずもたまにはいいか、と芙蓉は思った。大河原の年齢を考えれば一緒に食事をする機会は後どれぐらいあるだろう。芙蓉は誘いに乗ろうと頷きかけたそのとき室内電話が鳴った。受話器を置いたまま受けた大河原にスピーカーホンからは奥様からのお電話ですとの声がした。電話が切り替わると同時にちょっと高めの女の声が聞こえてきた。

「あなた? わたくしですが今晩麻美ちゃんの誕生日ですけど覚えていますよね」

「あっあぁそうだったけな?」

「あらあなたお忘れでしたの?」

「いやそうじゃないが」

 大河原は傍らにいる芙蓉にちらりと視線を動かしながら、幾分バツ悪げな様子でスピーカーに向かっていた。

「今日はちょっと急な会食が入ってな」

 するとスピーカーホンから聞こえてくる声のトーンがいささか険しくなった。

「あなたったら……あれほど麻美ちゃんの誕生日だから空けといて下さいって言ってたのに。麻美ちゃんもジイジと会えるってすごく楽しみにしてますのよ。いつもあなたはわたくしや家庭の用事は二の次三の次なんだから。もう第一線を退いたんだからこれからはわたくしや娘達孫達に家族サービスをして下さってもいいじゃありませんか。それなのに」

「あぁもうわかったわかったよ」

 大河原は眉間に皺を寄せると邪魔くさげに電話を切ると、どうも中々うまくいかんわいと言いながら舌打ちした。

 電話の主が誰であるか芙蓉にはすぐにわかった。その瞬間、芙蓉の目の前に山高く描いた女の眉が思い出された。

「この泥棒猫!」「大河原の財産は一円たりとも渡さないわよ!」と言った言葉を結衣に浴びせかけると、そのたびに山高眉が何度となく額近くまで跳ね上がった。芙蓉はこれほどまでに敵意に満ちた女の顔というものを終ぞ見たことがなかった。正直この女は恐いなと思った。そのときのまま、この人の気性は若いとき同様に変わってはいないようだ。

 たとえ大河原が芙蓉と食事したことを内緒にしたとしても、長年連れ添った女房の勘とやらですぐにわかってしまうだろう。それでなくても大河原が死んだ後、やらずもがなの財産を取られるという思いがあるだけに芙蓉に対しては並々ならぬ憎悪がある。ここは面倒を引き起こすのも嫌なので、食事はまたの機会にとだけ言って大河原の前を辞することにした。


 赤く腫れ上がった目元からは血が滴り落ちていた。目尻の端を横に2、3㎝ほど切った傷跡は大きく割れ、肉がまるで灼熱に溶け出した溶岩のような赤色をしていた。吐血のティッシュをどれほど交換したことだろう。

「もう病院に行った方がいいんじゃないの」

「しばらくこうしてれば治る。別に命に関わるような傷ってわけじゃないから」

「それはそうだけど……」

 不安気に見つめる美麗を安心させるように言うと、美麗こそ大丈夫? と聞いた。大事には至らなかったとはいえ、やはりあんな思いをした後だけにかなりの動揺は隠せないはずだ。

「大丈夫よ。どうってことないわ。それにもし仮に襲われても私、そんなことぐらいで壊れてしまうほど柔な女じゃないから」

 幾分無理をした笑顔に樹稀也は微笑むと、そっと美麗を抱き寄せた。樹稀也の胸に顔を埋めると鼓動が耳元でメトロノームのように

響いた。その規則正しく生を刻む鼓動を聞いているうちに、美麗はなぜだかひどく心が落ち着いていくのを感じた。そして、

「私、家を出るわ」

 その言葉に驚いたように胸に抱いた美麗を見ると、

「だってもう離れたくないから」

 いいでしょう? 憂いを含んだ瞳で問いかけてくる。樹稀也はどうとも答えられずにただ美麗を抱きしめる手を緩めた。

「でも僕は……」

「あなたがたとえどうだろうとそんなこと、私にはどうでもいいことなの。私は樹稀也が好き。だから……。一緒に暮らすにはそれで充分じゃないの」

 まっすぐに見つめてくる美麗の目をしばし見つめた後、

「これから、どんなことがあっても二人で乗り切って行けるかい?」

 見つめ返す樹稀也の瞳に美麗は大きく頷いた。

 樹稀也はもう一度美麗をきつく抱きしめると、その小さな唇にそっと唇を重ねた。


 金子は黒崎ら男達三人に日当と治療代としていくばくかを渡した。美味しい思いもできず、おまけに怪我までさせられて、とかなり

不満そうな顔をしていた男達だが、この借りは絶対に返すからと言

う金子の言葉にしぶしぶ頷いた。

「その言葉、信じておきまずぜ」

昨日今日のつきあいではない。金子と男達とそして餌食となる女、

それが樹稀也の場合だけでなくキャストを入れ替え、違うパターン

の場合もあるが、このトライアングルは必ずうまく回っていた。

それだけに金子も今度のこの貸しがいかに大きいかを知っている。だからこそ、それまではくれぐれも余計なことはしないように念

を押すと、さらに今回の骨折り賃としての分を上乗せして渡した。

これで黒崎らはどうにか満足したようで、もらうものだけもらうと長居は無用とばかりにさっさとマンションを出て行った。

 金子は初めてと言っていい、今度の作戦失敗に、

「あいつのこと、女と見て甘く見たのがいけなかったかな。これからは男としてきっちり絞めるか」

煙草に手を伸ばすとテレビのリモコンを手にした。ちょうど昼時のニュースの時間でアナウンサーがトップで伝えたニュースに思わず金子は身を乗り出した。

「光井国友フィナンシャルグループはUOJと今年度中の経営統合を目指す方針を表明しました。さらに国友はUOJ信託部門の買収交渉に合わせて統合交渉を進めたい考えであることをも明らかにしました」

ニュースが終わらぬうちに金子はもうマンションの駐車場へと降りていた。愛車のジャガーに飛び乗り、行くぞ! とばかりに意気込んだのだが、こんなときに限って愛車のジャガーはどうしたことかびくとも動かない。

「まったく! このポンコツめ!」

タイヤを一蹴りすると、流しのタクシーを止めた。

金子の指示のままに素早い加速で飛ばすタクシー、そのスピードが優に5mはあろうかという鉄の門の前で止まった。

どうします? と言わんばかりの顔で後部座席を振り向いて見る運転手に、金子は携帯を取り出すや「俺、開けてくれ」と一言言うと、

門はゆっくりと左右に引っ張られるようにして開いて行った。

運転手はルームミラー越しに金子を見た後、半信半疑な顔でハンドルを手に門の間をスピードを上げ通り過ぎた。

およそ五分ほども走っただろうか。やがてこんもりと繁った森の中からまるで西洋の絵葉書にでも出てくるような白い館が見えてきた。

唖然とした顔のタクシー運転手に万札一枚出し、釣りはチップだと言い放つと金子は玄関前に立った。

インターホンを押し、俺と言うとお帰りなさいませの言葉と同時に玄関の施錠が外された。今日はお父様がいらっしゃいますよとのお手伝いのフネの言葉にも何も答えずにリビングに向かった。

いつも財界人その他らとの会食で家で夕食など取ったことのない金子聡一郎が珍しく食卓に着いていた。

「なんでUOJなんかと統合するのかよ!」

リビングに入るなりの金子の質問に、父の聡一郎はいささか驚いた顔をした。ちょうどご飯を口に持って行こうとしていた手を止めると、ダイニングの入り口近くで突っ立ったままでいる金子をしばし見つめた。

真向かいに座る英子は聡一郎がゆっくりとご飯茶碗をテーブルの上に置くのを見て、

「トオル、あなたご飯は? 食べるんでしょう」

家に帰ると真っ先にこう聞く英子の言葉にも金子は何も答えずに

いた。そんな金子に、

「ちゃんと食べてるのかしら、何だか痩せたわね。一人暮らしでも三度三度ちゃんと食べないとだめよ」

母親としての心配事を口にしながらご飯をよそうとテーブルにご飯茶碗を置き、さらに箸置きに箸を置いた。

金子はいつもながらの英子の小言に眉をひそめながらも高校時分から使い慣れた緑の箸が昔同様に箸置きに置かれたのを見て、ほんの少し微笑んだ。その笑みも聡一郎に向かうときにはすぐに消えていたが。

「しかもあそこは多額の不良債権を抱えてるんだろ。あそこを支援してなおかつ合併までする意味なんてあるのかよ」

「意味……意味などお前にいちいち説明する必要はない」

聡一郎の言葉に一瞬むっとしながらも金子は続けた。

「第一UOJは三期連続の赤字でなおかつ大栄や総実といった大口融資先の不良債権先も抱えてる。それを」

唾を飛ばしながら熱弁を奮う息子の姿を聡一郎は目を細めながら見ていた。

「お前と仕事のことでこんなふうに議論ができるとは思わなかったよ。お前も銀行の仕事に興味を持つようになったか」

「そりゃもう大学三年だし」

「三年って、何回目の三年生になるのかしら?」

決まってこう口を挟む英子に金子は少し眉根を寄せた。

「イベントサークルか何か知らないけど、そんなのばっかにはまって、あなたいつまで大学生続けるつもりなの? ぐずぐずしてたら三十なんてすぐよ。いい加減にして大学もイベントも卒業しなさいよ」

英子の小言は実家に帰るたびに毎度のことで、最近ではそれもあって実家に足を向けるのも遠ざかっていた。

これにはどうとも言い返せないだけに息子としては苦しいところではあるけれど。そんな金子に聡一郎は困った奴だという顔をしながらも苦笑いをした。

「どうだ俺の鞄持ちでもしながら勉強せんか。お前もいずれは俺の後を継いで光井国友グループを引き継ぐことになるんだから。そのときになって困らんように今からやれ」

「だけど大学が」

「大学なんぞいい。七年も大学生をやればもう充分だろう」

「何年かかろうが卒業しろと言ったのは父さんじゃないか」

「そりゃ中退するよりは卒業した方がいいと思っとったがあんな紙きれ一枚、社会に出たら何の役にも立たん。ようはどれだけ仕事ができるかだ」

特に今回の統合劇はそうそうざらに見られるもんじゃないから、と言うと幾分唇の端に浮かんだ笑みをかみ殺しながら、そっと空のご飯茶碗を英子に差し出した。

「もうカロリーオーバーですわ、あなた」

英子に一喝され、渋々ご飯茶碗を引っ込めた。そのご飯茶碗に英子はすかさずお茶を注ぎ入れた。光井国友グループのドンたる男といえども女房の前ではまるで形無しである。六十を優に越え、心臓に持病を抱えた聡一郎ならば、健康管理のすべては妻の英子にまかせている。 会社で何千人という社員を従わせている聡一郎も、家庭では妻英子一人に従っているというわけである。

英子に言われるままにおかわりはあきらめ、注がれたお茶を一口飲んだ。そんな聡一郎に金子は思い切ったように口を開いた。

「俺、明日から父さんの仕事を手伝うよ」

それだけを言うとそのままダイニングを出て行った。英子は金子の後ろ姿を見送りながら聡一郎に目を向けると、

「これであの子もイベント狂いから目を覚まして少しはまともになってくれるといいんだけど」

「大丈夫、うまく行くさ」

聡一郎は微かな笑みを唇の端に漂わせながら、ご飯茶碗に注がれた健康茶を一気に飲み干した。


「美麗!」

キャンパス内を歩いていると、いきなり後ろから声を掛けられた。

振り向いて見ると由美だった。何? と言う顔をする美麗に由美は、

「ねえ、トオル知らない?」

「トオルってダイフリの金子さんのこと?」

「もちろんそうよ。ちょっと連絡取れないのよ」

「私が彼のこと知ってるわけないでしょう」

「知らばっくれないでよ」

由美のいつになくきつい言い方に美麗は面食らった。何のことだかわからないままに自分は由美に対して何か悪いことでもしたのかなと一瞬心当たりを探した。そんな美麗に由美の方は一方的とも思える感じで話し始めた。

「トオル、大学に全然来てないのよ。ダイフリにも顔を出さないし、おまけに携帯の番号も変えたみたいで繋がらないの」

二日も三日も連絡できないなんてことなかったのに、もしかして何か事故にもであったんじゃないかと思うと私心配で心配でと言いながら由美は涙目になっていた。

金子のことなど美麗が知る由もないことだけど無下にもできないので一応由美の話を聞いた。すると今にも泣き出しそうに涙腺をうるませていた由美が急に何かを思い出したように鋭い目つきに変わった。

「樹稀也なら連絡取れるんじゃない?」

えっ! と驚く美麗に由美は、

「あなた、彼と付き合ってるんでしょ」

唐突に樹稀也の名前が出てきたことで思わず美麗は由美を見た。

「付き合うって……」

樹稀也のことはまだ誰にも話していない。だから知らないはずなのに……もしかして金子の口からすべてが露呈したのか。

「あなた、トオル、呼び出したわよね」

美麗の前に以前マックで待ち合わせたときの金子の笑顔が思い出された。樹稀也の連絡先を聞くためだけだったにしてもやっぱり由美の彼氏でもある金子を呼び出したのはまずかったようだ。

「あれは樹稀也の連絡先を聞きたくて呼び出しただけよ」

「そう。あなたにとってトオルは樹稀也のことを聞ける相手というだけの存在だったかもしれないけど、呼び出されたトオルにすれば、あなたのこと少なからず気になってるみたいだから。そりゃぁあなたへの興味が深まっていくわね」

懐疑的な目で美麗を見ると、ふっと何かを思いついたのか美麗に不振の目を向けた。

「もしかして美麗、あなた樹稀也もトオルも二股かけようと思ってない? それで私にトオルと連絡取らせないようにするために携帯の電話番号変えさせた、そうでしょ!」

一人で想像を膨らませていく由美に驚きながらもいささかおかしくもあって思わず笑った。

「何がおかしいのよ!」

「だって……」

樹稀也のことは認めても金子のことまでは知ったことではない。

「あなたって本当に想像力豊かな人ね。私がどうしてあなたの彼氏まで独占しなくちゃいけないのよ。第一、私、金子さんみたいな勘違い男、好きでも何でもないわ!」

「勘違い男ですって、トオルのどこが勘違い男だって言うのよ!」

由美は金子のことを何もわかっていないようだ。女なら自分に夢中にならない女はいない、といい男を気取り、さらにはダイフリをまとめ数々のイベントを成功させてきたことで強いリーダーシップの発揮できるキャリアトップだと勘違いしている。本当はみんなに担ぎ上げられ、乗せられただけのお祭り男でしかないのに。

その金子の馬鹿さ加減に気づいていない由美も由美である。

そんな由美にいちいち説明するのもあほらしいだけなので、美麗はあんな男を好きでいるあなたこそ勘違い女ね、とだけ言った。

「私のどこが勘違い女だって言うのよ!」

気づいていない同士で付き合っていればいい。だいたいが由美は付き合っているつもりでも金子にすれば付きあっているつもりはないのだから。それにも気づいていない由美が少し可哀想にも思えた。

「私、金子さんとは一切関係ないから」

それだけを言うとまだ何か文句ありげな由美に、

「変な詮索しないでよ!」

きっぱり言うとあっけに取られる由美を残し、その場を悠然と立ち去った。


「検査忌避を認めろだって」

高岡は思わず声を上げた。

「そうなの。それを認めて正式に釈明すれば告発については検討するように働きかけるって」

ベットでするにはひどく場違いな話なのかもしれない。たとえ事後にシャワーを浴びようと、高岡によって激しく燃え上がった体は中々体温を下げそうにはなかった。芙蓉は高岡に腕枕されながらそのほてった体を冷ますようにして話した。

「他人に頭を下げたことなどない浜名がそんなことできるわけがないだろう」

「だけど刑事告発されればそれはUОJにとって死刑宣告にそのものになるんでしょう」

そうなれば市場の信認を失いかねない。それより何より経営体制の見直しを迫られるだろう。となれば、職員の大量処分も必要になってくる。職員だけでなく役員の処分も、となれば……。自分にもチャンスがめぐってくる可能性はある。

そこまで考えて高岡はベットサイドにある煙草を手に取り火を点けた。勢いよく天井に向けて煙りを吐き出しながらもその唇には思わず笑みがこぼれていた。

「何がおかしいの?」

高岡の笑みが気になったのか、腕枕されたままの芙蓉はそっと顔を上げると、その端整な横顔に聞いた。高岡は右手で芙蓉の長い髪をひと指し指にからませていた。軽く栗色に染まった髪はひと指し指にへびのようにからまったと思うと、するりと抜けていく。それを何度も繰り返しながら高岡はこみ上げてくる笑みをどうすることもできなかった。

「ねぇってば。何がおかしいのよ」

幾分すね加減で言う、そのすねた顔が高岡にはたまらなく愛しく思えた。そっと芙蓉の頬に触ってみる。

「俺は欲しい物はすべて手に入れる主義だ。この髪のようにするりと抜けてしまう前に俺は必ず掴んでおく、しっかりと」

高岡は芙蓉の髪をきつく片手で握り締めると、その髪を鼻先に持っていった。微かにラベンダーの香りが鼻をかすめていく。

芙蓉はいきなり髪を握り締められたので思わず痛いと叫んだ。

その声にごめんごめんと言いながら高岡は手を離すと、左手に持った煙草を灰皿に押し付け、今度はブランケットの中に右手を入れ、芙蓉の体に向けて手を伸ばしていった。丘ほどに盛り上がった乳房の感触を片手で確かめると、さらに手を下半身へと這わせていき、薄めに覆われた陰毛の中にある突起をひと指し指で刺激した。

すぐさま芙蓉の口から微かに吐息が漏れた。

「夕べだって何度もなのに……また?」

ベットサイドの下にあるゴミ箱には使い切った避妊具がまるで空気の抜けた風船のようにして捨てられていた。一体いくつ使ったのだろうか。一つ二つと数えるほどにその数は増していき、ゴミ箱は避妊具とティッシュであふれんばかりになっていた。

「もういいじゃない充分に愛しあったんだから」

「いやだめだ」

「お願い、私もう……」

形ばかりの抵抗など高岡には通用しない。太いひと指し指で芙蓉の突起を以前にも増して強く刺激した。芙蓉の声が段々と高まっていき、もうどうしようもないほどに上り詰めたところで高岡は芙蓉の体に重なった。同時にかつてないほどの勢いでベットを軋ませていった。高岡の下で、今までとはあまりに違う激しさに「どうしたの?」と驚く芙蓉にもかまわず、高岡は男のエネルギーのすべてを使い切るようにして動き続けていった。それはまるで、巡って来たまとないビジネスチャンスを、絶対に物にしてやろうという、野心を持った闘志をそのまま芙蓉の体に注ぎ込むようでもあった。


「いくら何でも組織的妨害を認めるなど、そんなことができるか!」

どこまでも容認しない方針を貫くつもりの浜名だが、事態はもうそんな男意地を張れるところにはなかった。

このまま容認しなければ刑事告発される可能性は大である。もし刑事告発されれば英米の金融局からも問題視され、国際社会からも追放されかねない。しいてはトーヨドといった大株主からも増資の協力を拒まれることに繋がる、となればUОJは資本調達の道が閉ざされてしまうのだ。

そうなれば東京三西との経営統合にも影響する。

「あなたここはもう容認するしかないわ」

芙蓉と高岡は二人して何度となく説得してきた。度重なる二人の説得にさすがの浜名もあがない切れなくなった。血気盛んな頃の浜名であるならば部下がどう説得しようが、女房が、というか女房の背後にいる大物政治家がどう言おうともそんなものは一蹴していた。

とにかく周囲に何をも言わせぬ迫力で自分の考えを貫き通すワンマン経営者だったのに……。よくも悪くも周囲の意見を聞くようになったというのはやはり年のせいなのか。浜名は自分も年を取ったな、と他人事のようにつぶやくと異例の大手銀行による組織的関与を認めることにしたのだった。

明日正式発表を控えていた前日のこと、浜名は久しぶりで藤井享子を部屋に呼び入れた。芙蓉とはもう随分前から部屋を別にしている。

だから別段他の女を呼び入れたところで、芙蓉も何も言わない。

芙蓉自身も自分の部屋に別の男を(今は高岡を呼び込んでいるらしいが)呼び入れているのは承知のことだから。たとえ女房以外の女を寝室に呼び入れたとしても、いまさら浜名の老いた肉体では何をすることもできないが。

「明日、検査忌避を認めた後、処分者の発表もする」

ベットにうつ伏せになった浜名は享子にマッサージされながら心地良い痛みに身を任せていた。背中には至る所にシミが点在していた、まるでそこがツボ所でもあるように。 享子はその丸いシミに添って揉みほぐしていった。

「何人ほど?」

「おそらく百人近くになるだろう」

「百人! そんなに……で処分された人達はどうなるんですか」

「別に解雇というわけではないから」

「あぁそうなんですか」

「辞めたいという奴がおれば退職金は出すから」

退職金が出ることに妙にほっとする。一緒の船に乗って働いてきた連中だけにその辺りはやはり身内のように心配になるのだった。

浜名はゆっくりと寝返りを打つと仰向けになった。一つ息をすると左胸辺りを二、三度摩りながら、

「社長の私を始め役員達も報酬は減額五割から七割になる」

ささやくような低い声で言った。年は取ったとはいえ浜名の声は野太くて大きいものだったのに。今日はやけにかすれていて、しかも少し聞き取りにくい。昨日の酒でも残っているのかな、と享子はたいして気にもせずにいた。その浜名の目がサイドテーブルの上を泳いでいた。享子が煙草ですか? と聞くと、いや煙草はいい、サプリメントを飲みたい。確か下のダイニングテーブルの上にあったと思うから取ってきてくれと言うので、

「社長も今はやりの青汁やにんにく卵黄といった健康食品にはまってるんですか?」

「健康と時間だけは金で買えんからな。七十を越えると一年に一度ではなく月毎に年を取るようになる。これからは体という財産を守るために労力を使わねば。俺にはまだやるべき仕事が山ほど残っとる」

そんな浜名に煙草はいいんですかと再度聞くと、

「煙草はやめた、というかもう吸いたくなくなってきた」

あれもこれもしたくない、やりたくなくなる、気力が失せるのはどうしようもないな、そう言いながら苦笑いした。さすがの浜名も年のせいか、少し気弱になったのかと享子はたいして気にもせずに探してきましょうと言いながら立ち上がった。その瞬間、浜名はいきなり享子の右手を掴んだ。あっ! 軽い驚きの声と共に浜名を見る享子に、

「亨子、昔も今も、同様にこうして私の側にずっといてくれ」

頼むと懇願すると享子の手にすがりつくようにして両手で強く握り締めた。思わず「痛い!」と享子が声を上げるとゆっくりと手を離した。

「すまない」

そのときの浜名はまるでいたずらを見つかった男の子のような顔でいた。享子は唇の端に笑みを漂わせなが、

「ずっと私は社長の側にいますわ」

母の顔で答えると指示されたサプリメントを取りに階下へと降りて行った。 階段を降りていくリズミカルな足音が徐々に小さくなっていく。その音を聞きながら、浜名はゆっくりとベットに体を横たえるとブランケットを引っ張ろうとした。その瞬間、左胸に激しい痛みを覚えた。

「うっ……」

だっ誰か……左手が助けを求めるように空中へと伸びて行く、が掴まるべき誰かの腕はそこにはなかった。数分宙を泳いだ左手は、そのまま釣り糸が切れるようにしてだらりとベット下に落ちた。


急遽臨時の役員会が開かれることになり、会議室に集められたのは部長職以上の役職者がほとんどだった。

円卓にそれぞれが重苦しい雰囲気を肩に背負って座っていた。

UОJにとってここは正念場だと言えた。これまでの徹底抗戦の構えから一転して検査忌避を認めるというのである。それも組織的検査妨害ということで。

「経営トップ自ら改善対応策に取り組むというが」

「それだけで信頼回復を計れるのだろうか」

様々に役員達の憶測が飛ぶ中、高岡と芙蓉が姿を現した。

浜名の姿がないことに一瞬驚いた顔をする役員もいたが、一応に皆揃って社長夫人である芙蓉と社長付き秘書である高岡に対して立ち上がろうとした。芙蓉が役員達にそのままでいいわと指示をすると、自分も席に着いた。

簡単な挨拶を述べた後、芙蓉は役員達を見渡すと重大事項の発表があると告げた。何だ? という顔をする役員達に芙蓉は高岡を促した。

高岡は立ち上がると、慇懃とした様子で手にした紙を読み始めた。

「昨晩、UОJグループ社長、浜名泰造は心筋梗塞のため、入院いたしました」

会議室内に驚きの声が上がった。ざわつく役員達を高岡は目で制すると、

「現在のところは小康状態を維持しておりますが、担当医師の話ではいつなんどきどうなるか予断を許さぬ状態だと言う事です」

大まかではあるが、浜名の病状を報告したのち、さらに引き続きの重大発表をしますと述べると、社長職は芙蓉が引き継ぐ旨を告げた。

驚きはどよめきに変わった。役員達それぞれは顔を見合わせ、ときに眉根に皺を寄せるなど皆一応に動揺は隠せない様子だった。

中の一人が突然立ち上がると、

「いくら何でもそれは唐突に過ぎませんか。社長が倒れられたからといって奥様が後を継ぐというのは……」

「私もそう思います。社長人事というのはやはり役員会にかけてのち決めるものではないかと」

「それでなくても現在東京三西との統合話にストップがかけられている以上、社長人事はもっと慎重になすべきものではないのですか」

役員達が次々に立ち上がり意見を述べるのを芙蓉も高岡もしばし黙って聞いていたが、もういいだろうとの視線を芙蓉が送ると高岡は再度口を開いた。

「後継人事について意義があるのでしたらば、ただいまより検査忌避による処分者を発表しますので、そののちにおっしゃられてください。ここにおられる皆さんが引き続き人事に対して動議を発令できる役員の立場でいられるかどうかはわかりませんが」

それまで突然の社長人事にざわついていた役員達だったが、高岡のこの一言に一同の顔色が変わった。

高岡はどこか笑みを蓄えた表情で次々に処分者を発表していった。

処分者はその大半が降格や訓告などであったが、大方の予想に反して百人以上にも及んだ。

「これから経営トップ自らが改善対策に取り組み、信頼を回復することに邁進してまいります」

何か意義は? との再度の問いかけにも今度は誰も声を上げる者はなかった。芙蓉はさらに秘書である高岡が副社長に就任し、これからはUОJを自分と共に今以上に盛り上げていくことにしたと告げた。高岡の役員入りに対しても、もういまさらという感じで、やはり誰も何も言わず、結局臨時の役員会議はわずか三十分で終わった。


享子からメールは届いていた。美麗はメールは見るには見た。

父の浜名が今どういう状態にいるのかも知っている。娘ならばすぐにでも病院に駆けつけるところなのだろうが、美麗は行く気持ちにはならなかった。なぜかひどく面倒なことに巻き込まれそうで。

母の芙蓉には友達とサークル活動で二泊三日の旅行に行くと言って出てきている。それだけにこの三日間だけは誰にも邪魔されずに樹稀也との生活を楽しみたかったのだ。そして今日はその三日目だ。

もう家には帰らないつもりで出てきた美麗だが……。

ベットの上で樹稀也が眠っている。美麗が大学へ登校する朝に樹稀也は帰って来、美麗が帰ってくる夕方に夜の仕事に出かけて行く。

まるでサイクルの違う二人だったが、学校から帰ってきた美麗が出勤前の樹稀也に食事を作る、そのわずかなひとときだけが二人にとって何よりの時間だった。

次々にやってくる女達に愛想をふりまき、飲みたくもない酒を一気に飲み干していく。全力で楽しませた後の疲れからか、樹稀也は大きな寝息を立てながら眠りについていた。爆睡という程に眠っている姿を見ると、起こすのがひどく忍びなくなってくる。ギリシャ彫刻を思わせるような高い鼻と二枚に薄く重ねた赤い唇がひどくセクシーで、眉毛から鼻を通り、唇まで続くTラインは乱れることのない直線を描き、まさに美しい。

枕の上に横たわるその端整な横顔をいつまでもじっと見ていたいけど……。美麗は枕元の目覚まし時計が五時を指したのを見ると、心を鬼にして樹稀也の体を揺さぶった。

「起きて、もう五時よ」

揺り動かしてもまったく起きない。

美麗はよしとばかりに樹稀也をくすぐり始めた。脇の下、背中と思いっきりくすぐるも樹稀也はまるで反応がない。もしかして死んでるのではと不安になり、顔を恐る恐る覗き込んだ、そのとき、いきなり美麗の手がぐいっと引っ張られた。あっ! と思った瞬間、ベットに押し倒され、樹稀也の顔が美麗の真上へと来ていた。

じっと見つめてくる瞳が美麗の目へと吸いこまれて行く。唇にほのかな暖かさを感じたとき、見開く目の前には微かに微笑む樹稀也がいた。

「おはよう。今日はレモンの味だね」

僕のおめざは美麗のキスだと言いながら樹稀也はベットから抜け出して行った。

トーストとサラダと果物、そして挽きたてのコーヒー。コーヒーに砂糖は一杯だけと決まっている。クリームは入れない。カップにちょうと小匙一杯分の砂糖を入れ、かきまぜるとお気に入りの白磁のコーヒーカップをそのまま樹稀也の右手前に置く。

午後五時の朝食。新聞を見ながら食べていく樹稀也を見るのが美麗は好きだった。大口開けてトーストを頬張る姿は高校球児のようでもあり、その豪快な食欲に見とれた。

「ねえ明日も私ここにいて」

いい? と聞こうとしたとき、美麗の携帯が鳴った。

「藤井でございます」

鼓膜に女にしてはちょっと低めの声が響いてきた。

享子からの電話が入ると美麗は教師に呼び出しをくらった生徒のような気持ちになる。そのほとんどが早く帰宅を促すものだったり、ときには叱責を込めた物の言い方だったりするから。享子のことだ、美麗が男のマンションにいることなど先刻承知のはず。きっと早く自宅に戻るようにとの小言に違いない。あまり聞きたくはないが、ここは仕方がない、渋々受話器に集中した。すると、そこから聞こえてきたのは意外な言葉だった。

「お父様がお亡くなりになりました」


浜名の葬式の日は朝から横殴りな雨が降っていた。

これを涙雨というのだろうか。居並ぶ参列者は優に千人を超えた。

曲りなりにも財界人として名を連ねてきた浜名なれば、これくらいは当然ではあるが。

この千人の中に金子トオルもいたことを美麗は気づいてはいなかった。金子は父聡一郎の総代で、会社を右代表としての列席であったが、その実はそこに参列する多くの財界人達に、いずれは光井国友グループを率いるトップとして顔を売るという意味合いも含めての葬儀参列であった。

遺族代表で挨拶が始まったとき金子はそっと共に葬儀に参列した秘書の西本に耳打ちし「あれが女房か?」と聞いた。

西本は位牌を手にマイクの前に立ち、涙ながらに挨拶をする若過ぎる女は浜名の後添え芙蓉であること、さらに傍らに立つのは副社長の高岡だと小声で告げた。ときおり芙蓉が涙で言葉を詰まらせるたびに、高岡は気遣うようにそっと芙蓉に顔を向ける。その様子に、

「あの二人、できてるのか」

高岡の問いに西本はにやりと笑い「おそらく」と目だけで答えた。

さらに見慣れたはずの美麗が浜名の遺影を抱き、芙蓉の側に立つのを見て「娘か?」と聞いた。すると西本は「浜名社長の一人娘でございます」と答えた。

「一人娘……そうだったのか」

美麗の素性を知った途端、金子の口元が微かに緩んだ。

さっそく西本に「あの高岡と一席設けろ」と耳打ちした。

芙蓉の遺族代表としての涙ながらの挨拶も済んだところで、浜名の棺は近親者達によって霊柩車へと乗せられた。位牌を手にし、涙する喪服姿の芙蓉はいつもにも増して美しかった。その白い横顔は若すぎる未亡人として各参列者からも注目を浴びた。

火葬場に着くと、風雨はさらにも激しさを増し、高岡が芙蓉にさしかけた傘もときに吹く横殴りな風に吹き飛ばされそうになった。

それでも高岡は芙蓉を強引な雨から守ろうと必死になって傘を抑えつけていた。その姿がマスコミから注目を集めることになり、数日後発売された週刊誌の紙面を飾った。結果的にその写真によってその後のUОJ人事に影響されることになるのだが……。

浜名の棺が釜に入って行く、と同時に轟音と共にオレンジ色の炎が上がり、まるでトンネル内でさまよえる霊魂の叫び声を聞くにも似たボイラーの音が聞こえてきた。

美麗は背中を恐怖に抱きつかれたような寒気を感じた。実の父である浜名の死であるのに。悲しみよりも先に恐さを覚えるなんて。 

二時間ののち、焼かれた浜名は数片の骨となって出てきた。

まだ所々に火種を携えたままで、芙蓉と共に一つ一つを箸で拾っていく。生前はワンマン社長として名を轟かせ、自分の思うにまかせた人生を生きてきた男も結局はこうして一片の骨となって終わる。

そして皆似たような小さな骨壺におさまるだけ。

美麗は人それぞれの人生に違いはあっても、その生の結末がこうして皆同じに終わってしまうことにひどく空しさを覚えた。


光井国友、UОJに統合提示! の見出しが新聞の紙面を飾ったのは浜名の葬儀から数日経った日のことだった。

一番驚いたのは一応社長の肩書きを手にした芙蓉だった。さっそくベットで眠る高岡の元へと走った。

「これ、どういうこと!」

新聞を手に高岡を揺り動かす芙蓉を高岡は眠気眼のままに抱き寄せた。

「朝一ってのもいいな」

さっそく芙蓉をベットに押し倒し、花柄のブラウスのボタンを外そうとする高岡を芙蓉は制した。

「そんなことしてるときじゃないわ。光井国友との統合なんて私は何も聞いてないわ。第一浜名は東京三西との統合を考えていたはずよ」

それをここに来て翻すのかと高岡に詰め寄った。

実を言えば浜名の葬儀から数日後、高岡は金子と密談をしていたのだった。金子の話はすなわち光井国友の提示となるが。

「株式等価交換による統合比率一対一の合併ということで、いかがでしょうか」

最近の金融市場の株価をベースにした比率は一対0・6~0・46といったところだ。それを考えると途方もない数字だと言える。

現在のところ統合がストップしている東京三西でさえ統合比率に関しては外部の専門機関と相談して決めるとして、まだ具体的な数字を出していない。

「先日の東京三西さんとUОJさんの株価の終わり値で一対0・49ですね。どう統合効果を加味したところで東京三西さんには一対0・6までは出せないはずです」

これは破格の提示であることは間違いない。この比率は驚きに値する。

「それだけ私どもは統合後のUОJさんの企業価値を大きく買っているということです」

「それは大変ありがたいことではありますが、これでは買収案とも言えるのではないですか」

たとえ統合後のリストラ等で企業価値が高まったとしてもUОJの将来性はどこまで上がるかはわからない。統合比率において一対一に近づくほど有利なのはわかっている。おそらくこれはUОJ株主に対する大サービスだとも思うが、これによってUОJ株主までも取り込むことになる。

「もしも国友信託の主張が高裁でも再び認められればどうするおつもりですか?」

現在東京三西との交渉はストップをかけられたまま、進展する見通しは立っていない。ここでもし高裁が国友信託の主張を認める判定を下したならば今年度上の不良債権処理はできなくなってしまう。

東京三西との統合による救済合併で不良債権処理をしながら生きのびるシナリオを描いたのは、誰あろう高岡である。浜名があくまでも国友信託を売却することで単独で生き延びる方法を考えていたのだから。

「仮に高裁がUОJさんの主張を認めたとしても国友信託は損害賠償請求に訴訟を切り替える可能性もあるでしょう」

そうなったときの損害賠償額を考えると、株価資産規模的に考えてもUОJがそれらをクリアーできるほどの体力が残っているとは考えられない。たとえ東京三西との交渉再開をしても、これがネックになることは充分に考えられる、となれば……。

「だが光井国友さんにすれば、さらに公的資金を抱えることになるのではないのですか」

問い質す高岡に対して、

「大きな金額ですので返済には相当の努力を必要としますが、それは短期で返済するよう努力します」

答える金子に高岡はある疑念を抱いた。

「そこまでしてうちとの統合に固執するのはどうしてですか?」

「一つには世界一へのプライド」

もしも光井国友とUОJとの統合が実現したとすれば総資産180兆円にも達する世界最大の金融グループが誕生することになる。

この逆に統合が東京三西に転んだとしても結果的には同じく資産190兆円の世界最大のメガバンクが誕生することになる。

光井国友としては世界一へのプライドを賭けてもこれは絶対阻止したいところだ。光井国友対東京三西の、これはプライドを賭けた対決とも言える。

「そしてもう一つは……」

「もう一つ?」

詰め寄る高岡に金子は一瞬躊躇しながらも口を開いた。

「美麗さん」

えっ! 驚きの高岡に金子は企業同士の統合だけでなく、美麗との結婚をも申し込んだのだった。その話を聞いた途端、高岡の口元が微かに緩んだ。

「もしかして派格の統合比率もそこにあるのですか?」

「どうお考えになられても結構です。この統合比率はあくまでも統合後のUОJさんの企業価値が飛躍的に高まると見ての、うちの試算ですから」

 なおかつUОJと光井国友との統合が結婚により、その結びつきをより強固になるならば、それに越したことはないのではないかとも言った。

「もし仮に女のために統合比率を上げたとしたならば、それは随分と驚きだなぁ」

「いけまんせんか」

「いけなくはないが果たして美麗がそれだけ価値のある女かどうか」

「UОJにとってのこれからと、あなた自身にとってのこれからを左右する、どちらもそれだけの価値があるのですから」

 これだけの数字を出すのは当然でしょう、と金子は高岡に視線を送った。意味ありげなその目に高岡が何を言いたいのだという顔をすると、さらに金子はこうつけ加えた。

「特にあなたにとってのこれからの人生を決める女性、その娘となればなおさらではないですか」

 いつの時代も女は男にとっての最大の「武器」でもあり「防御」にもなりえますからと低い調子で言った。

 過日の料亭での金子とのいきさつが高岡の脳裏に思い出された。

 UОJのこれからと自分のこれからが。

とにかく統合はすべての運命を握っているのだから失敗は許されない。

「でもこれだと光井国友がUОJの価値を実際より高く見積もった買収ということになるんじゃないの」

 おそらく光井国友は株主までもを取り込むつもりではないのかと芙蓉は光井国友との統合に懸念を示した。だが高岡は、

「どうしても9月末までの増資を実行したいんだ」

 もしできなければ今年度上期中での不良債権処理にめどが立たなくなる。となれば9月度の決済で財務面での不安が深刻化してしまうのだ。鍵を握るのは東京三西とUOJの交渉差し止め裁判の行方ではあるけれど。

「どっちに転んでもいいようにパイプの一本ほども繋いでおくに越したことはない」

 そう言うと高岡は唇に微かな笑みを携えたまま芙蓉の体を押し、ブラウスのボタンを外した。ちょっと今日は……拒もうとする芙蓉に構わず高岡はそのまま乗しかかろうとした。

「今日は嫌なの、勘弁して」

高岡を押しのけようとする芙蓉をあえて強引にベットに押し倒すと両手首を強くベットに押さえつけた。そして、

「嫌がるのを無理やりっていうのも男にとってはそそられるもんだ」

 そう言うと芙蓉の豊満な胸の谷間に顔を埋めて行った。

 

高岡はさっそく藤井享子を呼び出すと、かねてから依頼していた美麗がつきあっている男についての情報ファイルを手にした。

 写真には美麗と樹稀也とがマンションのエントランスを手を繋いで入って行く姿が数枚写されていた。

「橘 樹稀也……二十五歳。仕事はホストクラブのホストかぁ……」

 さらに高岡にとって目を引いたのは性別と書かれた欄だった。

「これは記述間違いじゃないのか?」

「いえ間違いはございません」

 確かに性別欄には女と書き込まれている。この記述が間違いでないとしたら、どういうことだ、と問い質す高岡に、享子は樹稀也は戸籍上は女であることを告げた。

「女? とういことは性転換した男ということか?」

「いえまだ完全に性転換したわけではないようですが……」

「女、ということか」

 そう一言言うと高岡は鼻で笑った。そしてこんな「男もどき」に熱を上げているのならばどうということはないな。心のうちでつぶやくと、さらに親の欄に目を留めた。

 報告書には父親とは早くに離婚、と書かれていた。さらに母親についての項目に目を移したとき、高岡は軽く眉根を寄せた。

「橘 栄子って……あの大栄のか?」

 はいさようでございますと感情を押し殺した声で答える享子の目

にも言わずもがなである旨を含んだ思いが込められていた。

 かつて流通業界の最大手として君臨し、主婦の店として多大なる

利益を上げてきた大栄。栄子の辣腕ぶりは財界でもかなりの話題となり、やりて女社長としてTIME誌を飾ったこともあるほどだ。

 それもバルブ経済のもと無理な出店や過大な投資が結果的に自身の地盤を緩めることになり、度重なる赤字を計上し、一時は産業再生機構へ支援を求めるところにまで追い詰められていた。

 しかし、やりての栄子は自主再建路線への道を模索し、今はUОJによる2千億円規模の金融支援に頼っている。この大栄をはじめとする大口融資先を抱えたことがUОJにとって今回の統合劇への道を歩ませることになったとも言える。

 樹稀也がその大栄の女社長、橘 栄子の「息子」ということなれば話は簡単だ。

「急いで美麗をここに連れて来てくれ」

「かしこまりました」

 享子は深々と礼をすると、そのまま社長室を出た。

 浜名の秘書であった享子は浜名の死により、自身もUОJから去るつもりにしていた。それを高岡のたっての希望でそのまま会社に残り、今は高岡付きの秘書として仕事にあたっている。

 副社長とはいえ、その実は名ばかりの社長である芙蓉に変わり、こうして社長室に身を構え、仕事にあたっている。その高岡にとって秘書である西本がいるがもう一人、公私に渡ってサポートのできる享子のような人間がどうしても必要なのだった。

 浜名の秘書兼愛人という立場にあった享子は仕事の手際は抜群なのはもちろんだが、何よりこうして美麗や芙蓉達、それに自分も含めた私生活面においてのすべてを安心して任せられる。高岡にとってそこに一番の信頼をおけるというのが何よりだったのである。

 突然、芙蓉に呼び出された美麗は驚いた。

「結婚なんてとんでもない! 第一私まだ大学生よ。そんなこと全然考えられないわ!」

「美麗にとっては考えられなくても考えてもらわなくちゃ会社として困るのよ」

「困るって、どうして? 私の結婚でしょう。それがなんで会社が困ることになるのよ」

「それは……」 

 言葉に詰まる芙蓉に傍らに座る高岡がすかさず助け舟を出した。

「美麗さんの結婚は美麗さん個人だけのものではないのですよ。このUОJグループすべての未来をも左右するものになるのですよ」

 自分の結婚と会社の命運とを掛けたとでも言った発言をする高岡に美麗は納得が行かなかった。

「家のために犠牲になるなんて。そんな一昔前の封建社会の日本でのことよ! 私は会社のために犠牲になんてならないわ。好きな人と結婚します」

「結婚、できる相手なのか」

 鋭い眼差しを持った矢で高岡は的を射抜くようにして突いてくる。そこを突かれると……。今度は美麗が言葉に詰まった。そうあの

「彼」とは結婚はできない相手ではある、だけど……。

「できてもできなくても私は好きな人との愛を貫きます!」

 断言するように言うと美麗は部屋を飛び出していた。

 何よりこの家には一秒たりとも居たくない、急にどうしようもない息苦しさに襲われた

からだった。

 父が死んでまだ四十九日もすまないというのに。母の芙蓉はもう高岡を堂々と家に入れ、

まるで夫婦同然のようにして暮らしている。

 その高岡も高岡である。妻子ある身で自宅には帰らず、こうして芙蓉との生活を続け、今では亭主気取りでいるのだから。

 その上、自分に好きでもない男との結婚を強要してくる。

 そんな高岡の、言うがまま、為すがままを良しとする芙蓉にも無性に腹が立った。

「あの家には二度と戻らない」

 心に誓うと美麗の足はただひたすらに一つの場所を目指していた。

 恋しい人がいるあのマンションへと。



「ジュッキー、ねぇいつうちのテレビ直しに来てくれるのよ」

「あぁ忘れてた。近いうちに行くよ」

「近いうち近いうちって前からそう言ってて一体いつ来てくれる? 私もう長いことテレビ見られなくて困ってるのよ」

 女は酔った体をそのまま樹稀也に預けに来た。

酒に煙草と化粧と香水とが入り混じった匂いが樹稀也の鼻先を突く。言い寄ってくる女

達に何度なく嗅がされてきたこの匂い。

一度たりともいい匂いだなどと思ったことはない。

今すぐにでもこの場から立ち去りたい心境になる。それもホストという仕事柄できるわ

けもなく、仕方なく我慢して女達の隣に座っている。ただただ閉店までの辛抱だと自分に言い聞かせて。

 店内では相変わらず雄叫びや拍手がそこかしこで上がっていた。

「樹稀也さん、ご指名です」

のボーイの言葉にテーブルを移ると、そこに座っていたのは、少し年配ふうの女だった。顔の半分ほども隠れる大きな黒のサングラスをかけているので一見して誰であるかは

わからなかった。

「いらっしゃいませ」といつものように挨拶をして女の隣に座った。

「お飲み物は何になさいますか」

 オーダーを聞きながら顔を覗き込むようにしても女は少し顔を背ける感じで樹稀也に背

中を向けていた。

「僕、初めてですよね」

 肩幅の広い背中を追いかけるようにしたとき、サングラス越しに女の横顔がはっきりと

見えた。

 一重の細い目に、薄い唇、細く半円形に描いた眉、そこまでが暗いホールの照明越しに

見えたとき、客が誰であるかがわかった。

「これはこれは随分と珍しいお客様ですね」

 意外という顔で接する樹稀也に、

「私だってたまには息抜きしたくなりますから」

 いつもの低めの声で藤井享子は答えた。

 その表情にはどこかしら普段の冷静沈着で微妙な喜怒哀楽さえも

一切見せない享子とは少し違う趣きを醸し出していた。

「そうですか……だったら何か飲まれるのでしょう。何にします?」

「私、お酒はあまり……」

「飲めないんですか、でも軽めのものならいいでしょう」

 ねっと言いながら樹稀也が小首を傾げ顔を近づけてきたとき、享子の頬はほんの少し赤

らんだように見えた。

樹稀也が享子のためにオーダーしたのはマンハッタン。喉越しのいいこの酒ならば悪酔

いすることはないだろう。何より、

「大人の享子さんにお似合いですよ」

 耳元で囁やくように言う樹稀也に享子の心は波打った。

わざわざ樹稀也に会いに来たわけじゃない。これはあくまでも仕事なんだからと自分に

言い聞かせても心はざわめく。

そんな自分に「享子!」

と喝を入れると、努めて冷静さを装った。

「いつも大繁盛なようで。それだけ男に飢えてる女が多いってことかしら。こんな所に来な

いと男に相手してもらえないなんて。可哀想な女がこれだけもいるってことね。今日は私

もその中の一人になってるってことでしょうけど」

 幾分自虐的とも思える言い方をする享子に、

「そんなことないですよ。享子さんはここに来て男漁りしてるような女達とは違いますから。

あなたはすごく頭のいい人だ。良すぎるからその明晰過ぎる頭脳を使い過ぎて擦り切れて

しまうんだ。だから時々はこういう所に来て充電しないと。あなたが充電するのに僕でお

役に立てるのならいつでも呼んで下さい。お手伝いしますから」

 まるで卵を抱き、その羽で慈しみながら暖めて行く親鳥のように、

樹稀也の口から送り出されてくる言葉、囁いてくる声の一つ一つが享子の心をまるごと

天使の羽でくるんで行く。

このままずっとこうして樹稀也と一緒にいることができたなら……だがその瞬間、高岡の言葉が享子の脳裏によぎる。

「美麗を引き戻して来い!」

 享子はどこまで行ってもUОJグループの高岡付きの秘書なのである。

そうである以上は命じられたことを守らなくてはいけない。

 そのために部下の数人も待機させている。

このまま真っ直ぐに樹稀也のマンションに押しかけ、無理でも美麗を連れ戻してくれば

それでいいものを、どうしてか享子は樹稀也のいるこのアダムスに足を運んでしまったのだ。

「仕事をしているときよりこうやってプライベートでの享子さんの方がチャーミングです

ね。僕はこっちの享子さんの方が好きだな」

「好き」という言葉が享子の心に青いインクを投げ込んだ。

インクは徐々に染みていき、やがて心のすべてを真っ青に染めあげた。

「好き」だなんて男に言われたのはいつ以来だろう。

享子にだって男の一人や二人、いたときがある。でも愛を語り合ったのはもう何十年も

昔、二十代だった頃の話だ。

ベットの中で男の口から「好き」だ「愛してる」だのと言う言葉をかけてもらうたび、享子は心も体も男の胸の中で喜びに打ちひしがれた。けれどいざその恋が結婚に向かって進みそうになると、享子は逃げ出したくなった。

仕事をしてもいいと言いつつも、結局は女を家庭におさめようとする男達。

 享子には仕事を捨ててまでの結婚はありえなかったから。男を捨てるや自分から進んで

浜名の愛人になった。愛や恋、そして俗に結婚といった女の幸せと言われることのすべて

を捨てた。

 そのときから純粋に人を好きになることさえ封印したつもりだったのに……。

 傍らに座る樹稀也の横顔を見ていると封印したはずの女心が騒ぐ。

 同時に美麗のような小娘に独占させたくないという猛烈な思いにも駆られた。

何より樹稀也と恋をしている美麗にたまらいほどの嫉妬を覚えた。

燃えたぎった嫉妬の炎は見上げるほどに湧き立つや、享子の心の水面に見上げるほどの火柱をあげた。

「私がここへ参りましたのは他でもございません。美麗様に自宅へ戻

っていただきたいのです」

 低く感情を押し殺し、あえて事務的に話す。そうすることで心の動揺を悟られまいと必

死なのだ。

そうでもしなければ享子の声はうわずり、ときめきに震えてしまいそうだったから。

そんな享子の胸の内など知る由もない樹稀也は、

「帰る帰らないは彼女が決めることです。僕は居て欲しいと言ったことは一度もないですし、もちろん引き留めたこともないです」

 真っ直ぐに享子を見据えて話してくる。そのまなざし、その瞳にじっと見つめられると、

もうどうしていいかわからなくなってしまう。まるで餌の鎖にまんまと引っかかった野

うさぎのように。

もがけばもがくほどに鎖は深く足に食い込み、どうにも逃げ出せない。

 けれど骨の髄まで仕事人間が染み込んでいる享子は強引にその鎖を外すと、命ぜられた通りの任務を遂行することにした。

「でしたら今からこちらで美麗様をお迎えにマンションへと参りましても、何も問題はございませんね」

「すべては彼女の意思に……」

 あくまでもホストとしての営業用のトークをするつもりでいたのに。出勤するときに見

送ってくれた美麗とあれっきりになってしまうのかと思うとたまらなくなった。

知らずに口をついて出ていたのは自身の本音だった。

「いや連れ戻さないで欲しい。今の彼女には僕がいないとだめだし、僕にも彼女がいないと……だからやっぱりお願いします」

 そう言って樹稀也は深く頭を下げた。同時に栗色に染まった髪が川面に流れるせせらぎ

のようにさらさらと動いた。ほの暗い室内のライトにあたり、キューティクルに包まれた

髪は一段と輝いて見えた。

しばしののち頭を上げ、その美しい顔が現れてきたとき、髪はうまく額の上に収まって

いた。

 少なからず心を動かされている男にこんなふうにして頭を下げられると、ついその願い

を叶えてやりたくなる。でもその一方で二人を引き裂いてやりたいという強烈な嫉妬もあ

る。

 享子の心の葛藤をよそに、樹稀也は美麗が父浜名の死に悲しみ、母芙蓉と高岡の関係で

どれほど心に傷を負ったか、さらにどこにもやすらぎを得られないでいる美麗の孤独を

切々と訴えてくるのだった。

それは同時に樹稀也がどれほど美麗を愛しているかを享子に知らしめることにもなっ

た。

 そんな言葉など聞きたくもない。享子の中の嫉妬心は燃え滾った。

「どうあっても美麗さんには戻っていただかなくてはならないのです!」

 きつい言葉で言うと席を立った。

これは仕事として美麗を引き戻すのだから。

そこに自分の女心など微塵も絡んではいない。

あくまでも高岡から任命された仕事を遂行するまでのこと、となぜか享子は自己弁護を繰り返していた。

 


車で待機していた黒崎ら男達三人は享子のゴーサインの連絡を受け取ると同時に樹稀

也のマンションへとなだれ込んだ、が、そこにいるはずの美麗の姿はどこにもなかった。

「ちっ逃げられたか」

 舌打ちする黒崎に男の一人が言った。

「携帯がありますぜ」

 テーブルにはミッフィーの携帯ストラップの着いた携帯電話が置かれていた。

携帯を置いたまま出かけたということはそう遠くに行っていないはずだ。おそらくそこ

らのコンビ二まで出かけたに違いない。

黒崎を先頭に男達もマンションを出ると辺りを捜し始めた。

 追っ手が迫って来ているなど知らない美麗はトレーニングウエア―に着替え、ウォーキ

ングに出ていたのだ。

美麗にとっては何よりのストレス発散で、このときは誰にも邪魔さ

れたくないとの思いから、携帯はいつも置いて出ていた。

 マンションの部屋では何度となく美麗の携帯の着メロであるサザンのつなみが鳴り響い

ていた。

 

出る様子のない携帯に樹稀也の不安は募った。

 今すぐマンションに戻るべきかどうかと迷う間も「樹稀也さん、3番テーブル指名です」

のオーダーが入る。

 仕方なく携帯を切ると指名のテーブルに向かった。

テーブルではきつめに化粧した女が、

「ジュッキー、待ってたのよ。早くぅこっちこっち」

 真っ赤なマニュキュアを施した長い爪で手招きをしていた。はしゃぐ女の姿を見た途端、

美麗の笑顔と二重写しになった。

あの笑顔ともう会えなくなるとしたら……。

 樹稀也はすぐさま店を飛び出すとちょうど目の前の路肩に駐車しようとしていたピザ屋

の単車を強引に奪い取った。

「泥棒―!」

 叫ぶ店員の声を背中に受けながら樹稀也は全速力でマンションを目指した。


四十代から六十代が主のウォーキング仲間でも、いつもの顔が集まるとまた楽しいもの

だ。お馴染みのメンバーで集まり、ウォーキングを楽しんだ後は近くの公園で円陣を組み、

整理体操で終わる。  

解散する頃になると朝日が西の空に上がってくる。

高層ビル群の間から見る夜明けもまたおつなものである。同じマンションの住民達数人で参加してのウォーキング会、おかげで顔馴染みも出来、美麗にとっては何よりのご近所付き合いになっていた。

その日も世間話をしながら日課である体操を終えると夜明けを待つつもりが、ふと朝食のパンが切れていたことを思い出した。

私、ちょっとコンビ二に寄りますんでお先にと言うと、お疲れさまの言葉を交わしあい、先にその場を離れた。

コンビ二への近道とばかりにまだ明けきらぬ空のもと、公園を斜めに通り抜けようとしたとき、美麗の前を全身黒ずくめの男達が立ちはだかった。

 何? という顔をする美麗に黒崎は「浜名美麗さんですね」と念を押した。何とも答えずにいると、男達数人が美麗を取り囲んだ。

 身の危険を感じた美麗は、

「私に変なことをすると大声を上げますよ」

「お母様より美麗さんをご自宅に連れ戻すようにとのご依頼で参りました。どうかあちらの車にお乗り下さい」

 黒崎が指す公園脇には黒塗りの車が止められていた。いまさら自宅に戻ったところで、高岡と新生活を始めた母芙蓉のもとになど帰りたくはない。もうあの家は自分の家ではなくなっているのだから。

「私は戻りません。母にはそのように伝えておいて下さい」

 そのまま行こうとする美麗を黒崎は、

「どうあってもお戻りいただかなければならないのですよ」

 なおも引き留めようとする。ちょうどそのとき西の空がオレンジ色に輝き始めた。昇った朝日に黒崎の顔が照らされ、くっきりと目鼻立ちが判別できたとき、その顔に見覚えのあることに美麗は気づいた。確か以前自分を襲うとした男の一人だ。と言うことは芙蓉からの依頼というのは嘘に違いない。それに気づいた美麗はいきなり、

「ぎゃあー!」

 大きい声を上げた。と同時に美麗を取り囲んでいた男達が素早く美麗の口を塞ぐと、もがく美麗の体を抱え上げた。脱兎のごとくに公園脇の車まで走ろうとしたところで、一人の男の両足が引き倒された。一人が倒れたことで男達全員のバランスが崩れ、美麗もその場に投げ出された。

「何が起きたんだ!」

 立ち上がりながらも周囲を見回す男達の目に飛び込んできたのは樹稀也だった。

「何してるんだお前ら! へたな真似しやがるとただじゃやおかねぇぞ」

 今まで「仲間」としてやってきた樹稀也である。ターゲットとなる女、それに樹稀也、そして男達、この連携プレーでどれほどの女達を毒牙にかけてきたことやら。その仲間の


一人の思いがけない豹変ぶりに黒崎は驚きながらも、

「どういうつもりだ。てめえこそ余計な手出しすると痛い目にあうぜ」

 後ろに控える男達に黒崎が顎で合図を送った。男達が身構えたとき「待て」の言葉と共に背後の車から一人の男が降りてきた

「またこんなところで会うとはな」

 聞き覚えのある声に、サングラスを外すまでもなくそれが金子であることはすぐにわかった。

「金子、お前どうしてここに」

「お前とはよくよく縁があるようだな」

「今度ばかりはお前がいままで好きにしてきた女達とは違う。美麗だけは絶対に手離さない」

「たとえ手離したくなくても、そう簡単には行かないと思うぜ、洵子ちゃんのか細い腕ではな」

 金子の言葉に男達から、えっこいつ女だったのかという声が上がった。同時に男達の樹稀也を見る目が変わった。一様に唇の端に笑みを浮かべると、樹稀也に歩み寄る。背後に美麗を従えたままで、樹稀也は向かってくる男達に鉄拳を食らわしていく。

 女と知って甘く見ていた男達は意外に強い樹稀也の力にだんだんと本気になっていった。

「もう手加減はしないぜ、お嬢さんよ」

 襲いかかってくる男の拳に樹稀也が必死になって応戦している間に背後で悲鳴が上がった。見れば美麗が黒崎と金子によって連れ去られようとしていた。

「美麗!」

 美麗に気を取られた瞬間、樹稀也の腹部に鋭いパンチが一発炸裂した。腹腸が崩れるような鈍い感覚が下半身を駆け巡り、口から一気に鮮血があふれ出た。さらに左から右からと縦横無尽に男達のパンチが体に浴びせられ、サンドバック状態になった樹稀也はその場に前のめりに倒れ込んだ。

「この際だ、お前らご相伴に預かって帰れよ。こいつはなぁ、童貞じゃねぇけど処女ってぇ代物だぜ」

 金子は意味深に笑いながらそれだけを言い残すと、美麗を乗せたジャガーと共に猛スピードで公園を去って行った。

「こいつ幕張メッセか。バージンなんていつ以来かな。久しぶりにありがたくいただくとするか」

 男達は倒れた樹稀也を木陰に引きずって行くと、すぐさまズボンを脱がせにかかった。抵抗しようにも樹稀也の体はどうにもならないほどに痛めつけられ、指一本動かせない。また助けを呼ぼうにも声さえ上げることができなかった。

「どれどれ、それじゃぁ観音様のご開帳と行くか」

 黒崎が樹稀也の両足を大きく左右に180度開くと、ほら穴に落ちたきつねを見るようにして股間に顔を突っ込んだ。

「これはこれは、傷一つないさらの観音様だぜ」

 黒崎はにやけた顔で自分のズボンのベルトを緩めると、やおら樹稀也の体に覆いかぶさった。

 鈍感が体の芯を突き抜けて行く。

「新品の中でもこいつぁ上物だな」

 黒崎は掘り出し物だと関心しながらもなおも樹稀也を突きまくっていく。次第に下半身にじっとりとした湿り気を感じていった。

 体中すべてが痛む身で抵抗を試みようとするのだが、

「ほれほれおとなしくしなよお嬢さん。直にこれがすごーく気持ちよくなるからよ」

 数人の男達に両手両足を押さえつけられ身動き一つできない状態の中で、黒崎は腰を振り子のように激しく上下に動かすとやがて恍惚の表情を見せ樹稀也の中で果てていった。

「あーすっきりした。しばらくやってなかったからよ。よし、今度はお前らやれ」

 黒崎は樹稀也の体から離れると、男達に顎で促した。

「ありがとうございます。では次は俺らが頂戴します」

 男達は股間に両手拝みをしながらも代わる代わる覆いかぶさると、樹稀也を犯していった。

 どれほどの時間、男達の毒牙を浴びせられたことだろう。

「ありがとうよ、お嬢さん。どうだ気持ちよかったかい。これからは男で生きるより女の方がずっといいってわかったに違いねぇ。気持ちいいこといっぱいできるんだからよ」

 黒崎らは高笑いしながらその場を去って行った。

 男達の背中が視界から消えたところで、全身に痛みを感じる体でゆっくりと起き上がると、足元に雑巾のように転がっていたズボンを手にした。膝上までズボンを引っ張り上げたとき、赤いしずくがひとすじ内股を流れていくのが目に入った。

 その瞬間、たとえようもないほどの悲しみに襲われた。

 とめどなく涙が頬を伝う。

 それは男達にレイプされたからではない。たとえ心はどうでもどんなに抗ったところで男から見れば自分はやはり女なのだという現実、それが悲しかった。

 幼い頃、スカートが嫌いだった。無理に履かせようとする母栄子に逆らい、わざとパンツ一枚で保育園に通園したこともある。大きくなればこの身にオチンチンが生えてくるものだと信じていたから。

 男の子と同じようにズボンを履きたかった。けれど……。

 思春期を迎える頃には体は徐々に「女」の身体つきへと変わっていった。どうしてこんな身体になるのかが理解できなかった。可愛く膨らみかけた乳房を目にしたとき、カッターナイフで切り落としてしまいたい衝動に駆られた。

 何よりある日、パンティの中央に日の丸のように赤く染まった鮮血を目にしたとき、どうしようもない憤りに襲われた。思わず錐を手にするとわが身の下半身を突いてしまおうかとさえ思った。だができなかった。そこまでする勇気もないままに、とにかく女としての人生だけは捨てた。それからはずっと「男」として生きてきた、なのに……。

 樹稀也はゆっくりと地べたに仰向けに身体を預けると、静かに目を閉じた。その脳裏に心は男でありながらも身体が女であるために、その外見の性で生きることを強要され続けた苦悩の日々が浮かんだ。

 好きな女に好きだと言えない。たとえ好きになったとしても一生、好きな女を抱くことさえもできない。

 涙は流れるままに幾筋も頬を伝っていく。その頬にぽつりぽつりと雨だれが落ちてきた。やがて雨だれは間隔を増し、樹稀也の頬を激しく叩き始めた。

 急なにわか雨となり、容赦なく全身を打ち付けていく。激しい雨に樹稀也は濡れるままになっていた。やがて雨は頬の涙を流すや、さらに下半身部分から地べたまでを染め上げた鮮血を流していった。

 まるで滝のように流れて行く赤。それはまるで樹稀也の「女」をすべて洗い流してしまうかのようにも思えた。

 

浜名家の床の間にはめでたさを壽ぐとの言い伝えのある富士の掛け軸が掛けられていた。

 浜名泰造は仕事以外にさほど趣味と言えるほどのものがある男ではなかったが、唯一趣味と言えるのが骨董だった。何軒もの骨董屋が浜名には付いており、そこの亭主らが勧められるままにあれやこれやと買い漁っていた。中には法外な値段で売りつけられた贋物も何点かはあったようだが。

 浜名の死後、芙蓉はその処分に頭を悩ませているところではあるけれど、こんな祝い事のときにはやはり役に立つ。

 急な縁決まりに仲人を立てる暇もないままの結納式である。

 振り袖姿に身を包んだ美麗は、両親となる芙蓉と高岡の三人で横並びに正座していた。たとえこれが一刻の芝居で済むと言われてはいても、どうにも拭いきれない不吉な予感が目の前を漂う。

「結婚! どういうことなのそれ!」

 自宅に引き戻された美麗に待っていたのは光井国友グループの御曹司である金子トオルとの結婚だった。

「そんな好きでもない人と……嫌よ。絶対に嫌!」

「好きも嫌いもない。結婚してもらう以外にUОJグループが生き伸びる方法はないんだ」

「だから私に会社の犠牲になれって言うの。冗談じゃないわ。私、会社のためになんて犠牲にならないわ!」

「この結婚は会社のためと言うよりは会社に勤める人達の人生がかかていることなのよ、だから美麗、お願い」

 芙蓉の目には涙が溜まっていた。高岡は会社の現状を話した。

 現在のところ東京三西との交渉は再開のメドが立っていない。

 今の状態では決定が翻らない様相を呈している。もしもそうなったならUОJとしては不良債権処理さえもおぼつかなくなる。そうなれば中間決算での財務面の不安が深刻化してしまうのだ。ここはどうあってもいますぐの増資が必要なのである。光井国友フィナンシャルグループは今年度中の雑増資に応じてくれるというのである。

「増資の見返りはもちろんUОJとの統合だ。統合は地裁の決定が出た後にでも引き伸ばせるがとりあえずはどうしても九月期までの増資を実行したい」

 その手段の一つとして高岡は縁組を申し入れたのだった。

 あの一席を設けた席で美麗に並々ならぬ興味を示している金子の様子に、高岡はいち早く気づいた。ここで縁組を申し入れておけば増資だけでも期待できる。

 言わば結婚は手付けのようなものだと。

もし仮に高裁でUОJの主張が認められた場合は即座に離縁して戻って来てもいい。

「とにかく形だけでも光井国友と縁組を交わしておけば九月末までの財務面の不安だけはどうにか回避できるから。形だけの結婚だ」

「嫁ってすぐに戻ってくればいいんだから」

 ねっねっと芙蓉は何度も念を押した。

それは会社のためというよりは高岡のためと言った方がよかった。

こうやって高岡に借りを作ることで芙蓉はこの若い男をずっと繋ぎとめておこうと必死なのだ。

「お願い、会社のために……会社のために」

 芙蓉の「会社のために」と繰り返す言葉が美麗には「私のために私のために」と言っているように聞こえた。もう芙蓉には頼れる相手は高岡しかいないのだ。頼れる誰かがいつも側にいて支えてもらわないと生きてはいけない女、それが芙蓉である。

おそらくここでも高岡に見捨てられるようなことになれば、自らの命を絶つかもしれない。芙蓉の涙まじりの懇願に芙蓉は渋々折れた。

 形だけの結婚という高岡の言葉を信じて。

 結納品が交わされる間も金子は美しい美麗の着物姿をじっと見つめていた。その顔はかねてから欲しかったおもちゃをやっと手に入れられ、うれしくてたまらないといった男の子の顔になっていた。

 一方の美麗はずっと目を落としたままで、結納式が終わるまで一度も金子とは目を合わせることはなかった。

「まあこれでやっとトオルも落ち着くことでしょう」

 金子聡一郎は国友グループを率いる社長というよりは、父親の顔になっていた。結婚することでイベント三昧の大学生生活から完全に卒業し、自分の跡を継ぐべくいっぱしの社会人となってくれる。

これで国友グループも安泰だし、何より自分も一線から退くことができた。そのことの満足感が満面の笑みとなって現れていた。

「まああまり満足に家事もできませんのでお宅にあがっても嫁としてきちんときりもりできますやらどうやら、心配ですが」

「いいえとんでもありません。来ていただけるだけでわたくし共ではもう何よりでございますので」

 親達は型どおりな挨拶を繰り返している。会話はすべてうわすべりな褒め言葉の羅列で、美麗は帯締めで締め上げられている息苦しさも相まって、呼吸困難に陥りそうだった。その様子を察してか、

「ちょっと外に出ようか」

 金子が声をかけてきた。すると芙蓉からも結納が終わったことだ

し二人でちょっと庭でも散歩してきたら、と促され、勧められるままに金子と共に外へ出た。

 杉、桧、松を配した広大な庭は枯れ山水をモデルにしたもので、よく手入れが行き届いている。庭を巡るようにして造られた川は静かに流れ、せせらぎの音が庭にゆったりとした静けさを醸し出していた。

 金子と二人して玉砂利を踏む音が心地よく庭に響く。

 美麗の少し先を歩いていた金子がふと立ち止まると、振り向いた。

「別に俺はかまわないから」

 えっ? 軽い驚きの声を上げる美麗に金子はなおも、

「君は俺のことを好きではない。そうだろ」

 いきなりこう切り出されてはどうとも答えられない。ただ黙って下を向いてしまう美麗に、

「君の好きなのは樹稀也、その樹稀也と無理やりに引き裂いた俺に君は憎しみさえ抱いている」

 その通りだと言いたい思いを胸に秘めたままなおも黙って、何もしゃべらない美麗を金子は唇に笑みを乗せて見た後、言った。

「俺達の結婚はあくまでも統合のためのものだし、いわば政略結婚のようなもの。君は信託裁判の決定如何によってはすぐにでも俺と離婚し、樹稀也のもとに戻るつもりだろ」

 ズバリと心のうちを言い当てられ、返す言葉もなかった。

「君の心にあるのは樹稀也だということを俺は承知している」

「わかっていながらどうして」

「わかっていながらもどうしようもないのが恋心ってもんでね」

 君もそうだろうけど、と付け加えた後に軽く鼻で笑った。

「俺は金融界の覇権とはかけ離れたところでも君が好きだ。俺は好きなものはどんなことをしても自分の手に入れる性質なんでね」

 金子はにやりと笑った。その笑みを投げかけてくる目に美麗は憎しみを持った目で見返した。

「今はそうやって憎しみしか持っていない君が、そのうち俺のことを好きで、ずっと俺の側にいたいと思うようになる」

 いつかきっと君は俺の事を好きになるから、とまるで断言するように言うと、金子は唇の端に笑みを滲ませたままで美麗ににじり寄って来た。

 一歩一歩、金子が近づいてくるたびに、どうしても後ずさりしてしまう。笑っているその顔が思う以上に恐怖感を抱かせるのだ。後ろには川が迫り、もうこれ以上どうすることもできない所にまで追い込まれてしまった。思わず助けを呼ぼうかと思ったそのとき。金子はにっこりと笑い、

「形はどうあれ一応は夫婦になるわけだから」

 握手を求めるように右手を差し出してきた。ただ握手をしたいだけだったのか、美麗は自分の考え過ぎを恥じた。そして求めに応じ右手を差し出し、握手を交わそうと手と手が触れそうになった瞬間、

金子の右手は美麗の右手をかすめていき、着物の脇口へと差し入れられていた。あっ! 軽い驚きの声を上げる美麗にかまわず金子は自分の手に力を込めると、美麗の体を自分の方にぐっと引き寄せた。

抗う間もなく美麗は強引に金子の胸に抱き寄せられていた。

「少しの間こうしてて欲しい」

 金子の胸に抱かれたまましばしの時間を過ごす。鼻先を金子のオーデコロンだろうブルーノートの香りが掠めていった。

「俺に抱かれることさえ今の君は嫌に違いない。だけど君の方から俺の胸に飛び込んでくる、そうなるようにしてみせるさ」

 金子は「きっと」を繰り返しながら美麗を抱きしめる手に力を込めていった。


「ちょっと困ります!」

 引き留める声など無視したまま樹稀也は受付を通り過ぎた。

 エレベーターホールへと向かうも、こんなときに限ってエレベーターは遅い。

「ちくしょう。よし! もうこうなったら」

 六十五階建てビルの四十階となると容易なことではないがこのときの樹稀也にとっては四十階など、どういうこともなかった。走るような勢いで駆け上がった。その後ろを警備員達が追いかけて来る。

「こらー待てー待たんかー」

 同時に館内いっせいに警報ベルが鳴り響いた。鼓膜を破らんばかりのけたたましい音から逃げるようにして、樹稀也と警備員達との追いかけっこが始まった。階段を駆け上がる足音がリズミカルな樹稀也に比べ、四十代とおぼしき警備員達のそれは、下手な刀鍛冶の槌音を聞くようで、仕舞いにそのリズム感の悪い槌音さえも聞こえなくなった。

 警備員達は息切れをし、追い切れなかったのだ。

 樹稀也の方はうまく警備員達を巻いたとばかりに、上り階段を軽快に駆け上がっていた。何度目かの上り階段まで来たとき、いきなり踊り場に防火扉が降りてきた。しまった! とばかりに降りてくる防火扉の隙間に両手を突っ込み、必死に持ち上げようとしたが、防火扉は重く、何より降りるスピードの早さに危うく両手を挟みそうになった。慌てて手を離すと、同時に階段の下り口にも防火扉が降り、完全に踊り場に封じ込められてしまった。

「開けろー! 開けろよー!」

 激しく扉を蹴飛ばすも、やがて天井からスプリンクラーが降りてくるや、いっせいに水が噴き出し、樹稀也めがけて噴射し始めた。

 あまりに激しい水の勢いになすすべもなく、

「勘弁してくれー」

 大声で叫ぶとその場にへたり込んだ。


 両手で頭皮をかきむしりでもするように頭の上でタオルを動かしながら髪を拭く。シャンプーのCMに出てくる美少女と見まごうほどのさらさらヘアーは、まるでおにぎりにへばりついた海苔のように艶を失っていた。頭だけでなくスプリンクラーからいっせに噴き出された水で、シャツもズボンも全身ずぶ濡れだ。

「変わってるわね。母親に会いに来るのにこんな無茶なことしなくてもいいのに。受付の子に一言言えばそれで済むものを」

 栄子は畳み半畳はあろうかという机に着いたまま袖口からしずくを落としている我が「娘」を見た。

「受付の姉ちゃんにどちら様ですかって聞かれたら息子? 娘?どっちが会いに来たって言えばいいんだよ」

 樹稀也にこう聞かれると栄子はどうとも答えようがなかった。

「あんたも一応は社長っていうメンツがある以上はこんな僕のこと、

本当は知られたくないんだろ」

 そう言いながら樹稀也の目が真っ直ぐに栄子を見つめてくる。その目にどうとも答えられなかった。栄子は視線をそらせるようにして机の上に置いたシガレットケースから煙草を一本引き抜くと、火を点けようとした。辺りを見回すもライターがない。机の上に置いた書類を上げたり、また机の引き出しを開けたり閉じたりしながら机の回りを探る、もやはりない。

 そんな栄子をじっと見ていた樹稀也はズボンのポケットに手を突っ込むとライターを取り出し、すばやく栄子の鼻先に火をかざした。 

一瞬栄子の左眉がぴくりと跳ね上がった。栄子は動揺するとすぐに左眉が上がる癖があった。本人は心の動揺を他に知らしめることにもなるので、この癖だけは治そうと努力している。努力の成果か、

近頃では眉毛もめったなことでは上がらなくなってきていた、それなのに……。こんな何ということもない時には意識するとしないとにかかわらず、やはり跳ね上がってしまうのだった。

「さすが手慣れたものね」

「仕事柄、一応はね」

 ぽつりと言う樹稀也の口元に微かな笑みが漂った。それは久しぶりで会う母親が自分に対して少しばかりの動揺を感じていることへのうれしさの笑みでもあった。

 栄子は心の動揺を悟られたことにいささかバツの悪さを感じていた。まあいまさら我が娘に対してバツが悪い、もないだろう、と自分を鼻で笑いながらも、樹稀也からの火を受け、煙草に火を点けた。

 さっそく深く吸い込み大きく吐き出す。息と共に社長室全体が紫煙に包まれていく。仕事柄煙草の煙には大概慣れているはずの樹稀也でも、きれいな空気がたちどころにして淀むのは、やはり気分的にもあまりいいものではない。思わず眉根に皺を寄せてしまう樹稀也に栄子は言った。

「ところで何の用?」

「用がないと来ちゃだめ?」

「って用がなくても来ればいいけど、用がなきゃ寄りつきもしないじゃないの」

 黙ったまま突っ立っている我が「娘」に栄子は少しばかり顔を背けるようにして言った。

「用があるからこそ来た、でしょ」

 ズバリと言い当てられ、どうとも答えようのない樹稀也だったが、ここまで見透かされていれば返って話しは早い。

「お金、貸して欲しいんだ」

「いくら?」

「三千万」

 単刀直入にこう切り出してくる樹稀也に礼子は表情を変えないまま言った。

「そんなお金、何に使うの?」

「何でもいいじゃないか。とにかく必要なんだ。あんたにはこの程度の金、はした金だろ」

「はした金だろうが何だろうが、そんな大金を何に使うか、使い道も聞かないままで貸すわけにはいかないわよ。これでも一応はあんたの母親なんだから」

「母親? こんなときだけ母親風を吹かすのかよ」

 そう言って睨み付けてくる樹稀也の目を、栄子はまともに見ることができなかった。

 栄子は大栄グループの女社長として一時代を築いた。

 町の八百屋でしかなかった大栄を大企業にまで育てあげたのはひとえに栄子の手腕ゆえである。企業家としての栄子は成功をおさめたけれど、母親としての栄子は失格だった。家族を顧みることなく仕事に没頭した。

 おかげで家族は崩壊。店の規模が拡大していくにつけ、栄子の夫という見方しかされなくなった父親は女を作って家を出て行った。

 いつも学校から帰ると二つ上の兄とたった二人きりで部屋の隅に座り、毎日夜遅くまでテレビを見ながら栄子の帰りを待った。栄子の帰宅は毎晩深夜となり、待ちきれずに寝てしまう。そんな日々の連続にやがて兄は夜の街を徘徊するようになり、酔っ払いとの喧嘩に巻き込まれて死んだ。そして一人残された樹稀也も……。

 視線をそらせていた栄子は改めて樹稀也を正面から見据えた。

「たとえどうでも私はあんたの母親に違いないんだから。こんな大金貸す以上は使い道を聞くのは当然でしょ」

「手術したいんだ」

「手術?」

 眉根に皺を寄せる栄子に樹稀也は屈辱をさらけだすという思いで口を開いた。

「性転換手術を受けたい」

 樹稀也から出た言葉に、とうとう来るべきものが来た、と言う思いがした。もし立っていたならばその場に崩れ落ちていただろう、でも幸いなことに社長室の机を前にして座っていたことで、どうにか自分の身を持ちこたえておくことが出来た。いつかこの日が来るとは思ってはいても、いざ愛しい我が娘が男に変わる、などということを目の前に突きつけられると、どうしようもないほどに心は波立つ。左眉はもはや痙攣しそうなほどの勢いで動こうとしているのを栄子は必死になってこらえた。

 つい十年程前のことを思い出す。洵子のある日突然の告白に、驚き、怒り、悲しみもした。ただ母親である自分への反抗から来たものだと思い、親子喧嘩を繰り返し、果ては精神病院に強制的に入院させたりもした。けれどすべてはどうすることもできない真実であることを悟ったとき、もうなすすべなどなかった。だからこそ、

「何でいまさら手術したいのよ。今までだってそのままで別に不都合はなかったんだから。あえて手術する必要もないじゃないの」

 姿形をどう繕ろおうともそれはそれでいい。どこまでいっても我が娘が我が娘であり続けてくれるのならば。それを手術してしまうと言うのならば、もう永遠に娘ではなくなってしまうではないか。

母なればこそ、いつか「女」に戻ってくれるのではないか、この一縷の望みだけは心の隅に残しておきたいはず。それを……。

これだけは絶対に阻止したい。そう思うのは当然だろう。けれど栄子の心の叫びは樹稀也には届かなかった。

「男共を見返してやりたいんだ」

「そんなこと……。男として生き始めたときから、あんたはもう男に一歩たりとも引けを取らず生きてこれたわ。だからそれで充分でしょうも」

「たとえ見かけはどうでもこの身は女だ。体が女である以上は男達にとっては……欲望を満たすための道具でしかないんだよ! だから、

だから……」

 樹稀也の目に涙が滲んできた。滲む涙を見たとき、栄子は樹稀也に何かあったのではないかと察した。

「洵子、あんた男に何か……」

「レイプされた」

 母親とは娘を一番に心配するものだ。栄子も何気に母として娘の心配をしたつもりが、樹稀也の口から衝撃的ともいえる告白を聞いて、栄子の左眉は大きく跳ね上がった。

 樹稀也にすれば、栄子の口から思いがけない名前が出たことで忌まわしい過去を露呈されたような気がした。「洵子」と呼ばれることの方が、レイプされるよりも虫ずの走ることなのだ。

 すぐさま過去の「洵子」を打ち消すように、

「道具のように扱った男達に仕返ししてやりたい。それには今のままの腕力では到底男には太刀打ちできない。だからこそ完全な男になって男達と互角に戦える力をもちたいんだよ」

 必死に訴える樹稀也に栄子はもうそれ以上のことは聞かなかった。

 本当は聞けなかったのだけれど。ただまた大きく動きそうな左眉だけはどうにか止めると、努めて冷静さを装いながら言った。

「そう、わかった、貸すわ。で、担保は?」 

 思いがけず栄子の口から担保という言葉が出たことに樹稀也は軽く驚きの色を見せた。

「お金を借りるのに担保がなきゃ借りれないわよ。それとも何、母親だから担保なしでも借りれると思った?」

 ほんの少し小首を傾げるや両肩を一度気に上げ、下げると同時に視線に力を込め、まっすぐに相手を見据えてくる。栄子が相手を追い詰めて行くときに見せるまなざしである。このまなざしの前に置かれると飢えて人里に降りてきた熊にいきなり遭遇したようになってしまう。そんな樹稀也に栄子はさらに言った。

「親子でも、金は他人よ」

「他人」の二文字がひどく冷たく突き放したものに聞こえた。

 その瞬間に栄子は母親ではなくなった。そう感じた樹稀也は「だったらいいよ」ぽつりと言うと、栄子と視線を合わせないままに、ドアに向かって歩いて行こうとした。段々と遠ざかっていく背中。

ここで引き留めなければもう二度と我が娘とは会えなくなってしまうかもしれない……栄子は愛しさに突き動かされるようにして、その背中に向けて叫んだ。

「あんた、担保ならあるじゃないの」

 社長室のドアノブに手をかけ、今にも出て行こうとしていた樹稀也は手を止めた。思わず振り向く樹稀也に栄子は言った。

「あんたの卵子よ」

 ドアノブに手をかけたまま、驚きの顔を隠せずにいる樹稀也と、そして栄子。社長室にしばしの沈黙が続いた後、栄子が静かに口を開いた。

「あんたの卵子さえあれば、後はどうにでもできる」

「どうあっても橘の血を引く子孫を残したい、って言うよりも本当は自分の財産を他人に渡したくないからなんだろ」

 幾分軽蔑のまなざしを送ってくる我が娘に、財産なんか守りたいわけはない。本当は洵子、あんたの子供が抱きたいからよ。娘と共にその孫の成長を暖かく見守っていきたい、そう思わない母親はいないだろう、そう言いたい栄子だったが、それは口には出して言わなかった。言いたい思いを押さえると、

「そうよ。守りたいわ。私がどれほどの思いをしてこの大栄王国を築き上げたと思っているのよ。私一代で築いたこの大栄王国をそう安々と他人の手になんて渡せるもんですか」

 あえて冷徹な企業家を装った。本当は言葉の裏に隠した母の思いを樹稀也に見抜いて欲しかったのだけれど。

「本当に僕の卵子で貸してくれるんだね」

「もう一つはクィーンズホテルを継ぐこと、この二つを約束するなら貸すわ」

 クィーンズホテルは大栄グループ傘下のホテルだった。

 大栄はバブル景気のさなか、ホテルだけでなくゴルフ場からレストランまで、主たる分野に次から次へと多額の投資をしていった。 

結果的にこの多額の投資が本丸であるスーパー大栄を脅かすことにも繋がっていったのだが……。

大栄は今、かなりの業績不振に陥っている。その煽りを受けて、クィーンズホテルもまた打撃を受けていた。それだけにここが建て直せれば、土台骨である大栄にも好影響を期待できるかもしれない。 

淡い期待を描いている栄子にとってクィーンズホテルは最後の砦なのだった。

ここを建て直すことができたなら、樹稀也も企業家としての基盤を築いていけることだろうし、そしていずれは自分の後を継ぎ、この大栄王国を強固なまでの大企業としてのし上げていってくれるだろう。後継者としてはこんな万全な人選はない。

「継ぐといってもすぐには無理だろうからとりあえずはホテルマンとして働いてもらえれば。それは術後でもいいけど。まずはあんたの卵子を卵子バンクに登録してくるのが先よ。手術はその後」

 わかった、だったら登録してくるよ、と言うと樹稀也は社長室のドアを大きく開けると、去って行った。激しくドアを閉める音が社長室の壁を震わせた。一人残された栄子はしばし黙ったまま自分の指先を見つめていた。

 ふっと思い直し、机の一番下にある引き出しを開けると、奥の方に忍ばせておいたポケットアルバムを取り出した。

 可愛い子猫の絵柄のついた紙製の表紙にはメモリーと記したローマ字が金色で書かれていた。その一枚目を開くと、そこに写っているのは神社の鳥居をバックに宮参り着に身を包んだ赤ん坊と赤ん坊を抱いた栄子だった。目を閉じてぐっすりと眠っている様子の赤ん坊の姿に微かな笑みを漂わせると、次にページをめくっていく。

 次ページには髪の毛をアップにし、赤い着物を着た女の子と羽織袴姿の男の子、そしてその隣に小紋の着物に身を包んだ栄子が立っていた。口を真一文字に結び、カメラのレンズを見ている男の子に比べて、女の子は千歳飴を手に愛くるしい笑顔をふりまいている。

 栄子は女の子の写真に手を伸ばした。慈しむように笑っているその顔を撫でると思わずアルバムを胸に抱いた。

「このときのままで時間が止まってくれたらどんなにか……」

 幼い日のまだ「女の子」だった樹稀也の姿に栄子は涙を滲ませた。

 アルバムを胸から離すと、写真の中の樹稀也に語りかけるようにして話し始めた。

「お母さんは女の子が欲しかったのよ。でも流産の末にやっと出来たのは男の子だった。

だから流産しにくい体になって、排卵誘発剤も飲んで男女産み分け法の勉強もして、やっと女の子を授かったの。待望の女の子をこの腕に抱いたとき、お母さんはうれしくてうれしくて、洵子のこと、部屋中抱いて回ったのよ。おおきくなったら女優にしようとか宝塚に入れようとか、それともスチュワーデスがいいかなとか。いややっぱり可愛い花嫁さんが一番よねなんて。色々夢を巡らしながらね」

 遠い昔でも女の子を得たことの喜びは今も鮮明に栄子の胸にあるというのに……。

そんな思いに心を巡らせながらもその顔は喜びに満ちていたけれど……段々と栄子の顔が曇っていく。

「どうして……どうしてなのよ! 五体満足でちゃんと子供も生める十人並み、いやそれ以上だわよ。それ以上の容姿を兼ね備えた美しい女に生んでやったのに」

 握りこぶしで激しく机を叩いた。重く響く音が床を静かに這っていく。

栄子の握りこぶしの先は赤くなり、血が滲んでいたが、何の痛みも感じはしなかった。

「何の不満があって男になるなんて言うのよ! 私がどれほどの思いをして女の子を生み、育ててきたと思ってるのよ!」

 机に突っ伏くしたまま声を上げて泣く栄子、その耳に、

「社長、ただいまUOJの高岡副社長からお電話ですが」

 机の端に置いたスピーカーから栄子への電話を告げる声がした。栄子はすぐさま顔を上げると、涙声を悟られないように声に力を込めると、

「あっそう。ちょっと三十秒ほど待っていただいて」

 すぐさま涙を拭い、大きな深呼吸を二、三度した後、一つ咳払いをすると、受話器に向かった。

「お待たせいたしました。大栄の橘でございます」

 母親の顔は瞬く間に消え、大栄社長以外の何物でもない企業人、橘 栄子の顔に変わっていた。



 会合に出ての帰りだった。エレベーターに乗ろうとする高岡を大勢のマスコミが取り囲んだ。

 光井国友とUОJ統合か? の報は政財界に衝撃をもたらした。

 東京三西との合併に向けて動いていたUОJがここへ来て光井国友を交渉相手に選んだとの報がマスコミを駆け巡ったのである。

「UОJが東京三西から交渉相手を光井国友に乗り換えた最大の理由は何ですか?」

 さっそく記者に取り囲まれた高岡に容赦のない質問が飛ぶ。それにも落ち着いた表情で答えた。

「誰がそんなことを言ってるんだ」

「もっぱらの噂で」

「失敬な! UОJは乗り換えたりなんぞしておらん。UОJとしてはあくまでも念頭にあるのは東京三西との統合だから。まだ統合に向けて進んで行くにはどうすればいいか、ベストの方法を今の段階では考えている所だ」

「ですが新しく光井国友の社長に就任された金子氏と故浜名社長のご令嬢との縁組が整ったということはやはりここは一気に光井国友との統合に拍車がかかるのではないですか」

「結婚はあくまでも本人同士が魅かれあってのことで、統合には何の関係もない」

「ですが九月の中間決済を前に光井国友からの増資を受けられてますよね。ここを見ても」

「結婚で増資を受けるなどということはない! もしそれを死んだ浜名社長が聞いたらどう思われるか。まったく」

 話にならん! 激怒したまま高岡は記者達を振り切ると、秘書共々エレベーターに乗った。

 本当は記者の指摘通りに美麗と金子の結婚で九月期を乗り切ったのだった。けれどこのままで済むわけがない。光井国友にとって結婚の先にあるのはやはり統合である。抱き合わせを提示するのは当然だろう。だが……。

 とにかく鍵を握るのは高裁での裁判の行方だ。

 東京三西との信託部門交渉先止めの決定が翻らなかったときは、光井国友と統合するしかない。が、UОJの主張が認められたなら

東京三西との統合に一気に加速できる。そのとき東京三西には光井国友に頼った九月分の増資分もおんぶに抱っこで立て替えてもらうことになるが。その場合、国友信託が最高裁に特別抗告する可能性もあり、たとえ特別抗告しない場合でも損害賠償訴訟に切り替わることも考えられる。となれば、その賠償額の重さが東京三西との統合にはネックになる。

 どっちにしろ信託裁判がすべての鍵を握るのだが。それまで待てないのが今のUОJの現状なのである。ここで急場を凌げたとしても、また損害賠償という山が待ち構えており、これを越えたらさらに特別抗告という山がある。それ以前に金融庁のUOJ告発の可能性という懸念もよぎる。

 この三つもの山を克服していかなければならない現実はかなり重い。どっちにしろUОJという石はどう転んでもいいように、とりあえず美麗の結婚で一応の安全牌は握っているつもりだが……。

 どこかに不安がよぎる。本当にこれでよかったのかと。

 高岡はエレベーターの中で大きく一つ息をつくと、目を閉じたままで、秘書の西本に聞いた。

「次の予定は?」

「十二時から商工会議所主催の昼食会、さらに三時から本社で幹部会議が開かれる予定です」

「食事はキャンセルしてくれ。それまで家に帰る。二時半になったら迎えに来てくれ」

 それだけを言うと高岡は足早にエレベーターを降り、駐車場に向かった。

 

樹稀也がその事実を知ったのはアメリカ行きの飛行機の中だった。

 週刊誌を見開いたトップを飾っていたのはUОJグループ令嬢と光井国友新社長の増資見返り婚と書かれた記事だった。

 美麗からはその後、何度となく連絡もあったし、メールも矢継ぎ早に送信されてはきた。そのほとんどが今すぐ会いたいばかりだったが、樹稀也は美麗には何の連絡も取らなかった、というか取る気にならなかったのだ。

 あのレイプ事件の後、樹稀也は一つの決意を抱いていた。

「男」になる、それまでは美麗には会わないと。すべてが完全な男に生まれ変わってから美麗を迎えに行く。それまでは美麗が待ってくれるかどうか不安があった。けれど美麗なら待ってくれるはずだと。

 その思いの丈をメールにして一度だけ送った。美麗からはいつまでも待つとの返事をもらった。それなのに……。その矢先の思いもよらぬ記事である。だが不思議と心に動揺はなかった、というかたとえどんなことがこの先二人の前に立ちはだかろうとも二人を結ぶ運命の糸は決して切れることはない。また誰にも切ることなどできないと信じていたから。

 飛行機の窓から見下ろせば、日本の山や川は鉄道線路に付随したおもちゃのように小さくなり、さらに家並みはマッチ箱から豆粒大ほどになっていった。眼下に広がる見慣れた風景が段々と遠ざかっていく。それは樹稀也にとってもこの日本で二十五年間生きてきたすべてを切り捨てていくようにも思えた。


「行政処分だけで済ましては金融庁が銀行に軽視されますよ!」

「金融行政が揺らいでもいいんですか!」

 金融庁では若手職員らが幹部相手に詰め寄っていた。告発すべきとの信念を貫こうとする若手職員に対して、幹部の反応はいささか鈍いものだった。

 告発に動こうとしない様子に若手職員達は業を煮やし、

「告発しないなら、資料は隠し通せば金融庁なんてどうにでもなるってことになりますよ」

 そもそも日本が景気低迷への道を走ることにもなったと言われる不良債権。その素早い処理を目指した松中大臣に対して、当初反発をしていた大手銀行もついにはその路線に従った。その一方で最後まで反発したのがUОJだったのだ。大栄や大日といった再建途上の大手融資先を抱えるUОJにとっては不良債権処理の問題は今すぐにという段階にはなかったのである。

「何もしていない」

 松中はUОJに対してあからさまに不満を述べていた。けれどここで刑事告発すれば、あらたに金融不安を招きかねないという懸念から迂闊にアクションを起こせずにいた。

 そこでUОJに社内検査のやり直しを命じ、当初「役員の指示などない」と否定していた故浜名泰造に役員の指示があったことを認めさせる会見を開かせたのだった。

 結果的にこれが告発への筋書きが完成された瞬間でもあった。

 UОJと東京三西との統合が宙に浮いた状態でUОJと光井国友との縁組が整った今、地裁からどういう決定が下されようとも、どっちに転んでもUОJの生きる道は残された。金融不安のリスクが解消された以上、ここはUОJ告発に何の支障もなくなったのだ。

 若手職員とのやりとりの末、霞ヶ関の金融庁で松中と向き合った幹部達、その幹部達の前で松中は静かに口を開いた。

「もしここでUОJを告発したならば、市場の信頼を失墜させかねないし、最悪金融システムの混乱を招くことになりはしないか」

「ですがこのまま告発を見逃せば、金融庁は甘く見られますよ」

 なおも詰め寄る職員達に松中の心は様々な思いが駆け巡っていた。

しばらく様子を見るべきか、それとも……。

 目を閉じ、しばし熟慮を繰り返す。

 脳裏に金融相にとの話を持ちかけられたときの、大河原との会話が思い出された。学者一筋で生きてきた自分が政治の世界に入って、果たして期待されるような仕事が出来るかどうかと思い迷う松中に、大河原は、

「迷ったら進む。男には道は前にしか続かない、後ろに道はない。男はいつも断崖絶壁に立って仕事をするものだ」

 いまさらながらにあの言葉が蘇る。

 松中は閉じた目を開くと静かに言った。

「UОJを告発しろ」

 ゴーサインが下された。


 テレビ画面には二列に並び、グレーの背広に身を包んだ金融庁の職員達が粛々とUОJ本店へと入って行く映像が写し出されていた。

「浜名が役員関与を認める会見まで開いたっていうのに」

 テレビ画面を見つめながら芙蓉の顔にはくやしさに滲んだ皺が眉間に深く刻まれていた。芙蓉にとって皺は何よりの大敵。

いつも鏡を手元に置き、皺、シミの一つたりともできないように最新の注意を払っていた。もちろん表情皺などはもってのほか。笑顔もモナリザよろしく口元で微かにほほ笑むだけだし、怒ることは顔の皺だけでなく、美容に何よりの元凶とばかりに、いつも穏やかに過ごすを旨としてきたのに……。

今は自身の皺などどうでもよかった。ここで金融庁の告発が決まったということは、UОJはどうなるのだろう。いやUОJなどどうでもいい。高岡はどうなってしまうのか、その方が気になった。

 不安気に傍らで軽い寝息を立てている高岡を見つめた。

 昼前に突然帰って来たと思ったら、いきなり芙蓉をベットルームに連れて行こうとした。

「昼間っからなんて」

 どうしたのと笑顔で聞く芙蓉に、高岡はひどく興奮した表情で、

「どうしても今、君が欲しいんだ」

 その様子に何かあったことを感じた。

「だったらちょっとシャワーを浴びてくるから」

 バスルームに行こうとしたが、その手を高岡は引っ張った。

「シャワーなんていい!」

 強引にベットルームに連れて行くと、すぐに押し倒した。服を脱ぐのももどかしいと言った感じで、芙蓉のブラウスのボタンを引き千切ると露になった乳房をわしづかみにした。愛撫もそこそこに芙蓉の体に即、入って行くと、一度と言わず二度、三度と飢えた狼のようにして芙蓉の体を貪っていった。何かひどく異常なものを感じた芙蓉は、その常軌を逸したような愛し方に、高岡の中で何かが起きていることを直感していたのだが……。それがこれだったのか。 

 改めて傍らの高岡を見た。

 高岡は芙蓉に背を向けて眠っていた。芙蓉はテレビのスイッチを切ると、何気に高岡の後ろ髪を見た。出会った頃は黒々とした艶のある髪をしていたのに、この頃ではめっきり白髪が増えてきている。

「いろいろ苦労してるのね」

 そっと髪を撫でる芙蓉の手をいきなり肩越しに伸びてきた右手が握ってきた。あっ! 軽い驚きの声を上げる芙蓉に高岡はそのか細い手を握ったままで振り向くと、

「苦労なんて何もないさ」

 ほほ笑むその笑顔がかなり無理をしているように思えた。

「本当に?」

「あぁ。僕にはこうして芙蓉がいる。それだけですべてを乗り切れる」

「でもニュースで……」

 今見たテレビから伝えられた報道に心配そうな顔を見せる芙蓉に、

「大丈夫さ。検査忌避は旧経営陣のもとで行われたことだから」

 資料隠しはあくまでも故浜名泰造指示によるもので、現在の経営陣にはまるで関係はない。告発が自分達まで及ぶことはないだろう。 

もしあったにしても、そのときは世間的にある程度のけじめをつければいいだろう。世間的けじめとは芙蓉が社長職を辞任するという形に持っていけばそれで済む。もともとはそこを見越しての芙蓉の社長就任であったから。そして次期社長の座に座るのは当然、この俺だ。

故浜名泰造の一秘書として踏み出した自分が、思う以上の早さでトップの座に上りつめようとしている。トップの座を手に入れるため、妻子も捨てた。自身の犠牲を持ってして、社長という金名刺が自分の物になろうとしている。今まで漠然と描いていた野心が確信へと変わった。もうすぐそこに、手を伸ばせば掴める位置に来たところで、高岡は自身の興奮を抑えきれなくなったのだ。

高揚感はこんこんと湧き出る泉のように高岡の体内にエネルギーとして蓄積されていった。その昂ぶる自身のエネルギーを爆発させないことには仕事さえも手に付かない。家に駆け戻ると、すべてを吐き出す感じで芙蓉を抱いた。

 高岡の思いなどまるで知る由もない芙蓉はどこか不安気な様子を見せていた。心配事に思いを馳せる、その憂いを含んだ顔がまたたまらなく高岡の「男」を刺激していく。

「不安がることは何一つないから」

 安心させると、まだあり余るほどに残っていたエネルギーのすべてを芙蓉の体に抽出するようにして、何度も激しく抱いていった。


 ついに高裁の決定が下された。光井国友の主張が完全に認められる決定が下されたのだ。

「まさに思う壷」

 金子は経済新聞の一面トップを飾る記事を見ながら、口元に笑みを漂わせていた。こうなれば戦況は一気に光井国友に傾く。これで美麗の仲も磐石なものになった。その一方で一抹の不安もよぎる。

 その不安を金子は父の聡一郎にぶつけた。

「もしも最高裁に東京三西が特別抗告するか損害賠償請求をしたらどうなるんです? 巨額なものになるのではないですか?」

 社長に就任したとはいえ、そこはまだひよっこ。どうしようもない不安に駆られたときには、父でもあり会長でもある聡一郎の助言を頼みにしてしまうのである。

「その額の大きさがネックになるということはない。安心しろ」

 上司が部下に、というよりはやはり父としての顔で息子にアドバイスを送った。聡一郎に一言助言してもらう、それだけでも大丈夫なように思えてくれる。

 トップに立つというのはそれだけ責任感を必要とされる。本当は誰に頼ることも誰を頼りにすることも許されないのだ。それだけについ聡一郎に頼ってしまった自分の甘さを恥じた。

 金子は今、トップに立つということがどれほどの責務を背負わされるかをひしひしと実感していた。

 その同日午後には、もうUОJと光井国友統合! の一報がマスコミに流れた。それに反応するかのように東京株式市場の大栄、大日の株価は急上昇した。どれもすべてUОJの大口融資先である。

 これだけ市場が強く反応したのは光井国友が統合を前に、UОJに対して厳しく不良債権処理を強く求める大方の予想が広がっただめだった。

 事実、高裁決定の知らせを受けた金子はすぐさまUОJの高岡に直接電話を入れている。

 ちょうど芙蓉との逢瀬の真っ最中だった高岡は、荒げた息をどうにか鎮めながら高岡の話に耳を傾けた。

「ご存知の通り高裁の決定が下りましたね」

「えぇ……これですべてはスムーズに」

「まあそうですね。美麗さん共々、一つ身軽で来ていただければうちの方は何も」

 身軽という言葉に意を含めた金子の声が、高岡の鼓膜から脳の奥へと響いていき、脳細胞を微妙に震わせた。それはUОJに対して暗に不良債権処理を迫るもので、それに対しての高岡の答えは、

「できるだけ軽く」

 とだけ答えた。事実、その後に行われたUОJと光井国友との統合後の記者会見の席上においても高岡は、

「大口融資先の処理は上半期うちにもつけます」

 記者のフラッシュを前にしながら断言したのだった。

 この様子をニュースで見た栄子の眉根には深い皺が一本刻まれた。

「うちは自力で再建できないことはないわ。なのにまさか産業再生機構に支援を要請するつもりじゃないでしょうね」

 産業再生機構での支援決定の期限は今年中である。今現在、UОJは統合にかかりきりである。となるとこちらにまで手が回らないというの実情だろう。だったらなおのこと。UОJによる金融支援でどうにか乗り切れないか。栄子はすぐさま受話器を上げると、UОJの高岡社長に連絡を取るようにと秘書に告げた。

 

「その時」はやって来た。

 樹稀也は一人で病室のベットに座ると、緑色した病院着に身を包み、じっと「その時」を待っていた。が、やおら立ち上がると鏡の前に立ち、腰の辺りで結んでいた帯紐の結び目を解くと、病院着の合わせ目を左右に大きく開いた。

 そこには二十五年間、ずっとやみ嫌ってきた女の裸体が眼前とあった。そっと自分の胸を触ってみる。ちょうど手の平で収まる程度の小ぶりな乳房である。つきたての餅のような感触が手の平に広がる。さらにまるで苺のへたのような乳首を指先でつまんでみた。何の感触もない。そのまま下半身へと手を伸ばしていき、幾分薄めのヘアーに覆われた自分の陰部を触った。桃を思わせるような少し盛り上がった果肉の中ほどに、一本筋をつけたような割れ目がある。

 そこをさらに下っていくと、ほんの少し飛び出た突起にぶつかる。

 その突起を通り過ぎ、陰部奥深くまで指を伸ばしていくと、一瞬ひと指し指の第二関節までもがふっと吸い込まれた。

 間違いなく女である。この女の体と樹稀也は今日でおさらばするのである。

 何の感傷もなかった。だからといって、清々する、という思いというのでもない。それよりも今までの自分とはさよならし、新しい人間としての人生が広がると思うと、そのことの方に胸が高鳴った。

 今まで生きてきた「女」としての人生を思い返してみても、いい思い出なんて何もなかった。

 入学式に母にセーラー服を渡されたときも、何でこれを着なくてはいけないのだろうとセーラー服のスカートを不思議な思いで見た。

 また十代の頃、アイドルに歓声を上げる友の姿にも理解できなかたし、バレンタインデーに思いを寄せる男の子にチョコレートを渡そうと必死になっている女の子にもまるで理解できなかった。

 いつも樹稀也が心を奪われるのは「女」ばかりだったから。いわゆる普通の女の子の心というものがまるで理解できなかった。

 あぐらをかいてご飯を食べたり「うるせぇ」「そんなのわからねぇ」などの言葉を使い、男のように振る舞う樹稀也に母の栄子からは何度となく「女の子らしくしなさい」と口やましく言われた。

 家の中だけでなく、外でも、男同様に振る舞う樹稀也に周囲からは「女のくせに」の言葉を浴びせられ続けた。

 思い出されてくるのは「女」という性ですべてを括られ、何をするにもすべて制限を受け、苦痛を強要されたことばかりだった。

 それもこれからは解放される。男になったからといって、束縛から解放され、何もかも自由に生きられるということはない。けれど

少なくとも女はこうあるべきの呪縛からは解き放たれるだろう。

 そっと病院着の合わせ目を綴じ、紐で縛りなおしたところでちょうどノックの音がした。ドアが開くと、

「ミス タチバナ、イッツ オールモスト タイム」

 体格のいい黒人看護婦の言葉に、樹稀也はふっと一つ息をすると、新しい性への扉を開くべく、その一歩を踏み出した。


 その日の新聞の一面トップにはこぞって世界最大のメガバンク誕生! の文字が躍っていた。

 金融界の覇権をかけての対決は、結局光井国友に軍配が上がった。

 これによってUОJと光井国友による世界一のメガバンクが誕生することになったのだ。この世界最大のグループは同時に姻戚関係を結ぶということで強い絆で結ばれることにもなる。

 金子と美麗の結婚式にはこれまでに例のないほどの華やかな宴となった。有名人でもない二人ではあったが、経済界にとっては新たな衝撃といえるほどの統合劇の中で執り行われる結婚式である。話題性も手伝って多くのマスコミが取材に訪れていた。

 笑顔でウエディングケーキに入刀する金子に比べ、新婦である美麗の表情はひどく固かった。それは初めてのことに少しばかり緊張していると言えば、いえなくもなかったが……。

 次々と祝辞を述べる来賓達も日本だけでなく世界にも冠たる一部上場企業の社長連中ばかりではあるがそのほとんどに一面識もない。

 皆、光井国友とUОJの統合にこれからの財界の展望を見据えて集まった連中ばかりである。美麗はお義理で述べられる祝辞の数々に辟易していた。

 一段と高い新郎新婦席から見下ろしても、誰一人として見知った顔に目が止まらないのも不思議だった。自分の結婚式であるはずが。

 隣では金子が次々とやってくる祝い客の杯に付き合わされ、かなり真っ赤になっていた。沈みがちな美麗に比べ、金子はひどく上機嫌で、ときおり新婦の美麗にもその杯を回した。

「美麗も一杯飲め」ともう亭主風を吹かしている。遠慮すると、

「花嫁さんまで酔わしたら今晩どうなるかい」

「がんばれんようになるわいな」

 などと金子と冗談を交わす来賓達。真っ赤な顔をしながらも、うれしくてたまらない様子の新郎に比べ、新婦の方は心ここにあらずだった。

心は傍らにいる夫ではなくて、違う誰かのところにあるなどとは誰もがまるで知らない。そしてひたすら心で願っているのは、この宴会が長く長く続いてくれること。けれどその願いは空しく潰える。

 スピーチも人々の歌声も段々と小さくなっていく中、宴会は終わりを告げた。そして美麗の一番恐れていた瞬間がやってきた。

 今、バスルームからは金子がシャワーを浴びる水音が聞こえている。その水音を聞きながら、美麗はいっそこのまま逃げてしまおうかとさえ思った。けれど……。結婚式を挙げたばかりで花嫁逃走ともなれば、マスコミから格好の餌食となるだけ。何より自分の身勝手さがこの先及ぼす事態を考えると、それは断念した。

 美麗の思いを知ってか知らずか、金子はバスローブに身を包み、洗い立ての髪を拭きながらバスルームから出てきた。

「ひと汗流したら」の言葉に美麗は逃げるようにしてバスルームへ入った。バスルームでまず目に飛び込んできたのは洗面に残された髭剃りとシェービングホームだった。それこそが男のいる風景だった。

 樹稀也と一緒のときにはありえなかった物である。それだけに髭剃りもシェービングホームも、ひどく嫌悪を抱く物に見えた。

ふいに髭剃りを見ていた美麗の中にある「覚悟」が芽生えた。覚悟という意識は自身にもうまく気づかせないようにして美麗の右手を取ると、無意識のうちに髭剃りから剃刀だけを外させていた。

 剃刀を手を伸ばせばすぐ取れる位置に仮り置きすると、シャワーを手に勢いよく飛び出してくる湯水に自分の体を浴びせた。

シャワーはちょうど男の手の平に収まるほどの乳房を通り、つんと上を向いた乳首で水しぶきを弾かせながら、さらにくびれたウエストを通り下半身へと流れていった。薄めに覆われたヘアーを通り過ぎると、その奥深くにある堅く口を閉ざした真珠貝を擦り抜けるようにして流れ落ちていった。

まだ誰にも扉を開かせたことのない真珠貝。これは樹稀也のためだけにずっと取っておくつもりだったのに……。こんな形で好きでもない男に無理やりにこじ開けられるなんて。そう思った瞬間、美麗はバスルームから一歩も出たくなくなった。

排水口へと流れていく湯水を見つめながら、しばしじっと佇んでいた。流れるままに放置したシャワーからは勢いよく湯水が噴き出し続けている。どのぐらいそうしていたのだろう。ふいにバスルームの外から声がした。

「美麗、大丈夫?」

 あまりに長い入浴にバスルームで気分でも悪くなったのかと思い、金子が様子を見に来たのだった。

「大丈夫」と答える間もなく、ドアが開き、いきなり金子がバスルームへと入ってきた。突然のことに美麗は悲鳴を上げた。同時に、

「出て行って!」

 叫びながらシャワーを金子目がけて浴びせかけた。

 勢いよくかかってくるシャワーを避けながら、

「俺達は夫婦じゃないか」

半分笑いながらシャワーを取り上げようとする金子に、そうはさせまいとする美麗はシャワーを持つ手に力を込める。その手は女にしては思いのほか強かった。シャワーを奪い合う美麗の両手と金子の片手が右に左に行き交う中、シャワーから勢いよく噴き出してくる湯水で金子のバスローブはびしょ濡れになった。バスルーム内はさしずべ暴風状態のようになってしまった。どこか笑い半分だった金子の顔からは笑みが消え、本気になると、美麗から強引にシャワーを取り上げた。カランを下げ蛇口の方から湯水が流れ始めたところで、お互い顔を見合わせた。二人ともかなり荒い息を立てていた。

「僕らは夫婦になったんだから……」

 美麗に近づこうとすると、

「来ないで! 一歩でも近づいたら私、手首を切って死にます!」

 バスルームの隅に置いていた剃刀に手を伸ばすと、手首にあてがった。

「悪い冗談はやめろよ」

 なおも近づこうとする金子に、

「冗談なんかじゃない! それ以上近づいたら私、本当に手首を切るわよ」

 本気な様子に金子はそれ以上美麗に近づくことができなかった。

 ほんの一時間ほど前に式を挙げたばかりの夫婦である。本来なら

ば結婚できたことの喜びに浸り、幸せの絶頂を感じているはずを。

 とても新婚とは思えない状況が目の前に繰り広げられていた。

新婚の夫は全裸の新婦を前にしながらも、自身の欲望を満たすこ

ともままならず、お預けを食った犬のようにただ黙ってその美しい

裸体を見ているだけ。

 新婦の方は、新郎に指一本も触らせない覚悟で手首に剃刀を当てて憎しみを持った目で夫となる男を睨み付けている。

他人から見ればひどく恐ろしく不自然な光景がバスルームの狭い空間の中でしばしの間、繰り広げられているのだった。


その日の成田空港には会社関係のみならず金子と美麗の友達までもが集まり、総勢百人近くに及ぶ見送りとなっていた。

ノーネクタイに緑色のスーツに身を包んだ金子は幾分頬を校長させながら、見送りの面々に挨拶をした。

「本日は大変お忙しい中を私と家内のためにこんなにも集まっていただき誠にありがとうございます。これから仕事面だけでなく私生活におきましても新しい一歩が始まるわけですけれども、家内共々一緒に歩いていきたいと思います。私も家内もまだまだ至らない若輩者ではこざいますがこれからもどうぞよろしくお願いします」

 今回の渡米は統合劇に関しての海外での反応を見るというのが名目でがある。何より不正行為への対応は特に米国が厳しい。それだけに告発を受けたUОJに対してニューヨーク証券取引所がどの程度問題視しているかを実地に見聞する、と同時にまだ済ましていなかった新婚旅行をも兼ねてという金子の意向なのである。

 式を挙げたとはいえ、金子と美麗はまだ「夫婦」にはなっていなかった。寝室は別のままで一ヶ月が過ぎていた。

 名目上は仕事第一にしているが、この旅行で頑なな美麗の心も少しは打ち解けてくれるのではないか。そんな一縷の望みを抱いてのニューヨーク行きなのだ。

 金子の思惑とは別で、傍らでただ立っているだけの美麗の気持ちは別の所にあった。

 金子が挨拶の中で何度も「家内」という言葉を口にする度に、幼い頃、どうしても食べられないピーマンを芙蓉に無理やり口に押し込まれたときのような気分になっていた。あのときの、口に放り込まれたピーマンを嫌々飲み込んだときの感じは、まるで食道の中をへびが通って行くのにも似た感触だった。それだけに他人に無理に何かを強いられると美麗は決まってたまらないほどの吐き気を催すのだった。

 このときも女子社員の二人ほどが花束を手に金子と美麗のもとへと近づいてきた。花束を手渡そうとする女子社員の顔がまともに見られなくなり、花束を受け取った直後、猛烈な吐き気に襲われ、思わずその場にしゃがみこんだ。

 異変に気づいた周囲がざわつく中、美麗は口元を押さえながら一目散に洗面所目指して駆け出して行った。その様子に周囲からは、

「奥様、もしかして……」

「あぁそうかもね」

 噂しあう声とそれぞれがお互い目配せをしあう視線とがそのまま金子に向けられた。大勢の言わんとすることは金子にも察知された。

 にやけた視線が飛び交う中を悪友の一人が金子に近寄ると、

「やったな。昔からお前は何でもするこたぁ早かったが、今度もいち早くもう仕込んだか」

 でかしたとでもいいたげな表情で金子に握手を求めた。その手に答えながらも複雑な思いでいた。

 まだ夫婦になっていないのに、本当に妊娠なのか? はっきりとした診断が下されたわけではないので、まだどうとは言えないことではあるが、金子の胸のうちで美麗に対する小さな疑念が芽生えた。

金子は秘書の西本に視線を送った。西本はその目に答えるように、すぐに美麗の後を追って駆け出して行った。


 洗面所に駆け込んだ美麗は他人目も憚らずに嘔吐を繰り返した。

 あまりにひどく嘔吐を繰り返す様子に、トイレで用を済ました女性達は一応に眉をひそめ、手を洗うのもそこそこに皆、洗面所から出て行った。

 洗面台の周囲はいつしか誰も寄り付かなくなり、美麗一人になっていた。胃液までもをすべて吐ききったところで、ひと段落ついた。

 そのまま崩れるようにしゃがみ込むと、洗面所の床に座り込んだまましばし動けなかった。おそらく今、見送りに来ていたほとんどは美麗の妊娠を思うだろうし、金子の方はまだ夫婦の契りも交わしていないにもかかわらず妊娠した様子の美麗に、女房の浮気を疑うだろう。もちろん浮気などしていないし、妊娠ではないけれど…。

 すべてを説明したところで、どこかに疑念は残る。

 思い悩むままにどれほど時間が経ったろう。ゆっくりと立ち上がると、洗面台の鏡に自分の顔を写して見た。

 化粧は剥がれ、目もかなり赤く腫れた、およそいつもの自分とは思えない顔がそこにあった。こんな顔に化粧をしたところで、美麗自身が納得のいく顔にはならない。

 美麗にとっても女としての美学がある。いつも美しい自分、また誰からもきれいと言われる自分で居続けたいのだ。

 やおら蛇口を捻ると、勢いよく飛び出してくる水で顔を洗った。二、三度、左右に顔を振ると、さらに洗面に水を溜め、しばしの

時間、ずっと顔を浸け続けた。


 一ヶ月ぶりの帰国だった。

 飛行機の空から見下ろせば、眼下に広がる日本の風景がやけに新鮮に見えた。

 成田に降り立ったとき、行き交う男、女、子供達もすべてがひどく愛すべきもののように思え、しばし人の群れをじっと見つめていた。特に目が行くのはやはり「男」の姿だった。男の子も少年も青年も、さらには老人でさえもすべてが自分と同じだと思うと、知らずのうちに彼らを目で追っている。今から自分は彼らと同じなのだ。

 いままでは「男の振り」をしながら生きてきたけれど、もう「振り」をしなくてもいい。本当の男になったのだから。

 そのまま出口に行こうとして、ふとトイレに行きたくなった。

 尿意をもよおしてのことではなく「男」として日本に帰って来たその第一歩をトイレで実感してから踏み出したいと思ったのだ。

 男女の人形のマークの付いた洗面所。

 男のマークに入るのに何の抵抗もない。ずらり並んだ小便用器には多くの男性客の姿があり、やけに込み合っていた。以前なら利用客が多かろうが少なかろうが、まっすぐ大便用のトイレに直行するしかなかったのが、今日からは違う。小便用器を利用できるのだ。 

 至極新鮮な感じを抱きながら、男の一人が用を足し終わるのを待つようにして、小便用器の前に立った。

 樹稀也が立ったとほぼ同時に、隣の小便用器にも男が立った。

 年の頃なら四十代半ばとおぼしき小柄な中年男は、何の迷う様子もなくチャックを開け、用を足そうとした。男と並んで「用を足す」というのが樹稀也にはひどく目新しいものに感じて、思わず隣に立つ中年男をじろじろと見た。男はやけにじっと自分を見つめてくる樹稀也に不信感を抱いたようで、訝しげな様子で睨みかえした。

それでもなおも樹稀也が見続けるので、小柄な中年男は前かがみになり、自身の男根を両手で隠すようにして用を足そうとした。

 隠すと見たくなるのが人の常で、樹稀也はその中年男の男根が自分とどう違うのか、まだどこが同じなのかを知りたくなって、隣に首を伸ばし、覗き込むようにしてなおも見続けた。

 中年男は斜に構え、樹稀也に背中を向けるような格好になってしまい、そこで悲劇が起きた。

 いわゆる「方向」が小便用器を大きく外れ、隣に立って用を足していた男のGパンの裾、目がけて勢いよく掛かってしまったのだ。

「何すんねん、おっさん」

 関西人とおぼしき二十五歳前後の背の高い男は、この小柄な中年男を上から見下ろすようにして怒鳴りつけた。

「いやあのそうじゃなくてこいつが俺のを」

 中年男は隣に立つ樹稀也を指差し矛先を向けようとした。

 指さされた樹稀也の方はどうするでもなく、突っ立っていた。若い男は樹稀也に目をくれるでもなく中年男に向けて食ってかかった。

「隣の男は関係あらへんがな。おっさんが明後日の方向向いて小便するさかいにいけんのやろがな! 自分の小便の方向さえきちんと決められんごとなる。そやから年寄りは嫌なんや」

「馬鹿野郎! 人を年寄り扱いするな! これでもまだ朝晩しっかり勃つ! いうて俺は現役や! 方向間違いなんかするか」

「そう言うて俺のGパンに小便引っ掛けとるやないか」

「いやそれはやな隣のこいつが」

 言いかけて隣を見たが、樹稀也はもうその場を離れていた。

 樹稀也はそっと後ずさりして行くと、見ない振りしながら見ている男性客達同様に、素知らぬ顔で違う小便器の前で用を足す振りをしていたのだ。

 あれ? という顔をする中年男に若い男はなおも、

「あっちこっち飛ばしやがって、おっさんのは先っぽだけ一回転して捩れてんじゃねぇのか。さしずめ蝶結びにでもなってる曲がりチンポかよ」

 せせら笑う若い男に小柄な中年男の顔が見る見る真っ赤になった。

「曲がり……貴様言わせておけば」

 若い男の胸倉をつかみに行くと「何だよオッサンやるのかよ」と若い男も怒声を上げ、二人はつかみ合いの喧嘩になった。

 何気に用を足しに入った男達も二人の様子に異変を感じ、そこここから「おいやめろ」の声と共に二人を止めようとした。それに「離せ、馬鹿野郎」の言葉が飛び交う中、男子トイレの中は大変な騒ぎになっていた。

 樹稀也は自分の視線から起こしたこととはいえ、ここは逃げるが一番と決めた。興奮状態でつかみ合う若い男と中年男、その二人を止めようとする男達の様子を遠巻きにしながら、そっと後ろ向きのまま男子トイレを出た。

 運悪くちょうどそのとき、女子トイレから出てきた女と入り口すぐの所でぶつかってしまった。女は蹲ったままでいる。たいして強くぶつかったわけでもないのに……と思いながら、

「すみません」

 謝ったが女の方は微動だにしなかった。どこか打ち所でも悪かったのかな。不安な思いを抱きながら「大丈夫ですか?」と蹲っている女の耳元に覗き込むようにして声をかけた。するとその声に答えるようにして女はか細い声で「大丈夫です」と答えながら立ち上がった。長い髪に隠れていた女の顔がはっきりと認識できた瞬間、

「樹稀也!」

「美麗!」

 思いもよらぬ再会に、お互いを見つめたまま、しばしの間、その場を動くことができなかった。


「本当にずっと女性用洗面所の前で待っていたんだな」

 社長である金子に詰め寄られた西本は内心の動揺を悟られないようにしながら、

「はい」

 力強く答えた。本当は女性洗面所の前で待っているとき、思わず元カノだった圭子が中から出てきたのだった。足早に歩いて行こうとする圭子を呼びとめると思わぬ再会にしばし話の花が咲いた。

 大学時代は垢抜けない田舎娘で、話をしてもつまらなく、物足りなさを感じた西本はあっさり圭子を捨てると、同じゼミの仲間でもあった利恵に乗り換えたのだけれど、その利恵とも別れた。ここのところはずっと女っ気なしで、相手をしてくれるのは元気な右手だけ、という侘しい独身生活が続いていたのだ。

 しばらくぶりで会った圭子はおしゃれで洗練された都会の女に生まれ変わっていた。これはこのまま偶然の再会で終わらせるのはもったないと食事の約束を取り付けるのに必死になっていたのだ。もしかしたらその間に美麗が洗面所から出て行ったかもしれないが、西本はそのことは黙ったままでいた。

「先にご自宅に戻られたと思いますけど」

 金子は西本の言葉を信じ、そうかと頷いた。社長の言葉に西本はほっと安堵の根を下ろした。

新妻は具合が悪いということで、金子だけが視察に飛び立つことになった。

見送りのほとんどは美麗の妊娠を思い、皆一応ににやけた顔で金子のアメリカ行きに手を振った。笑顔で答え、挨拶する金子だったが、心の中には美麗に対する疑念が芽生えていた。もしかして本当に妊娠なのか? とするならば相手は誰だ? 

もし仮に妊娠していないなら、あれは自分と一緒にアメリカに行きたくないがための演技なのか。あれほど大勢いた見送りの前であそこまでの演技ができたとしたならば、美麗の心は自分が思う以上に頑なであるということだ。

どうすれば真に夫婦となれるのだろう。

あれこれ思い悩みながらも、西本に美麗の様子だけは後で連絡してくれと言い残すと、金子は一人、機上の人になった。


ホテルの一室で、美麗と樹稀也はお互いを見つめあったままでいた。美麗は樹稀也の顔を両手で挟むと慈しむようにして一つ一つを触っていった。

「凛々しい眉毛もそのまま。この涼しげな目は今、私だけを見ているのよね」

 小さく頷く樹稀也に、細くて長い指先が鼻筋を通っていき、唇へと伸びて行く。

「高い鼻があって……」

 唇にひと指し指を伸ばすと、その美しく重ねた唇を指先で静かになぞった。

「この唇は私だけのもの、よね」

「そうだよ」

「会いたかった」

「僕も」

 見つめあう二人は唇を重ねると、お互いの心臓の音が聞こえるほどに抱きしめ合った。

「元気そうだね」

 笑顔の樹稀也に美麗は首を横に振った。

「私……結婚したの、知ってるでしょう?」

 樹稀也は黙ったまま下を向いた。結婚のことは知ってはいたけれどどうすることもできなかった。いやしなかった。自分はどこまで行っても「女」なのだから。それに美麗の結婚には会社の命運がかかってもいたから。

会社のために犠牲になるなど、今では考えられないことではあるけれど、常識的に考えれば、金子と結婚した方が、子供も持てるし幸せな結婚生活が送れる。すべては美麗の幸せを思ってどうとも動かなかったのだ。

「私、離婚するわ」

 金子とは絶対に別れるという美麗に樹稀也は首を振った。

「たとえ美麗が離婚したとしても、僕は君を幸せにすることはできない。だから……」

 このまま金子との人生を歩んで欲しいという樹稀也に、

「いや! それは絶対にいや!」

 涙ながらにもうこれ以上は金子とはいたくない。一生、樹稀也と離れたくないと訴える、その頬を幾筋もの涙が流れ落ちた。

 白く透き通った陶器のような頬を流れる涙を見ると、心は揺れる。

 本当は美麗と一緒にどこか遠くへ行って暮らしたいと思う。だけど……。

「僕は君を幸せにすることはできないから」

 君が幸せになることが僕にとっての幸せなのだからの言葉を残し、まだ涙にくれる美麗の額に軽くキスをすると、その場を立ち去ろうとした。

「待って!」

 去って行こうとする樹稀也の背中に抱きつき、両手を胸にまわした、そのときだった。いつもとは違う感触を手の平に感じた。

 あっ! 思わず両手を離すと、樹稀也の顔を見つめた。その目は笑っていた。笑いながら、触ってみるかいと一言言った。

 樹稀也の前に回ると、恐る恐る手を伸ばし、そっと胸を触ってみた。以前なら夏蜜柑ほどに盛り上がった胸が完全とあったのに。

今は至極平坦だ。思えば幾分腕の筋肉も盛り上がっているようにも見える。

「樹稀也、これって」

 訝しげな顔をする美麗に樹稀也は言った。

「僕、男になったんだよ」

 そう言われても今一つ信じられない。その思いに答えるように、樹稀也はその場で上着を脱いだ。

 美麗の目の前に逆三角形をした男の裸があった。かなり鍛え上げられたであろう肉体には乳房の変わりに、胸板厚く、たくましい筋肉をつけた上半身があった。

 美しいとまで表現できる肉体美にしばし見惚れた。

 素晴らしい上半身をくまなく見た後で、やはり気になるのは「下半身」だった。その思いをストレートに樹稀也にぶつけた。

「すべて、が男になった、の?」

 美麗の問いかけはあらかじめ予想していたことだとばかりに、

「生まれ変わった僕のすべてを見せるよ」

 その場でズボンを脱ぎ、さらにトランクスも脱ぐと、一糸纏わぬ姿を美麗の前にさらけ出した。

 上半身に比べ、幾分細めの下半身。腹筋が割れた腹から目を落としていくと、ヘアーに覆われた中に「女」はもはや存在しなかった。

 そこにあるのは見まごうことのない「男根」だった。

 間違いなく存在する男の裸体に、美麗は思わず息を飲んだ。

「男になったのね」

「あぁ、美麗のため、そして何より僕自身のために完全な男になったんだ」

 目の前に露にされた裸はまるでギリシャ彫刻のようだった。

 美麗はその体に抱きついた。

「抱いて」

「えっ?」

「完全に男になったこの体で私を抱いて」

「でも……」

 君はもう人妻なのだからと躊躇する樹稀也に、

「私はこれから好きでもない夫と何十回、いや何百回となく抱かれていくのよ。だったらせめて一度だけ、一度でいい。本当に好きな人に抱かれたい。そしたら私、この樹稀也との一夜を思い出に一生生きていくことができるから」

 お願いと懇願してくる美麗の瞳にだめだと冷たく突き放すことはできなかった。


 美麗の体は柔らかかった。

 小ぶりな胸も細い腕と足をした華奢な体も、抱きしめると腕の中で壊れてしまいそうだった。その白い乳房を愛撫すると、体は徐々に細胞の一つ一つが弾け飛んで行き、やがてピンク色に染まった。

 樹稀也はピンクに染まった美麗の体を自由に飛び交う蝶のようだった。蝶は上半身からさらに下半身へと舞い降りていくと、固く口を閉ざした蕾へとたどり着いた。蕾は厚い果肉に覆われ、その花弁の奥には未だ誰も足を踏み入れたことのない花芯があった。

花弁をひと差し指で丁寧に一枚一枚押し開いていくと、熟れた花芯がさらけ出された。 

すると花芯からは寄ってくる蝶を誘うかのようにして蜜が抽出され始めた。

樹稀也は美麗の股間に顔を埋めると、舌で蜜を味わった。さらに花芯の奥へと舌先を伸ばしていくと、舌の先端を小刻みに動かし続けた。同時に美麗の口からため息が漏れた。ため息はやがてあえぎ声へと変わっていき、その声が一段と高くなったところで、美麗の口元から唾液がひとしずく零れて落ちた。

充分に蜜を味わったところで、蝶は自身の体に新しく植えられたばかりの長い触角を伸ばすと、花芯の奥深くへと入って行った。

初めて樹稀也と心身ともに一緒になれた瞬間だった。

見つめる先に樹稀也の淡い瞳がある。この瞳は今、自分だけを見つめている、それだけでもう充分だった。

この幸せをいつまでも味わっていたい。

樹稀也は美麗の花芯を強く激しく何度も突きながら、この幸せを体全体で実感していった。


美麗にとってもそれは初めてのことだった。

たとえ結婚したと言っても、まだ夫とは夜を共にしてはいない。

処女妻のままでいたから。

あるときはやさしく、またあるときは情熱的に迫ってくる樹稀也に初めて「男」を感じた。そのたくましさは美麗に女の悦びを感じさせてくれた。

 樹稀也にとっても好きな女を抱けるというのはまるで夢のようなことだった。こんな日は絶対に来ないと思っていたから。

 今、傍らに眠る美麗を見ると、間違いなくこれが夢ではなかったことを実感する。このまま二人でずっとこうしていたいけれど。

それは許されないことだった。美麗は人妻だし、たとえ体はどう生まれ変わったとしても、自分は女。美麗を幸せにはできない。  

何より二人でいてもこの先、幸せが待っているとは思えない。

樹稀也はベットから抜け出ると、バスルームに向かった。

 裸になりシャワーを浴びようとして、やめた。シャワーを浴びてしまうと美麗との一夜をすべて洗い流してしまうようで……せめて今日一日だけは美麗の汗を感じたままでいたい。

 手早く服を着直すと、まだ眠っている美麗の寝顔を見つめた。

窓から朝の日差しが差し込んでいる。その光のシャワーに美麗の顔や華奢な肩、そして小さな胸元が輝くように照らしだされている。

ブランケットの中で眠る美麗はさしずめ生まれたてのビーナスのようでもあった。その白い横顔を脳裏にしっかと焼き付けた後、携帯を手にすると、

「今、赤坂パークホテルの三十階にいますので迎えを」

 それだけを告げ、一人、部屋を出て行った。

 

UОJ銀行元頭取ら逮捕! 新聞の一面には黒枠で囲まれた中に白い太字で抜かれた文字が一際目をそそるように浮かび上がっていた。

金融庁による立ち入り日程の情報を入手したのはUОJの元頭取犬飼久だった旧三亜銀行の検査を担当し、多額の不良債権処理費用の積み増しを請求したことで知られる人物だけにかなり手強い。

「確かそのお陰でうちも黒字から大幅赤字に転落しただろ」

 過去の経緯を思い出し、故浜名が口を挟んでいたことが思い出される。UОJ発足間近のことで、UОJは日和の持ち株会社だっただけにこれはかなりの痛手となった。

「こうなれば打つ手は一つ」

 そこで犬飼が提案したのは、融資先ごとの嘘のシナリオを作ることだった。

 ヤバファイルは経営悪化している融資先を問題がなかったというふうにする。

 犬飼はそのためのつじつま合わせに財務内容に関する資料を別室に移し、パソコンのデータをまったく違う部署へと移動する。クリーンスクリーンは資料の消去、削除の徹底のこと。それぞれに隠語を作って三万件にも及ぶデーターを隠蔽したのだ。

「金融庁の検査を乗り切れなかったらボーナスはないと思え」

「今度の働きでどれだけ会社に対しての忠誠心があるかというのがわかるんだ」

 犬飼の口から出た言葉は、社員達には背中に突きつけられたナイフだった。社員すべては隠蔽工作をするしかなかった。この非常事態を受け、UОJの主たる役員の多くでさえも融資先の再建や不良債権処理を担う審査部門のトップと共に働いたのだった。

「どうせ金融庁は俺達を最後まで追い詰めることはしないさ」

 高をくくっていた犬飼の言葉に高岡も安心しきっていたのだったが……その読みは甘かったようだ。大蔵省時代のМОF担による事前調整手法は過去のもとなり、今は事後点検型へと大きく転換していたのだった。行政を取り巻く環境が大きく変わったということの認識が犬飼だけでなくトップとして君臨していた故浜名にもなかった。

 組織ぐるみで不良債権を隠そうとした疑いで犬飼を始め、当時の審査部門のみならず銀行トップのほとんどが逮捕されてしまった。


 金子はいつもと変わらぬ朝を迎えていた。

 トーストにサラダと果物に毎朝の習慣であるちょっと熱めのミルクティーにするところを、今日はアメリカンコーヒーだった。殊更に滞在先に敬意を払って、というわけではないけれど。

 大きめのカップを手に、まずはパソコンの画面を開く。

 画面にはUОJ元頭取らの自宅捜索される様子が映し出されていた。記事の内容を読んでもさして驚きはしなかった。予想されていたことだ言えば、そうだから。そのまま三面記事へと画面を変えたところで、電話を手にし、国際電話をする。

 たとえこの身は外国に居たとしても、パソコンがあれば会社の状態など瞬時にしてわかるからいいとはいえ、金子はやはり電話で確認しなくては気が済まないのである。

「別になんら問題はありません」

 西本の言葉を耳にし、ほっと安堵の根を下ろし、電話を切ろうとしてふと美麗のことが気になった。

「美麗はどうしている?」

 自宅にかけても携帯に掛けても繋がらないといささか苛立ち加減で聞いてくる金子に、西本はどう答えていいものやら返事に困った。

 あのアメリカに出発の際、美麗については体調不良で自宅に戻ったことにしていたが……。実際その後も美麗は自宅には帰っていないのだ。どこに行ったのやら皆目検討がつかないといった状態なのである。

 社員数人に手伝わせ、必死になって行方を捜しているところではあるが、美麗の居場所はようとして知れなかった。これをこのまま報告するのか……どうするのか。思い迷っている間に、勘の鋭い金子は少しの異変に気づいたようで、

「自宅にいないのか」

 金子の低い声が耳道を通って鼓膜へと達すると西本の柔な鼓膜など打ち砕くように響いてきた。幾分背筋を伸ばしながら口を開いた。

「はい……実はあれからどちらに行かれたのか皆目検討がつかない状態でして」

「馬鹿野郎!」

 憤りに心が騒ぎながらも、金子の胸にふっと樹稀也の三文字が去来した。まさかあいつと……。だがあいつにはもう二度と美麗に近づかないように伊勢での一件で楔を打ち込んだはずだが……。

「早急に居場所を捜して連れ戻せ!」 

 それだけを言うと電話を切った。

 世界一のメガバンクを手に入れ、さらに俺の眼鏡にあった女も女房にした。おのれの欲するものすべてを手にしたと思ったのに……。

 自分にとって一番愛しい者が手に入れることができずにいるとは。

「俺は自分が手にしたいと思ったものは全部物にしてきた、いままでずっと。これからもだ!」

 金子は握り拳で思いっきりテーブルを叩いた。軽い衝撃音がテーブルに伝わった後、握り拳から滲み出た血が一滴、テーブルの端から床に落ちた。


 目覚めると傍らにいるはずの樹稀也はいなかった。

 驚きベットから跳ね起きた美麗の目の前に真っ先に飛び込んできたのは真っ直ぐに背筋を伸ばしたままの姿勢で、胸元より幾分下で両手を組むと、微かに小首を傾げ、挨拶をする。いつもの見慣れたポーズだった。

「お目覚めでございますか、美麗様」

 女にしては低めの声で、発する言葉も毎度同じ。ただ普段と違うのはその腕にバスローブを掛けていることだけ。笑顔もなく、まるで蝋人形を思わせるのもまったく同じである。

 生まれたときから何百回となくこうして起こされてはきたが、つくづくこの人の無機質な表情にはいつも眠気を吹き飛ばされる。裏を返せば、それだけ性能のいい目覚まし時計ということになるのだけれど。

「藤井さんがどうしてここに」

 ホテルのベットルームの一室でありながらも藤井享子を目の辺りにしたことで、美麗は一瞬自宅かと勘違いするほどだった。それだけに享子が目の前にいることに、どうにも合点がいかなかった。

「お電話をいただきまして」

「電話?」

 樹稀也から美麗を迎えに来るようにとの伝言を受け取ったと享子は告げた。

「そんな!」

 美麗は自身が一糸纏わぬ姿だというのも忘れ、ベットから飛び出すと、享子に詰め寄った。

「樹稀也は、樹稀也はどこに行ったの?」

 どこに隠したのかと全裸のまま迫ってくる美麗に、享子は幾分目を逸らし加減にしながら、

「美麗様、まずはシャワーでも浴びられて……お話はその後で」

 手にしたバスローブを美麗の素肌に纏わせると、お湯加減を見て参りますのでの一言を残し、バスルームへと足を向けて行った。

 美麗は肩にバスローブを羽織ったままでベットを見つめた。

 サッシ越しに差し込む日射しにシーツに残った皺が鮮やかに浮かび上がっていた。まるで寄せては返す波のように、幾重にも刻まれた皺を見つめながら、美麗は樹稀也との一夜を思い出していた。


 UOJとの統合は再び動き始めた統合の基本的合意書を取り付けた。国友信託が申し立てた交渉差し止めが東京高裁で翻ったためだ。

 これで完全にUOJは光井国友に支配される形となり、当然樹稀也の母である栄子の大栄もUOJに吸収合併されることになってしまった。

 産業再生機構は大栄に融資した銀行に約四千億円の債権放棄を求め、それを再建策とした。大栄の債権処理が終われば大手銀行が抱える不良債権処理もほとんど終わったと言っていい。

 浪速の安売り王の名前と共に店舗をチェーン化することで経費を抑え、消費者主義を貫いてきた。さらに土地を買い漁って店舗を広げていくいわゆる土地本位制は土地価格の上昇に繋がり、そのことで銀行は上限なく資金提供をした。逆にその豊富な資金がゆえに外食産業などといった多角経営にまで手を広げ過ぎた。結果的にバブル経済が崩れ、さらに阪神大震災にも見舞われたことで急速な業

積悪化にもつながっていった。

UOJとの統合は再び動き始めた統合の基本的合意書を取り付けた。国友信託が申し立てた交渉差し止めが東京高裁で翻ったためだ。

これで完全にUOJは光井国友に支配される形となり当然樹稀也の母である栄子の大栄もUOJ吸収合併されることになってしまった。

 産業再生機構は大栄に融資した銀行に約四千億円の債権放棄を求め、それを再建策とした。大栄の債権処理が終われば大手銀行が抱える不良債権処理もそのほとんどが終わったと言ってもいい。

 浪速の安売り王の名前と共に店舗をチェーン化することで経費を抑え、消費者主義を貫いてきた。さらに土地を買い漁っては店舗を広げて行く、いわゆる土地本位制は土地価格の上昇に繋がり、そのことで銀行は上限なく資金提供をした。逆にその豊富な資金がゆえに外食産業などといった多角経営にまで手を広げ過ぎた。結果的にバブル経済が崩壊し、さらに阪神淡路大震災にも見舞われたことで急速な業績落ち込みへと繋がっていったのだった。また多様化している今の消費者のニーズにも対応できなかった。

 とりあえずは全国にある直営店50店舗が閉鎖しそのほか関連産業も入札によって大栄の支援企業が決まった。

 リストラ等で余剰となる人員は約二千人ほど、その中に樹稀也は含まれてはいなかった。

「お袋、俺はどうなるんだ」

「とりあえず光井国友UOJの傘下企業ということで引き続きクィーンズホテルで働いてもらうことになると思うわ」

 日本での「過去」をすべて捨て、新しく「男」としての第一歩を歩き始めた樹稀也、その始まりの一歩は栄子の経営する大栄の傘下企業でもあるクイーンズホテルでホテルマンとして働くことだった。

それが栄子からお金を借りる際の担保の一つでもあったけれど。

 やっとホテルマンとしての仕事にもどうにか慣れてきた矢先のホテル部門売却である。

大栄の主要取引銀行おおよそ三十数行による総額五千億以上の債権放棄を要請することで、大栄本体は身軽となり本業の小売業に専念はできるが、おかげで樹稀也の勤めるクイーンズホテルは支援企業に売却の憂き目にあってしまったのだ。

「これも人生、いまさらどうすることもできない、か」

 栄子は社長室の窓からじっと外の景色を見つめながら歯に詰まった食べ物カスを吐き出すようにして言った。

本社十階建ての社長室の窓からは銀座店が見下ろせる。栄子が代々続いた魚屋からショッピングデパートとして店を開いたのがほぼ三十年ほど前、始まりの一歩はこの銀座店からである。この店からその後の栄子の事業家としてすべてが始まったと言ってもいいだろう。栄子の大量に生産をし、大量に仕入れることでコストを下げそれによって大量に消費させるやり方は成功した。この成功で小売業だけではなく広く総合企業としてホテル、外食産業、さらにはゴルフ場経営にまで手を広げて行ったのだが……。

この事が結果的にはあだとなったのである。今は成功者としての証しのひとつでもあり地方から東京へ出てきた人間がまず東京を感じさせる所としていつも上位にランクされる大栄銀座店のネオンサインを見つめながら言った。

ローマ字やカタカナ表記が多い中、大栄のそれは漢字である。

しかも一際黒く太く書いたネオンが五階建てのビルの上から栄子にとってのラッキーカラーでもあるオレンジの光を放ちながら点滅を繰り返していた。つい先頃まではその明かりが成功者の明かりのように思えたのが今日はやけに空しく見える。その明かりをずっと見つめる栄子の目に一羽のカラスが飛んできてネオンサインの上に止まった。

カラスは右に左にとほんの少し首を傾けながら、まるでそろそろ夕飯時を迎えようとする庶民の竈をながめでもしているようだった。 

たった一羽で佇み、何憂うでもなく空を眺めているカラスが今の栄子にはひどく羨ましく思えた。

「今度もし生まれ変わるならカラスがいいわね」

 誰に言うでもなくつぶやいた。

「商売言うのは魚影の群れと一緒や。魚の群れが来たと思うて網を用意してたんでは間に合わん。魚が来たと思たらすぐに網を投げられるようにいつも網を何枚でも用意しとく、商売とはそういうもんや」

 別れはしたが元夫の弘がよく言っていた言葉だ。それほどチャンスというのは滅多なことで訪れてくるものではない。

 チャンスを逃すなというのもちろんのことだが、チャンスが訪れたときにどれだけの魚網をすばやく用意しておけるかで人生が決まるとも言える。この栄子流の商売哲学で強気で突っ走ってきた。

以前なら強くたくましく思えた背中が今日はやけに小さく見えた。

樹稀也が思わず声をかけようとしたそのときドアをノックする音と共に社員とおぼしき小柄な男が「社長お時間です」と一言言った。

その言葉に栄子は二度ほど小さく頷くと、ドアへ向けその歩を進めていたがふいにその歩を一度止めると社長室をぐるりと見回した。

まるで慈しむように部屋の中を一周した後、

「さあてと記念撮影に行きましょうかね」

 それだけを言うと突っ立ったままでいる樹稀也の肩をポンポンと軽く叩いて社長室を出て行った。

 静かに、でも多少重めにドアが閉まった。

傍らのテレビではさっそく大栄社長辞任のニュースが流れ始めていた。まるで結婚式のひな壇と見まごうほどの記者会見の壇上に関係者と共に真ん中に座った栄子は、用意したメモを読むというのでもなく自分の言葉でただ淡々とした表情で辞任の弁を述べていた。

そのまなざしはどこか晴れ晴れとしたようにも樹稀也には思えた

それなりの「覚悟」と共にカメラの前に立った以上は逃げも隠れも

しませんという潔さが栄子の全身からかもし出されていた。

「混乱を招いたすべての原因は私にあります」 

 当初は民間企業の支援を前提に、自主再建路線を貫こうとしたことが結果的に産業再生機構の活用を求める主力銀行と対立したことで混乱を招いてしまった。それがすべて自分の責任だとして栄子は大栄の社長職を辞任するのだと述べた。

 記者からは、まるで独裁者のような、すべての物事は栄子の独断的鶴の一声で決まるワンマン経営が原因なのでは、といった鋭い質問が飛んでいた。それにも栄子は臆することなく自分のやり方を貫いて来たことが今は間違いであったのかもしれないと戦いに敗れた敗戦の将のような言葉を述べていた。

こんな弱気な栄子を見るのは初めてだが、樹稀也にはそれが一番女らしい栄子の姿に思えた。

さらに栄子は田園調布にある自邸、さらには自身が持つ大幸株などの全資産を売却することも発表した。栄子名義の土地建物は銀行の担保に入っておりこれらすべてが負債弁済の一部にあてられる。

これによって日本最大の流通大手だった大栄と栄子とはまったく資本関係はなくなってしまう。

稀代の事業家が今静かに退場しようとしている。その姿は思わず手を差し伸べてやりたくなるほどに可憐で、どこかしら他を寄せ付けない美しさを醸し出していた。


翌日の経済新聞の一面を飾ったのは栄子の大栄社長辞任、ではなかった。

光井国友UОJとローマ字表記に書かれた文字に太陽を思わせるように赤で大きく描かれた丸。その真ん中に白いストライプにそのストライプ達が、その中央に描かれた小みかんほどの大きさの赤い丸をまるで親鳥が卵を温めるようにしている。それが新しく誕生する光井国友とUОJ銀行のロゴマークなのである。

光井国友社長の金子とUOJの社長となった高岡とがそのロゴマークが書かれたA4判の紙を両者が右端と左端で引っ張るようにして持っていった。

UOJ、東京三西、光井国友、三つ巴の争奪戦は終止符が打たれることとなった。

統合比率は「一対0・65」である。

 UОJの昨日付けの東京市場の株価は終わり値で一対0・57なのを思えばこれはUОJに対して一定の優遇幅を上乗せしたと考えていいだろう。これによってUОJの株主価値の増大にも繋がる、 

となればこれで光井国友とUОJとの合併は絶対的なものとなった。だが信託部門に関してはたとえ買収を断念したとしてもその後の訴訟は続けるつもりで、今度は損害賠償へと切り替えることが充分予想されるが::。

 これで一応の戦いは終わった。

 統合比率から言えば一対一の対等合併を提案した国友にUОJの株主が反発するのではと予想されたのだが、そこはベストな選択をしたということで次期株主総会で了承を得られるとの確信から最大の関門をクリアーできた。このことで光井国友とUОJの経営統合は現実のものとなりこれで世界一のメガバンクが誕生したのだった。

 金子は若干二十五歳にして巨大銀行と信託銀行、証券会社をも含む総合金融グループのトップに君臨することとなった。そして美麗はその若きトップの妻。

蟻の這い出る隙間もないほどにすべては完璧である、はずが……。

「美麗の行方は?」

 アメリカから帰った金子はどこにも姿のない美麗の姿に声を荒げた。

今周囲にあるすべてのことが思惑通りに運んでいるというのに。我が女房一人をどうにもできずにいることにひどく苛立っていた。

「奥様は今、……藤岡さんとご一緒に」

 秘書の西本は藤岡享子と共に美麗がいることで金子を安心させようとした。

けれど金子の方は享子と一緒にいるということにさらに不振感を募らせた。

「藤岡享子と一緒にいるというのはどういうことだ?」

「ですからその……」

 そこで西本は答えに窮してしまった。樹稀也との逢瀬を楽しんだ

後を迎えに行ったと答えるわけにもいかない。仕方なく咄嗟に思い

つくままを口にした。

「奥様は精神的に不安定なご様子なので」

藤岡享子とも相談の上、美麗を療養させることを告げた。

「しばらくごゆっくりご静養された方がよろしいのではないかと」

 結婚したとはいえ未だに夫婦の契りも交わしていない金子と美麗である。

このまま無理に夫婦としての対面を保つために一緒に暮らすよりもここはしばらく距離

を置いたほうがいいのかもしれない。

それには東京を離れることが格好の癒しになるといえる。しばら

く時を待てば美麗の気持ちも和らいで行くだろう。

「そうか。まあ所在がはっきりしているのならそれでいい」

 金子の言葉に西本はほっと安堵の根をおろした。

それでも定期的に美麗の様子をパソコンで送信してくるように、

と告げると、すぐさま電話に向かいビジネスマンの顔に戻っていた。西本はわかりましたと答えつつも心臓の動機は少し早まった。

 社長室を辞すると、すぐさま携帯電話を手にしていた。


 飛行機の窓から見下ろすと、眼下にはただ雲海が広がるだけの空がどこまでも続いていた。まるでマシュマロをかき集めたような雲にふっと飛び込んでしまいたい衝動がよぎる。 

もしも飛行機の窓が開くことができたなら、間違いなくこの雲の谷間の中にわが身を投じていただろう。

「しばらくのんびりされればお体も回復しますよ」

 傍らに座る享子は美麗の気持ちを察したかのように一言言った。

 こうして金子と離れて過ごすことができるようになったことは、美麗にとっては何よりの幸運だったといえる。

 もしもあのまま自宅に帰らなくてはいけなくなったのなら、美麗自身、どうなっていたかわからない。おそらく今頃は精神科の病院の窓から同じように空にたなびく雲を眺めていたに違いない。

 それを思えばこの伊勢志摩に来れたことは最高の幸せだと言える。

 本来ならば金子のもとにすぐに連れ戻されるはずを、突然の伊勢行きである。これは多分に秘書西本の急場凌ぎの嘘から出たことではあるけれど。ご静養を兼ねてと説明する享子に、この人と美麗の生まれたときからの付き合いは伊達ではなかったなと実感した。

「いつまでここにいられるの?」

「それは美麗様のご体調ゆえだと思います」

 自分の体調遺憾で伊勢滞在が伸びるのなら、ずっと伊勢志摩にいるままでもいい。

 美麗の気持ちそのままに機体は徐々に高度を下げて行き、やがて青く広がる海岸線が近づいてきた。

何の曇りもない海。

美麗はひと差し指を深く折りたたんだ握りこぶしを膝に、ただじっと澄み渡った海を見つめていた。


 次々とホテルに横付けされる車。

「ようこそクィーンズホテルへ」

 の言葉とともに素早くドアを開け、客を招き入れる。

 クイーンズホテルは伊勢湾を望む海沿いの絶景地に建てられたホテルだった。

 ここでドアマンとして仕事をすることに樹稀也は何の違和感もなかった。東京を遠く離れることで自分の「過去」を知っている人間すべてから離れ、まるで違う自分として暮らしていける、それが何よりだった。結果的には美麗とも別れることにも通じるけれど。

樹稀也はそれでもよかった。

美麗も美麗の人生を生きて欲しいし、自分もこれから正真正銘の「男」として生きていく。その手始めとして携帯の電話番号もメルアドもすべて変えた。また美麗の電話番号も消去した。これでもうお互いに連絡を取り合うことはできなくなった。

「これでいい」

自分の「男」としての第一歩はここ伊勢から始まるのだから。

クイーンズホテルはかつての大栄チェーン傘下のホテルとして特に主婦層に絶大なる人気と信頼があった。それだけにお客様サービスが徹底されておりそれはホテルだけでなく、コテージにおいても同様だった。

コテージには専用のコンシェルジェが一人付き、お客様のニーズにすべて答えるようになっていた。

その日、美麗は享子と共に伊勢に降り立っていた。リムジンで向かった先は空港から車で十五分のところにあるクィーンズホテル。 

このホテルにあるコテージを借りたのだった。

滞在予定は一ヶ月。

開け放たれた窓からはどこまで続く水平線が真っ直ぐに伸びている。一日何をするでもなくその水平線をじっと見つめていた。それが美麗の日課にもなった。

「ショッピングにでも行きませんか?」

 享子は誘っては見るが美麗は首を振った。

 この伊勢志摩にいることだけが心の救いになるのに、他に何をしろというのか。何をする気にもなれなかった。

 読書をし、ときに新鮮な食材で食事を作る、それだけで美麗にはもう充分だった。

 一週間は瞬く間に過ぎた。

 このまま永遠にここにいることが出来たなら……。

「一応期限は一ヶ月ですから」

それはわかっている。それが美麗に突きつけられた期限であることも。この一月の間に樹稀也を忘れ、金子の妻として生きていく決意を固めなくてはいけない。

どちらもできそうにないな。

樹稀也の携帯はあの一夜を共にしたとき以来、繋がらなくなっていた。だけどもしかしてかかってくるかもしれない、という一縷の望みを抱いて、一日一度携帯画面を開いてしまう。待っても樹稀也からの連絡はないのに。でももしもを願って電話を待つ。美麗は未だに樹稀也の電話番号を消去できずにいるのだった。

その周囲で何かが起きていた。それが何であるかは美麗自身も気づかぬうちに、その何か得体の知れないマグマは大きさを増しながら、徐々に近づいて来ていた。


「これで 磐石だ」

「じゃあ私達結婚できるのね」

浜名付きの秘書という立場の高岡からすれば浜名の死後、辞めざるを得ない状況に追い込まれていたはずだ。高岡もそれを覚悟していたのだが、一時期会社のトップすべてが逮捕されるという事態に追い込まれたことで、舵取りのいなくなった銀行は残された社員だけで船を漕いでいかなくてはいけなくなった。

名目上は芙蓉を社長としながらも、副社長として実質の舵取りを任された高岡だったが、UОJの告発は皮肉にも高岡にとっては自分の野心を成就させることになった。それは何より秘書とはいえ芙蓉と特別な関係にあったことが幸いしたのもあるが。告発以後、芙蓉が社長職を辞任をしたことで新社長の座に着いた高岡はかなり重要視されるものとなった。本当ならばすぐにでも結婚したいところではあるが、今はまだ時期ではない。

統合後の収益計画は当期利益で一兆円企業を目指すことにしてはいるが、今は統合作業にかなりの時間を取られ事業拡大がうまく展開していない状況だった。さらに比率的に見てもUOJが主要ポストのすべてにおいて光井国友から劣勢に追い込まれる可能性もある。

それだけにUOJ幹部の間では光井国友の主導権が強まるのではないかとの見方もある。そうなれば高岡の社長としての地位も危うくなる。この合併劇の裏にはまだ得体の知れない魔物が住んでいる。 

高岡にすればそれが雲散霧消と化すまでは、とにかく私生活面においては動きたくないのだ。

「まだだな」

そういうと芙蓉はすねた顔をした。

ほんの少し唇を尖らせ、悲しげに眉根を寄せた。芙蓉の哀愁のただようこの表情を見ると、高岡の男心はひどくそそられる。

本当は高岡だっていますぐにでも芙蓉と結婚したい。芙蓉を自分だけのものにしたい。

「どうするか」

思い悩む高岡の背中に芙蓉がそっと寄り添う。

「大丈夫よ。きっとうまく行くわ」

芙蓉の細い指先が高岡の背広の上を沿うように動いていく。芙蓉の指は指先に行くほど細くて少し節くれだっている。この指が絶頂期には高岡の背中を這うように動く。ときにそれは円を描くときもあれば、猫の引っ掻き傷のように上下にただ脈絡もなく描かれているときもある。

事後、高岡はシャワーを浴びながら背中の爪あとを見るのが何よりの楽しみだった。

それが芸術的であればあるほど芙蓉が満足していたということになる。

最近は仕事のことばかりが頭にあるせいか、体は芙蓉を抱いてはいても心まで快楽を味わってはいなかった。そのせいか背中の引っ掻き傷も円を描くほどにもなっていない。どうやら芙蓉も最近の高岡との逢瀬にはどこか不満を抱いているようだ。その高岡の予感は当たっていた。

芙蓉も最近おざなりな抱き方をする高岡に不信感を抱いていたのだ。背中から這わしていった指先をさらに腰まで伸ばしていった、そのときだった。高岡は芙蓉の手を取るといきなり前に回し自分の股間に持っていった。

「あっ!」

手の平に軽い抵抗を感じた。すぐに手を引っ込めようとする芙蓉の手を高岡は強引に握ったまま、左手でチャックを下げるとその隙間に手を持っていった。ズボンの上からは軽い抵抗でしかなかった「物」が今、はっきりと実感された。片手で確実に握り締められるほどに高岡の男根はいきり立っていた。

驚く芙蓉の目の前で高岡は座ったままでベルトを外し、ズボンを膝まで下ろした。芙蓉の目の前に高岡の下半身が露になった。

すぐさま服を脱ごうとする芙蓉の手を高岡は止めた。

「今日は時間がないんだ。このまま君の口で果てたい」

躊躇する芙蓉。いままで高岡のどんな要求にも応じて来た。ときに本を見ながらのアクロバティックな体位にも応じてきたし、もちろん高岡の男根を愛撫したこともある。とくに高岡は舌での愛撫にひどく感じた。舌先を男根の先端部分の襞に添わせながら小刻みに動かしていくと高岡の口から何度となく熱い吐息が漏れた。

愛する男の物を口に含むことに何の抵抗もなかった。汚いなんて何も思わずにできた、が、ただ「飲んだ」ことだけはなかった。

それだけはどうにもできずにいた。けれど今の高岡を満足させてやるにはそれしかないのだ。芙蓉は高岡の正面に回り、膝まずいた。

そして股間に顔を埋めるようにして口に含んだ。

高岡は口の中の粘膜が程よい心地よさとなって男根を包み込む感触がいいのか、芙蓉の中に入っているときよりもよく動いた。ときには付き抜けるのではないかと思えるほどに先端が芙蓉の上顎を突いてきた。

何度となく動く、突くを繰り返していく。やがて快感を得ていた高岡の表情に恍惚感が増した瞬間、芙蓉の舌の上に適度な湿り気を感じた。ほどなく幾分生暖かな粘液が口の中全体に充満していった。

高岡は芙蓉の口の中で果てたのだ。

原液のままのカルピスとでも言った粘液を飲み込もうとしても、どうにも飲み込めない。喉が押し返してくるのだ。正直いますぐ洗面所に駆けこんで吐き出したい心境だった。

口に含んだままどうすることもできずにいる芙蓉を高岡の目が見下ろしている。その目と会った瞬間、

「僕を愛しているのなら飲んで。愛している女に飲んでもらえたら僕はうれしい」

高岡の言葉に芙蓉は覚悟を決めた。小さい頃、大嫌いな牛乳を母に無理やり飲まされたことがあった。芙蓉はそのとき鼻をつまんでどうにか飲み込んだ、あのときと同じ気持ちで芙蓉は覚悟を決め、飲んだ。

粘り気のある液体が静かに喉を下りていく。まるで生きたままの蛇を丸呑みにでもしたような感触が喉を通って行く。同時に猛烈な吐き気に襲われ、口元一杯に眉根をひそめるような匂いが広がった。

それはまるで魚の腸の腐ったような匂いとでもいったらいいだろうか。芙蓉はあまりの息苦しさに思わず胸をまさぐった。そんな芙蓉の姿に高岡はたまらない愛しさを感じた。

「ありがとう飲んでくれて。僕はうれしいよ」

そう言いながら芙蓉をぐいっと引き寄せると、

「ずっと愛しているよ」

強く抱きしめた。


美麗はウッドデッキに椅子を置くと日柄一日海を見つめていた。

何をするでもない、逆に何もしないでいられることがひどく贅沢な気がした。もう一生このままでもいいとさえ思えるのに。

「美麗様、お時間です」

一日一度のお勤めが待っている。

パソコンに向かいブログに書き込む。画面にはもちろん金子の姿がある。ときにいないときもあるがそれでも美麗は毎日姿を写し、挨拶とその日の体調やどんな些細な出来事でも報告するように義務づけられていた。

今日は幸いなことに金子の姿はなかった。というか最近ではいないことのほうが多い。やはりUОJとの合併後の雑事に追われて、女房の動向をチェックする暇などないのだろう。それは美麗にとってひどくうれしいことではあるけれど。

毎日のブログ更新といっても書く内容などほとんどない、というか伊勢に来て食事をすることと熱いシャワーを浴びること以外、今は何もしてないからだ。

「フィットネスクラブにでも行ってみませんか?」

「ジョギングにでも出かけませんか?」

享子はいろいろと提案を出しては美麗を外に連れ出そうとするのだが、美麗自身何もする気になれないのだ。それどころかこの頃では眠れずにいた。眠れないイライラから最近ではひどく頭痛がするようになっていた。

「だったらエステに行きましょう。いくらなんでも美麗様、その髪も肌もひどうございます」

享子はそういうと手鏡を美麗の前に差し出した。

あれほど艶がありきらめくようだった栗色の髪が、いまではパサつき、枝毛さえところどころに目立つ。髪同様に肌も荒れている。それは今の美麗の心のうちをそのまま現しているともいえた。

「髪も肌もすべてリフレッシュ致しましょう。そうすれば精神的にもかなりリラックスできると思います」

享子に促され美麗は渋々出かけることにした。一歩も外へ出る気などしないが、あまりに荒れた肌にパサついた髪を見せられるとやはりショックは隠せない。たとえ心はどんなに淀んでいたにしてもやはり女である。きれいになるということになると重い腰も上がる。

享子は予約したのはクィーンズホテルにあるエステサロンだった。ここのタラソテラピーはつとに有名で、享子も伊勢に来たときにはいつもここを利用していた。

タラソテラピーとは海水、海藻、海泥を使って心身を癒しリフレッシュさせていくことである。

気圧、気候、温度、日照時間、さらに風などが微妙に影響するのだが、伊勢湾の海洋性の気候はタラソテラピーを行うのには最も適している。どこでもできそうにあるのだが伊勢湾付近にあるホテルではあまり行ってはいない。

その中でクイーンズホテルは街中の喧騒から少し離れた伊勢湾沿いにあり、そのため新鮮な海水を利用することができることもあってタラソテラピーを行っているのである。それがこのホテルの唯一の売りでもあるので、それによって観光客を呼んでいるというところもあった。

もちろん美麗にとっては初めての体験である。享子が行きがけの車中の中でその効能をホテルの営業マンよろしく述べたてていても気持ちはどこか乗る気にはなれなかった。

本当言うとコテージ近くにあるエステサロンで充分だった。行く車中の中でも何度となく引き返したい心境に駆られたが、せっかくの享子の思いに答えようと、一度だけは我慢する気になったのだ。

ホテルにある専用エレベーターに乗り、タラソテラピーゾーンに入った。

エントランスはフロアーも壁もすべて大理石作りで、まるでこのタラソゾーンのみを別世界に作り上げていた。さっそくドレッシングルームで水着に着替えた。

「今日はサンテデラグジュアリーコースをお選びいたしましたので」

享子にこう説明を受けても何のことやらさっぱりわからない。ただ言われるままにまずは血圧や体温といったヘルスチェックを受けた。

体験に支障がないとなるとさっそくタラソに入った。

年のころなら二十代と思しきインストラクターに指導されるままに特に下半身を意識しながらのストレッチから始めていった。


「おう悪いお前今日は本館か?」

「はいそうです」

「悪いけどタラソに変わってくれないか」

「えっタラソにですか」

「俺今日これと約束があってよ」

そういいながら高井は軽く小指を一本立てた。

本館ならばよほどのことがない限りには時間通りに上がることができる。ところがタラソとなるとそうはいかない。

タイムスケジュール通りの予約制なのでタラソの開始は時間厳守を旨としている。ところが遅れてくる客もいる。逆にあまりの心地よさに眠ってしまう客もいる。そうなるとタイムスケジュール通りにはいかないし、眠っている客を無理に起こしてというようなことはしない。それだけにタラソゾーンを担当すると、終業時間はあってなきがごとしなのである。そうなると自分の予定を決めづらく、従業員にとっては泣きのタラソと言われていた。

高井はつい一月前に結婚したばかりの新婚である。どうやら今日は新妻の誕生日らしくその祝いをレストランでする予定にしていたらしかった。

「奥さんの誕生日ならどうぞ、いいですよ」

「いいか悪いなぁ」

今度借りは返すからといいながら樹稀也に両手を合わせて拝むと恩に着るよの言葉とともに軽い足取りで本館に足を向けていった。

当日のシフト変更は禁止されてはいるのだが、急用などの場合には特別に許されていた。高井はまだ入って三年の社員ではあるが、四十にもなっての初婚、おまけに女房は一回り以上も下ということもあってかなり若妻に気を使っていた。その辺を知っているだけに樹稀也も無碍には断ることができなかった。

女房の急病ということにして午後からのシフト変更を受け入れた。

さっそく本館に足を踏み入れると、広大なスイミングプールの中でそれぞれのグループに分かれて泳いだり手足を伸ばしたりをしながら楽しんでいた。このスイミングプールは海水のプールのため、タラソテラピーのインターバルなどに使われることが多い。さらにプールにはサンデッキも完備されているため、日光浴をする客なども多かった。

案の定、午前の客からの遅延が少しずつ午後の客のタイムスケジュールを押していた。

通常は一回りするのが常だが別段の異常もなさそうなので樹稀也は二Fへと上がって行った。

アクアエクステンションは水中で下半身を意識しながらストレッチを行う。水中だけに軽い水の抵抗を感じる。その圧力を意識しながら続けることで筋肉の柔軟性を高めることができ、血行を促進することができるのだ。

それだけに中年女性ばかりだった。そのほとんどには腹や背中にだぶつくように肉がついていた。下半身を水につけ、上半身だけを水中から出してのエクステンション。両腕を真横に広げてのエクステンションだけでも腕の肉が振袖のように震える。

「ゆっくり下半身を下ろして、上げます」

トレーナーの言葉に合わせて水中でのエクステンションを繰り返していく。その中でひときわ若く痩せた美麗の体は目立った。

「あなたそれだけスタイルのいい体型してたらタラソなんかしなくてもいいでしょうに」

「それ以上痩せてどうするの」

同じような目で他の中年女性達が見つめる。その目には少しの嫉妬心も加味されていた。美麗はそんな中年女達の嫉妬の入り混じった目つきにどうとも答えられずにいた。すかさず享子が、

「ちょっと体調を崩しましてね。それでこんなに痩せて。だから体調を回復させる意味でタラソがいいかなと思って」

「まあ太るためだなんて羨ましい」

そうそうと数人の中年女達がうなずいていた。

今の美麗に一番必要なのは心身のリフレッシュである。美麗の体には血が通っているようでその血には生気も活力もない。このままではやがて精神さえも病んでしまうのは目に見えている。金子の元を離れるだけの静養ではその病んだ心も体も取り戻せそうもない。

そこで享子が思いついたのが、このタラソセラピーだったのだ。

こっちの事情など知るわけはない中年女性の目はやはりどこか姑が嫁を見るような目つきだった。その目が美麗には咎めるように思え、人の言った言葉や何気ない動作にひどく敏感に反応してしまう。

そんな美麗を気遣って、

「気にせずに頑張りましょう」

やさしく声をかける。享子がこうしていてくれることで美麗は救われる。

「はいじゃスピードアップしていきましょうか」

インストラクターの声が飛ぶ。

海中での動きは海水の抵抗により思うようには動かせない。早く動かそうとすると大きな力が必要となり、ゆっくりと動かせば少しの力で動かせる。その人の体力に応じてスピードアップをしていくのだが、美麗は若いということもあって少し早いスピードにもついていけた。けれど他の中年女達はスピードを上げた動きには付いていけず、そこここで笑い声と共に根をあげる声が響いていた。

「こういう抵抗も複雑な関節のトレーニングにもつながりますので無理のない範囲で頑張って下さい」

インストラクターの声に従い、それぞれがストレッチを繰り返していく。自分のことが精一杯になったおかげでいつのまにか中年女達の厳しい視線も美麗から外されていた。


中2Fにはサウナ、2Fにはサンルームと野外ジャグジーとがある。

どちらも伊勢湾の澄んだ海が360度広がっており、大抵テラピーの終わった客はしばらくこの景色を楽しんで帰る。それでときおり眠ってしまう客もいるので常に見回りが必要だった。たとえ眠ってしまっていても起こすことはできない。

サンデッキやサンルームには数人の客がいたが、そろそろ夕暮れどきを迎えるせいか客はそれほど多くはなかった。

一通り見回った後、樹稀也はクロークに戻った。

受付には常時二人ほどがいる。

「あれ? 今日は高井さんじゃないんですね」

「夕方だけちょっと変わったんだ。今日は奥さんの誕生日らしくて」

受付の女の子も新婚さんなら早く帰りたいもやむなしかなという顔をした。

「私達六時までなんで」

タラソのスケジュールは九時三十分から始まり最終タイムは五時台である。順調に行けば七時まではすべてのプログラムが終了するようになっているが、そのときの予定によっては多少の変更はいつものことである。

時間を見ればもう六時をとうに過ぎていた。

「いいよ帰って」

樹稀也の言葉を待っていた女の子達はお疲れさまを言いながらも右手はもう制服の第一ボタンを外しにかかっていた。今日は合コンの予定でもあるのか。ロッカーへ向かう彼女達の足取りは駆けるようだった。

いくつになっても男と女の関わりごとがある間はひどく輝いているものだ。樹稀也とてまだ二十五歳である。

晴れて「男」と生まれ変わった日から公然と女と恋をすることも許されているのに……。

心にはまだ美麗が住んでいる。この女を心から追い出してしまわない限りにはどんな女とも恋はできない。

無理に追い出そうとしても消えない残像に苦しむよりも、樹稀也はすべてのことを時間に託した。時を重ねていけばいつか知らないうちに美麗のことを忘れてしまうに違いないから。

それまではすべて仕事に没頭することにした。

樹稀也はクロークに立つと、今日のセラピーを事故のないように終わらせることに専念した。

だいたいが日帰りプランの客が多い。宿泊客だけでなく伊勢に住む人達もかなり利用する。それでもどちらも六時までに終わらせるというのがほとんどだから、十九時台の客は少ない。ほとんど人気のなくなったフロアーに樹稀也は手持ち無沙汰な感じで一人クロークに立っていた。


アクアテンションを終えた後はリラクゼーションプールへと移り、しばらく静かに水中に浮かんでいた。この状態にいることで筋肉がひどくリラックスすることができたのか、美麗の心も体も解きほぐされたようだった。しばらく付加のかからない状態でいた後はファンゴテラピーでのマッサージを受け、すべてが終了した。

ドレッシングルームに戻り享子と二人着替えをする。そのときの美麗は最初にタラソゾーンに入ったときとは完全に違っていた。どこか鼻歌さえも出そうな感じにさっそく享子が聞いた。

「いかがでした?」

「いいわね」

始めは乗る気ではなかった美麗だったが、このタラソテラピーでの二時間でひどく心も体もリフレッシュしたのだろう。それは側で見ていた享子にもわかった。あれほどまでに暗く陰鬱とした美麗が今はどこか晴れ晴れとした表情に変わっていた。

美麗自身も直後にシャワーを浴びた後、肌さえその細胞の一つ一つが水を弾いているように感じていた。

「また来ましょうか?」

「ぜひ。明日でも明後日でも毎日来たいわ」

「じゃあ予約入れときますね」

「お願い」

このタラソテラピーは人気があるだけに予約も多い。早めに越したことはない。さっそく享子はクロークに足を運んだ。

「あら誰もいないじゃない」

いい加減だわねと文句を言いながらクロークにある呼び鈴を鳴らした。

樹稀也は一旦奥に引き込むと、営業修了の上がり作業のため、サンルームやデッキにまだ客がいないかどうか、設置した防犯カメラの映像でチェックしているところだった。

呼び鈴の音に慌ててクロークへと足を向ける。

享子はクロークに置かれていたタラソテラピーの他のプログラムのアイテムに目を落としているところだった。

「サラサ デ タラサプルミエールっていうのもよさそうね」

どういうアイテムになるのかをくわしく聞こうとプログラムから顔を上げたときだった。

「はいお待たせしました」

慌ててクロークに戻った樹稀也と顔を合わした。

「あっ!」

享子にとっても樹稀也とっても思いがけない再会だった。しばし言葉がないままにお互いの顔を見つめる。

樹稀也にすればこんな所で享子を再会したことにただ驚くばかりだったが、享子は違っていた。捜し求めていた初恋の人にやっとめぐり会えたとでも言ったらいいだろうか。そんなせつなさで胸は高鳴った。かつて享子の女心をあれほどまでにかき乱した「男」が目の前にいるのだから。

とうに鍵を掛けたはずの女心の扉がまた鍵を開けようとしていた。目の前にいる樹稀也を見つめるだけで胸の動悸が高鳴っていく。もしかしてその鼓動を樹稀也に聞かれてしまうのではないか。

享子は胸の動悸を聞かれてしまわないようにとどうにか押し殺し、

せつなさを帯びてしまうまなざしを必死になってひた隠そうとした。

「ご無沙汰しております」

そんな享子に樹稀也のこの一言はひどく他人行儀に聞こえた。

「ご旅行ですか」

「えぇまあ」

「タラソを体験されたんですか?」

「えっえぇ」

「いかがでした?」

「とても快適で」

「それはようございました」

樹稀也は従業員として享子に接する。まるで初めて訪れた客のような話し方をすることに享子は少しの不満を抱いた。もう少し親近感を抱いてくれてもいいのに……。そんな享子をよそに樹稀也は、

「お一人ですか?」

こう聞かれて享子はいや二人でといいかけてやめた。樹稀也は享子が美麗と一緒であることを期待しているのではないか。

もしかしたらそれを見越してこう聞いてきたのではないか、となるとまだ樹稀也の心には美麗がいるのでは。そう思うと、

「えぇ私一人なのよ」

「あぁそうですか」

一人という言葉にも樹稀也は失望しなかった。享子と思わぬ再会をしたからといって、その延長線上に何かを期待するなどということは一切なかったからだ。

美麗が一緒のはずはないと思っていたし、また享子はもう四十五にもなるハイミスである。享子の性格からすれば一人旅であってもどこにも不思議はない。かえって一人旅が似合ってしまうところに享子が長年独身を通している理由があるのかなとも思えなくもない。

男気をまるで感じさせない享子のそれは長年社長秘書という仕事をし続けてきたことにもよるのだろうが。仕事だけでなく性格的な部分がたぶんに加味されているようにも思える。それは享子自身が一番よくわかっているに違いない。

「タラサデプルミエールには3アイテムございまして、ハイドロマッサージパスまたはアクアテンションのプログラムのどちらかをお選びいただき、さらに」

樹稀也はプログラムについての説明をするが、享子はそんなことはどうでもよかった。説明をする樹稀也のまなざしがときおり自分に向けられる。きれいに重ねた二重の目にはその美しい目を囲むように長いまつげが覆っている。その美しい瞳の奥から放たれるまなざしが説明のたびに享子と視線を合わせる。それだけでもう女心がときめいてしまう。ずっとこのまなざしに見つめられていたいけれど。

「いかがでしょうか?」

説明を終えた樹稀也の目が予約を促すように向けられてくる。

予約、できるわけはない。もしも予約してしまえば樹稀也と美麗はおそらく再会してしまう。そうなればどうなるかはわかっている。

美麗もおそらく樹稀也も二人はお互いにまだ魅かれあっているのだから。ここはなんとしても二人の再会を阻止しなくては。

「ちょっといろいろ予定もあるから。また」

「ではお待ちしております」

深々と礼をする樹稀也に少しの未練を残しながら享子はクロークを後にした。

突然の樹稀也との再会にまだ胸は高鳴っている。せつなさは女心の鈴を鳴らし続ける。止めようとしても振り続ける鈴の音に耳をふさぐようにしてフッティングルームに足を向けた。

「どう予約取れた?」

フィッティングルームでは乾いた髪をドライヤーで乾かし終えたのだろう。美麗がいつものストレートヘアーにセット仕上げた髪でドレッサーの前に座っていた。

その美麗の姿を見たときに、享子の胸の鈴は響きを止めた。

いつもに変わらぬその美しさを見たときに、享子の胸のうちに潜む

女の本性が享子に耳打ちをしてきた。

この女と樹稀也を会わせてはならない。

「残念なことに予約がいっぱいで、空きができたらまた電話を入れてもらうようにクロークに話しておきましたから」

享子の言葉に美麗は安心したように頷くと帰り支度を始めた。

このままエントランスを抜けて専用エレベーターにいくにはどうしてもクローク前を通らなくてはいけなくなる。そうすれば樹稀也の存在に気づいてしまう。それは絶対に阻止しなくてはいけない。 

でもどうすれば……。

 前を歩く美麗の背中がドレッシングルームを抜けていく。後数十歩行けばクロークの前を通る。クロークには樹稀也がいる。

このままではいけない。でもどうすれば。いきなり後ろから美麗の頭を殴るわけにもいかないし。享子は一人いらだっていた。早くどうにかしなくては。気持ちは焦るのだが、どうしていいかわからない。クロークは後数歩のところになってしまった。樹稀也はクロークにいた。予約表に目を落としているようで下を向いていた。

上を向いたならもうそこにいる美麗に気づいてしまう。どうにかしなくては。いっそ美麗の後ろ髪を引っつかみなぎ倒してしまおうかとさえ思ったがそんなことはできるわけもない。どうすれば……。

でもこのままではクロークはもう目の前だ。咄嗟に右の薬指から指輪を外しポケットに入れると、

「あっ!」

叫び声を上げた。あまりに大きな叫び声に何? と思わず美麗は振り向いた。

「わたくしサンデッキに指輪を忘れたような」

「指輪、してたの?」

「サンデッキで指輪をしていたのに気づいて確か外したので」

2Fのクロークに電話してみますといいながら、享子は実際には1Fのクロークに電話をしていた。

「はい1Fクロークです」

樹稀也の少し低めの声が耳に響く。受話器を通して聞こえてくるソフトな声が鼓膜だけでなく享子の女心をも微妙に震わせる。本当はこの声をベットで耳元で囁いてもらえたならと何度思ったことだろう。そんな享子の願いは叶うことなくいつも打ち砕かれてしまうが。

「デッキに忘れ物をしたみたいで」

心配そうに携帯で話す享子を見つめる美麗に、大丈夫と頷きながら享子はクロークの前へとさしかかった。

クロークは半円形のカウンターになっていた。電話はその一番右端に置かれていた。カウンターの中にいる樹稀也が電話を取ると、必然的に正面からは斜め立ちの格好になってしまう。ちょうどいいことに専用エレベーターはタラソゾーンで待機をしていた。

「美麗様、ちょうどエレベーターが来ていますね」

享子がエレベーターを顎で指し示すと美麗もエレベーターに目を向けた。

「じゃ早いとこ乗りましょう」

「でも指輪は」

振り向こうとする美麗の視野をさえぎるようにして享子は美麗の目の前に立ちはだかると、

「今、クロークの方に捜してもらってますので」

美麗がエレベーターに注意を向けた隙に急いでクローク前を通り抜けると、二人してエレベーターに乗り込んだ。すぐさま階数ボタンを押す、と同時に閉じるボタンも押した。

「すみませんが、コテージに泊まっておりますので後でも結構ですのであったら持ってきていただけませんか」

「はいかしこまりました」

応対する樹稀也が受話器を下ろし、その背中が正面を向こうとする、その一瞬にドアは閉まった。ほっと胸を撫で下ろす享子に、

「指輪あったの?」

「まだわからないのですが、多分あると」

「そう、よかったわね」

「えぇよかったです」

享子の「よかった」が本当は別の思いを意味しているなど、美麗には気づくはずもなく、享子はつくづくという思いでよかったを繰り返した。

ここで二人を会わせるわけにはいかない。それだけは絶対に阻止しなくては。美麗を真に金子の妻にする、それが享子の使命でもある。

その指名のもとに享子は同行しているのだから。二人を会わせない、これも仕事、と享子は自分に言い聞かせていた。そこに美麗に対する敵対心が隠されていることなど気づいてはいてもあくまでも仕事を大儀名文にして押し隠していた。


さっそくコテージに戻ると金子に今日の報告をしなくてはいけない。

パソコン画面の前に美麗は座る、といつもの社長室が写しだされていた。それを見る限りには今日も仕事で金子はいないようだ。ほっと一息つく美麗に享子は、

「せっかくタラソテラピーの効果でこれほどまでに血色がおよろしくなられたのにそれを見ていただけないのは残念ですね」

享子の言葉にもどうとも答えなかった。美麗にとってのそれは別に残念なことでも何でもなかったし、どちらかというと金子がいないでいてくれることの方が喜ばしいことであったから。だが今日は違っていた。

「残念なことはないさ」

背後から聞こえた低い声に振り向くとそこに思いがけず金子の姿があった。

「まあ社長!」

驚きの声を上げると同時に頬が緩む享子に比べ、美麗の方は金子がそこに存在していること自体を信じたくなかった。これは夢の中のできごとで、目を覚ませば金子の姿は雲散霧消と化している、と思いたかった。けれど夢ではなかった。それが証拠に享子がさっそく親しげに話しだした。

「どうされたんですか?」

「どうされたはないだろう。妻に会いたくなったから伊勢まで飛んできたんだ」

そういいながら美麗に近づいて行くと、

「いつにながらきれいだ」

そういいながら美麗の髪をなでた。もしもそこに享子がいなかったなら当然キスをしていたことだろう。金子にとって不運なことは美麗にとっては幸運なことだった。それだけに今日ほどこの秘書をうれしい存在だと感じたことはなかった。

「お仕事のほうはもういいんですか?」

「美麗に会いたいから仕事の都合をつけてきた」

「今一番大事なときなのに仕事を放り投げていいんですか」

「大変な仕事を成功させるにはまずプライベートを充実させておかないと大事をなせないさ」

美麗の肩を抱く金子の姿に邪魔者を感じた享子は、

「ではわたくしは失礼いたします」そのまま辞そうとした。

そんな! 私を置いていかないで。

一礼し、ドアへ向けて歩いていく。徐々に享子の背中がだんだんと遠のいて行こうとする。享子がいなくなった後の金子と二人だけの空間を思うと美麗の胸に恐怖が走った。

引き止めたい、けれど引き止めるすべが美麗にはなかった。

ドアを開け、出て行こうとした享子はそこで何かを思いだしたように一瞬立ち止まった。

「あっ! 忘れておりました。社長にご報告しなくてはいけないことがございました」

そのまま引き返してくる。享子のその姿を美麗は頼もしい思いでみつめていた。

「実は社長、UОJにつきまして少し耳寄りな情報がございまして」

「耳寄りって何かあるのか」

「それは……」

享子は戸惑い加減で軽く会釈するように下を向くと、その視野の中にいる美麗に目線を向けた。

「別に美麗がいてもいいだろう」

「ですが……」

享子の細い目が、眼鏡レンズの奥からどこか曰くありげな形で力が加えられていた。その視線の強さに何かを感じた美麗は

「ではわたくしちょっと外へ出てきます」

「いえそれはなりません」

享子は今美麗に部屋の外に出られることを極度に恐れた。一人でホテル内を散策などしていれば、もしかして樹稀也と再会してしまう可能性は大だったからである。

「このホテルは大変広うございます。どこで迷子になるかわかりませんからお嬢様はここにいらして下さい。私と社長が外へ出ます」

美麗に首を傾げる暇も与えずに享子は半ば強引に「すぐすみますので」といいながら金子を部屋の外へと連れて行った。

享子が何を話すのかなど美麗にはまるで興味のないことだった。

しばらくの間、一人でいられる、そのことの方がひどくうれしかった。できることならもうこのまま永遠に戻ってこなくてもいいとさえ思えるほどに。


部屋の外へと金子を連れ出してきた享子はそのままコテージからかなりな距離を歩いた。どこまで行くんだという顔をする金子を有無を言わさぬ強引さで享子は百mほども歩いただろうか。もうこの辺でいいだろうと振り向くと、

「別にこんなとこまで来なくてもいいだろう」

「いえどこで誰が聞いているかわかりませんから。このホテルは特別に注意が必要でございます」

「注意が必要?」

「社長にぜひお知らせしておきだいことがございまして」

何だ? という顔をする金子に享子はこのクィーンズホテルに樹稀也がいることを告げた。

「何! あいつ、ここにいたのか!」

樹稀也の行動は独自の調査である程度は把握していた金子でも、最近は忙しさにかまけて報告書を見るのも滞っていた。

「社長、少しお静かに」

おうすまんという金子の様子に享子はやはりここまで連れ出してきてよかったと安堵の根を下ろした。もしも迂闊な場所で話しをしようものなら、スタッフの誰に聞かれないとも限らない。ここは正しい選択をしたと自身を褒め称えた。

「それは本当なのか」

「本日、タラソテラピーを体験いたしましたときにクロークにおりました。幸い美麗様には気づかれずに済みましたが」

金子はこのときばかりは享子の機転に拍手を送りたい心境だった。

「今もいるのか?」

「おそらく。どういうシフトになっているのかはわかりませんが、このままここに滞在していればいつなんどき……。ですから、あれでしたら私が美麗様だけでも今からそっと連れ出しましょう」

金子は腕組みをしながらしばし考えた。

 今、樹稀也と美麗を再会させるようなことになったら、またあの二人の愛の炎を再燃させることになってしまう。

どうあっても二人の再会は阻止しなければ、と、享子と同じに誰もがそう考えるが、金子は違った。

「いや、いい。チェックアウトは私と一緒に明日するが、その前に美麗に樹稀也を会わせる」

「えっ!」

享子は思わず驚きの声を上げた。

「いくらなんでもそれは」

やめたほうがいいのではとの助言を口にしようとする享子をさえぎるようにして、

「たとえ再会したところで二人は愛を再燃させることは絶対にない」

 断言した。そこに確固たる自信に満ちあふれた西岡の姿があった。

享子はその金子の自信がどこからくるのか、聞いてみたい気がし

た。どう考えても二人を再会させることは危険な賭けとしか思えないのだが。金子はそこで美麗の貞節を試そうとでも言うのか。

たとえどうでも美麗は戸籍上は金子の妻なのだから。心は樹稀也を追い求めてもどうすることはできないと高をくくっているのか。

けれど消えかけた二人の愛の炎が再燃したならば、恋に落ちることなどどれほどの時間が必要だろう。再会したその刹那からもう愛が炎を高くするのは目に見えているはずだと思えるのに。

「大丈夫さ」

金子は唇の端をほんの少し上げて微かに笑った。この微笑が金子の顔に漂うときは自信に満ち溢れているときなのだ。

けれど仕事とは違う。どんなに計画だてていっても仕事でさえも思いもよらぬ展開が待っていることがあるのに。それだけに人の心ならばなおさらである。美麗が樹稀也を見ても心を動かさないとの絶対的な自信が一体どこから来るのか。樹稀也が性転手術を受けたことはすでに享子の耳にも入っていたが、もしかして金子は知らないのでは。それゆえこれほどまでの自信が持てるのではないだろうか。そう思うとこのことを金子に伝えるべきかどうかで享子の唇は躊躇を繰り返していた。そんな享子に、

「君は今日はもうあがっていいよ」

金子は突然仕事終わりを口にした。享子は思わず「そんなぁ」と声を上げたくなった。ここで帰れと言うのはミステリー映画の結末を見ずして席を立つようなものではないか。

美麗、樹稀也、金子のこの三角関係がこのホテルを舞台にしてどう展開するのか、享子でなくても誰でもが知りたいはずだ。心踊るこの愛憎劇のその現場に遭遇できるなんて、こんなチャンスは二度とないと思えるのに、その千載一遇のチャンスに「帰れ」は非常の一言としか思えなかった。

「何かございましたら大変でしょうからわたくしサポートで待機をしておきます」

「いやそれには及ばん。これから先は私のプライベートだから。誰にも口を挟んでほしくないんだ」

秘書とはいえ社長のプライベートに深く入り込んで言い訳はない。

美麗の父である浜名泰造のときとは違うのだ。浜名のときはあくまでも秘書として、プライベートには一線を引こうとした享子だったが、ある日の社長室でいきなり抱きすくめられた。

それからは浜名の公私に深くかかわってきた。そのときからのくせでつい深入りをしてしまう。享子はそんな自分の迂闊さを責めた。

申し訳ありませんでしたと頭を下げた後、話すべきはそれだけであることを告げた。金子は享子からの情報のすべてを脳細胞に刻むとどう対処すべきかを考えている様子ではあったが、それについては何も語らなかった。ただこれからは美麗が自宅から一歩でも外に出るようなことがある場合には、必ず同行するようにと上司としての命令を下すと、

「美麗を一分たりとも一人にしないようにしてくれ」

 念を押し、一旦コテージに戻るように指示した。

「お嬢様、わたくしはこれで失礼いたしますので。また明日にでも」

 金子に一礼すると美麗にも視線を送り部屋を出て行った。

今度こそ振り向くことのない享子の背中を美麗は愛しい人を見送る思いで見つめた。

これでとうとう金子と二人きりになってしまった。コテージの一室

で、しかも男と女、という以前に「夫婦」なのだから。当然この後、どういうことが待っているかの予想はつく。

美麗の心は今すぐコテージが火事になり、火災報知機のベルが鳴り響くことばかりを願っていた。いくら待ってもそんなベルが鳴るはずもない。ただ黙って目線を落としている美麗に、

「夕食は済ましたのか?」

金子が聞いてきた。

済ましてはいないと首を振ると、

「じゃあ外に食べに出るか」

その一言は美麗にとって救いの言葉だった。このままこのホテルで夜になるのを待つよりどれだけいいことか。少しの間だけでもこの二人っきりという空間から離れられるのなら。金子との食事などどこへ食べに行こうがさほど美味しいものではないがベットに入る時間を少しでも遅らせることができるのならこれほどいいことはない。

「私、化粧してきます」

ドレッサールームへと足を向けた。

食事に誘ったとき、一瞬、美麗の頬が緩んだのを金子は見逃さなかった。微かな表情の動きでも金子にとってはひどくうれしい。

金子の前ではいつも美麗は眉根をぴくりとも動かさない、凍りついた表情をしていたからだ。

もしかしたら美麗の心もこの伊勢志摩の地で癒され、もう完全に樹稀也のことは忘れ、自分を愛し始めているのでは、と。金子にとって都合のいい勘違いで自身を包むと心は躍っていた。それはまるで遠い昔、体育館裏で初めて愛を告白した頃のように。今、初恋にときめいた少年の日がよみがえっていた。

弾む思いで美麗を待ちわびる金子に、突然、部屋の電話が鳴った。

てっきり享子からだと思い、別に用件はないと言おうと受話器を取った金子の耳に響いてきたのは意外にも男の声だった。

「クロークでございますが、藤井様でらっしゃいますか?」

「えっ? あぁ」

「さきほどタラソゾーンにて指輪をなくされたとのことでしたのでお捜しをいたしましたが、ちょっと見当たらないようなのですが」

指輪? 浜名からもらった指輪でも落としたのかと思いながら、受話器に耳を当てたままでいる金子に従業員らしき男は申し訳ございませんを繰り返しながら電話を切ろうした。その声をつかまえるようにして、

「あっそちらに橘 樹稀也さん、おられますよね」

「はい橘は私どもの従業員ですが」

受話器の相手がはいと答えた瞬間から、金子の脳細胞は働き蟻のように動き出した。

「じゃぁこの電話をちょっと回してもらいたいところがあるんだが」

かしこまりました、どちらへと問いかける声を聞きながら、金子の口元には微かな笑みが漂っていた。


ドレッサーに写る自分の顔をじっと見つめる。

綺麗に二重に重ねた目、抜けるような白い肌。変わりはない。誰もが認める美しい女が鏡の前に座っている。

けれどその姿はマネキン同様で、そこに生気は注入されてはいない。

このまま生ける屍として生きていくのならばいっそのこともう死んでしまおうかとさえ思う。

「けれど」

手首に剃刀をあてようとする美麗の手を細くて長い指をした手が引き止める。その手首から腕をたどっていくと、そこには涼しげな瞳に長い睫の樹稀也がいた。

ここで死んだならもう二度と樹稀也に会うことはなくなる。

「死ぬな」

夢想する中での樹稀也は笑顔で美麗を見つめている。その笑顔にもう一度会うまでは。

「私は死なない」

鏡の中の自分に向かって励ましの言葉をかける。こうして言葉に出すことでどこか気力が湧いてきそうに思えるからだ。

美麗は夫である金子のためよりはいつか樹稀也に会えるその日のため、それだけを信じていつまでも美しい自分でいようと化粧を始めた。

受話器を下ろしたとき、金子の心臓は急激にハタハタと鼓動を早くしていた。これを興奮と呼ぶならばまさしくその通りだろう。

「まさに思う壷」

金子の薄い唇に笑みが漂う。

これから起きる出来事のすべてが、自分にとっては推理小説の結末を知ることよりもさらに劇的なものになりそうに思えるからだった。

さっそくネクタイを外し、上着を脱いだ。

ワイシャツのボタンを外しているところに美麗がドレッサールームから出てきた。

「お待たせしました」

そこに化粧を施した美麗、いや「妻」が立っていた。

美しいという言葉はこの女のためにあると言える。

これほどまでに美しい生き物を誰かの手に渡すなど考えられない。金子は美麗を一人の女としてではなく「俺の物」としての目で見つ

めた。

美麗の方は出かける準備をしたはずなのに、目の前の男が上着を脱ぎワイシャツのボタンを外そうとしているのに不振を抱いた。

「出かけるのでしょう?」

「いややめた。食事を取る前にすることがあった」

「すること?」

首を傾げる美麗に金子は決意を持った目で迫った。

その決意を持った目に美麗が何かを感じた瞬間、金子が一歩二歩と近づいて来た。徐々に自分に近寄って来ようとする金子に美麗は女としての身の危険を感じた。

金子が一歩近づくたびに、一歩後退してしまう。

「何をするんですか」

「何って、夫婦としてするべきことをするんだ」

美麗にとって一番恐れていたその言葉に心臓は鼓動を早くした。

「それ以上近づいたら大声を出しますよ」

「出したかったら出せばいい。どうせ出したところで誰にも聞こえはしない」

金子が眼前近くまで近づいたところで、美麗の背中は壁に狭まれてしまった。逃げ場がなくなってしまった美麗の唇を金子は奪おうした。咄嗟に唇をそむけてしまう。

「美麗、キスをしてくれ」

なおも迫ってくる金子に、壁に押し付けられ、どうすることもできない。そのまま唇を奪われしまった。

その強引さに敵意さえ抱いてしまう美麗に金子は、

「君と夫婦になれたというのにいつまでも心が通じ合えないなんて俺はひどく悲しい」

じっと見つめる金子の瞳が心なしか潤んでいるように見えた。真っ正直に見つめてくるその目を見たとき、金子の中に自分を心から愛してくれる男の心を見た気がした。

「今夜こそ君を妻にしたい。いいだろ?」

それでもうんとは頷けない。

愛されていてもその愛にどうしても答えることはできないのだ。

「君の心にまだ樹稀也がいることはわかっている。けれどもう忘れるんだ! たとえあいつのことが好きでもどうすることもできないだろう。あいつは女なんだから」

それはわかってはいるけれど。忘れることができるのなら忘れたい、けれど心に樹稀也が住んでいる。彼が住んでいる限りにはどうしても金子を受け入れることはできない。

ごめんなさいと口を開こうとした瞬間、思いがけずに美麗の体がふわりと宙に浮かんだ、と思うまもなく天井がひどく近くなった。

自分の体に何が起きたのだろうと慌てる美麗に、

「君の心はどうでも今日の夜はずっと一緒だ」

美麗は金子に抱きかかえられ、そのままベットルームへと連れて行かれた。


子牛のステーキ、トリュフ入りのサラダ、パン、そして1950年物のシャトーブリオン、たったこれだけの料理で一体いくらかかるのだろう、料金をふっと考えてしまう。

樹稀也はシルバーの蓋をかぶせた極上の料理の数々、これらを乗せたワゴンを押していた。

タラソゾーンでの仕事が終わった。

七時に終了の予定が、女とは支度にこれほどまでの時間がかかるものなのか。結局完全に上がれたのは九時を過ぎてからだった。

「やっと終わった」

樹稀也は大きく一つ背伸びをすると、タラソゾーンの照明をすべて落とし、タラソエリアを出ようとした、そのとき内線ホーンが鳴ったのだ。

受話器に手をかけた瞬間、嫌な予感が走る。こういうときにかかる内線は大方が仕事と決まっている、それも多分にやっかいな。

もう鍵を掛けてエリアを出たことにして内線の鳴ったことには気づかなかったことにしよう。受話器に乗せた手を一旦は離したが、やはり仕事への責任感というものが脳裏によぎる。

ここで知らないそぶりをすることは、ホテルマンとして失格ではないのか。 一人前のホテルマンとなるためにはここはどんな仕事にも嫌な顔一つせずに真面目に取り組まなくては。その思いにも突き動かされ、樹稀也は受話器を取った。その樹稀也の耳に、

「おう、まだおったか」

男としては少し高めの声が響いてきた。主任の中野だった。話し始めた用件はといえばやはり仕事の依頼だった。その仕事は多分に樹稀也にとってひどく予想外のものではあったが。

「悪いが橘、レストランフランス軒の料理をルームサービスで注文した客がいるんで持っていってくれ」

ルームサービスならば専用の担当がいるはず。それをどうして自分がと訝る樹稀也に、

「どうしてもお前に持ってきて欲しいって、客からのご指名でよ、さっそくご指名を受けるなんてすごいなぁ、お前」

指名という言葉に樹稀也は意外さを思った。

勤めて半年にはなるが、まだホテルのどの客とも馴染みになっているわけはない。というかリピーターの客もいるにはいるがタラソでの会員の客がほとんどなので、そのほとんどは「通い」である。 

宿泊客に指名を受けるほどの客はいないはず。

もしかしてタラソの会員の誰かが宿泊でもしたのか、と思いながら、樹稀也は初めての「指名」の客へ、幾分心躍る思いを抱きながらコテージへの道を歩き続けていた。

「コテージ1280棟、あった、ここか」

ドアの前に立ち、一つ深呼吸をするとドアベルを押した。

インターホンから「どちら様?」と男の声が聞こえてきた。どこかで聞き覚えのある声だなと思いながら別段気にも止めなかった。

「ルームサービスですが」と答えるとインターホンの向こうから軽く

おっと驚くような声がし、すぐに「ロックを外すからそのまま入ってきてくれ」と指示が出た。

ドアロックの外れる音がしたと同時に樹稀也はワゴンを押しながら部屋の中へと入って行った。

リビングには人のいる気配はなかった。コテージには専用のフランス製テーブルと椅子が置いてある。瀟洒な二十世紀初頭を思わせるコンチネンタルの家具、その椅子に男物の上着とワイシャツ、ネクタイが無造作に置かれていた。さらにテーブルにはダイヤのピアスが二つ。それを見ただけでも家族連れではないことがわかった。

樹稀也はテーブル横にワゴンを置くと、

「テーブルセッティングいたします」

どの部屋にいるのかわからないが、どこかにいるであろうゲストに向けて声を張り上げ、白いテーブルクロスをテーブルに広げた。

そのときだった。

「悪いがベットルームに持って来てくれないか」

またも姿なきゲストは奥まった部屋から声を発してくる。

ベットルームという言葉に樹稀也は多少の抵抗を感じた。

幾らなんでもそこまで立ち入るとは、とも思うが、まずは腹ごしらえをしてから、というところか。それだって飯ぐらいベットルームから出てきて食べてもよさそうなものを。そんな時間さえも惜しいほどに男と女は我慢できないってことか。人それぞれではあるが、その貪欲さに首を傾げるところではあるけれど。たとえどういう要望でも客の望む通りにするのがホテルマンなのだから。

「かしこまりました」

樹稀也は請われるままにワゴンを押しベットルームへ足を運んだ。

ベットルームのドアが少し半開きになっていた。

「ルームサービスです。ではこちらの方にワゴンを置いて」

ワゴンを置き、立ち去ろうとする樹稀也に、

「君、入って来てくれないか」

客の言葉にさすがに樹稀也は気色ばんだ。

いくらなんでもベットルームの中にまで入るなんて。困惑する樹稀也の様子がわかるのか、ゲストは構わん入れを繰り返した。

「失礼します」

樹稀也は言われるままにベットルームに入った。ベットルームにはキングサイズのダブルベットが部屋の中央をすべて占拠するように一つ置かれていた。

「おう、生きてたのか」

ゲストは羽毛布団に下半身を突っ込むと上半身裸の姿でベットからこちら側を見ていた。そのゲストこそはまぎれもない金子だった。

幼なじみとの久しぶりの再会、けれどそこに何も感動はなかった。

ここではあくまでもゲストと従業員の間柄なのだから。

「手術して男になったんだってな」

樹稀也の行動は逐一金子の元に届くようにしていた。

それだけに調査会社から樹稀也が性転換手術をしたとの報告を受けたときには、金子の男心は少なからず波立った。

「男になってもう女は抱いたのか」

黙ったままでいる樹稀也に、

「女を抱けるのはやっぱりいいだろう。だけどもな、女なら誰でもいいってわけはない。そうだろ?」

金子はゆっくりとタバコをくゆらす。ベットルーム全体に紫煙が漂う。息苦しさに一瞬眉根を寄せる樹稀也を面白がるように金子は微かに笑みを漏らした。

「どうせなら好きな女を抱きたいよな」

それにも樹稀也はどうとも答えられない。

「俺もな、好きな女を抱きたいんだ」

金子はそういいながらベット横の灰皿に煙草を押し潰すようにして消すと、ダブルサイズの羽毛布団をはぐった。

そこに半身で横たわる女の姿があった。

長い栗色の髪に細い肩、どこかで見覚えのあるような、その上半身に手をかけると金子は女を正面に向かせた。

「あっ!」

そこにいたのは誰あろう美麗の姿だった。

あれほど恋焦がれていた女との再会がこんな形で実現するとは。

樹稀也は驚きのあまり声が出なかった。

それは美麗とても同じだった。

今愛しい男が目の前にいるというのに、自分は好きでもない男と共にベットにいる。こんな残酷な再会があるだろうか。

「好きな女を抱くのがどれほどいいものかお前に見せてやるよ」

金子は美麗に覆いかぶさった。

「いや!」

抵抗しようとする美麗を太い手が押さえつける。

「俺たちは夫婦なんだから。抵抗する権利なんてお前にはない」

そういうと金子は強引に美麗の体に重なるとそのまま首筋へと唇を這わしていった。顔を背けながらもされるままになっている美麗。

ベットインした男と女を前にする樹稀也。こんな姿を見せられることに耐えられるわけはない。

「失礼します」

樹稀也はそのままベットルームを出て行こうとした。そのとき、

「出ていくな!」

金子が叫んだ。

「ちゃんと見てろ」

「いや、でも……」

「客の要望に答える、それがホテルマンの使命だろ」

「ですが、これは……」

「客の俺が見てろって要望してるんだ。最後までそこに立って見てろよ」

ゲストが要望することに答えるのはホテルマンの使命とはわかっていてもその要望にも限度があるだろう。これは樹稀也にとっては拷問ともいえるものだった。

金子の唇が美麗の首筋から乳房に降りていった。小ぶりではあるがピンクに染まった桃のような乳房が露になった。そこにバラ色に染まった乳首が上を向いて乗っている。その乳首を金子の唇が含んだ。  

さらに舌先を何度となく動かしては乳首を愛撫していく。

美麗の口から微かなあえぎ声が漏れた。

「好きでもない男に抱かれても体はこうして反応していく。女なんて所詮こんなものさ」

思わず顔を背けてしまう樹稀也に、

「目をそらさずにちゃんと見てろ。客の言うことが聞けないのか!」

金子の要望はさらに悪意を持ったものに変わっていった。

客のどんな要望にも答えるのがホテルマンの使命とはいえ、いくらなんでもこれはひど過ぎる。こうした無理難題な要望にはたとえホテルマンであっても答える必要はない。

樹稀也は決心した。

「お客様、これはお客様のひどくプライベートな部分になりますのでいくらホテルマンと申しましてもここまでは踏み入ることはできかねます。では失礼いたします」

樹稀也はその場を立ち去ろうとした。

「ホテルマンといえども人間だろ。目の前にお前の好きな女がいるんだ。それがこうして好きでもない男に抱かれているんだぞ。くやしくないのか。この場から奪い去って行こうと思わないのか」

一人の男としてならば美麗を略奪したいところではあるけれど、今こうしてこのゲストの借りているコテージの、しかもベットルームにまで足を踏み入れることを許されているのは樹稀也がクィーンズホテルの従業員だからである。

樹稀也の今の立場はホテルマン以外の何者でもない。

「金子様の奥様を、一介のホテルマンであるわたくしがどうこうするわけには参りません」

樹稀也の言葉に美麗は凍りついた。

金子の言うとおりに今すぐこの場から奪い去ってほしいのに。

なぜ? 金子の妻になった日から私に興味はなくなったというの。もう愛もなくなったというの。美麗は呆然とした思いで樹稀也を

見つめた。

樹稀也は一瞬、ベットにいる美麗を見た。美麗は金子にわからぬようにそっと小さくひと差し指でS字をかたどっていた。そのひと差し指を見たとき、一歩右足が動きかけた、が、二歩目が出なかった。どうしても美麗を奪い去ることはできない。それは自分が完全なる「男」ではないからだ。たとえ手術をし、見かけはどう変わっても女であることには変わりはない。となれば美麗を幸せにすることなどできない。自分なりの判断を下すと、

「失礼します」

低く静かに一言告げ、ベットルームを出て行こうとした。

そんな樹稀也を追いかけるようにして、

「情けない野郎だ。てめえは男になっても女以下だな」

その言葉が背中に突き刺さる。本当なら殴り返したい思いを飲み込むと、すべてのことに耳をふさぐようにして部屋を出て行った。

「所詮あいつは女。どこまで行っても男にはなりきれない。情けない野郎だ。これであいつの本性がわかっただろう」

金子は勝ち誇った顔で美麗を抱く。熱い吐息の下で組み伏せることで勝者の気分を味わっていた。ときおり金子の汗が美麗の体に滴り落ちる。その汗のシャワーを浴びながら美麗の心はより一層樹稀也を追い求めていた。

これで絶望し、樹稀也を嫌いになれたならどんなにかいいだろう。

けれどどうしても消せない。心から追い出すことなんてできない。

たとえベットルームで、自分は違う男と共にベットにいるというあられもない姿であって

も、樹稀也がそこにいるのを見たとき、やはりうれしかった。

できることなら金子を追い出し、ベットルームに立つ樹稀也の方をべットに招き入れたい心境だった。

ここまでの思いをもって改めて樹稀也のことを愛していることを

再確認した。夫に抱かれながらも心では違う男を愛することを決意するなんて。これを裏切りといわずしてなんと言えばいいのだろう。

けれど美麗の考える本当の裏切りはこんなものではなかった。

自分の考える最高の裏切りを実行に移す、そのためならどんなことでもする、その覚悟を今、ひと差し指にした。

妻の密かな決意など知る由もない金子は、美麗の中で満足気な顔で果てて行った。


滴り落ちる汗が目へと流れ込んでくる。感動の涙などと人はいうけれど所詮涙なんて塩っからい水でしかない。しょっぱさが目に染みる。けれど今の樹稀也にとっては汗を拭うことなどしている暇はなかった。ただ全身のエネルギーのすべてをかけてサンドバックに向かっていく。

「おい、そんなに飛ばし過ぎるバテるぞ」

 忠告するトレーナーの言葉さえ樹稀也にとっては煩わしかった。

 ただがむしゃらに目の前のサンドバックを打ち続けていたかった。

 身も心もすべてを完全な男の肉体に作りあげるために始めたボクシングだった。が、今日は違う。

 サンドバックを叩き続けることで自分の不甲斐なさのすべてを忘れられる、そんな気がした。

 忘れようとして忘れられない、あのベットルームでの映像が蘇る。そのたびに、拳を振り上げ、叩く。叩いて叩いて、叩きのめすほ

どに叩き続けてもあの日の美麗の、自分を見つめていた目をどうしても消し去ることがで

きない。

 どうしてあのとき、美麗をベットから奪い去らなかったのだ。あの目は完全に救いを求めていたではないか、なのになぜ。

 叩いて、叩いて、叩き続ける。

 次第に心臓は鼓動を早めハタハタと言い始めた。このままこのハイレベルなリズムでサンドバックを叩き続けたならもしかして心臓は止まってしまうかもしれない。もう止まってもいいな、樹稀也には失うものなど何もない。むしろこのジムの中でグローブを手にしたまま死んでしまえるのなら本望だとも言えた。死の恐怖などとうに通り過ぎていたから。

一心不乱に叩き続ける、その手が一瞬、空を切った。いくら男に生まれ変わったとはいえ、目方は女性と大差のない少し細めの体ではある。それでもつけた腕力はそんじょそこらの男には負けないはずである。それをと思いながら傍らに目をやると、そこには初老の男が立っていた。このジムのオーナーである片岡だった。片岡は樹稀也のグローブをつかんだまま、 

「無理するな」

これ以上は心臓に負担がかかりすぎると言うのだ。樹稀也にとっては負担がかかろうとそんなことはどうでもよかった。たとえ心臓が止まったにしても打ち続けていたかったのだ。そんな樹稀也に、

「いくら何でもこのジムで死者を出すわけにはいかんのでな」

 その昔、東洋のミドル級チャンピオンにまで上りつめた男は、冷ややかな目で樹稀也を見つめていた。

「どうした、何かあったか?」

何も答えない樹稀也の顔を覗き込むように見つめると、

「さしずめ女にでも振られたって顔してるな。そのヤケ打ちか」

 伊達に三十年もこの地でスポーツジムを開いてはいない。さすがに選手の体調のすべてはお見通しというところか。さすがに今は経営難もあって女性用のダイエットボクシングもプログラムに取り入れ、女性の姿も見えるようになったが、樹稀也はあえてプロコースを選んでいた。それだけに片岡も何かにつけては目をかけてくる。

「大丈夫。この程度のことで死んでしまうほど柔な心臓じゃないですからスパーリングお願いします」

 頭を下げる樹稀也をしばし見つめる。その目は多少視点が定まっていない。ボクシングでの連打の後遺症か。よく見れば片岡の顔の左右は不対象でしかも幾分斜め加減な感じで立っていた。小柄で細身の体は杖の支えがなければそのまま倒れてしまいそうにもあった。

六十も半ばを過ぎ、一度倒れた体は麻痺が進み、いつ何時どうなってもおかしくはない。普通の人間ならばとっくに入院しているはずのところを片岡にとっては入院することよりもこのジムに足を運び、通い続けることのほうが何よりのリハビリになるといって断固として入院を拒否している。その老体がひとたびリングに上がるとその倒れてしまそうな体が嘘のように軽快なフットワークでスパーリングの相手を努めるのである。

「はい右! 左!」

 片岡の掛け声に樹稀也は打ち続けていく。

 ときに片岡の顔が歪む。その顔にもしも一瞬たりとも力を弱めると片岡から怒りの鉄拳が飛んでくる。

「ばかやろう!」

 手を抜くことは片岡にとって何よりの屈辱なのである。樹稀也は歪んだ片岡の顔にも、合えて頓着するでなく力の限りを込めて、パンチングミット目がけて打ち続けて行く。

 右! 左! と叩けば叩くほどに、樹稀也の心にある美麗の面影が鮮明に蘇っていく。

 叩いても叩いても消えない。消し去ることのできない女。

「おういいパンチだ」

 その調子その調子、片岡は自身の体の具合も忘れてしまうほどに樹稀也のパンチを受け続けてくれる。その言葉に答えるようにパンチを食らわしていく。たとえどんなに離れていても、お互いにどんな状況に追い込まれていたとしても、愛は消えない。今、樹稀也の心にも確かな思いが着実に芽生えていた。

 

金融庁は光井国友UОJ銀行に行政処分を出す方針を固めた。

旧UОJ銀行の銀行員が業務上の横領事件に関与していた問題で、

処分決定の方針を下したのだ。

そもそも旧UОJ銀行の前身旧三亜銀行時代、解放同盟への不自然な融資が繰り返され、なおかつ関連ノンバンクも使われ、暴力団関連の不動産を担保に転貸融資が行われていた。この暴力団の背景には大河原作栄の指示も見え隠れする。大河原は現職の国会議員だったころから暴力団との癒着が絶えなかったことでも有名である。 

このときの転貸融資についても大河原の一声があったとの噂もあるが。これらの回収もほとんど行われてはいなかった。

光井国友と合併までになんとか取引を正常化させようと努力をしたが結果的に決着はできなかった。

「処分を厳粛に受け止め、これからこのようなことのないよう努力して参ります」

 高岡は深く頭を下げ、陳謝した。

 金融庁では一部業務の停止と新規融資の一定期間禁止を検討しているとも言われる。

 異例の重い処分である。

 おそらく金融庁は業務改善計画の中で、経営責任者の明確化も求めてくるだろう。

 高岡にすれば自身を含め、役員達の報酬カットをすることでこの場をどうにか乗り切るつもりでいた。

 体制の強化も求められているこの時期に、ガバナンス(経営統治)も容易に進んではいなかった。

内部の管理を徹底するべく業務管理委員会を組織し、内部管理に権限を与える構想も、元金融庁高官や弁護士等の候補者に了承を得られなかったことでまるで委員会自体進んではいない状況だ。

 経営管理の機能が充分に発揮されていないとの金融庁に断罪されたのは痛いところで、構造的な問題はまだまだ尾を引きそうである。

 そんな矢先の臨時役員会議であった。

 議題としてはまず第一に横領事件に関わった役員行員を処分する。

二つには業務管理委員会の具体的発足を加速するというものだった。

「元常務の市野、元執行委員の稲田、この二人には役員退職慰労金の支払われない解任とする」

 さらには元次長ら横領事件に関係した行員の降格や戒告などの処分を発表した。

 高岡にとってこれですべての「膿」を払い出し、新しい光井国友UOJ銀行として再出発できるはずであった。

「当面の間、私以下、頭取、信託部門社長ら首脳は無報酬ということで、さらにはグループ行員の夏冬の賞与についても8割カット、さらに年収も前年度比二割まで引き下げることとする」

 とりあえずは当期は赤字となるための処置である。

「赤字のため普通株式だけでなく今年度の公的資金に対する配当も無配となります。このきわめて異例な事態を重く受け止め、これからも大胆なリストラ計画を実施してまいりたいと思います」

 高岡はそこまでを一気に読み上げると、出席した役員達の顔を見回した。全員がこれといった異論を講じないので、高岡はまずは安堵の根を下ろし、午後からの予定のために席を立とうとした。そのときだった。

「緊急動議を発令します!」

 頭取である内野正興が立ち上がった。

「これより高岡社長の解任決議案について提案いたします」

 突然のことに高岡は驚きのあまり声がなかった。何が起きようとしているのか。呆然とする自分の目の前で社長解任の動議が発令され、それについての投票が始まったのである。

「高岡社長に解任の動議を発令することに同意される方、挙手をお願い致します」

 の声と同時に役員達が次々に手を上げていった。

 会議室の中に高々と上がった太い手はまるで伸びすぎた竹の子のようでもあった。その手の数の多さに高岡は驚くよりも、呆然という思いで見つめていた。 

「賛成多数により、高岡社長の解任決議案は同意されたものといたします」

 同時に役員会議はお開きとなり、高岡はあっけなく社長の職を解任された。

「先代の秘書時代から高岡社長には大変ご足労をいただきましたがこのような事態となりましたのでどうかご理解のほどを」

 それだけを言うと、ほとんどの役員が内野に続くようにして会議室を出て行った。中には一礼する者もいたが、その多くは頭を下げるでもなく一瞥をくれただけで冷ややかな視線を投げかけると皆、そそくさと会議室を出て行った。

 一人残される高岡。

 すべては内野主導による企みに違いない。事前に役員のほとんどに緊急動議の根回しをしていたのだろう。蟻の這い出る隙間もないほどの鉄壁の結束で情報は漏れることなく、まさに、してやったりの成功に終わった。この完璧なるまでの企みの前には高岡一人ではどうするもできない。

しかしこんな形で社長職を解かれるとは。

 自分は秘書時代から公私に渡ってこのUOJを支えてきたという自負がある。ときにその「私」の方に重きを置きすぎ、芙蓉と親密な関係になってしまった。そのことが役員の多くに反感を抱かれたのかもしれない。

影では高岡のことを芙蓉の紐番と呼ぶ者もいた。それだけに「ヒモの下で働けるか」という匿名のメールを受け取ったこともある。

そのあたりから一介の秘書が芙蓉をだしに社長にのし上がったことで高岡への冷ややかな目が銀行内にはいつもあった。

それにしても、である。ここまでやられてはもう何もいうことはない。

光井国友との統合でグループ全体としては約一万人ほどのリストラをおこなったが、それでもUOJの当期赤字6500億円は避けられない状況にある。

告発のあおりで直面する課題はあまりに大きい。  

高岡の本音からすればもう対応しきれないという思いもあった。

 しかし告発内容からすれば金融庁の行政処分はとくに大都市圏における新規貸し出し停止に限られるため、地方の企業は除外されるなど既存の顧客への影響はきわめて少ない。

 それだけに光井国友との統合を急いだのは正解だったといえる。

結果的に高岡がこれによって社長職を追い出されることになってしまったけれど。内野にすれば一旦、高岡を社長に据えるということは高岡に統合までの餅をつかせたということなのだろう。統合がなされた今は高岡を追い出すことで彼らは労せずして餅を食べることができる。いかにもそつのない銀行員らしいやり方だ。

明日の経済新聞に高岡社長解任! と黒字で太く塗り固められた文字が見出しのトップに載っているのが目に浮かぶ。

まあわかっていることではあるけれど。

大学卒業と同時にこのUOJ銀行に就職して八年。この銀行に骨を埋めるつもりで来たのに。UOJとして単独ではなくなるのと同時に自分自身も雲散霧消と化してしまうとは。

入社当時からの様々の思い出が走馬灯のように駆け巡る。

営業マンとしてお客様回りをし、預金高トップに輝いた若手時代から、社長の秘書に抜擢され片腕とまで言われるほどにのし上がった日々。そして芙蓉と愛し合ったひととき。その時々のどんなときにもUOJの社員というのが高岡の誇りでもあり何よりの支えであったのに。その銀行に全身全霊を奉げてきた最後がこれなのか。

所詮組織にとっての社員など馬車の車輪の一つでしかないのだ。若く体力もあり使いがってのあるうちだけ重宝しても、使い物に

ならないとわかったら即、廃棄処分にされる。スペアならいくらでもあるから。自分がいなければこの銀行はだめになるなどというのはただの思い上がりでしかなかったのだ。

高岡はコピー用紙に五、六枚ほどある議会要綱を手にした。そこには議題が数項目書かれていた。

「こんな見せかけの議題を作って」

 自分を解任するためだけだった会議召集。その議題の文字が今はひどくむなしいものに思える。高岡は議題に目隠しするように裏返すと、思いのままにペンを走らせた。

 思い浮かぶ誰かに向かって手紙を書き綴る。まず目の前に現れたのはやはり芙蓉だった。けれどもこの手紙が公開された後のことを思うと、やはり男としていや銀行マンとしてのプライドがある。そのプライドがやはり芙蓉にあてて書くことを止めた。

高岡は銀行へ、社会へ、そして別れた妻と子供に思いの丈のすべてを書き綴っていった。

 気がつけばほどばしる涙が何度となくコピー用紙を濡らした。

 その滲む文字を見つめながらも高岡にとってこれが最初で最後となる「遺書」を五枚に渡り書き終えると、テーブルに置いた。

一気に書き上げると、そこには達成感にも似た感情が湧いていた。不思議と悲壮感はどこにもなかった。もう一度遺書を読み返して

みる。満足気に手紙を見つめると、そのまま振り向きもせずにまっすぐに窓へ向かって歩いていった。


 翌日の経済新聞、一面トップはUOJグループ社長飛び降り自殺! と黒い太字で書かれた見出しだった。

美麗は驚きのあまり声もなかった。それは金子とても同じだった。

「馬鹿な奴だ。これからというときに」

 金子にとっても統合でこれから高岡と共に手を組み、世界一のメガバンクとしての地位を確立していくべく、仕事をしていこうと思っていたのに。

「解任されたにしてもまだやるべき仕事はあっただろうに」

 金子は新聞を見ながらそう唸っていた。

 朝、一番に経済新聞を読みながらコーヒーを飲む、が金子の習慣である。

 その傍らには必ず愛すべき妻の美麗がいること、この三つがそろえば朝のエネルギーは十分すぎるほどに蓄えられる。

 伊勢から帰って、金子と美麗は夫婦になることができた。

 あのホテルでの一件は夫婦にとってはいい起爆剤になったようだ。

 夫婦でベットインした姿を樹稀也に見せるという、少し荒療治な方法ではあったが、これによって美麗に樹稀也を忘れさせることができた。愛する人の前で違う男に抱かれる、しかも愛する男はそんな自分をどうすることもできずにただ呆然と見つめていた。それが美麗には至極ショックなことだったのだろう。

 美麗は完全に金子のものになった。晴れて夫婦となった今、何よりの平穏な日々が戻ってきた、その矢先の自殺記事である。

 美麗もやはり不安気に新聞を覗き込む。

「お母さんは高岡と一緒にいるのだろう」

「そうです。まだ籍は入れてはいないけれど」

 心配そうな美麗の瞳に涙が滲む。憂いを含んだこの顔が金子にとっては何よりそそられるのだ。母親の内縁の夫の自殺ということがなければそのまま押し倒していたことだろう。いくらなんでも事情が事情だけにそこは我慢をした。

「大丈夫なのか?」

「おそらく母は半狂乱ではないかと」

 うっすらと目頭を赤くした瞳が金子に懇願するように見つめてくる。その目にこうまでして見つめられると夫としては理解ある言葉を投げかけなくてはいけなくなってしまう。

「お母さんの傍に行ってあげたら」

「いいのですか?」

「お母さんの力になってやれるのは美麗だけだから」

 美麗の顔にうっすらと笑顔が戻った。美麗の喜ぶこと、そのためなら金子はどんなことでもしてやりたい、そんな心境になっていた。

 夫の優しい心遣いに内心喜びながらも、美麗の中ではある思いを持って家を出た。


 自宅前にはやはり大勢の報道陣が詰め掛けていた。

 おそらくここで美麗が玄関前に姿を現せば、報道時にもみくちゃにされるのはわかっていた。けれども行かなくてはいけないのだ。

 美麗はあえて火中に身を投じる思いで、白金の家に車を乗り入れようとしたが、すぐさま車は取り囲まれた。

「自殺の原因はやはり告発ですか」

「高岡社長とお母さんとは内縁関係ということですが」

「愛人がいたということでその三角関係のもつれですか」

 報道陣から容赦のない言葉が投げかけられる。マスコミの野次馬的憶測をからめたものばかりで、これには思わず反論したいところではあった。けれどここで一度言葉を発せようものなら、その部分のVTRが翌日のワイドショーでは使われるのである。美麗はカメラの放列や押し合いへしあいする報道陣に恐怖感さえ抱いた。それを藤井享子が壁になって、

「ちょっと通して下さい。お話することは何もありませんから」

ガードをしてくれ、どうにか白金の我が家に入れた。

 伊勢から帰って以来、美麗には享子が小判鮫のようにして張り付き、一歩たりとも自由な行動をさせないほどに束縛していた。どこへ行くにも行動を共にする享子を疎ましく感じていたが、こんな場面に遭遇してみると、美麗にとってのこの人は存在価値が増す。 

このときほど享子を頼もしいと思ったことはなかった。

 家に入ると、外の喧騒とはうって変わり、異様なまでの静けさが漂っていた。

「お母さん?」

 リビングに足を踏み入れてみた。

 いつもと変わりない照明なのにどこかしら暗さを感じさせる。死神が舞い降りた家というのはこういうものなのだろうか。 

 リビングの一番奥まった壁際には白い棺が置かれ、芙蓉はその棺の前で呆然としたまま座っていた。

「お母さん」

 声をかけても芙蓉は微動だにしない。もう一度「お母さん!」耳元で叫ぶようにするとやっと気づいたのか美麗を見た。

「あぁ美麗、来てたのかい」

 その顔に美麗は愕然とした。化粧気のない顔は生気を失い、白く張りがあった芙蓉の顔には無数の縮緬皺が寄り、艶のあった栗色の髪に至っては白髪だらけで、ぱさぱさになっていた。

 あれほど美しかった芙蓉が一夜にして七十をとうに過ぎた老婆になってしまっていた。

 あまりの老けように美麗は言葉もなかった。

「大丈夫? 元気だして」

「あのね、高岡が死んだ、死んじゃったのよ」

 絶叫するようにしてわめくとそのまま美麗に抱きつき泣きじゃくった。

高岡とは何度も愛し合った。芙蓉にとって、高岡と最後に愛し合ったあの夜、体こそ合わせはしなかったが、高岡への本当の愛の証として、若い男のほどばしるエネルギーのすべてをも飲んだ。あのときゆっくりと喉を通り、食道の粘膜にへばりつくようにして降りていった液体の感触が今もまだ喉の奥深くに残っているというのに。すべてを飲み込んで数日もしないうちにこんな別れがくるなんて。芙蓉にとってはどうしても信じられないことであった。

美麗の父である浜名が死んだときでさえも、芙蓉はここまでの悲しみを現さなかった。静かに涙を落とすといった程度でそれは多分に後で雑誌に掲載されるであろう自身の顔写真を意識してのことではあったけど。今回の高岡のときとはまるで違っていた。

芙蓉が化粧をしない顔をたとえ娘であっても、もちろん亭主でさえも絶対に見せないという女なのに。その芙蓉が化粧をすることも忘れ、泣き喚いているのである。芙蓉の悲しみの深さが思われる。

愛する人を亡くすということはあの美しかった芙蓉を一瞬にして老婆変えてしまうほどに悲しいことなのか。

その瞬間、美麗は樹稀也を思った。たまらなく樹稀也に会いたいと思った。今、恋しい人であるあの人に会いたい、いずれ死という別れが来るのならば、会っておきたい。いや会わずにはいられない。  

美麗は腕の中で涙にくれる芙蓉を抱きしめながら、樹稀也に会う方法を考えていた。

UOJグループ社長の自殺の記事は樹稀也とても他人事とは思えないことであった。社長の自殺というのはやはりその傘下にある企業にも多少の影響がないこともない。

といって樹稀也はどこまでいっても従業員の一人でしかないので、

普段通りにホテルの仕事につくつもりでいた。

「おい樹稀也、お前、行ってこい」

 出社早々に主任の中野からこう命令をされた。

「どこへ?」

「お前、新聞読んでないのか。UOJの社長が死んだだろうが」

社員の数人が通夜葬儀の手伝いとして借り出されることになった。

 こういった面倒でわずらわしい仕事のほとんどは上層部から順送りに下へと降りていって結局、一番下っ端である樹稀也といった平社員の仕事になってしまうのだ。それでもなんで自分がという思いも樹稀也にはあったが、上司の命令ということでもあるので、どこかにひっかかるものを感じながら、樹稀也は数人の従業員と共にホテルの車に乗り込み葬儀場へと急いだ。

樹稀也がホテルを出たと同時に、中野はすぐさま自身の携帯を手にした。

「今、葬儀場のほうへ行かせましたので」と口元を隠すようにして報告をしていたことなど、樹稀也は知るよしもないことであった。


葬儀場では葬儀社の社員が慌しく準備に終われていた。ここはプロである葬儀社にまかせて、樹稀也達は葬儀会場の警備や車の誘導に携わることになった。

 今日は通夜ということなので、足を運ぶ人間がさほど多くはない。

 それでも次々とやってくる黒塗りの車を誘導し、駐車場へと招じ入れていく。

 高岡は美麗の母である芙蓉の内縁の夫である。それぐらいのことは承知している。それだけにもしかしたら美麗に会うことになるかもしれない。たとえもし再会を果たしたとしても、もう美麗のことは金子の妻意外の何物でもないのだから。

 やがて芙蓉と共に美麗の乗った車が高輪葬儀場へと乗り入れた。美麗は後部座席にでも座っているのかその姿は確認することはで

きなかった。前の座席に芙蓉が座っていることでもしかしてこの車に乗っているのかなと

樹稀也は推測した。

 美麗は後部座席からはっきりと樹稀也の姿を確認した、右へと誘導する樹稀也の目の前を、車はゆっくりとした速度で通り過ぎていった。もしも車のウィンドウがスモークガラスになっていなければおそらくお互いを目で確認できただろうに。このときばかりはスモークの張られているウィンドウを恨めしく思った。

 それでも樹稀也も自分がこの車に乗っていることをわかっていてくれたと美麗は確信した。

 通夜が始まった。

金子は葬儀には出席するが、通夜は仕事の都合でどうしても出席できないらしく、その旨のメールを美麗は事前に受け取っていた、 

だからこそ、クイーンズホテルの立野に連絡を取り、従業員である樹稀也を手伝いという名目で葬儀場ヘ来るようにしむけることができた。

「今日」しかない。明日の葬儀になれば金子もやってくるし、何より葬儀の参列者も増え、さらにはマスコミの取材も多くなる。テレビカメラにさらされた中で、行動を起こすことはできない。

静かに横たわる高岡の棺に次々に訪れた参列者は焼香を済ませていった。その傍らに佇む美麗と芙蓉。本来ならば親族が立ち会うところを今のところ高岡の縁戚関係にある者は誰も来てはいなかった。 

どちらかというと遠慮をしているようにも見えた。明日になれば元妻に子供といった身内も姿を現すかもしれないが、今のところは至って静かな通夜であった。

「お母さん、ちょっとコーヒーでも飲む?」

 焼香客が途切れたことでもあるので、美麗は休憩をしようと芙蓉を誘った。けれど芙蓉は首を振った。それは多分に、もう明日になれば骨になってしまう男の、肉体があるこのひとときだけでも離れたくないというふうだった。

 美麗にすればそれも計算のうちではあったけれど。ここで芙蓉を誘っても首を振るとわかっていたが一応誘っておいたのだ。逆に一緒に来ると言われたらどうしようかと思ったぐらいだ。

 さっそく葬儀場の一階に降りると駐車場にいるはずの樹稀也を目で捜す。さほど多くはない車だけに三人ほどの従業員で車の誘導を行っていた。その中で駐車場の端付近で車の駐車に誘導をしている樹稀也を見つけた。すぐに駆け寄りたいところをちょうど享子がホールの廊下を歩いてくるのが見えた。これはまずい。ここで享子に樹稀也がいることがわかっては。

 美麗は玄関ホールに戻ると、

「藤本さん、ちょっとお願いがあるんだけれど」

「はい、なんでしょうか」

「私、急に」

 下腹に軽く手を添えながら言葉を濁すと享子に耳打ちをした。

「それで、買ってきてくれないかしら」

「あれでしたらわたくし、予備を持っておりますが」

「予備? 」

美麗にとって予定外、とはこのことだ。適齢期は当に過ぎたとはいえ享子も女である。ちょうど同じ時期に、ということはありえるのだ。内心困ったと思ったが、咄嗟に、

「藤井さんは内装式の分? それとも」

「いえわたくしはナプキンで……」

 といいかけて享子も言葉に窮した。こういうことはあまり声高に口にすることではないことだから。

「私、ナプキンはかぶれるから、タンポンじゃないとだめなの。だから悪いけどコンビ二で買って来て」

 できたら長時間用をという美麗の言葉に享子はわかりましたと答えながら、少し考え込む素振りをしていた。金子からの指示で一分たりとも美麗を一人にするな言われている。それを思うと……。 

しかしこれは女にとっては急を要することである。それは同じ女同士としてわかる。このままに放っておいて万一、葬儀中に黒のワンピースを赤く染めてしまうようなことにでもなったら、金子美麗としてではなく、光井国友UOJ銀行社長の妻の大失態として報道され、世間に大恥をさらすことになるだろう。そこまで考えた末に、コンビ二へ行くことにした。コンビ二まで往復したとしても十分もあれば充分だろう。いくら美麗といえどもその間にどうこうできるわけはない。享子は頭の中でそう計算すると「すぐに買ってまいります」の言葉と共に葬儀場を出て行った。

幾分、駆け足気味の享子の後ろ姿を見ながら美麗は今日こそ女であることをこれほどまでに嬉しいと思ったことはなかった。女にとって月に一度必ずやってくる「客人」は煩わしいもの以外の何物でもないけれど、ときに「理由」づけとして利用するにはこの上もない「上客」となるのである。

 コンビ二は歩いて五、六分ほどのところにあった。買って帰ってくるまでを考えると許される時間は十分。たとえ十分でもいい。藤井享子という「監視」を遠ざけることができるのなら。

 美麗はすぐに携帯を手にすると、立野から聞いた樹稀也の携帯電話に連絡を取った。

 伊勢のホテルでの出来事は美麗にとっては屈辱的な事ではあったけれどおかげで樹稀也の居所を知ることにも繋がった。

 金子にすればあのベットルームでの樹稀也の態度で自分に樹稀也を完全に忘れさせることができたと思ったのだろうが、金子の思惑は見事に外れた。結果的に美麗に樹稀也の居場所を知らしめることになった、おそらく金子には思いもよらぬことだったろうが。

美麗はクィーンズホテルの中野に幾ばくかの金を握らせると、こんなときのためにうまくてなづけておいたのだ。

「私」

 突然の美麗の連絡にいささか驚きを隠せぬ樹稀也だったが、愛しい女の声を聞いてはやはり募る思いがこみ上げる。

 受話器越しに鼓膜に響いてくる声が全身へと行き渡り、細胞の一つ一つに突き刺さると、膨らみ過ぎた風船のようにして弾け飛んだ。 

会いたいと切に訴えてくる美麗の言葉を聞いては、もう押しとどめていた思いなどあっという間に堰を切ってあふれだした。

「今一階にいるから二階に」

「わかった」

 すぐさま同じ誘導係りに「ちょっとトイレに行く」と告げると、そのまま葬儀場へと回り込んだ。非常口に回ると非常階段を駆け上がり、二階の非常口にてしばし待つ。美麗も急ぎ二階に駆け上がると非常口の扉の前に立った。

「私」

 美麗の声を確認すると、樹稀也は硬くこびりついたドアをこじ開けるようにしてドアを押した。

 とそこに今まで恋焦がれた女の姿があった。

「樹稀……」

 樹稀也と叫ぼうとする唇は最後まで名前を呼ぶことができなかった。動こうとする唇をふさぐようにして樹稀也の肉厚な唇が重なってきた。  

美麗の唇から細胞のすべてを吸い込んでしまうようなキスに、このまま樹稀也に体ごと飲みこまれてもいいとさえ思った。

 触れ合う唇が離れるのを拒むようにキスを交わしあう二人。だがぐずぐずしてはいられない。急がなければ時間がないのだ。

「行こう!」

 手を繋ぎ二人で非常階段を駆け下りる。

 喪服姿の女が、男と共に手と手を繋ぎながら降りている姿はどう見ても異様に写るが、今の二人なら誰にどう思われてもよかった。 

愛しいもの同士の道行きであるならば。

 

コンビ二に足を向けた享子の携帯が鳴った。

 番号表示に現れた数字に一瞬、驚きを隠せない。何かの間違いではないかと思いながらも電話に出ると、それは間違いなく、社長である金子の声だった。

「美麗はどうしている」

 金子の声がやけに低く、享子の下腹を震わすように響いてきた。

 その声を聞いただけでも何か「事」が起きたことを思わせる。

「奥様はただいま葬儀場にいらっしゃるはずですが」

「それが連絡がつかんからお前に電話してるんだろうが!」

 連絡がつかない! そんな馬鹿な。享子も驚きを隠せない。

「いやでも私は今、買い物を頼まれて」

「何度も携帯にかけるが圏外の表示が出る。どういうことなんだ!」

 圏外の案内! たった今自分は美麗に頼まれた女だけのティッシュを買いに走ったばかりである。生憎、長時間用がなかったので普通用のものを買ったけれど。それだってコンビ二に走り葬儀場へ戻る、この時間はおそらく十分程度の時間しかかかっていないはず。その十分ほどの時間に美麗は姿を消したというのか。

「すぐに様子を見てまいります」

 享子はそう告げると急ぎ葬儀場へと走った。

 葬儀場に戻ってみると、会場はさして変わった様子も見せていなかった。通夜に訪れる客の手前表立っての行動はできないというところか。

 芙蓉に目をやると、祭壇の前で相変わらず涙にくれている。知らされていないのか、それとも愛しい男の死にわが娘が姿をくらましたことなど眼中にないほど悲しんでいるといったところか。

どうやら会場にはいないようだ。その場を離れると、葬儀場の中をくまなく歩き回った。

 控え室からもちろんトイレの中までも。

 どこにも美麗の姿はない。やはりこの場から行方をくらましたのか。急ぎ享子は駐車場に足を踏み入れた。

 会場警備にあたっていた社員の一人を掴まえると、

「美麗様、どこか出かけなかった?」

「いえ別に」

「そう。じゃ不審な車とかはなかった?」

「不審な車ですか? そういうのはないです」

「そう。だったらどうやって」

 首を傾げる享子の目の前を車やタクシーが入ってくる。次々とやってくる車を誘導しながら警備の男は、

「何やってるんだよ。俺一人で回せないから早く帰ってこいよ、もう」

 ぶつくさと文句をたれていた。

 享子は後はどこを捜そうかと思いながら、葬儀場へと足を向けようとした。その享子を引き止めるようにして男が、

「すいませんが、誰かもう一人応援で誘導に回してもらえませんか」

 見れば車の数はかなり多くなっている。

「車もこんな状態なんで僕一人では」

「そうね」

「もう一人いたんですけど、どこに行ったのやら姿くらまして」

 苦笑いしながら行きかけた享子の足がふと止まった。

「姿くらましたのって、誰?」

「あの人、UOJの従業員じゃないんですか?」

「だから誰かって聞いてるのよ!」

 あまりの剣幕に男はかなり驚いたように目を見張った。

「名前までは。てっきりそちらからの応援の方だと思いましたけど」

 もしかしたら! その可能性はありうる。通夜のこんな席ならば誰もが油断をしている。美麗は喪主ではないのだから、芙蓉ほどの責任はない。わからぬように葬儀場を抜け出すことぐらい簡単だろう。そこまで考えて、

「あっ!」

 享子は思わず声を出した。その声のあまりの大きさに側にいた警備の男はのけぞるようにして享子を見た。

 自分をコンビ二に走らせたのももしかしたら、樹稀也との道行をするための時間稼ぎだったのではないか。

 あ~……。深いため息とともに享子その場にしゃがみ込んだ。

 巨声を放つかと思うと、今度は大きなため息と共に地面にしゃがみこむ。享子の奇抜ともいえる行動に警備の男は眉根に皺を寄せながらも見ていた。

 しかし享子はここでしゃがみこんでいる暇はない。すぐに美麗を捜さなければ。このままどこか地球の果てまで逃げられた日には享子の立場はまるでないものにされてしまう。

 すぐさま携帯を手にする。こうなったら奥の手を使うしかない。

 さっそく馴染みの興信所に連絡を取った。

「すぐにお嬢様の行方を捜して!」

 絶叫した。

 あまりの声の大きさに受話器を手にした事務員は思わず電話を耳から離してしまうほどだった。


 フルスピードで走り続ける車。傍目には軽トラックにしてはかなり飛ばすな、ぐらいにしか思わないだろう。まさかその軽貨物の運搬用トラックが二人の道行きの足になっているとは。

 咄嗟に思い立ったのがこの軽トラだった。

 これならば逆に見つけられることはない、そんな気がしたのだ。

 助手席に座り、大きめのハンドルを握る樹稀也の横顔をじっと見つめる。ずっと思い続けた男がすぐ隣に、手を伸ばせば触れる位置にいるなんて。美麗にとってはまるで夢のようでもあった。もしこれが夢ならば一生覚めない夢を見続けていたいと思うのに。どうしてもどこかに一抹の不安がよぎる。その不安を遮るようにして、

「これからどこに行くの?」

「どこへ行きたい?」

 どこって、愛しい男と二人っきりになれたなら、どうしたいこうしたいという思いが山ほどあったのに。いざとなると思いは消えていた。ただ二人でいられるこの狭い車の中の空間が今はひどく居心地よく感じる。

「どこでも」

「じゃあ……、いつものところに行こう」

「いつものところって?」

樹稀也の目は道路脇に矢印で呼び込むように誘うラブホテルを目で追っていた。

「とりあえずは……いいかな?」

 たとえどんなに追っ手が迫っていようと、もうそんなことはどうでもよかった。とにかく今この時を大切にしたいのだ。

 樹稀也と美麗はお互いの体を貪るようにして愛し合った。

 久しぶりで抱かれる樹稀也の体。幾分胸板が厚くなったような気がする。それは「男性」になったがゆえの男性ホルモンからくるものかもしれないが、それだけでなくボクシングによって鍛えられた体は一個の彫刻体を見るようでもあった。

美麗はしばし見とれた。厚い胸板、割れた腹筋、さらにそこから下に目を落とすと茂みに覆われた中にもまぎれもない「男根」が存在していた。その逞しく反り勃った男根を美麗はそっと口に含んでみた。硬めでいてそれで先端はソフトクリームほどのやわらかさがあった。先端の帽子一枚被ったほどに飛び出た襞を舌でそっと愛撫してみる、と樹稀也の口から小さく吐息が漏れた。さらに何度も舌先を動かしていく。このまま愛しい男を飲みこんでしまいたいと思えるほどだった。

そのうち樹稀也の方が我慢できなくなったのか、いきなり美麗を押し倒すとかなり強引というほどに美麗の中に入ってきた。まだ美麗の方の「準備」はまるで整っていないというのに。

「もうだめだ、これ以上待ちきれないんだ、ごめん」

すまなさそうに詫びながら美麗の奥へ奥へと入っていき、花芯を突いていく。二度三度と言わず、美麗の体のすべてを震わすように激しく突いていく。

その激しさも今の美麗には嬉しいことではあったけれど。

突かれれば突かれるほどに美麗に対する樹稀也の愛情の深さを感じるようで。それでも樹稀也はときおりふっと男根を抜くと、今度は美麗の股間に顔を埋めるようにして下腹部の下、丘高な窪地にあるほんの少し飛び出た突起を舌先で愛撫して行った。 

美麗の陰部を這うようにして樹稀也の舌が突起から降りていき、固く口を閉ざした貝を押し開くようにして中に入ってくると、美麗はたまらずに声を上げた。

貝の襞のすべてを震わせるようにして舌先は絶え間なく動き続け

る。そのたびに美麗の声もさらにも増して甲高くなっていく。樹稀也は美麗の声をしばし堪能した後、再度美麗の中へと入って行った。

すべての毛穴が開くほどの快感に身を寄せるともう永遠にこのまま樹稀也を受け入れたままで死に絶えたいと思える。お互いの口にもひとさし指が差し込まれ、歯型がつくほどに噛み合うが痛さは感じないほどでずっとこのまま噛み合っていたいと思うほどだ、けれど時間には限りがある。

 やがて樹稀也は美麗の中で静かに果てていった。

 思いの丈のすべてをぶつけるようにして愛し合った後に残っているのは、二人が今置かれた現実である。

「これからどうしよう」

「どうするって」

「いずれは追っ手に見つかるだろう。そうなったら」

「そうなったら……」

 二人の道行きがこのままうまく行きおうせるわけはない。

 現にもうどこかに刺客の手が迫っているという恐怖感を感じる。

 金子のことだ。どんな手を使っても地獄の果てまででも捜し続けてくるに違いない。どうせ引き戻されてしまうのなら、そうなる前に、美麗は思い続けていたことが一つあった。

「樹稀也、お願いがあるの」

 腕枕にした樹稀也の横顔が何? というように美麗の方を向いた。

 振り向いたその顔が自分の目の前にあることが、まだ信じられない。目に焼き付ける思いでその端整な顔立ちをしばし見つめる。

長い睫をたくわえた幾分切れながの目から、幾分茶色がかった眼はまるで宝石のようだ。その光る瞳がじっと美麗を見つめていた。

その目に答えるようにして言った。

「樹稀也の子供が欲しい」

 唐突な言葉に樹稀也もどうしていいか戸惑う。確かに体は男には変わったけれど、造られたこの体からは精子は誕生しないのである。

「僕の……」

「あなたの子供さえいれば私はこの先どんなことがあっても生きられるから」

 男になる前に卵子を冷凍保存している。それを使い、精子バンクから今の樹稀也の容姿によく似た男の精子を選び受精させれば妊娠は可能だ。

「時間がないの。私を今すぐ病院に連れて行って」

 真剣に見つめてくる目は、それが生半可な決意ではないことを物語っている。

「わかった。一緒に病院に行こう」


 葬儀は滞りなくすすめられた。

 内縁ではあっても芙蓉は高岡の妻である。妻として夫の葬儀を取り仕切り、りっぱに喪主を務めていた。参列した金子はそこに美麗の姿のないことに気づいていた。だが、あえて騒ぎ立てることもせずに黙って葬儀に参列した。ただ、目で秘書の西本に合図を送っておくことはだけは忘れずにいた。その鋭い目が西本の胃をえぐるようにして突き刺さってくる。

この目に睨まれたなら誰もの背筋がぐっとまっすぐ伸びるはずである。目で合図されてそれが何を意図するか暗読できるようでなくては金子の秘書は務まらない。

葬儀の状況から美麗がいないことに最初から気づいていただけにこの暗読は至極簡単だといえた。

ひょっとして藤井享子が行方を知っているかと問い詰めてみたが、

「奥様の行方は一応興信所に手配をしていますが」

「そんな流暢なことしている暇はないだろ!」

 享子を一括した。長年このUОJで秘書として仕事をしてきたとはいえ、そこは女。年も取ってきたことでもあるし、判断力が鈍ってきたのは否めない。どうやらこの女も高岡の死亡と同時にお払い箱のようだ。となると自分がこれから金子の公私に渡ってバックアップする秘書となれるだろう。

金子と美麗の私生活にまで深く入っていける。このことは西本にとっては欲しかったテレビゲームのパッケージを開けるようにわくわくすることだった。何より他人のプライバシーを覗き見するのは週刊誌を読むよりも面白いことだから。 

それがとくに自分にとってはタイプでもある女、美麗のことであるから余計に。

唇の端にうすら笑いをうかべながらさっそく「手配」をした。


黒の一団とも言える黒崎達の出番はこれで二度目である。

一度目は樹稀也と共に暮らす美麗を強引とも言うべき方法で連れ去った。そしてその一度目は帰りの駄賃とばかりに樹稀也の「処女」までもを全員でいただくという美味しい思いにありつけた。

金がもらえるだけでなく、初物までもを堪能できるとは。

黒崎らにとってこれは何より旨い仕事であった。

「できたら今度は女房もいただくか」

「けどお前それはいくらなんでも」

「なーに一服盛って寝てるところをやりゃぁわかりしないさ」

「あーその手があったか」

「社長の女房だけあってとびきりのいい女だったじゃねぇか。社長も自分の女房が違う男と手に手を取って恋の逃避行なんて大っぴらにはできねぇことだから。ここはたとえどんなことがあろうと俺らをどうこうすることはできねぇさ」

「ついでに女房だしに金もぶったくるか」

「それもいいな」

 黒崎は下卑た笑い声を上げる男達にもどうとも言わずにいた。旨い餌に釣られようが、この悪達が仕事さえきちんとこなしてくれればそれでいいのだから。

「よし行くぞ!」

 黒崎の掛け声と共に男達それぞれが思い思いの想像に自身の股間を固くしながら、車に乗り込んだ。すぐさまカーナビに目を移す。

黒崎は美麗の写真に集中すると、ダウジングを頼りに画面を切り替え始めた。静かに揺れ続けたダウジングが急に回転を早くし始めた、その瞬間にここだとばかりにカーナビの現在位置を示すと車を急発進させていった。


精子提供者はインターネットで探した。

どこか樹稀也の面影を感じさせる二十代の東洋人にした。

そうと決まれば二人の行動は早かった。すぐさま病院に足を向けた。

もちろん日本の病院では精子バンクで買った、まったく他人の精子を受精させることはできない。だからこの病院がやってくれるというのもインターネット上で検索した裏のルートを通じて紹介してもらったのだ。

闇での施術となるだけに法外の値段を要求されることや、何らかのリスクは覚悟の上である。

うまく着床してくれればいいのだけれど。

神に祈る思いで美麗は診察台の上に上がった。

両足を開き、股間を露にした格好を医師と看護婦の前にさらす。

女にとっては屈辱的とも言える診察台ではあるが、女であるならば一度は経験しなくてはいけない、決して避けては通れない診察台である。

静かに美麗の子宮の中に樹稀也の卵子と東洋人の精子とが注入されていった。

樹稀也は傍らでただ見守るしかなかった。

「着床するかどうかは五分五分ですので。それまではどうか体を安静に保つように」

 医師の指導通りに静かに体を休めていたいのだけれど。樹稀也と美麗にはそんな時間はなかった。

 病院に入院している暇などない。どういう形で追っ手が迫ってくるかわからないのだ。

 非常口から他人目を避けるようにして階段を降りる。一段一段、まるで牛歩の歩みのようにして慎重に降りた。ここで転んで階段を一気に真っ逆さまに転げ落ちたりしようものなら、すべては雲散霧消と化してしまう。それだけは絶対に避けたい。樹稀也も美麗の手を取ると、まるでその手を綿菓子のように扱いながら降りた。最後の一段を降りきると、さっそく車に乗り込み病院を後にしようとした。そのとき、美麗は思わず病院に向けて頭を下げた。

 本来ならばこの病院で着床するまでを見届け、叶うことならばここで出産したいとまで思うのに。それは許されないことだった。

「愛」を選んだがゆえの行動である。多くの女達と同じようにはできないのは承知の上だけれど。

 きっと可愛い赤ちゃんを産んで見せます、美麗は心の中で誓うと車に乗り込んだ。

体を案じての樹稀也の運転は至極慎重だった。心地よい振動がゆりかごのようにも感じられた。気がつけば美麗は助手席で静かに眠ってしまった。

傍らで深い眠りについた美麗の横顔をときおり垣間見る。

小さな寝息をたてながら眠っているその姿はまさしく妖精だった。できることならばこの妖精を飾り棚に入れてこのままずっと家に

飾っておきたいほどである。けれどそれは許されないことだった。

サイドミラーに写る黒い車の影。気がつけば車は樹稀也の軽トラをずっと追い続けている。

もしかして……樹稀也は右にウィンカーを出しすばやく曲がった。

同時に後続車も同じように曲がる。樹稀也は右に曲がってすぐにあった個人経営らしい小さなパン屋の駐車場に入った。三台も入ればいっぱいの駐車場である。すでに駐車した二台は真ん中を開けるようにして止まっていた。その二台の真ん中にサンドイッチするようにすべり込むと、後続車は駐車場を横目に通り過ぎていった。

「ちっ気がつきやがったか」

 追っ手の黒崎らは樹稀也に気づかれたことで、ドライブ気分が一新した。すばやくUターンをすると、信号も無視して樹稀也の軽トラを目指してスピードを上げてくる。

 樹稀也もバックで駐車場から出すと、一直線に道路を突き進んだ。

 大通りよりも車一台がやっと通れる路地のほうが軽トラにとっては有利だ。大通りから小さな路地へとハンドルを切り、突き進んでいった。この先にあるのは一般の人間なら誰もが足を踏みとどめる、あるいは踏み入れてはいけない無法地帯だ。けれど今は背に腹は変えられない。樹稀也は思い切って、この路地奥に車を乗り入れた。

この一角だけはこの地域でも別格という異様な雰囲気をかもし出していて、その名も巨龍城。昭和三十年当時から移り住んだ人達で一つの集落を築いているような古い町並みが続く。家は道路際まで一杯に建てられていて、それだけに道幅も極端に狭い。ちょっとでもハンドルがぶれれば民家の軒先をこすってしまいそうな細い路地が続くが、そこは軽トラならではの身軽さである。素早い加速を繰り返しながら突き進んでいく。黒の乗用車も路地へと突き進んできたが、ところどころで民家の軒を掠めてしまいそうになった。それでも黒崎らは軒をこすろうがそんなことはお構いなしだった。乗用車の横腹部分を傷だらけにしながらも追いかけてくる。

 細い路地はかなり入り組んだ構造になっていて右左に小さな曲がり角がいくつもあった。まるで迷路のように幾重にも伸びている。  

その小さな曲がり角を器用に右に左にと曲がりながら運転していく。それでも乗用車は追いかけてくる。たとえ車体を傷だらけにしようが民家の軒先を壊そうともそんなことはこの連中にすれば平気の平左なのである。

「逃げ切れるとでも思ってか」

「金の鴨を見す見す逃げすわきゃないぜ」

 男達の金づるである美麗と樹稀也である。黒崎もそう簡単にはあきらめない。右左とハンドルを切る。そのたびに車体が大きく揺れる。助手席の美麗はそのたびに体を大きく左右に振らされた。助手席横にある取っ手にしがみつくようにして体を支えてはいたが。これほどまでに大きく体を揺らされたらもしかして着床しないのではないか、もしかして最悪、流産でもするのではないかとの心配が何度も目の前をよぎった。

「大丈夫?」

「大丈夫、でも、こんなに揺らされたら」

 それは樹稀也も気づいていた。こんな急な進路変更ばかりを繰り返していれば母体である美麗の体にとっていいわけはない。とにかくこの辺で路地を抜け出し、大通りに出る必要がある。

 幸いサイドミラーを見ると乗用車の姿はなかった。さすがにこの小さな路地でのカーチェイスに白旗を上げたということなのか。

 樹稀也は一息つくと、路地を抜け出そうと、今度はゆっくりとした速度で右に左にハンドルを切っていった。

 まるで迷路のようで、一旦この巨龍城の中に入ると並大抵なことでは抜けきれないといわれるほどである。仕方なく、通りがかりにいた老人をつかまえて、この路地の抜け出し方を聞くと、

「なんぼ出すか?」

 いきなりこう聞いてきた。

 ここ巨龍城ではこれは当たり前のことではあるが。他所からのよそ者にはたとえ道一本聞くのでも煙草の火をちょっと借りるのでさえもお金がいると言われる。それだけにここには麻薬密売人から指名手配をされた犯罪人などといったいわくありげな連中が数多く逃げ込んでくる。おかげで今やこの一角だけは無法地帯をなしていた。

 老人と交渉すること一分。いささか相手の言い値気味加減の一万五千円で交渉成立した。ここの抜け道には五通りがあるらしく、その中で一番複雑で入り混じった迷路を抜ける道を聞いた。その抜け道を聞くだけで一万五千円である。その高さに驚きながらも、さらにもう五千円ほどを上乗せし、

「もしも僕らと同じように抜け道を聞いてくる黒い車があったら絶対僕らと同じ抜け道を教えないで」

万一に備えて追っ手の男達に抜け道を教えないよう念を押し、さらに追加料金を払い、口止めをしたのである。

教わった通りの抜け道にハンドルを切っていった。

 通り抜ける道はまるで暗闇の中をただ闇雲に進むようで、本当にこの道で抜けられるのかと不安がよぎる。もしかしたらあの老人に体よく騙されたかな、と思い始めたときだった。暗闇から太陽が顔を出したときのように目の前に青く澄んだ夜の海が広がっていた。

この巨龍城を通り抜けた先は海岸へと続いていたのだ。

「美麗、見てごらん、海だ」

 助手席の取っ手にしがみつくようにしていた美麗は、取っ手から手を離すと軽トラのフロントガラス越しに見える海を言葉もないほどに見つめていた。

「外に出てみようか」

 二人して軽トラを降りる。

 目の前には果てしなく続く青い水平線が広がっていた。海風が美麗の髪をたなびかせる。打ち寄せる波音が鼓膜を心地よいほどにくすぐっていく。

「聞こえる? 波の音よ」

 美麗はそっとおなかに手をあてると息づいているであろうわが子に語りかけた。

 もしもこの水平線の向こうまで行けたならば、二人とそしてこの子と合わせた三人で幸せな生活が待っているような気がするけれど。

「行こうよ水平線の果てまで」

「そうね」

「ほんとに行こう」

「えっでもどうやって」

「船を借りて」

 この辺りならどこかに船の貸し出しなどやっているんじゃないか。

 樹稀也と美麗が貸し船を捜しに砂浜を走っているとき、追っ手はすぐそばまで近づいていた。

「この迷路、どうなってるんだ。抜けられねぇじゃないか」

 樹稀也と同じように黒崎らもこの迷路に手を焼いていた。

「おうあそこにいる爺さんに聞いてみるか」

 ゆっくり速度を落とし、黒い車が老人に近づいていく。

 同じように迷路の抜け道を聞く男達に、この老人はこれは金になると咄嗟に胸算用をした。普段は起きているか寝ているか分からぬ風情で、いつもこの巨龍城の角傍に置かれた一抱えほどもある石に座り、道行く人や通り過ぎる車を眺めるだけを日課としている。

 それでもこうやって他所から来て抜けられなくなった車に道を教えることで小金を稼いでいる。日に五件、多いときには十件ほどもあり老人のこづかい稼ぎには何よりの仕事である。それが今日はとんとお呼びがない。こんな日もあるとあきらめかけたときの客である。しかもそれがこうして二件も続くということはこれは何かあると頭が働くのも無理はない。衰えたりとはいえども、こと金のこととなるとこの巨龍城に住む住人は老若男女、たとえやっとおむつの取れたような子供といえども相当なスピードで頭が働くのである。

 老人は樹稀也達よりも五千円ほど高い二万で抜け道を教えると話しをつけると、

「さっきも抜け道聞いた奴がおったなぁ」

「さっきも?」

「軽トラ運転する女みたいな男か?」

 男の問いにも老人は、

「それから先は別料金や」

 老人のあまりの強欲さに黒崎の手下の一人はさすがに舌打ちした。

金を出さんのならそれから先は話せんと頑として譲らない老人に、

「もう一万ほど出しておけ」

 黒崎の言葉に手下は仕方なく一万ほどを出した。

「そうや。女のような男やった」

「で隣に女も座っていたか」

の問いにもすかさず手の平を差し出す。眉根に皺を寄せながらも黒崎に顎で促され、またその手の平に万礼を一枚おいた。

「今度は二枚や」

強欲な老人はだんだんと調子に乗ってくる。この爺は、と思ってはいてもそこはそれ、黒埼らも必死なだけに言われるままに二万ほどを出した。

「中々可愛らしい女子が座っとったな」

「で、その車はこのままこの抜け道を出て行ったのか」

 男共が問いかけるたびに老人は金とばかりに手を差し出す。

 いい加減にしろと言いたい気持ちを抑えながら言われるままに老人の手の平に二万ほどを乗せた。

「それではしゃべられん。そっちはこれだけや」

 老人は片手を広げて見せた。

 樹稀也と美麗の抜けて行った道を聞き出すだけで五万とは……さすがに、

「おう爺、こっちが下手に出りゃ、いい気になりやがって。調子に乗るな!」

男達の中の血気盛んな若い者が爺の首を締め上げた。

「ちょっと苦しい」

「このまま息の根止められてぇのかこの野郎」

「あっいや」

「だったらさっさと吐いちまいな、あいつらどこへ行ったんだ」

「言います言いますからその手を」

「おうやめろ」

黒崎の一声で、老人を締め上げる手を緩めた。

「俺らもよう、忙しいんだよ。爺さんに付き合って暇はないんだ。だから早いとこ教えてくれよ」

「教えます。教えますから、せめてこれぐらいは」

そう言って老人は今度は親指を折り、四本指を示した。

「この野郎! 兄貴がこうやって話しをつけようとしてくれてるのにまだ金ふんだくるつもりか」

またも若い衆は老人を締め上げようとしたが、黒崎が止めた。

「若い衆は気が短くていけねぇよ。俺も毎度毎度止めるのも苦労しててな、ときに止められないこともあるんだよ」

黒崎の声は腸を震わすように響く。大抵の人間はこの声に震え上がり、引き下がるのだが。

「わかりました話しますよって。けどわしも今日競馬ですってしもうたんで、お兄さん、こんだけでもお願いできませんか」

そういうと老人は懲りずに三本ほど指を立てた。

 ここ巨龍城の住人となれば、たとえ絶対絶命の窮地に陥れられたとしても金だけはきっちり取ることを忘れない。さすがにそれには黒崎も苦笑いするしかなかった。そっと老人の手の平に五万ほどを乗せた。

「兄貴、こんな奴に五万もだなんて」

「いいんだよ、爺さん、けどこれからは博打でするんじゃねぇぜ」

「ありがとうございます。これで家族に美味しいものでも食わしてやれます」

老人は一瞬涙を浮かべた。この巨龍城に五十年といわずに住み着いている老人である。その老人がまっとうな家族を営んでいるとは思えないが。これも多分に少しでも多く金をふんだくるための演技に違いないだろう。黒崎はそれもあえて承知の上で五万ほどを老人の手の平に乗せたのだ。

「この道をまっすぐに行って、最初の角を左に、次をすぐ右に」

樹稀也達に教えたのと同じ抜け道を易々と教えた。結局樹稀也達が払った口止め料は何の役にも立たなかったのだ。

黒崎らの黒い車がタイヤを軋ませ、抜け道へと発進して行った。後には老人の手の平をほとんど隠してしまうほどの万礼が乗って

いた 「これで今日は二倍旨い酒が飲める」

老人は口に微かに笑みを漂わせながらつぶやくと、手の平の万礼を握り締め、そっとズボンのポケットにねじ込んだ。


夜、船を出すことは普通なら断るところが、巨龍城の船主ともなれば、そこのところの事情は心得たものだ。

理由ありな二人の男女の船出に、心よく船を出してくれることを了承した。但し、

「片手や」

ほんの一時間ほど船を借りるだけに五十万もの値段とは。相手が切羽詰まっている状況だというのは一見してわかる。それだけに法外な値段を突きつけてくるのだった。

「いくらなんでもそんな金は」

男と女の道行きにそんな大金を持ってるわけはない。渋る樹稀也に、

「だったら仕方ねぇな。船はあきらめな」

鬼木は背中を向けた。六十代も半ば、顔全体を覆うような口ひげを生やしており、黒く日焼けしたその顔からは目だけが異様に光っていた。その眼光の鋭さから見れば、堅気でないのは一目で知れた。

どうやらここで随分とやばい仕事もこなしてきたようだ。それだけにその背中は、交渉の仕方ではどうにかなると思わせぶりでもあった。無言で交渉の綱を投げかけてくる背中に、手繰り寄せられるようにして美麗が口を開いた。

「ちょっと待って。お金の代わりにこれでどう?」

美麗が一歩進み出ると、ブラウスのボタンを外し、ブラジャーのフロントホックも外すといきなり乳房を露にした。

「これで船、借りられないかしら」

小振りでも形のいい乳房にピンク色した乳首が男心をそそるようにしてつんと上を向いて立っている。老いたりといえども鬼木も男、目の前で若く張りのある女の乳房をこうして惜しげもなくさらけ出されたなら、いささか元気のなくなってきた老体でさえも、その股間は熱を帯びてくる。女を見つめる鬼木のまなざしが、男の目へと変わっていった。その瞬間、口元がほんの少し緩んだ。

「あんた、五十万もの価値のある女か」

「少なくとも今まであなたが抱いてきた女に比べればね」

「って言ってるけど、そっちの兄さんはいいのか」

良いわけはない。もちろん樹稀也は断固反対した。

「そんなことまでして船を借りなくたっていい!」

「だったらどうするの。このままではもう私達に逃げ道はないわ」

「だからって君が船を借りるために犠牲になんかなる必要はない 」

絶叫する樹稀也に、美麗は静かに言った。

「私、今まで好きでもない金子にずっと抱かれてきたのよ。その毎日は苦痛意外の何物でもなかったわ。それに比べれば、これは船を借りるため、何より私達の新しい船出のためですもの。そのためだと思えば、これぐらいのこと、注射一本打つぐらいのことだと思えばそれでいいのよ」

眉根をひそめる樹稀也をまるで説得するようにして説き伏せた。

「その通りだぜ。注射打つ間の、目ぇつぶってる間に終わることさ。だからお兄さんよ、ちょっと借りてくぜ」

鬼木は美麗の肩を抱きながら「わしが太い注射一本打ったるよってな」といいながら、船着場に斜め加減に建った家の奥へと入って行った。

船を借りるためとは言え、自分の好きな女をまるで虎に生贄にするウサギにしていいのか。でも船を借りられなければこの先どうすることもできない。

やがて鬼木と美麗の声が聞こえてきた。

「こりゃいままでにない上玉や。おまけに肌もすべすべしとってまるでシルクのようや。今まで俺が抱いてきた女とは比べものにならん」

そして美麗の「あの声」が聞こえてきた。

「あっいやそこはやめて」

「なんでや。ここが一番の見ものやないか。ほーら段々赤くふくらんできよった」

美麗の甲高い声が際立って高くなっていく。

「そうそう、もっともっと、お前のその声聞いたら俺の今一つ元気のない息子も勃ってくるで、ほれほれもっともっと」

美麗のあの声が樹稀也の鼓膜を震わせるように響いていく。

「ちくしょう、こんなときに息子の奴、言うこときかんで。これほどの良い女を抱けるいうのに。おうねぇちゃん、もっと声、出せや」

鬼木はさらにも増して美麗をいたぶっていく。美麗の声もさらにも増して甲高くなっていく。

「よしよしその調子、もうちょっとで息子が直立不動になるよって。

ねぇちゃん頼むでもう一声」

美麗の「声」をずっと聞きながら樹稀也の脳裏にある場面が蘇る。

あのホテルでの一室。

金子に抱かれている美麗を見ながらもどうすることもできなかった。どうして美麗を金子の手から奪いさらなかたのかとの思いがいまさらながらによぎる。屈辱の中でも美麗が抱かれるのを見続けた。

あのときと同じだ。今度は船を借りるというただそれだけのために、愛しい女を自らの手で虎の檻の中に放り込むようなことをしている。

それでいいのか? けど。思い迷う樹稀也に、

「ようしどうにか勃ってきよった。よっしゃ、姉ちゃん行くで」

鬼木が言い終わるより先に樹稀也の体の方が先に動いていた。

ドアを蹴破り、部屋に入ると、美麗に覆いかぶさるようにしていた鬼木の垂れた尻が目に入った。樹稀也はその尻を蹴り上げた。

ベニヤ板で仕切られただけの急ごしらえの部屋である。鬼木はベニヤ板に突進するようにして部屋の隅に転がった。

「何すんねん!」

「爺さん、ゲームはここで終わりだ!」

「何を! 船借りる代金の代わりやないか」

尻をさすりながら立ち上がった。その下半身はむき出しで、白髪まじりの股間の間からどうにか息を吹き返した男根が、所在なさげに垂れ下がっていた。勃ったと思ってもすぐに萎えてしまう。老いを迎えた無残な体が目の前にあった。

「船借りるのに五万もあれば充分だろ」

樹稀也は五万ほどを男の前に突き出した。

「五万、何寝ぼけたこと言ってやがる。この野郎、人を舐めるのもいい加減にしろ。こちとらこのねぇちゃんとやれるってことで船を貸す契約したんだ。契約は履行してもらうで」

鬼木は美麗の手を取り、引き寄せようとした。

「いいのよ樹稀也。私は船を借りるためですもの」

「そうそうこの姉ちゃんのほうがよっぽどものわかりがいいぜ。もう一回やり直そうや」

鬼木は引っ込んでろとばかりに美麗の肩を抱き、連れて行こうとする。美麗の目もいいからというように訴えてくる。その目を見た瞬間、樹稀也の心が熱く突き上げて来た、同時に右手を動かしていた。

「爺への代金はこれで充分だ!」

樹稀也は一発パンチを見舞った。鬼木はその場に仰向きに倒れて行った。一発二発とパンチを食らわせる。

うめき声を上げ、最後には声さえも出せなくなった。それでもなおパンチを食らわせようとする樹稀也を美麗は止めた。

「やめて、それ以上したら死ぬわ」

「死んでもいいさこんな爺」

「だめ。そんなことしたら獄に繋がれるわ。そしたらもう樹稀也と二度と会えなくなってしまう」

二度と会えないという言葉に樹稀也の振り上げる手が止まった。やっとこうして二人めぐりあえたのにこのまま、長い別れをしなくてはならないのはやはり嫌だ。

樹稀也は振り上げる手を止めた。

「でもどうするの? これから」

「船を出そう」

「でも操縦できるの?」

「できない。だからこの爺さんをしめあげででも操縦させるさ」

樹稀也は倒れていると老体を担ぎ上げると、船を出した。鬼木は息も絶え絶えと言った調子ではあったが、

「殺されたいのか」

この一言が聞いたのか樹稀也の言うなりに船を出した。

美麗二人して飛び乗ると、

「おい動かせ」

鬼木はパンチが効きすぎたせいか、うめき声を上げたままだった。

「おい急げ! お前また俺にパンチを食らいたいのか」

「わかったわかった、すぐ動かすけどどうにも手が動かねぇんだ」

どうやら鬼木は骨を折ったようで、右手はだらりと所在なげに肩からぶら下がっているだけだった。

「じゃあどうやったら操縦できるんだ。操縦の仕方を教えろ」

「いくらだす?」

「お前この場に及んで」

右手の拳を振り上げようとする樹稀也に、

「これで俺の息の根が止まったらお前らどうすることもできねぇんだぜ」

どうにもこの爺は強欲ときている。こっちの痛いところを突いてくる。仕方なくポケットにあっただけの五万ほどを差し出すと、

「治療代にもならしねぇ」

文句を言いながらも操縦の仕方を口にし始めた。

ちょうど追っ手の黒埼らも巨龍城を通り過ぎ、この海岸にまでやって来ていた。

「多分ここから船で逃げたに違いねぇ」

「いやまだだな。あそこに船が」

浪打ち際で一際エンジン音を高くしながらも、身動きできずにいる船が一艘あった。

「あれだな」

「あれっすか」

「急げ! 奴ら海に逃げ込むつもりだ」

追っ手は迫ってきている。だが船は中々に動かない。

「爺さん、早くしてくれよ」

「いやそれがてよ、操縦の仕方を度忘れしてしもて」

「何! てめえ」

樹稀也は思わず鬼木を絞めあげた。

「この場におよんでもまだ金ふんだくろってのか」

「そうやない。いやほんとうに忘れてもうたんや。この頃ちいいとボケてきよってな」

案外嘘ではなさそうだった。鬼木の手はアルコール中毒から来る中毒症状からか小刻みに震えていた。どう見てもまともに操縦はできそうにない。裏を返せばまともに操縦もできないくせに、貸し船と操縦代金として美麗をいただこうとしていたのだから。かなり強欲な奴だ。およそこの巨龍城に住んでいる住人はまともな奴がいない。

樹稀也は舌打ちをしながらもあちこち動かした。車の運転とさほど違いがあるとは思えないが、船はエンジン音を高くするだけで、前にも後ろにも動こうとしない。

それもそのはずである。よくよく見ればガソリンメーターはEのメモリから下がったままだったのだ。

「ちっガス欠か」

仕方なく、美麗と共に船を下りたところでそこに黒の塊とも思える集団がいるのが目に飛び込んできた。

うっ、とのけぞる樹稀也に塊から一つが浮かびあがるようにして目の前に現れた。

「はいはいお譲さん、ここで年貢の納め時らしいな」

追っ手である黒崎がそこにいた。

「今日はどうやら上玉の観音様を二つも拝めそうだな」

黒の集団ともいえる男達の間から嘲笑が漏れた。

「この間はどうだった? 男に抱かれるのはやっぱり気持ちよかっただろうが、シスターボーイちゃんよ」

 樹稀也の脳裏にこの獣のような男達に操を奪われた悪夢が蘇える。

「あのときはどうでも、今日も同じとはいかないぜ」

「そうかい。まあいくらでもほざくがいいさ、お嬢さんよ。俺達を見たらまた俺達に抱かれたくなってるくせに。また一緒におねんねしようぜお嬢ちゃん」

「おねんねするのはあんた達だぜ」

 樹稀也の言葉に黒崎の眉がぴくりと上がった。

「抜かしやがったな」

 よしやれ、の言葉と共に男達は次々と樹稀也に殴りかかっていった。大男達の拳を振り上げた手首を握ると思いっきり捻りあげる。

顔面に一発を食らわすと、男の一人は巨木のように倒れていった。さらにボディに一発を食らった男は口からシャワーのように血を噴き出しながら倒れた。次々に強烈なパンチを浴びせる樹稀也に、最初は子猫をいたぶるつもりでいた黒崎も、この間とは違うと

気づいたようだ。

「お嬢さんよ、大分鍛えたようだな」

「そうだよ。この前の俺とは違う。舐めてかかると大怪我をするぜ」

 残りの男達もここからは本気モードに切り替えると、樹稀也に襲いかかっていった。ボクシングで鍛えたパンチは伊達ではない。右から左からとかかってくる男共を次々になぎ倒していく。顔面に強烈な右フックをさらに内臓を破壊せんがごとくのボディブローにはさすがの大男達もなすすべもなく倒れこんでいった。気がつけば黒崎の手下達のほとんどが地面に転がっていた。

 残るは一人、黒崎だけだ。

「ここで決着をつけよう」

「望むところだ」

「その前に頼みがある」

「何だ?」

「美麗は関係ない。この場から逃してくれ」

「それはできない。美麗を逃すかどうかは決着をつけた後だ」

「わかった。その前に美麗だけは安全な場所へ移動させてくれ」

「俺にとって大事な金づるにもなる商品だ。傷つきでもしたら商品価値が落ちるからな」

それには黒崎も顎で船を指し示した。

樹稀也の背後でまるで生まれたての雛が親鳥の羽の中にうずもれるようにして怯えていた美麗を、鬼木の船に行かせた。

「もしも僕が倒れるようなことがあったら爺さんを張り倒してでもいいから、船に乗って逃げろ」

「そんなの嫌よ」

「いいから、そうしろ。万一負けたらばだ。僕は負けはしないがな」

小さな声で美麗の耳元にささやくと、美麗を鬼木のもとへ走らせた。

後は頼む。遠くで見つめる鬼木の目に思いの丈のすべてを託した。

その強欲な鬼木が、自分が黒崎に倒されたのを見て、すぐに船を出すとは思えないが。そこはそれ、美麗がどうとでもいいように言い含めれば、あの偽ボケ老人は女にはめっぽう弱いはずだから、どうにかなる。

樹稀也は祈るような気持ちで美麗を見送ると、目の前に立ちはだかる敵に相対した。

「お嬢さん、さあかかってきな」

「以前の僕じゃない、覚悟しといたほうがいいぜ」

「って所詮どう変わろうと女は女。まあそれでも今度は手加減しないけどな」

「望むところだ」

「前はみんなで楽しませてもらったが、今度はこの決闘が終わったら俺一人でたっぷり可愛がってやるからよ」

「さあどうかな。可愛がられのはお前のほうかもしれないぜ」

「ほざきやがったな!」

 いきなり黒埼のパンチが顔面に襲いかかってきた。すばやく右によけるとすぐに左パンチを見舞った。黒崎もこれを何なく交わす。

どうやら黒埼もボクシングの経験があるようだ。お互いに手数を出すが代わり身が早いだけにどちらのパンチも中々相手にはヒットしない。それでも樹稀也の右フックが黒崎の顔面をとらえた、と同時にすぐに黒崎も左パンチを打ち返してくる。すばやくワンツーが続くとさすがにくらっとくる。黒崎はそこを見逃さなかった。猛烈な勢いで打ち込んできた。左右の連打にボディと来るとかなり効く。

「ふん、所詮この程度か」

 黒崎は一旦手を緩めると、

「これがとどめだ!」

 とばかりに大きく右の拳を振り上げると右フックを見舞おうとしてきた。その黒崎に樹稀也はキックを一発見舞った。これが脛に見事にヒットし黒崎は膝から崩れ落ちるようにしてその場に転がった。

そこをすかさず今度は樹稀也が左アッパーを見舞い、左右の連打で黒崎を攻めた。

 苦痛に歪む顔の中から黒崎も必死に応戦をしてくる。ときに黒崎のアッパーが顎を捉える。今度は樹稀也の右フックが黒崎の顎を取らえ、お互い一歩も引けを取らない力で打ち続けていく。

 やがて雲が立ち込めてくると打ち合う二人の頭に雨が落ちてきた。

 雨はやがて激しいどしゃぶりへと代わっていった。

「この前と同じにおあつらえ向きの雨だな」

 あのとき、初めて黒崎達に襲われた日も雨だった。

 降りしきる雨の中で樹稀也は次々に男達に犯され、処女の証しの鮮血が下半身から地面に流れ落ちていくのを呆然と見つめていた。 

あの日の記憶が鮮明に蘇ってきた。

「許せない!」

 樹稀也は力を振り絞ると、黒崎の足をキックしていった。どうやら黒崎はキックは苦手なようで、足を蹴られるとかなり苦痛に顔を歪めた。足、ボディを繰り返し攻める。ぐったりしてきた黒崎にとどめをさそうと右の拳を振り上げたときだった。

 悲鳴が聞こえた。振り向いて見ると、そこにピストルをつきつけらた美麗の姿があった。

「この娘、いくら出す。金を出す方と引き換えだ」

 鬼木が思いもよらぬ行動に出てきた。美麗を人質に金をふんだくろうというのだ。

 息も絶え絶えだった黒崎が起き上がると、

「三百でどうだ?」

「それっぽっちか。しけた野郎だ、そっちの男前はどうだ」

 樹稀也には今すぐ出せる金などなかった。

「後で払うから頼む、美麗は助けてくれ」

「だめだ。後払いはきかねぇ即決現金払いが俺の主義だ」

 銃口を向けられた美麗の顔が恐怖におののく。その震える姿を見てどうにかしたいがどうすることもできない。そんな樹稀也をあざ笑うかのうように黒崎は、

「俺の手持ちは今三百だけだ。後きっちり始末がついたら残り七百だすがどうだ」

「まあよかろう。それだけ出すなら」

 黒崎はどうにか立ち上がると、体をくの字に曲げた格好で爺と美麗の元へ歩みよっていく。樹稀也のパンチにかなりのダメージを受けているようだ。今ならとどめをさすことができるのに……。

一歩一歩おぼつかない足取りで近づいて行く黒崎をただ黙って見ているしかないのだ。

どうしようもない悔恨の念に襲われる。黒崎は鬼木と美麗のもとに歩み寄った。

「現金と交換だ」

 鬼木はどこまで行っても強欲だった。確かに現金を手にするまでは美麗を渡さない。黒崎は懐の財布から帯封の着いたまま百万の束を三つほど出すと、渡した。

「ありがとうよ」

 鬼木と黒崎がお互いに目を合わせて、取引の成立に目を細めた、その一瞬の隙だった。

 美麗は鬼木の股間を蹴り上げると、すばやく拳銃を手にした。

「動かないで。動くと殺すわよ」

「ちょっとちょっとお嬢さん、お遊びでピストルなんて振りまわすと怪我するぜ」

 笑いながら右手を差し出すと「ほれほれ返しとこうか」と美麗に近づいていった。一歩ずつ後ずさりする美麗を、黒崎はまるで罠にかかったウサギのように追い詰めていく。

その姿に美麗は身の危険を感じ、樹稀也もふらつく頭で美麗のもとへ駆け寄ろうとした。

「美麗!」

 その声を合図にしたように、美麗は目をつぶると一歩ずつ近づいてくるその巨体めがけて引き金を引いた。

 鈍い発射音が暗夜に響き渡った、と同時に、黒崎はその場に倒れていた。

「怪我するのはあんたのほうみたいね」

 弾は見事黒崎の胸を打ち抜いていたのだった。

「こーらまたたいした玉だぜ」

鬼木は打ち上げ花火でも見るような思いで歓声を上げていた。

「大丈夫か、美麗」

「私は平気。だから早く船を」

「爺、操縦できるんだろ、すぐに船を出せよ」

 ボケ老人を演じていた鬼木もここへ来て、それは通じないというのがわかると、船を出すことに同意した。

「ちょっと待ってろ。ガソリンを持ってくるから」

 あばら家に戻ると予備のガソリンを手に戻ってきた。

 どうやら取引が成立したらガソリンを入れるというやり方らしい。

 どこまでも計算ずくな爺である。

 ほんの少し不安気な思いで鬼木は操縦席についた。それは今日はかなり波が高かったからだ。今まででも警察に追われているだの、

ときには預かった荷物を運んで欲しい、だのといった、いわくつきの仕事をこの船でこなしてきた鬼木だ。やばい橋なら何度も渡ってきたはずでも、さすがに今日の波の高さには多少の不安を抱いていた。

それでも金のためとなれば船を出すのがこの世界で生きている人間だ。エンジン音が波音を高くしてきたところで、樹稀也も美麗も船へと乗り込んだ。そのときだった。

低くうめくような声が耳に響いてきた。

 息絶え絶えの中から、絞りだすようにして黒崎が声を上げた。

「まだ生きてるみたい」

「いいさ、これもこいつの運命だから」

「でも……」

「こんな奴に関わってる暇はないんだ、行くぞ」

 樹稀也の言葉に美麗は目をつぶるようにして船に乗り込んだ。船が岸から離れ始めたそのとき、突然黒崎が船に乗り込んできた。

 隙をつかれた一瞬に美麗の手から拳銃を奪うと、

「動くな」

 気がつけば黒崎が拳銃を手に、銃口を向けていた。

「お前、打たれたんじゃないのか」

「この俺が、小娘の一発ぐらいでそう簡単には死なねぇぜ」

 口元に笑みを浮かべるとカッターシャツのボタンを外し、胸を開いて見せた。そこには薄手にできた防弾チョッキが着込まれていた。

 こういうやばい仕事を請け負う男だ。この辺の用意にぬかりはなかった。

「爺、船を出せ」

「こいつは割り増し料金だぜ」

 鬼木の言葉に黒崎は引き金を引いた。鈍い発射音と共に弾が爺の頬を掠めるようにして飛んでいった。

「あんまり欲かくと今度はてめえの喉元に一発お見舞いするぜ」

 殺し屋だけに黒崎の腕前は確かだった。巨龍城で長年やばい商売をしてきた鬼木とはいえ、自身の皺だらけの頬を一筋血が滴り落ちたのを感じては、さすがに少し怖気づいたようで、黙って船を操縦し始めた。しかし海は荒れていた。降り始めた雨は段々と激しさを増し、横殴りな雨と風が船体を揺らす。

 鬼木は必死になって操縦桿を操るが、

「こいつは無理だぜ。このままいったら転覆しかねねぇ」

「どこでもいいから適当なところに着けろ」

「着けろって言ったってよ。その前に転覆してしまうかもしれねぇ」「このぐらい荒波なら今まで何度も操縦してきたんだろうが」

「っていたってよ、できるものとできねぇもんがあらあな」

 の言葉が終わないうちに二発目が発射された。

「しのごの言わねぇで俺の言われたとおりにしろ!」

 黒崎はどうにも気の短い性分と見えて、あぁだこうだと言い返してくるとすぐに切れるようだった。この黒崎相手ならまともな話はできない。今度、黒崎が切れたときには本当にあの世行きだろう。  

それがわかっているだけには、鬼木もそれから先は必要以上に口を開こうとはしなかった。

 黒崎は樹稀也に銃口を向けたままでいた。

「どうする気だ」

「もちろん、お前を殺す」

「樹稀也を殺すより、私と取引しない」

突然のことに黒崎は一瞬「何だ?」という顔をして美麗を見た。

「金子からあんたいくらで雇われてるのかしらないけど、私ならその三倍は出すわ」

小娘と見てみくびっていたが、どうやらこの女はかなりの玉のようだ。

「俺と取引しようって言うのか」

「そうよ。どうせ金子のことですもの。あんたを利用するだけ利用したら後はわからないように闇に葬るつもりよ」

 それよりか金子に雇われているままで、美麗と裏取引をしないかというのだった。

「私はあなたにとって利用価値のある女よ。何より金子からも私からも金をふんだくれるとなったらこんな旨い話はないんじゃない」

 この女はかなり悪知恵が働く。金子に雇われている振りで、その実は美麗の手先となって自分達のために働いてくれというのだった。

「それも悪くはないが」

「金だけじゃなく、望むなら……私を自由にしてもいいわ」

 美麗の言葉に黒崎の口元が微かに緩んだ。

 男なれば美麗のような女が自分から進んで体を投げ出してくれば、嫌という男はいないだろう。

「美麗、そんなことやめてくれ。僕はもう」

「私達が生き延びるためよ。そのためなら私はなんだってできる」

 決意を込めた美麗の瞳に樹稀也は眉根を寄せるだけだった。

 どうするか……美麗や樹稀也だけでなく黒崎とても銃口を向けつつ迷っていた。その間にも船の揺れは一段と激しさを増していった。

「兄さん達よ、どうも台風が来てやがる。このまま行けばどうなるか」

 鬼木が口を開いた。もう立つこともできない状態になってきた。

美麗も樹稀也も、そして黒崎も甲板の端に掴まると、自身の体を守るので必死である。その間も雨は叩きつけるような激しさで、甲板を打ち付けて行く。

 ここで手をこまねいているだけではどうにもならない。美麗が自分の体までもを投げ出す覚悟までしているというのに。樹稀也はさえぎる雨と風を切るようにして甲板の端に掴まる黒崎に近づいた。

