初恋絵の具
@ramia294
第1話
シャッター通り商店街。
不思議なお店が、あります。
今でこそ、何軒かのお店が増えてきていますが、少し前まで、買い物目当ての人通りが、完全に途切れた商店街。
それでも、商店街の出来た頃から、頑張っているお店もチラホラ。
素早くコンビニに転身した、頭の良い店主。
地元に愛される病院。
頑固にお店を閉じなかったパン屋さん。
お湯に浸かると、幻の温泉旅行に迷い込む銭湯。
しかしもう1軒、昔から変わらず、明るく営業を続けているお店があります。
『ブラウン画材店』
もちろん売っているのは、絵を描く道具たち。
地元に愛される病院に健康診断に行くと、温かい印象の絵が、あちらこちらに飾られているのを発見。
看護師さんに、尋ねてみました。
「とても良い絵ですね。あれは、有名な絵描きさんの描いたものですか?」
看護師さんは、笑って教えてくれました。
「確かに良い絵。でも描いてくれたのは、お隣のブラウン画材店の店長。お名前は、チャコさんです」
待合の患者さん、チャコさんの絵を観て、ニコニコ。
注射で泣く子もチャコさんのカエルの絵を観ると、ケラケラ。
僕は、画材屋さんを訪ねてみました。
店長のチャコさん。
開店当初からの店長さん。いつまでも若々しく、美しい店長さん。
チャコさんのおすすめ。
このお店ナンバーワンの売り上げ。
『初恋絵の具』
全国から、この絵の具を求める人がたくさん訪れます。
「真っ白なキャンバスにこの絵の具で、甘酸っぱい思い出の初恋を描いて下さい。あの頃の時間が、あなたの中に蘇ります」
ブラウン画材店で、真っ白なキャンバスと初恋絵の具。絵を描く道具たちを買い込みました。
試してみました。
生まれて初めての僕の絵は、ピカピカの制服姿の僕と少し背伸びの『初恋』の本を大事そうに抱えた、あの
初めての中学生。
初めて少し大人を感じた、自分自身。
初めて出会った、僕の時間を止めてしまった、あの瞳。
頭の中で、繰り返されるあの笑顔。
ときめく胸。
戸惑う僕。
絵の経験が、全く無いのに、どんどん描けてしまいます。
自分自身で描いた絵から目が離せなくなり、僕の意識は、絵の中へ吸い込まれていきます。
絵の中の僕と今の僕の区別がつかなくなって、絵の中の彼女に出会いました。
あの頃の様に少年でない今なら、もっと気の利いた話と賢い立ち回りで、あの初恋を自分のものに出来たのに。
何もないまま、すれ違っただけではない大切な人に出来たのに。
そう思っていましたが、絵の中の彼女を見つめる僕は、息苦しく身体が硬直して、あの頃のままに、彼女を見つめるだけの存在でした。
締め付けられる胸が苦しく、自分で描いた絵の中の自分を現実の自分自身が、見ている事に気づき、驚き、慌てて現実の世界へ心を戻します。
いつから、こうしていたのでしょう。
僕は、泣いていたようです。
初恋絵の具。
チャコさんによると、絵は一晩で消えてしまいます。
次の夜は、偶然一緒に帰る事になったあの日。たくさん話をしたいのに、出来なかったあの日。今も悔やんでいるあの日を描きました。
あの頃の僕を応援しても、僕の思いは、僕の胸の中だけで、行ったり来たり。
絵の中に滑り込み、あの頃の僕に戻っても、やはり僕の思いは、高鳴る胸に押しつぶされてしまいます。
偶然、街で、出会ったあの日を描いた時も。
突然の転校で、彼女がこの街を去っていく日も。
あの頃と同じように、僕には彼女に触れる事も声をかける事も出来ませんでした。
夜が来るたびに、あの頃を描く僕の絵の具は、1週間も経つと無くなりました。
「そりゃあ、絵だもの。絵の具に出来る事は、あなたの初恋を再生するだけ。結果を変える事は、出来ない」
チャコさんは、新しい絵の具を僕に売ってくれました。
新しいキャンバスと今までの物との交換を無料でしていただきました。
ブラウン画材店。
とてもサービスの良いお店。
気づくと、絶えず訪れるお客様の目は、赤く腫れています。
みんな自分の絵の中に、心を奪われる夜を過ごしているのでしょう。
「大丈夫よ。初恋絵の具は、あなたを応援する絵の具。少し余裕が出来て、今のあなたの姿を描く事が出来れば、きっと分かる」
それからも、自分の描いた絵と向き合う夜は、続きました。
半年も経った頃、僕は、チャコさんのアドバイスを思い出し、現在の僕の姿を描いてみました。
絵の中の僕は、笑っていました。
辛い事や悲しい事がたくさんあったはずなのに、笑っていました。
初恋だけではありません。僕の人生はあちらで
とても自慢出来る人生ではないはずなのに…。
笑っていました。
次の夜。
満月のとても綺麗な夜。
あの頃の思い出の絵に、チャコさんが今夜のお月様を足しました。
すると、僕は絵の中で、初めて彼女に声をかける事が、出来ました。
「好きでした。とても真剣でした。でも未熟な僕の胸は、君を見るたびに、パニック状態。伝える事が出来ませんでした」
彼女は、あの頃の笑顔のまま、頷きました。
チャコさんは、教えてくれました。
「初恋絵の具は、純粋で美しいものを応援する。美しいままの初恋は、思いが届かなかった人の胸の中だけに、存在が許される。そんな時間を経ても尚、美しいものを絵の具は、応援してくれる」
考えてみれば、あの頃の僕は、まだまだ未熟な人間でした。
初めての熱い思いに、戸惑い。
初めての喜びに、舞い上がり。
初めての不安に押しつぶされ。
結局、大切な一歩を踏み出すという選択が、出来ないまま、彼女は見知らぬ街へと。
未熟な僕が、いつもいつも、正しい選択を出来るわけもありません。
それでも描いた絵の中で、僕が笑っているのは、何故でしょう?
栄光と輝きに縁が無い僕の人生。
それでもたったひとつの僕の人生。
間違いの無い人生は、遥かに遠く。
それでも、ひとつひとつ、大切に選び取った人生。
そんな僕だから、初恋絵の具は、応援してくれたのでしょうか?
ブラウン画材店。
あなたの人生を応援してくれる、売れ筋ナンバーワンの初恋絵の具。
最近は、ネット販売も始めたようです。よければお買い求め下さい。
終わり
初恋絵の具 @ramia294
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます