おいで、イカロス
「成人の儀に出て、ニア」
トゥが言った。静かな声だった。その日、ニアは高熱を出したトゥを看病していた。
やっと昼に熱が下がったと安心して、食物をとって室に戻ってきたら、トゥは、体を起こしていた。
まだ寝ていた方がいい、そう体を寝かせようとした時に、トゥは一言、そう言った。ニアは、トゥの顔を見た。にらむといっていい、見方だった。トゥはニアを見返した。その瞳は静かに凪いでいた。
「今を逃したら、もう飛べない。だから、出て」
「そんなこと」
「できないなら、ニアなんて、もう、いらない」
ニアの心は、一気に冷たくなった。それは、熱を越えた痛みだと、一拍おいて気づいた。血でも、涙でも、もし心に何かが流れているなら、今ニアの心からはそれが、流れ始めていた。
「いらない。そうだったでしょう。ニア」
トゥは首を振って、ニアをにらんだ。
「ねぇ、覚えている? 『とりわけ、またがない四翼は、ろくなものにならない』って言われたね」
――覚えていた。だから、ずっとニアはトゥを憎んできた。トゥと生まれたせいで、軽蔑される自分が、嫌いだった。ニアの言葉に、トゥは「ふうん」と頷いた。
「なら、初めて飛んだ日のことは?」
ニアは沈黙した。それは、果てのない無言だった。答えは決まりきっていた。
あの瞬間に、きっと自分たちはすべてを手にしていたのだ。どうして、憎む必要があったのだろう。そのことを、空を失って気づいた。だから、もう何も求めない。求めなくていいのだ。
「私たち、きっと長く一緒にいすぎたのね」
無言のニアに、トゥは笑った。疲れた笑みだった。
「ずっと私のこと、憎んでいればよかったのよ」
「そんなこと。トゥ、私は、幸せよ。やっと気づけたのよ」
肩を掴んで言う。目を見つめた。思いをどうしたら伝えられるか、わからなかった。言葉はこれほど正直なのに、トゥの心があまりに遠かった。
「そう。でも、私は、みじめだわ」
ニアののどは、潰れるように引き絞られた。トゥは、言葉を続けた。
「すごくみじめよ、ニア。私は、ニアのお荷物になるために生まれたんじゃない」
「お荷物なんかじゃない」
「決めるのは私。ニア」
トゥは決めてしまっていた。トゥの心にはもう触れられなかった。
「翼、鳴いているんでしょう?」
ニアの背がぶるりとふるえた。ニアの意思に反して、トゥの言葉に応える様な調子だった。同時に、背骨に激痛が走る。対翼の種子のわななきだった。ニアの肩には、もはや片翼はなかった。背は全体がふくれあがって、のびて薄くなった皮膚からは、翼の骨が透けて見えていた。今か今かと破るのを待つ翼を、ニアはずっと押さえつけていた。ふくれて薄くなった皮膚のうちににじむ血と膿を、トゥに隠せるはずもなかった。
「今を逃したら、もうもたない。ニア」
もう何も言えなかった。
「飛んでね。でないと、私はお前を忘れる」
成人の儀の日。四翼の子供たちは、一列に崖の前に並んでいた。皆、肩の片翼も落ち、背中には一様に翼が浮かんでいる。四翼の子供は、それまでずっとともに飛んできたものと手を繋いで、それから離れた。飛び立つときは、絶対に互いから離れてが、成人の儀の鉄則だった。
ニアは、トゥの手を握った。トゥは列に参加できないので、対面だった。年長で、またがらない四翼を、様々な視線が囲う。
「さよなら」
抱きしめる代わりに、そう言った。そうして、ニアは崖の縁へと向かう。
背筋を伸ばすと、背中が一際強くうなりをあげた。濡れた小枝が裂け、折れるような音とともに、背中から、何かが強くはがれ落ちて、開放されていくのを感じる。
押さえつけられ、痛んでいた背骨が、一気に伸びるのを感じたと同時、水があたりに散った。四翼の背中から放たれた。対翼の羊水で、あたりは雨が降ったように濡れた。
生まれたての対翼の翼はぬれそぼり、しかし生まれたと同時に、本能で羽ばたきを始めた。あたりに濃霧が起こり、虹が浮かんだ。風の音が、これ以上ないほどに、耳の奥を揺らした。
ニアは、自分の体が浮き上がっていくのを感じた。地面は蹴らない。蹴る必要はなかった。対翼の翼は、たくましく美しかった。
体が崖から離れると、翼はうなりをあげ羽ばたいた。ニアの体は左右に揺れて気流にのり、安定をはかった。そうして、体が支えられると、ニアの翼は、上昇を始めた。
その瞬間、ニアは、後ろを振り返った。
トゥは、彼方に下にいた。歯をくいしばり、にらみ上げたその瞳から、とめどなく涙を流していた。ニアは指先から、しびれるような何かが走ってくるのを感じた。
トゥは振り払うように、手を振った。行けと、全身が言っていた。ニアは上を向いた。涙で曇る視界を晴らすように、何度も目を瞬いた。
そうして、ニアの体は、太陽に向かって上昇した。
――これから、私はお前を憎んでいく。愛する分だけ、ずっとずっと憎んでいく――
ニアは天へと上り続けた。対翼の本能のままに、ずっと飛び続けた。もう二度と、振り返ることはなかった。
おいで、イカロス 小槻みしろ/白崎ぼたん @tsuki_towa
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