凄腕冒険者の弟子がお嬢様のヒモになる迄 前日譚

@rorum335

第1話 アデル・イスラ・ペンドルトンの出逢い

 今日、わたしには12歳年上の婚約者が出来た。勿論、好きで婚約した訳ではない。

貴族の子女として生まれた以上、自由恋愛を夢見る乙女ではいられない。

両親と一族の利権を守るための損得の上での婚約だ。

わたしを溺愛する両親が、良いお婿さんを見つけたとはしゃいでいたのを昨日のことのように覚えている。侍女たちの噂話では何一ついい噂を聞かない年上の男で、故郷で手酷く婿入り先の許婚に振られたことがトラウマになっているらしい。恥をかかされた国を出て、当分女を抱きたくないと言う理由で彼は、かなり年の離れたわたしとの縁談を受けたのだと言う。

どんなヘタレで下品なブサイクなサレ男が来るのかと見てみれば、外見に関しては両親が許可しただけあってまともだった。

 「今後ともよろしくお願い致します。お嬢様」

 嘘ばかりの愛想笑い。虚飾塗れの言葉。

 帝国式の礼節を重んじ、テンプレートにハマった受け答えを繰り返す貴族の三男坊だ。決まり切った台本通り、好青年を演じている役者のようにさえ思えてしまう。

 恙なく両家の結納が終わり、両親と相手方の付添人たちが去っていく。

 二人きりの部屋で、互いに澄まし顔で向かい合う。

 優し気な目元で微笑みかける男は、自分の思い通りにことが運んで上機嫌なようだ。そこへ水を差すようにわたしは率直な感想を口にした。

「あなたの目、とても怖いわ。それに話が全部つまらない。あなたに魅力を感じないの」

彼は瞳に映るわたしに、誰かの似姿を重ねて見ているようだった。それはかつての許婚の面影だろうか。それとも男の欲望を満たしてくれていた誰かだろうか。

常に取り繕った表情しか浮べていなかった偽りの仮面は剥がれて、男は初めて素顔を露わにした。

決してその誰かからは言われたくないハズの拒絶の言葉に、男は初めて演技ではない行動を取った。険しい目付きに、酷薄な表情、従順な飼い犬の振りを止めた豺狼の顔だ。悪の帝国の男らしい楽し気な笑みは、無力なわたしに恫喝の恐怖を味遭わせて立場を弁えさせようと言う嗜虐心を露わにしたかのようだ。

 嫋やか身体を抱き寄せる腕は、花を手折るより容易く心を壊すだろう。

 ゆっくりと真綿で首を絞める様にわたしの尊厳は犯されていくのだろう。

 噂通りに歪んだ男の欲望を晒させて、わたしは男との関係を破談にさせてやる心算だった。

 「これからどんなことが起きようと、私はあなたを守ります」

 楽し気な目で、愛おしそうに笑う顔で、悲しみに満ちた声で、優しい言葉を紡ぐ。

小さな嗚咽交じりに彼はそう囁いた。

表情と声と目が全部チグハグだ。

 身体を寄せて、温もりを伝えてくる。

 「だから決してあなたは自分の幸せを諦めないで」

 それがどんな意味なのかは分からなかった。

 結納の祝い席には決して似つかわしくない。

 不吉な将来を予言した言葉を残して、男はわたしを抱き上げ両親の用意した晩餐連れて行った。

 この男はきっともう壊れている。何重にも仮面を被って誰かを演じることでしか、自分を保つことが出来ない。最早癒えることのない傷を負ったからこそ、わたしに捧げられた生贄なのだと悟った。



 

 気楽に酒色を楽しめる夜の飲食店の中で、初老の男が酒場で哄笑を上げていた。両手に華やかな女性を抱いて、テーブルには孫程歳の離れた少年と向かい合っている。

 上機嫌に酒を呷る男の名はモンシア・ベルモント、かつて遥か西の大地で冒険王と謳われた凄腕冒険者だ。

 「この不能野郎に結婚相手が出来たってよ。目出度い!目出度いぞ!オイ祝い酒だ!店中の酒をじゃんじゃん持ってこい!今晩は全部オレの奢りだ!みんな今日は愛弟子の門出を盛大に祝福してくれ、ワハハハハハ!!!」

 「先生、結婚はまだ先のお話ですよ。婚約しただけです。あと仮にも上官に対しての言葉遣いを改めてください」

 愛弟子と呼ばれた少年はどんちゃん騒ぎになった周囲の反応に困惑した顔で、自分の師匠に言葉を返す。物心付く前からの付き合いのある腐れ縁で祖父の様に母子の面倒を見てくれた恩人でもあるが、今の身の上では少年の方が身分も役職も上になっている。

 「固い事言うなって、ワシとお前の仲だろう!お前がお母上の腹の中に居た頃からの付き合いだ!これでお前が一人前の男になれば、ワシもようやく亡くなったご母堂への顔向けが出来ると言うものだ。本当に、本当にワシは………」

 感涙を流し咽び泣くモンシアにわざとらしさを感じて少年は、気色の悪いものを見たような反応で身を引いた。しかし、嬉し泣きする老人に両脇のホステスはおしぼりで涙を拭き、口々に少年と老人に祝いの言葉をかけ、泣き止むように励ます。

 「これでシャル君もこの店に出入りするのは最後になっちゃうんだね。寂しくなるわ」

 慰安婦が少年の隣に座って柔らかな媚態を少年に寄せて来る。それに一層、潔癖な反応を示してシャルと綽名を呼ばれた少年はソファ席から離れた。

 「そうですね、婚約者の居る身で慰安所に出入りする訳には行きませんから。こちらは酒も女もやらないので、清々しますよ」

 シャルはすっかり出来上がった初老の男の恥も外聞も捨てた醜態に軽蔑の眼差しを向けた。モンシアは猫撫で声で仰向けになって女性の膝枕に甘え出し、赤ちゃん言葉でフルーツを食べさせてもらっていたくて駄々を捏ねていた。

 普段の威厳も名声に似合う立ち振る舞いも捨て去った師匠の姿に冷めていたシャルに、お祭りモードの仲間たちが次々に言葉を投げる。

 「そりゃないぜ、隊長!我らチャールズ分隊一同、隊長と酒を酌み交わす機会が無くなると思うと、寂寞の至りであります!」

 「そんなんだから童貞のままなんですよ!隊長!俺で卒業しましょう」

 ガタイの良いオークの男と人間の坊主頭が左右から肩を抱きシャルの杯に酒を注ぐ。

 「気の置けない部下とのノミニケーションは大事ことです。下戸隊長は若造だからそれが分からんのです!大人の付き合いが出来ないお子ちゃまですな」

 ドワーフの中年が特大のジョッキを片手に髭に泡を付けて笑い出した。

「ツレナイ、隊長、女嫌イ、インポ」

未だに片言の公用語しか喋れない長身の魔族が燻製肉を摘みながら呟き、シャルの周りは一気にむさ苦しいオスの空間へ変貌した。

 「お前ら途中からオレを罵倒してない?無礼講だからって羽目を外し過ぎてないで。後、どさくさに紛れて不貞に誘うな。オレは単に貞淑と節制を心掛け、清廉を重んじているだけだ。ついでにホモでも下戸でもインポでもない。女嫌いでもない」

 酒が入ってシャルも大分、砕けた口調になり顔が真っ赤だ。いつもの清廉な軍人たらんとする姿勢が崩れ、目も据わり始めている。

 「じゃあ、シャル君は何で誰にも手を出さないの?未だに婚前交渉厳禁のガチガチの帝国貴族の伝統を重んじる保守主義?」

 モンシアが追加で女性を指名したのか、シャルたちのグループ席にはさらに女が追加で来て居た。

 「生まれを知ったのは後からだが、まぁそう言うのを重視しなければならない血筋ではあるな。育ててくれた養母の家も貴族だったし。やはり生まれや育ちの所為かな?家柄の格だとか身分を鑑みなければ、おちおち嫁も貰えないのは嫌だが、親戚付き合いとか、財産とか既得権益の維持だとか。魔法だの、魔力量の過多だとかいろいろ問題があるからな。女を抱きたくても貴族には貴族向けの娼館があって、その代金もバカ高いぞ。その癖、別に別嬪ぞろいな訳ではないし。オレが女を抱けないのは節約になってある意味好都合だが」

 「ええ!隊長、童貞なのに貴族様の娼館に行ったことあるんですか!?」

 「あると言うか。やんごとない事情があって、幼いころは其処で育てられていた。この節操無しのドスケベジジイともその頃からの付き合いだ。悪いがもう酔いが回って眠い。オレは帰るぞ」

 「オウ帰れ帰れ!クソガキはマス掻いて寝てろ!」

 「先生、二日酔いしても明日の練兵場には自力で来てくださいね。オレは起こしに行きませんから」

 財布から数枚の銀貨を置いてシャルは逃げるように店から出て行こうとする。

 「「「「隊長!ゴチになります!!!!」」」」

 モンシアたちがシャルを祝うための酒の席だったハズなのに、いつのまにかシャルが代金を受け持っていた。これではただ体よく集られただけだ。

 「まったく調子のいい奴らだ」

 モンシア以外の部下はこの国に来てから知り合った短い付き合いの間柄だが、シャルはこの気安い関係を意外と気に入っている自分に気が付いた。

 「この生活もこれで終わりだな」

 独り心地になると酔いの所為かいつの間にか心情を吐露していた。今晩の内に寮の荷物を纏め、明日にはもう義実家の邸宅に移り住む手筈になっている。新しく用意された自室には、家財道具の類が既に準備されているため、それこそ身一つで新生活を始められると言う話だ。それでもシャルの自身の思い出の品や、私服をはじめや私財と呼べるモノを纏めて置く必要があった。

 「アレ、もう帰ってしまうのかい?今晩は独身最後の日だろう。女遊びをしても咎められない自由を満喫できる夜なんだ。すこしは遊んだらどう?」

 男とも女とも着かない声が暗がりの闇の中から聞こえる。まるで闇そのものが空気を振るわせて、何かが人の言葉を語り掛けているかのようだった。

 「誰が触れたかも分からない商売女なんて相手したくないよ」

 「潔癖だね。君のお父さんもそうだったけど。でも君の歳頃には性欲を持て余して大変だったよ。それこそ毎日のように君のお母さんと」

 「知っているから黙れ、出歯亀野郎」

 「失礼な!私は立派な守護獣だよ、シャル。まぁ、君を守ることは出来ないけど」

 「お前、本当に何でオレに付いて来たの。この役立たず」

 「何もかも君の不甲斐ない一族が悪い。君は早く子供を作って、正当な私との契約を継いでくれ。このままじゃ後百年も現世に留まれない」

 「じゃあ、オレじゃなくてあの娘に憑いてください。将来、あなたとの契約を履行する子供を産んでくれる女ですよ。大事にしてください」

 「ハァ、まったく度し難い。君がシャイマールに取られなければ今頃私は自由に現世を謳歌できたと言うのに。何が悲しくて血の繋がりも無い姻戚に取り憑かなければならないんだい?」

 「お前の怠慢の所為でオレの両親が引き離されて、オレが私生児として生まれたからだよ。このド畜生」

 「ごめんね。シャル、それに関しては何度でも謝るよ。ところであの下男はいつまで生かしておくんだい?私アレ生きているのが不快なんだけど」

 「あなたへの戒めも兼ねて、あと先生の性根はグズですけど有能な人なんです。まだまだ働いて貰えるなら、扱使えるだけ使うべきです」

 「扱使うだけなら死体でもいいじゃん」

「動く死体の奴隷と一緒に行動するなんて正直、オレはイヤです」

「人間は我が儘だなぁ」

街灯を避け暗い夜道の中で、呪文の様な外国語で姿の見えない誰かと会話している様は、他人から見れば空想上の友人と喋っているのだと思われるだろう。何せ暗闇からの声はシャル本人にしか聞こえない。

この光景を見て彼と拘わり合いになりたいと思う奇特な人間はどこにもいない。

そう思っていた。

「ねぇキミ、さっきから誰と喋っているの?」

「赤の他人のあなたとは無関係な方とです」

シャルは見知らぬ女の声が聞こえたことに驚いたが、そんな素振りを見せずに話しかけて来た相手に振り返った。

「へぇー、それってどんな人?匂いとか気配は感じるんだけどどこにも見えないし、聞こえないんだよね?あたしチョー気になる。何かもうワクワクが止まらないくらい」

「ここには私以外には誰も居ません。だたの独り言です。イマジナリーフレンドとパントマイムの練習をしていました。気にしないでください。それでは失礼」

女の言葉を素知らぬ顔で流し、恥ずかしがる表情まで作って気まずそうに怯んだ様子まで演じて誤魔化した。

「君、うちらの言葉も喋れるんだ。へえー、肌の色は兎も角、髪の色と目の色が珍しいから外国人だと思ったし、外国語で喋っていたから、ダメもとで声をかけて見たんだけど」

「母国語を喋る機会が少ないので、寂しさから架空の友人を作って会話をシミュレーションしていたんです。私の心の世界に赤の他人が土足で入り込まないでください。何なんですかあなた、保安官を呼びますよ」

「うーん、状況的に保安官に捕まる不審者って君の方だと思うなぁ。だって言動が明らかに怪しいし、病気の振りしなくても大丈夫だよ。シャル少尉特殊分隊長さん」

シャルの名前と階級と役職とまで言い当てた初対面の女への警戒レベルが一気に跳ね上がった。客引きの街娼が絡んできたと思って適当に心的傷病者の振りをしてやり過ごそうとしたが、全く通じないのは初めてだった。

「変わり者だって聞いていたけど、やっぱり裏がある人だよね。信用してとは言えないけど、あたしは君の敵じゃない。君と同じ帝国から来た同郷の人間さ」

シャルが先ほどまで喋っていた帝国の古語で耳打ちする女は、人懐っこい野良猫の様な表情から一転、鋭い牙を覗かせる豹のように剣呑な笑みを見せた。

「公用語ではなくて古語で話が出来る部外者は初めてだ。お前はどの家の人間だ?」

帝国古語で訊き返すシャルに女は一瞬躊躇う間を見せて、立ち止まった。その返答に窮した様子を見て即座に走り出した。

ペンドルトン公国に潜入したスパイか何か知らないが、シャルは帝国の人間に係わる気は無かった。ようやく故郷のしがらみから抜け出して自由な身分で己を頼り、一門の人物として身を立てたのだ。こんな所でスパイ容疑でもかけられて婚約が破談になったら災難にも程がある。

「何なんだ、あの女は、あなたのことに気付いている?」

「迂闊だったかな?毎回人気のない暗い道を選んでいたから君が声を出して喋っても平気なようにしていたのに、本当に私の臭いや気配を感じることが出来るんだね。驚いた。シャル、今後は声を出さずに喋れるようになろう。魔法でテレパシーとか出来ると便利だよ」

「オレ魔法は苦手なんですよ。直接ぶん殴るか道具を使う方が好きです」

「そんな便利な道具は無い。これを機に頑張ろうよ。子供の前で話せない夫婦の密談とかできると滅茶苦茶便利だよ。君の両親は使う機会に恵まれなかったけど」

「時間があればやってみます」

一人と何かは夜闇の中で別れ、街灯の光に照らされる場所へ出た。




「……ま、………ア、…………アデルお嬢様、どうかなさいましたか?」

心配そうに顔を覗き込む侍女の声で目が覚めた。

眠気を感じた覚えがないのに、いつの間にか寝入ってしまったらしい。文机に広げた日記帳の上で顔を乗せて寝ていた。

「いつの間にか、寝入ってしまったのね」

「今日は結納式がありましたからお疲れなのでしょう。もうお休みください」

「まだ今日は夜更かしさせてお願い」

「お嬢様がこんな時間になるまで起きていられるなんて、不安で眠れないのですか?」

 12歳も年上の不審な男と婚約を結んだ幼い令嬢の心情を汲むように、侍女は心配そうに問う。

「ちょっと、今日気になることがあったから昔のお母さまの日記を読み返していたの」

「まぁ、奥方様の。いけませんお嬢様、そんなはしたない」

侍女は年齢に似合わず賢く悪戯好きな令嬢を窘めるが、こうなると何が何でも我が儘を通す性格なのは知っていた。

「他人の日記を勝手に読んじゃダメだって言うんでしょう?でも今日は特別だから許してね。お母さまには内緒よ」

「後で奥様の書斎には戻しておきますが、どうしてこんな時に」

「わたし、思い出したの。シャル・アディール・シャイマールって名前には聞き覚えがあったの。今日のあの人にわたし、2年前に逢ったことがある」

「まぁ、ご縁があったのですね」

侍女は一瞬、言葉を選んでそう言った。皇帝の傍系血統でもあるペンドルトン公爵家のアデル公女殿下が、どこの馬の骨とも分からない帝国の男と姻族関係を結ぶことになる。それを心底、嫌がっている侍女はシャルに係わるすべてのことが気に入らないのだろう。

「あの人、わたしのお母さまの教え子だった事があったのね。見た目の印象が随分と変わっていたから、気が付かなかったわ。それ以降も何度もお父さまとも交流があったのね。それであの二人が彼を気に入ってわたしの結婚相手に選んだと」

「あの狂人をですか?そんなバカな」

「きっと噂通りの人ではないのね」

「そんな!旦那様方はきっとあの男に騙されているんです。帝国貴族血筋と言うだけで、詳しい出自が何も分からないような男ですよ、そんな男の為人なんて」

「わたし、あの人に興味が出たわ。異文化圏の人だから色々、風習や作法が違う上、色々と誤解が多い言動を取るだろうけど。それを差し引いても、楽しめそうな気がする」

火遊びに誘われているような胸騒ぎがする。

「お嬢様、危険です。仮にも相手は武官ですよ!もし怒らせたりしたらきっと暴力を振るいます。そんな目に遭ったら」

胸の奥で膨らんでいく好奇心は、心臓の鼓動を高鳴らせていく。

「もういいわ。明日はその婚約者との同棲生活の始まりの日なの。

寝不足の顔で出迎えることになったら、子供だから侮られているのに更に隙を見せるような事をすれば本当に子供扱いされかねないわ」

文机に母の日記帳を置きっぱなしにして、照明も消さずアデルはベッドへ潜り込んだ。

「おやすみなさい」

きっと退屈な幸せで満たされたこの生活は、もうすぐ壊れてしまうことになるのだろう。

ずっとそんな日を待ち望んできた。

「はい、おやすみなさいませ、お嬢様」

日記帳を片付け、灯りを消す侍女は一礼をして退室する。

暗い部屋の中で、布団から顔を出すと、閉めたハズの窓が開いていることに気付いた。母の書斎から日記をくすねて来る前に確かに戸締りはした。鍵を閉めて今度こそ、眠れる気がしないが就寝しようと目を瞑ってみる。

するとやはり疲れていたのか、胸の高まりはそのままに強い睡魔に襲われた。

その晩は夢も見ない程、不快眠りに着いた。



暗がりで正体不明な何かとの密会をしていた男のそれは、精神疾患の症状では無いことは確かだった。絶対に何かが居た。その確信は揺らがない。

「当てが外れた。あの男、帝国の実家とは完全に切れているのか。

勘当じゃなくて逆離って何だ?あの男の方から失踪して親族関係を切る久離届を出したって、そんな真似が出来るんだ。へぇー」

帝国の法では親族関係を断絶する方法が幾つかる。

久離とは失踪した親族から被るかもしれない法的社会的な連帯責任、経済的な後難を未然に免れる目的で行われる親族関係を断絶する行為だ。原則的に、親、兄、叔父などの目上のものから目下の者へ行う離縁方法だったが、近年の法改正で目下の者からでもそれが可能になった。逆離とは目下の者から目の上の者へ久離の届け出を出す行為らしい。

「実力主義の帝国じゃ、優秀な孤児が貴族の婿養子になって世襲するなんて話はよくあるけど。何をやらかしたらその養子が逃げ出すんだ?育ててくれた恩以上に恨んでそう」

シャルを暗がりで見失った女、ティナ・シノノメはアパートの一室で資料を読んでいた。

シャル・アディール・シャイマールの身辺調査の報告書だ。

寺院に預けられた私生児で8歳の時に、大公シャイマール家に引き取られた。成人するまで貴族子弟として英才教育を受け、半人半魔の義理の妹との結婚を迫られ、性格の不一致を理由に出奔したと言うことになっている。

養家でどんな英才教育を受けたのかは不明だったが、シャルは、超人的な膂力と並外れた体力に鋭敏な感覚と豊富な魔力量を備えた鍛え上げられた肉体に、武芸百般を修めた稀有な戦士となった。帝国出身の魔族なら稀にあることだが、大公の地位にいる上級魔族が人間を一族に迎える程の良血児だと言うことは、その力を見れば分かる。

問題はその出自が一切不明だと言う事だ。

帝国の高級娼館で身元不明の半魔族の娼婦が出産した私生児で、父親は不明、シャルは完全に人間だから、おそらく純粋な人間か、魔族の血が薄い混血の人間が実父なのだろう。噂では当時、娼館の上客だったモンシア・ベルモントの胤ではないかと疑われていたが、本人と娼館の関係者からは否定されている。魔力の属性の親和性や、血液検査でも親子関係を認めることは出来なかった。

彼を産んだ女性は既に死亡している事実が判明しているが、彼女の源氏名も埋葬された墓すら掴めない。出産後も8年ほどそのまま娼館で生活をしていたらしいが、どんな客を取っていたかも一切不明だ。

「そんでこの国に来て早速起こした事件がコレか」

訓練期間中に戦闘訓練教官五人を打ち負かす圧倒的な戦闘能力を見せ、即実戦投入された。最初の彼の活躍は、属州で起きたエルフによる貴族子女誘拐事件の解決で、死亡者を出さずにエルフの誘拐犯17人を捕獲し、無事被害者を奪還した。その後、人身売買組織の潜伏していたエルフの集落を襲撃し、人身売買を扇動していた族長を逮捕した。

これによりペンドルトン公国の対亜人宥和政策を推し進めていた友和ムードが完全にぶち壊れ、人間とエルフの関係を見直すため、政策案を棄却させるまでに発展した。その結果、このエルフの集落では組織的な人間の誘拐と集団強姦、売春、麻薬の密輸、人身売買を行っていた事実が判明し、集落は解体、土地、資産は接収され国営の植民地になった。奴隷として扱われていたハーフエルフたちは保護されたが、その後の身の振り方は決まっていないらしい。この事件に関与した公国の貴族は爵位を剥奪され、各既得権益と領地も没収されることに抵抗し、反旗を翻し戦争を起こすが一月も経たずに鎮圧させられた。

一連の事件のすべてにシャル・アディール・シャイマールが係わっているそうだ。

誰かが書いたシナリオ通りに英雄街道を突き進んで、先日はれて、ペンドルトン公国公女のアデル・イスラ・ペンドルトンとの婚約にまで漕ぎつけた。

「いきなり公国の暗部を暴き出して大掃除した帝国出身者の外人部隊か。

全部の事情を把握していた帝国軍が公国内の犯罪組織を潰すために、厄介払いを兼ねた英雄様をお膳立てして、公国への影響力を強めようとしたのかな?

シャル君の絶縁した養家以外にも後ろ盾になる帝国貴族がいることは間違いなさそうなんだけど。肝心の本人の反応があれじゃなぁ」

他にも報告書には彼の率いる外人部隊の分隊のメンバーについての資料がある。その中で一番内容が厚いのは、彼に付き従っているモンシア・ベルモントと言う人物だ。彼は魔の山脈で東西に分断された人類の文明圏から西方からやって来た異邦人だと自称している。

西側では冒険者と言う特殊な職業に就いた人間が、様々な分野で活躍し、自警団の様な治安組織の構成員から、未開拓地への超国家的な冒険事業に携わっているらしい。

モンシア・ベルモントの言葉が本当なら、彼は西側では勇名を馳せた冒険者らしく、魔の山脈を探索、踏破して、帝国領まで辿り着いた冒険者パーティのリーダーだった。

西側からこちらに来ることは大変困難な道のりだったらしい。

魔の山脈の向こうに文明圏があり、そこに存在する人類国家と国交を結ぶことを勧め、喧伝した。帝国にはない珍しい西側の生活文化、宗教、独自の魔術や工作技術、工芸品などを紹介したりして一時期、帝国の社交界で流行の話題に上っていた人物だ。

帝国にはわざわざ魔の山脈を越えて西方の文明圏への進出を狙う貴族は居なかったようで、その流行は直ぐに廃れた。モンシア・ペンドルトンは祖国へ凱旋するためのカンパやパトロンを募っていたが、帰還のための遠征資金は集まらず、次第に苦境に立たされ怪我や病などで次々に冒険者の仲間を失っていったそうだ。

帝国旗下の王侯貴族間でのモンシア・ベルモントの評判はすこぶる悪い。他種族、多民族、多文化、多宗教の諸国が皇帝の威光と、血縁よって秩序を保ち紐帯を結んでいるが、異邦人のモンシア・ベルモントはその体制を理解できず、帝国では重婚や一夫多妻、一妻多夫が認められていることから、性に奔放な文化圏だとでも勘違いしたのだろう。

放言一つでそれまで好印象抱いていた貴族たちからの信用を完全に失い、更に何か社交界で禁忌に触れる真似をして周囲から袋叩きに遭い放逐されたそうだ。

日々の生活に困窮した後、シャルに拾われシャイマール家に食客として迎えられ、家庭教師として仕えることになったらしい。そんな恩情から、シャルが帝国を出奔する際にも従卒として付いて来たと言う。

「あのドスケベジジイ、慰安所ではお母上の胎の中に居た頃からの付き合いって言っていたから、もしかして彼の両親について知っているかも。ホステスさんたちからそれと無く訊き出して貰おうっと」

ティナはモンシアと言う老人はただの詐欺師ではないかと思っていたが、資料を読む込む内に評価を改めた。

シャルがペンドルトン公国の国籍を取得のため外人部隊に共に入隊し、訓練課程で高度なサバイバル技術を披露し、年齢にそぐわない身体能力を示した。シャル以上に胡散臭い真偽不明な経歴の持ち主だが、すべてがウソと言う訳ではない様だ。