 気配を察したのか、黒崎が視界をさえぎる雨の中から一発発射した。弾は樹稀也の肩口を打ち抜いた。

「樹稀也!」

 悲鳴が上がる中、仰向けに倒れていく樹稀也。

 黒崎はここぞとばかりにとどめを刺そうと銃口を向けた、その黒崎の脛を樹稀也は倒れたままの格好で右足を振り上げ蹴った。

 思わず膝を折ってしまう黒崎の手首を掴み、捻り上げると、その手にあった拳銃を甲板へと落とした。すばやく拳銃に手を伸ばそうとする樹稀也だが、黒崎もそうはさせまいと飛び掛ってくる。拳銃を奪いあう樹稀也と黒崎とがもみ合いをする。

 取っ組み合いをする二人、その間も波は激しく船体を揺らしていく。そのたびに拳銃は甲板の上を氷の表面のように滑って行き、同時に二人の体も甲板の上を同じように右へ左へと振られて行った。

 何度となく樹稀也のパンチが黒崎の右拳がボディや顔面をめがけて飛ぶのだが、中々顔面にヒットしない。相手の顔さえもまともに見えないというほどの激しい雨と風に阻まれてしまい、相手を打ちのめすまでにはいかないのだ。そのときだった。

「こりゃ大変だ!」

 突然、鬼木が叫び声を上げた。

「すげえ波が来てやがる。このままいけば転覆するぞ。すぐに救命ボートを出せ!」

 鬼木の言葉に海面を見ると、海面を押し上げるようにして大波が水平線の彼方からこちらに押し寄せて来るのが見えた。

「急げ!」

 爺に指示されるまでもなく間近にせまった大波を見ては、ここは一時休戦とするしかない。樹稀也と黒崎はお互い暗黙の了解のもとに救命ボートを出した。

「早くみんな乗り込め!」

 急がなくては大波はすぐそこまで来ている。

 鬼木を先頭に美麗が乗り込み、次に樹稀也が乗り込もうとしたところで、

「よし、休戦は終わりだぜ」

 甲板の端に転がっていた拳銃を手にした黒崎が樹稀也に向けて銃口を向けていた。

 ここへ来ての黒崎の卑怯なやり方に樹稀也は声もなかった。

「ここはお互いに協力をしようじゃないか。波がすぐそこに迫ってるんだから」

「殺し屋に協力などない」

 そう言うと同時に、一発発射した。黒崎といえどもこの悪天候の中でしかも揺れる船の上からという悪条件に、外してしまった。

 続けざまに何発か発射したが、樹稀也に命中することはなかった。

「馬鹿野郎! そんなことしてる暇なんかあるか、もう波が」

 鬼木が言い終わらぬうちに眼前に迫った八階建てビルほどの高さのある大波が襲ってきた。

「美麗!」

「樹稀也!」

 お互いを呼び合う声を掻き消すようにして大波は船も救命ボートをも諸共一気に飲み込んで行った。

 

車のウィンドウ越しに外を見上げると、ウィンドウの中で四角く広がった空は雲一つない青空である。

「昨日までの天気が嘘のような素晴らしい日本晴れですね」

「あれだけひどい雨が降り続けたときはどうなるもんかと思ったが」

「やみましたね。おまけにこんなに晴れて」

「まったく俺の日頃の行いのよさのせいかな」

「その通りだと思います」

「まさかそれはないだろうが」

「いえそれはありますよ。社長のお人柄が天気までもをこれほどまでに変えさせたんだと私は思っております」

 ハンドルを手にしながらも真剣な表情で運転する西本に金子は後部座席のシートに身を沈めたまま微かに笑った。

 やがて黒のセダンは青く広がった空の下をすべるように進みながら、目的地であるホテルに横付けされた。

 ドアマンが素早く駆け寄ると車のドアを開けた、と同時にカメラのフラッシュが焚かれた。

 それを静止しようとするドアマンの手を押しのけ、

「一言お願いします」

 何人ものマスコミがマイクを向けたが、それには何も答えずに金子は警備員らに守られるようにしてホテルの中へと入って行った。

 このホテルでも一番の大きさを誇る飛天の間にはすでに多くの財界人達が集まっていた。

 さっそく金子を見つけた一人が声を掛けてきた。

「新年あけましておめでとうございます」

 期せずして同じ三十前にして社長の座に収まったコンビ二業界の優でもある高島信孝だった。高島とは同じ大学の同窓というのもあってことさらに気の置けない相手ではあるが。

 それだけに握手を交わしながらも、さっそく、

「今年は特別にいい年になりそうだな」

 にやけた顔で話す。お互い気心が知れた仲ならではあるが、もう高島の耳にも入っていることにいまさらながらに驚く。コンビ二業界だけに、今何が売れるか、これから何が売れるかの嗅覚は飛びぬけたものがある。 

 その早耳が他人のプライベートなことにも同様だとは。

「まあな」

「今年は大変な大役まで引き受けたことでもあるし、忙しい一年になりそうだな」

 高島の言葉が言い終わらぬうちに、司会者が口を開き、ざわめきが静まった、と同時に経団連における新年パーティが始まった。

 新年始めに行われるこのパーティは日本の財界人のほとんどが集まることでも有名である。ここで今年の日本の経済動向がわかるといってもいい。それだけにマスコミも大いに注目を寄せている。

そこここでは活発な名刺交換がとりおこなわれ、名刺交換から思わぬ儲け話へと繋がることもままあった。金子にとっては新年の挨拶、というだけでなく、財界人達とのつながりを持ち、なおかつビジネスに繋がる尻尾のかけらを掴みに行くという意味においても、大切な顔出しのパーティでもあった。

至るところでフラッシュが焚かれ、場所によってはまぶしすぎるライトのもと、マイクに向かってテレビのインタビューに応じる財界人の姿もあった。

一応に景気の動向はゆっくりながらも上昇傾向に向かっており、日本経済においてはかなり明るい見通しのある一年であるような話をしていた。

そんな中、一人のインタビュアーが金子にマイクを向けた。

 同じように日本経済の動向を聞きながらも、話は金子のプライベートなことにまで及んでいた。

「次期経団連副会長につかれるということですが」

 金子が四月期からの経団連副会長を任せれることになっていた。

若干二十五歳の若者が副とはいえ、この日本経済の動向を占っていく要職に就くという話は政界からも驚きの声があがった。これには多分に政界のドンでもある美麗の祖父となる大河原の力が多きに左右しているのは間違いない。いずれは副の字が取れるのも間違いのないところではある。そうなると最年少経団連会長が誕生するのもそう遠い未来のことではなさそうだ。それだけ財界からは世界第一位のメガバンクとなった光井国友UOJ銀行への期待は大きいといっていいだろう。

「日本経済はこれから緩やかでも景気は徐々に回復していくのは間違いないですよ」

 言葉を選びながらインタビューに答えた。そんな金子に、

「今年は社長にはもう一つおめでたいことがおありだそうで」

 インタビューアーの質問がプライベートに及ぶと、普段ならば一切私事には口を閉ざす金子もこのことばかりは口元がほころんだ。

「ご予定はいつごろですか?」

「順調に行けば、今年の夏あたりには」

「待ち遠しいですね」

「うんまあな」

 言葉を濁す。自分にとってわが子の誕生という初めての出来事は金子にとっても思いがけない高揚を運ぶものでもあった。

 それは美麗とても同じことであった。

「あら、だいぶんお出来になりましたですね」

 三時を過ぎて、いつもの習慣である紅茶を運ぶ享子の目が、優しげに微笑んだ。午後の柔らかな日差しが庭先からリビングに差し込んでいる。そのまぶしすぎる日差しを浴びながら手を動かす。その美麗の指先から紡ぎ出されていく一本の毛糸。毛糸はやがて生まれ来る赤ん坊の体を包み込むおくるみへと形を変えていくのだ。

 女が女としての幸せをしみじみと実感していくときでもある。

「どちらでしょうね」

「別にどっちでもいいわ」

「そうですね。よくそう言いますですね。いざ生まれるとなると元気で健やかな子供だったら女でも男でもどっちでもよくなるって」 

享子は慣れた手つきで紅茶を注ぐ。茶色した芳醇な液体が白いティーカップの中で小さな渦を描きながら注ぎいれられていった。

「お砂糖は一杯でしたね」

 美麗の好みを知り尽くしている享子ならではの気遣いで紅茶を入れてくれる。美麗は編む手を止め、ティーカップを手にそのままリビング越しに見える空を見上げた。

どこまでも突き抜けて行くような青がサッシ一面に広がっている。

まるで一枚の絵を見る思いでサッシ越しの青空を見ながら紅茶を飲む、その美麗の下腹部に軽い衝撃を感じた。

「あっ蹴ったわ」

「あらそれはお元気なお子様で。きっと男の子ですね」

「男の子、だったら」

「きっとハンサムなお坊ちゃまでしょうね、社長似の」

 たとえ男であろうと女であろうと金子に似ているはずはない。 

まぎれもなく今、お腹の中で息づいているのは樹稀也の子供なのだから。

あのとき、転覆した船もろとも美麗も樹稀也も、乗り合わせた黒崎に鬼木も、すべては深い海の底へと投げ出されてしまった。

奇跡的に美麗だけが助かり、鬼木にあの黒崎も二人共が遺体となって海に上がった。

だが、樹稀也だけは未だに行方不明のままである。

あれから半年を過ぎ、大きくせり出して来た腹を見るにつけ、樹稀也のことを思う。この青空の下、樹稀也もどこかでこの同じ空を見ているに違いない。

死んでなんかいない。

だからこそこの子を産み、育てて行く。いつか樹稀也と再会できるその日が来るまで。美麗は金子の妻として生きていく、そう決心し、金子の元へ戻ったのだった。

妻が夫以外の子供を生むことは最高の裏切りではあるけれど、樹稀也の子供を宿したときから、この子を産む、産まなくてはいけないという使命感のようなものを感じていた。これだけはたとえ今、自分がどのような状態に置かれていようとやり遂げなければいけない宿命でもあるのだ。

午後にこうして紅茶を味わう。今は至極おだやかな毎日が過ぎている。

この優しすぎる日々にまたいつ嵐が訪れるかわからない。

その日の来るのが怖いようでもあり、どこかにそれを待ちわびている自分がいる。

平穏な毎日に飽き足らなくなってくると、あの嵐のような酷な環境に身を置きたくもなるのだ。

つくづく人間とはやっかいな生き物だな、美麗は小さく笑いながら紅茶を口に運んだ。

「美味しいございますか」

「えぇとても」

「お腹に染みる味だわ。飲むたびにこの子、動くのよ」

「きっとお腹の天使ちゃんもこの紅茶の美味しさを味わっているのでございますよ」

 そっと左手のひと差し指を突き出た腹にあてがってみる。享子ももちろん周囲にいる誰もが気づいていない。

 天使という名の悪魔が、もうすぐ大きな叫び声を上げてこの世の中に顔を出そうとしていることを。

 その日からこの愛の結末の第二幕が始まる。

どんな場面が繰り広げられるのか。もう静寂では物足りなくなっている。どこかに波乱に満ちたシーンを待ちわびている、そんな思いを胸に、美麗はカップを手にしたひと差し指を見つめながら静かに紅茶を飲み干した。 

 

 やかんの口からは湯気が音を立てて吹き出している。

 宮田安吉は少し指先が震える手で取っ手をつかむと急須に注ぎ込んだ。茶葉の開くしばしの間を見計らうようにして二階への階段を上がると右隣にある部屋のドアを叩くも返事はない。そっとドアを開けると、そこにいるはずの香里奈の姿はなかった。

「どこさ行ったか?」

香里奈と呼びかける声と共に部屋を出ると廊下の一番奥まった部屋から答える声がした。

「ここにおったんか。茶、入れたで飲まんか」

 の声かけに、

「でもこの人が」

 傍らに敷かれた布団に香里奈は心配そうな目を傾ける。

「当分起きはせんやろう」

「けど……」

「まだ看護婦になったわけやないねんから」

この春看護学校を卒業したばかりの香里奈は4月から病院勤務が決まっているとはいえ、まだ看護婦としての経験はない。

「けど……」

 心配気なまなざしを傾ける布団には目を閉じたままの男が一人横たわっていた。

「どっちにしろ早う目を覚ましてもらわんことには、どこの馬の骨やらまったく皆目検討つかんではなぁ」

 安吉も同じように心配そうなそれでいて一抹の不安感もあわせもった複雑な眼差しで布団に眠る男の顔をじっと見つめていた。

 その眼差しに答えるようにしていきなり男の目が開いた。

「あっ起きた!」

「気づきんさったですか?」

 男の顔を覗き込む二人に、男はここはどこだという目で周囲を見渡していた。その眼差しはあの世からこの世界に引き戻ってきたとでもいった表情だった。

「僕は…」

 起き上がろうとして体中の痛みにまた男は布団に寝直す。

「まだ起きたらダメですよ。あちこち怪我なさっとるから」

「怪我!」

「覚えとらんですか? あんたひどい怪我した状態で海に打ち上げられとったとですよ」

「海……」

 男は自分の記憶をたどろうとするのだけれど記憶の先には靄がかかっていた。そんな男には関係なく安吉は、

「名前は?」

「どこから来なさった?」

 矢継ぎ早に聞いていく。その問いかけにもどう答えていいのやら、名前、どこから来た、男はすべてのことに何も答えることができなかった。

「おじいちゃん、そんなに一遍に聞いたってまだ怪我も治ってないんだからだめよ」

 孫娘の香里奈に制せられ安吉は仕方がなく引き下がったが、この丹精な顔立ちをした男を助けたことがこれから孫娘である香里奈、しいてはこの二人家族の自分達の運命をも変えていくようなそんな不吉な予感に襲われた。

「大丈夫ですか?」

 祖父の心配をよそにいたわりの言葉をかける香里奈の方はどこかうれしそうだった。

この女性と見まごうほどに美しい顔をした男とこれから何かうれしい予感が待ち受けているようでつい唇に笑みがこぼれてしまうのだった。

そんな香里奈の笑顔をよそに、自分は誰であるかを思い出せずにいる男は自分の前に漂う深い霧の湖の中に追い込まれていた。

自分は誰でこれからどうすればいいのかもわからずただ戸惑うばかりでいた。

 部屋にいる三人は三人がそれぞれの思いを抱いている。

そんな思惑渦巻くことなどには関係なく、飼い猫のマルコが部屋に入ってきた。そしてまるで自分の寝床というようにして男の眠る布団の枕元に歩み寄ると静かに寝そべった。 

男が何気に撫でようと手を差し伸べたとき、マルコは男のひと差し指を噛んだ。

「痛っ!」 

軽い声と共にひと差し指には歯型が刻まれ、血が滴り落ちた。

「ごめんなさい、マルコ! あんた何するの」

 猫を叱りつける香里奈の声を聞きながら、男はひと差し指に走る痛みに何かを感じた、がそれが何であるかが分からずにいた。ただくっきりと歯型のついた人差し指をなぜかじっと見つめているだけだった。

漁村の夜はこれから巻き起こる嵐など知る由もなく、静かに更けていくのだった。

 

 

                       (了)











 

とはいえ芙蓉と特別な関係にあったことが幸いしたのもあるが。告発以後、芙蓉が社長職を辞任をしたことで新社長の座に着いた高岡はかなり重要視されるものとなった。本当ならばすぐにでも結婚したいところではあるが、今はまだ時期ではない。

統合後の収益計画は当期利益で一兆円企業を目指すことにしてはいるが、今は統合作業にかなりの時間を取られ事業拡大がうまく展開していない状況だった。さらに比率的に見てもUOJが主要ポストのすべてにおいて光井国友から劣勢に追い込まれる可能性もある。

それだけにUOJ幹部の間では光井国友の主導権が強まるのではないかとの見方もある。そうなれば高岡の社長としての地位も危うくなる。この合併劇の裏にはまだ得体の知れない魔物が住んでいる。 

高岡にすればそれが雲散霧消と化すまでは、とにかく私生活面においては動きたくないのだ。

「まだだな」

そういうと芙蓉はすねた顔をした。

ほんの少し唇を尖らせ、悲しげに眉根を寄せた。芙蓉の哀愁のただようこの表情を見ると、高岡の男心はひどくそそられる。

本当は高岡だっていますぐにでも芙蓉と結婚したい。芙蓉を自分だけのものにしたい。

「どうするか」

思い悩む高岡の背中に芙蓉がそっと寄り添う。

「大丈夫よ。きっとうまく行くわ」

芙蓉の細い指先が高岡の背広の上を沿うように動いていく。芙蓉の指は指先に行くほど細くて少し節くれだっている。この指が絶頂期には高岡の背中を這うように動く。ときにそれは円を描くときもあれば、猫の引っ掻き傷のように上下にただ脈絡もなく描かれているときもある。

事後、高岡はシャワーを浴びながら背中の爪あとを見るのが何よりの楽しみだった。

それが芸術的であればあるほど芙蓉が満足していたということになる。

最近は仕事のことばかりが頭にあるせいか、体は芙蓉を抱いてはいても心まで快楽を味わってはいなかった。そのせいか背中の引っ掻き傷も円を描くほどにもなっていない。どうやら芙蓉も最近の高岡との逢瀬にはどこか不満を抱いているようだ。その高岡の予感は当たっていた。

芙蓉も最近おざなりな抱き方をする高岡に不信感を抱いていたのだ。背中から這わしていった指先をさらに腰まで伸ばしていった、そのときだった。高岡は芙蓉の手を取るといきなり前に回し自分の股間に持っていった。

「あっ!」

手の平に軽い抵抗を感じた。すぐに手を引っ込めようとする芙蓉の手を高岡は強引に握ったまま、左手でチャックを下げるとその隙間に手を持っていった。ズボンの上からは軽い抵抗でしかなかった「物」が今、はっきりと実感された。片手で確実に握り締められるほどに高岡の男根はいきり立っていた。

驚く芙蓉の目の前で高岡は座ったままでベルトを外し、ズボンを膝まで下ろした。芙蓉の目の前に高岡の下半身が露になった。

すぐさま服を脱ごうとする芙蓉の手を高岡は止めた。

「今日は時間がないんだ。このまま君の口で果てたい」

躊躇する芙蓉。いままで高岡のどんな要求にも応じて来た。ときに本を見ながらのアクロバティックな体位にも応じてきたし、もちろん高岡の男根を愛撫したこともある。とくに高岡は舌での愛撫にひどく感じた。舌先を男根の先端部分の襞に添わせながら小刻みに動かしていくと高岡の口から何度となく熱い吐息が漏れた。

愛する男の物を口に含むことに何の抵抗もなかった。汚いなんて何も思わずにできた、が、ただ「飲んだ」ことだけはなかった。

それだけはどうにもできずにいた。けれど今の高岡を満足させてやるにはそれしかないのだ。芙蓉は高岡の正面に回り、膝まずいた。

そして股間に顔を埋めるようにして口に含んだ。

高岡は口の中の粘膜が程よい心地よさとなって男根を包み込む感触がいいのか、芙蓉の中に入っているときよりもよく動いた。ときには付き抜けるのではないかと思えるほどに先端が芙蓉の上顎を突いてきた。

何度となく動く、突くを繰り返していく。やがて快感を得ていた高岡の表情に恍惚感が増した瞬間、芙蓉の舌の上に適度な湿り気を感じた。ほどなく幾分生暖かな粘液が口の中全体に充満していった。

高岡は芙蓉の口の中で果てたのだ。

原液のままのカルピスとでも言った粘液を飲み込もうとしても、どうにも飲み込めない。喉が押し返してくるのだ。正直いますぐ洗面所に駆けこんで吐き出したい心境だった。

口に含んだままどうすることもできずにいる芙蓉を高岡の目が見下ろしている。その目と会った瞬間、

「僕を愛しているのなら飲んで。愛している女に飲んでもらえたら僕はうれしい」

高岡の言葉に芙蓉は覚悟を決めた。小さい頃、大嫌いな牛乳を母に無理やり飲まされたことがあった。芙蓉はそのとき鼻をつまんでどうにか飲み込んだ、あのときと同じ気持ちで芙蓉は覚悟を決め、飲んだ。

粘り気のある液体が静かに喉を下りていく。まるで生きたままの蛇を丸呑みにでもしたような感触が喉を通って行く。同時に猛烈な吐き気に襲われ、口元一杯に眉根をひそめるような匂いが広がった。

それはまるで魚の腸の腐ったような匂いとでもいったらいいだろうか。芙蓉はあまりの息苦しさに思わず胸をまさぐった。そんな芙蓉の姿に高岡はたまらない愛しさを感じた。

「ありがとう飲んでくれて。僕はうれしいよ」

そう言いながら芙蓉をぐいっと引き寄せると、

「ずっと愛しているよ」

強く抱きしめた。


美麗はウッドデッキに椅子を置くと日柄一日海を見つめていた。

何をするでもない、逆に何もしないでいられることがひどく贅沢な気がした。もう一生このままでもいいとさえ思えるのに。

「美麗様、お時間です」

一日一度のお勤めが待っている。

パソコンに向かいブログに書き込む。画面にはもちろん金子の姿がある。ときにいないときもあるがそれでも美麗は毎日姿を写し、挨拶とその日の体調やどんな些細な出来事でも報告するように義務づけられていた。

今日は幸いなことに金子の姿はなかった。というか最近ではいないことのほうが多い。やはりUОJとの合併後の雑事に追われて、女房の動向をチェックする暇などないのだろう。それは美麗にとってひどくうれしいことではあるけれど。

毎日のブログ更新といっても書く内容などほとんどない、というか伊勢に来て食事をすることと熱いシャワーを浴びること以外、今は何もしてないからだ。

「フィットネスクラブにでも行ってみませんか?」

「ジョギングにでも出かけませんか?」

享子はいろいろと提案を出しては美麗を外に連れ出そうとするのだが、美麗自身何もする気になれないのだ。それどころかこの頃では眠れずにいた。眠れないイライラから最近ではひどく頭痛がするようになっていた。

「だったらエステに行きましょう。いくらなんでも美麗様、その髪も肌もひどうございます」

享子はそういうと手鏡を美麗の前に差し出した。

あれほど艶がありきらめくようだった栗色の髪が、いまではパサつき、枝毛さえところどころに目立つ。髪同様に肌も荒れている。それは今の美麗の心のうちをそのまま現しているともいえた。

「髪も肌もすべてリフレッシュ致しましょう。そうすれば精神的にもかなりリラックスできると思います」

享子に促され美麗は渋々出かけることにした。一歩も外へ出る気などしないが、あまりに荒れた肌にパサついた髪を見せられるとやはりショックは隠せない。たとえ心はどんなに淀んでいたにしてもやはり女である。きれいになるということになると重い腰も上がる。

享子は予約したのはクィーンズホテルにあるエステサロンだった。ここのタラソテラピーはつとに有名で、享子も伊勢に来たときにはいつもここを利用していた。

タラソテラピーとは海水、海藻、海泥を使って心身を癒しリフレッシュさせていくことである。

気圧、気候、温度、日照時間、さらに風などが微妙に影響するのだが、伊勢湾の海洋性の気候はタラソテラピーを行うのには最も適している。どこでもできそうにあるのだが伊勢湾付近にあるホテルではあまり行ってはいない。

その中でクイーンズホテルは街中の喧騒から少し離れた伊勢湾沿いにあり、そのため新鮮な海水を利用することができることもあってタラソテラピーを行っているのである。それがこのホテルの唯一の売りでもあるので、それによって観光客を呼んでいるというところもあった。

もちろん美麗にとっては初めての体験である。享子が行きがけの車中の中でその効能をホテルの営業マンよろしく述べたてていても気持ちはどこか乗る気にはなれなかった。

本当言うとコテージ近くにあるエステサロンで充分だった。行く車中の中でも何度となく引き返したい心境に駆られたが、せっかくの享子の思いに答えようと、一度だけは我慢する気になったのだ。

ホテルにある専用エレベーターに乗り、タラソテラピーゾーンに入った。

エントランスはフロアーも壁もすべて大理石作りで、まるでこのタラソゾーンのみを別世界に作り上げていた。さっそくドレッシングルームで水着に着替えた。

「今日はサンテデラグジュアリーコースをお選びいたしましたので」

享子にこう説明を受けても何のことやらさっぱりわからない。ただ言われるままにまずは血圧や体温といったヘルスチェックを受けた。

体験に支障がないとなるとさっそくタラソに入った。

年のころなら二十代と思しきインストラクターに指導されるままに特に下半身を意識しながらのストレッチから始めていった。


「おう悪いお前今日は本館か?」

「はいそうです」

「悪いけどタラソに変わってくれないか」

「えっタラソにですか」

「俺今日これと約束があってよ」

そういいながら高井は軽く小指を一本立てた。

本館ならばよほどのことがない限りには時間通りに上がることができる。ところがタラソとなるとそうはいかない。

タイムスケジュール通りの予約制なのでタラソの開始は時間厳守を旨としている。ところが遅れてくる客もいる。逆にあまりの心地よさに眠ってしまう客もいる。そうなるとタイムスケジュール通りにはいかないし、眠っている客を無理に起こしてというようなことはしない。それだけにタラソゾーンを担当すると、終業時間はあってなきがごとしなのである。そうなると自分の予定を決めづらく、従業員にとっては泣きのタラソと言われていた。

高井はつい一月前に結婚したばかりの新婚である。どうやら今日は新妻の誕生日らしくその祝いをレストランでする予定にしていたらしかった。

「奥さんの誕生日ならどうぞ、いいですよ」

「いいか悪いなぁ」

今度借りは返すからといいながら樹稀也に両手を合わせて拝むと恩に着るよの言葉とともに軽い足取りで本館に足を向けていった。

当日のシフト変更は禁止されてはいるのだが、急用などの場合には特別に許されていた。高井はまだ入って三年の社員ではあるが、四十にもなっての初婚、おまけに女房は一回り以上も下ということもあってかなり若妻に気を使っていた。その辺を知っているだけに樹稀也も無碍には断ることができなかった。

女房の急病ということにして午後からのシフト変更を受け入れた。

さっそく本館に足を踏み入れると、広大なスイミングプールの中でそれぞれのグループに分かれて泳いだり手足を伸ばしたりをしながら楽しんでいた。このスイミングプールは海水のプールのため、タラソテラピーのインターバルなどに使われることが多い。さらにプールにはサンデッキも完備されているため、日光浴をする客なども多かった。

案の定、午前の客からの遅延が少しずつ午後の客のタイムスケジュールを押していた。

通常は一回りするのが常だが別段の異常もなさそうなので樹稀也は二Fへと上がって行った。

アクアエクステンションは水中で下半身を意識しながらストレッチを行う。水中だけに軽い水の抵抗を感じる。その圧力を意識しながら続けることで筋肉の柔軟性を高めることができ、血行を促進することができるのだ。

それだけに中年女性ばかりだった。そのほとんどには腹や背中にだぶつくように肉がついていた。下半身を水につけ、上半身だけを水中から出してのエクステンション。両腕を真横に広げてのエクステンションだけでも腕の肉が振袖のように震える。

「ゆっくり下半身を下ろして、上げます」

トレーナーの言葉に合わせて水中でのエクステンションを繰り返していく。その中でひときわ若く痩せた美麗の体は目立った。

「あなたそれだけスタイルのいい体型してたらタラソなんかしなくてもいいでしょうに」

「それ以上痩せてどうするの」

同じような目で他の中年女性達が見つめる。その目には少しの嫉妬心も加味されていた。美麗はそんな中年女達の嫉妬の入り混じった目つきにどうとも答えられずにいた。すかさず享子が、

「ちょっと体調を崩しましてね。それでこんなに痩せて。だから体調を回復させる意味でタラソがいいかなと思って」

「まあ太るためだなんて羨ましい」

そうそうと数人の中年女達がうなずいていた。

今の美麗に一番必要なのは心身のリフレッシュである。美麗の体には血が通っているようでその血には生気も活力もない。このままではやがて精神さえも病んでしまうのは目に見えている。金子の元を離れるだけの静養ではその病んだ心も体も取り戻せそうもない。

そこで享子が思いついたのが、このタラソセラピーだったのだ。

こっちの事情など知るわけはない中年女性の目はやはりどこか姑が嫁を見るような目つきだった。その目が美麗には咎めるように思え、人の言った言葉や何気ない動作にひどく敏感に反応してしまう。

そんな美麗を気遣って、

「気にせずに頑張りましょう」

やさしく声をかける。享子がこうしていてくれることで美麗は救われる。

「はいじゃスピードアップしていきましょうか」

インストラクターの声が飛ぶ。

海中での動きは海水の抵抗により思うようには動かせない。早く動かそうとすると大きな力が必要となり、ゆっくりと動かせば少しの力で動かせる。その人の体力に応じてスピードアップをしていくのだが、美麗は若いということもあって少し早いスピードにもついていけた。けれど他の中年女達はスピードを上げた動きには付いていけず、そこここで笑い声と共に根をあげる声が響いていた。

「こういう抵抗も複雑な関節のトレーニングにもつながりますので無理のない範囲で頑張って下さい」

インストラクターの声に従い、それぞれがストレッチを繰り返していく。自分のことが精一杯になったおかげでいつのまにか中年女達の厳しい視線も美麗から外されていた。


中2Fにはサウナ、2Fにはサンルームと野外ジャグジーとがある。

どちらも伊勢湾の澄んだ海が360度広がっており、大抵テラピーの終わった客はしばらくこの景色を楽しんで帰る。それでときおり眠ってしまう客もいるので常に見回りが必要だった。たとえ眠ってしまっていても起こすことはできない。

サンデッキやサンルームには数人の客がいたが、そろそろ夕暮れどきを迎えるせいか客はそれほど多くはなかった。

一通り見回った後、樹稀也はクロークに戻った。

受付には常時二人ほどがいる。

「あれ? 今日は高井さんじゃないんですね」

「夕方だけちょっと変わったんだ。今日は奥さんの誕生日らしくて」

受付の女の子も新婚さんなら早く帰りたいもやむなしかなという顔をした。

「私達六時までなんで」

タラソのスケジュールは九時三十分から始まり最終タイムは五時台である。順調に行けば七時まではすべてのプログラムが終了するようになっているが、そのときの予定によっては多少の変更はいつものことである。

時間を見ればもう六時をとうに過ぎていた。

「いいよ帰って」

樹稀也の言葉を待っていた女の子達はお疲れさまを言いながらも右手はもう制服の第一ボタンを外しにかかっていた。今日は合コンの予定でもあるのか。ロッカーへ向かう彼女達の足取りは駆けるようだった。

いくつになっても男と女の関わりごとがある間はひどく輝いているものだ。樹稀也とてまだ二十五歳である。

晴れて「男」と生まれ変わった日から公然と女と恋をすることも許されているのに……。

心にはまだ美麗が住んでいる。この女を心から追い出してしまわない限りにはどんな女とも恋はできない。

無理に追い出そうとしても消えない残像に苦しむよりも、樹稀也はすべてのことを時間に託した。時を重ねていけばいつか知らないうちに美麗のことを忘れてしまうに違いないから。

それまではすべて仕事に没頭することにした。

樹稀也はクロークに立つと、今日のセラピーを事故のないように終わらせることに専念した。

だいたいが日帰りプランの客が多い。宿泊客だけでなく伊勢に住む人達もかなり利用する。それでもどちらも六時までに終わらせるというのがほとんどだから、十九時台の客は少ない。ほとんど人気のなくなったフロアーに樹稀也は手持ち無沙汰な感じで一人クロークに立っていた。


アクアテンションを終えた後はリラクゼーションプールへと移り、しばらく静かに水中に浮かんでいた。この状態にいることで筋肉がひどくリラックスすることができたのか、美麗の心も体も解きほぐされたようだった。しばらく付加のかからない状態でいた後はファンゴテラピーでのマッサージを受け、すべてが終了した。

ドレッシングルームに戻り享子と二人着替えをする。そのときの美麗は最初にタラソゾーンに入ったときとは完全に違っていた。どこか鼻歌さえも出そうな感じにさっそく享子が聞いた。

「いかがでした?」

「いいわね」

始めは乗る気ではなかった美麗だったが、このタラソテラピーでの二時間でひどく心も体もリフレッシュしたのだろう。それは側で見ていた享子にもわかった。あれほどまでに暗く陰鬱とした美麗が今はどこか晴れ晴れとした表情に変わっていた。

美麗自身も直後にシャワーを浴びた後、肌さえその細胞の一つ一つが水を弾いているように感じていた。

「また来ましょうか?」

「ぜひ。明日でも明後日でも毎日来たいわ」

「じゃあ予約入れときますね」

「お願い」

このタラソテラピーは人気があるだけに予約も多い。早めに越したことはない。さっそく享子はクロークに足を運んだ。

「あら誰もいないじゃない」

いい加減だわねと文句を言いながらクロークにある呼び鈴を鳴らした。

樹稀也は一旦奥に引き込むと、営業修了の上がり作業のため、サンルームやデッキにまだ客がいないかどうか、設置した防犯カメラの映像でチェックしているところだった。

呼び鈴の音に慌ててクロークへと足を向ける。

享子はクロークに置かれていたタラソテラピーの他のプログラムのアイテムに目を落としているところだった。

「サラサ デ タラサプルミエールっていうのもよさそうね」

どういうアイテムになるのかをくわしく聞こうとプログラムから顔を上げたときだった。

「はいお待たせしました」

慌ててクロークに戻った樹稀也と顔を合わした。

「あっ!」

享子にとっても樹稀也とっても思いがけない再会だった。しばし言葉がないままにお互いの顔を見つめる。

樹稀也にすればこんな所で享子を再会したことにただ驚くばかりだったが、享子は違っていた。捜し求めていた初恋の人にやっとめぐり会えたとでも言ったらいいだろうか。そんなせつなさで胸は高鳴った。かつて享子の女心をあれほどまでにかき乱した「男」が目の前にいるのだから。

とうに鍵を掛けたはずの女心の扉がまた鍵を開けようとしていた。目の前にいる樹稀也を見つめるだけで胸の動悸が高鳴っていく。もしかしてその鼓動を樹稀也に聞かれてしまうのではないか。

享子は胸の動悸を聞かれてしまわないようにとどうにか押し殺し、

せつなさを帯びてしまうまなざしを必死になってひた隠そうとした。

「ご無沙汰しております」

そんな享子に樹稀也のこの一言はひどく他人行儀に聞こえた。

「ご旅行ですか」

「えぇまあ」

「タラソを体験されたんですか?」

「えっえぇ」

「いかがでした?」

「とても快適で」

「それはようございました」

樹稀也は従業員として享子に接する。まるで初めて訪れた客のような話し方をすることに享子は少しの不満を抱いた。もう少し親近感を抱いてくれてもいいのに……。そんな享子をよそに樹稀也は、

「お一人ですか?」

こう聞かれて享子はいや二人でといいかけてやめた。樹稀也は享子が美麗と一緒であることを期待しているのではないか。

もしかしたらそれを見越してこう聞いてきたのではないか、となるとまだ樹稀也の心には美麗がいるのでは。そう思うと、

「いえ私一人なのよ」

「あぁそうですか」

一人という言葉にも樹稀也は失望しなかった。享子と思わぬ再会をしたからといって、その延長線上に何かを期待するなどということは一切なかったからだ。

美麗が一緒のはずはないと思っていたし、また享子はもう四十五にもなるハイミスである。享子の性格からすれば一人旅であってもどこにも不思議はない。かえって一人旅が似合ってしまうところに享子が長年独身を通している理由があるのかなとも思えなくもない。

男気をまるで感じさせない享子のそれは長年社長秘書という仕事をし続けてきたことにもよるのだろうが。仕事だけでなく性格的な部分がたぶんに加味されているようにも思える。それは享子自身が一番よくわかっているに違いない。

「タラサデプルミエールには3アイテムございまして、ハイドロマッサージパスまたはアクアテンションのプログラムのどちらかをお選びいただき、さらに」

樹稀也はプログラムについての説明をするが、享子はそんなことはどうでもよかった。説明をする樹稀也のまなざしがときおり自分に向けられる。きれいに重ねた二重の目にはその美しい目を囲むように長いまつげが覆っている。その美しい瞳の奥から放たれるまなざしが説明のたびに享子と視線を合わせる。それだけでもう女心がときめいてしまう。ずっとこのまなざしに見つめられていたいけれど。

「いかがでしょうか?」

説明を終えた樹稀也の目が予約を促すように向けられてくる。

予約、できるわけはない。もしも予約してしまえば樹稀也と美麗はおそらく再会してしまう。そうなればどうなるかはわかっている。

美麗もおそらく樹稀也も二人はお互いにまだ魅かれあっているのだから。ここはなんとしても二人の再会を阻止しなくては。

「ちょっといろいろ予定もあるから。また」

「ではお待ちしております」

深々と礼をする樹稀也に少しの未練を残しながら享子はクロークを後にした。

突然の樹稀也との再会にまだ胸は高鳴っている。せつなさは女心の鈴を鳴らし続ける。止めようとしても振り続ける鈴の音に耳をふさぐようにしてフッティングルームに足を向けた。

「どう予約取れた?」

フィッティングルームでは乾いた髪をドライヤーで乾かし終えたのだろう。美麗がいつものストレートヘアーにセット仕上げた髪でドレッサーの前に座っていた。

その美麗の姿を見たときに、享子の胸の鈴は響きを止めた。

いつもに変わらぬその美しさを見たときに、享子の胸のうちに潜む

女の本性が享子に耳打ちをしてきた。

この女と樹稀也を会わせてはならない。

「残念なことに予約がいっぱいで、空きができたらまた電話を入れてもらうようにクロークに話しておきましたから」

享子の言葉に美麗は安心したように頷くと帰り支度を始めた。

このままエントランスを抜けて専用エレベーターにいくにはどうしてもクローク前を通らなくてはいけなくなる。そうすれば樹稀也の存在に気づいてしまう。それは絶対に阻止しなくてはいけない。 

でもどうすれば……。

 前を歩く美麗の背中がドレッシングルームを抜けていく。後数十歩行けばクロークの前を通る。クロークには樹稀也がいる。

このままではいけない。でもどうすれば。いきなり後ろから美麗の頭を殴るわけにもいかないし。享子は一人いらだっていた。早くどうにかしなくては。気持ちは焦るのだが、どうしていいかわからない。クロークは後数歩のところになってしまった。樹稀也はクロークにいた。予約表に目を落としているようで下を向いていた。

上を向いたならもうそこにいる美麗に気づいてしまう。どうにかしなくては。いっそ美麗の後ろ髪を引っつかみなぎ倒してしまおうかとさえ思ったがそんなことはできるわけもない。どうすれば……。

でもこのままではクロークはもう目の前だ。咄嗟に右の薬指から指輪を外しポケットに入れると、

「あっ!」

叫び声を上げた。あまりに大きな叫び声に何? と思わず美麗は振り向いた。

「わたくしサンデッキに指輪を忘れたような」

「指輪、してたの?」

「サンデッキで指輪をしていたのに気づいて確か外したので」

2Fのクロークに電話してみますといいながら、享子は実際には1Fのクロークに電話をしていた。

「はい1Fクロークです」

樹稀也の少し低めの声が耳に響く。受話器を通して聞こえてくるソフトな声が鼓膜だけでなく享子の女心をも微妙に震わせる。本当はこの声をベットで耳元で囁いてもらえたならと何度思ったことだろう。そんな享子の願いは叶うことなくいつも打ち砕かれてしまうが。

「デッキに忘れ物をしたみたいで」

心配そうに携帯で話す享子を見つめる美麗に、大丈夫と頷きながら享子はクロークの前へとさしかかった。

クロークは半円形のカウンターになっていた。電話はその一番右端に置かれていた。カウンターの中にいる樹稀也が電話を取ると、必然的に正面からは斜め立ちの格好になってしまう。ちょうどいいことに専用エレベーターはタラソゾーンで待機をしていた。

「美麗様、ちょうどエレベーターが来ていますね」

享子がエレベーターを顎で指し示すと美麗もエレベーターに目を向けた。

「じゃ早いとこ乗りましょう」

「でも指輪は」

振り向こうとする美麗の視野をさえぎるようにして享子は美麗の目の前に立ちはだかると、

「今、クロークの方に捜してもらってますので」

美麗がエレベーターに注意を向けた隙に急いでクローク前を通り抜けると、二人してエレベーターに乗り込んだ。すぐさま階数ボタンを押す、と同時に閉じるボタンも押した。

「すみませんが、コテージに泊まっておりますので後でも結構ですのであったら持ってきていただけませんか」

「はいかしこまりました」

応対する樹稀也が受話器を下ろし、その背中が正面を向こうとする、その一瞬にドアは閉まった。ほっと胸を撫で下ろす享子に、

「指輪あったの?」

「まだわからないのですが、多分あると」

「そう、よかったわね」

「えぇよかったです」

享子の「よかった」が本当は別の思いを意味しているなど、美麗には気づくはずもなく、享子はつくづくという思いでよかったを繰り返した。

ここで二人を会わせるわけにはいかない。それだけは絶対に阻止しなくては。美麗を真に金子の妻にする、それが享子

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