ティナはシャルの身辺調査資料を放り投げて欠伸をする。商売女らしく着飾った華美な服装を乱雑に脱ぎ捨て、ベッドにダイブして寝転がった。

変装用の化粧を落とした鏡に映る素顔は、気まぐれな猫の様な印象を受けるすっきりとした顔立ちだった。

「12歳年下の公女様と婚約ね。公国内では封建体制なんて大分崩れているけど、外交的には未だに爵位とかの権威が有効なのよね。帝国では厄介者の人払いなのかも知れないけど、サノバビッチを押し付けられたこと知られたらマジで周辺国から侮られるんだろうね。

困るんだよなぁ、この公国、帝国内ではほぼ唯一の人間主体の技術立国だし。加工貿易で経済が成り立っている訳がから、周辺の亜人の集落との交易がないと経済制裁一つで倒れかねないのに軍隊だって強くないのに、ああああもう眠れなくなりそう」

布団を抱き占めてボンボンとクッションを殴り付ける。公国の未来に暗雲が立ち込めている現状に不安をぶつけずにはいられなかった。

ティナ・シノノメは公国に仕える錬金術師だ。

シノノメ家は曾祖父の代で錬金術により身を立て子爵の地位を得たペンドルトン公国の新興貴族だ。高圧高温に耐えられる竈の作成と燃焼剤と発明で、一躍公国の産業技術を発展させた。お陰でペンドルトン公国は他国にない鋳造技術を手に入れ、帝国旗下諸国の中で工業立国としての経済力を得た。その一環で成した財を元手に、自ら貿易業に手を出して成功し、現代では外交の折衝役を任されている。

未だ四代の新参貴族とは言え、ペンドルトン公国でも有数の大貴族としての地位と財力を持っている。足りないのは領地と領地経営のノウハウ、あとは兵役を務められる武力くらいだ。それを補うことが出来れば侯爵としての地位へ格上げされることになるだろう。

ただしこの国の体制が健在ならの場合に限る。

「帝国の外圧とエルフの内憂、外交とか内政の事情とかあたしには良く分かんないけどさ。君が恨まれていると、あたしのライフワークまで影響が出るんだよ」

ティナはあくまでも錬金術師だ。曾祖父の与太話を真に受け、子供の頃に始めた役にも立たない錬金術の研究に没頭して来た変人。一族の中では唯一魔法使いの素養があったため、シャルの素行調査するために駆り出された。

曾祖父のように錬金術で新しい物の開発製造によって巨万の富を築くでも、祖父の様に商売に精を出すでも無く、父の様に国々を飛び回って社交会で地位を築けるような、実用的な才能はティナには無い。それぞれの家業を継ぐ兄たちと違い、ティナはどこかの良家から婿を取るお気楽な立場だった。その内、家のために縁談話が持ち上がった相手と結婚することになるのだろうと気ままに暮らしていた。そんな時、その婿殿の家が御取り潰しになった。当然、婚約も破談になった。

ティナは自身の婚約者に大した興味もなかったが、家族は良縁を潰された事を大層逆恨みし、その原因を作ったシャルを目の敵にしている。お前も婚約者の無念を晴らすためにヤツの縁談を破談させることに協力しろ、さもなければ家中で錬金術の研究投資を止めるぞ、と横暴な条件を吞まされた。

「あなた達と違って、どうせあたしは役立たずなんですよー」

ベッドに寝転がり無気力な眠りに入った。



「今朝はお寝坊さんみたいね」

白皙の美男子と表現するのが相応しい青年の姿に寄り添う貴婦人はそう言って微笑んだ。

愛娘の寝室から出たエリオットとイスラの夫婦は、婿入りする予定の男に向き直った。

「昨日は一日座り通しで緊張していたようですし、まだ疲れているのでしょう」

シャルはすこし残念がっているような顔で夫妻に応えた。力仕事を終えた所為か、窮屈そうにジャケットの襟口を摘まんで位置を調整していた。

「シャル、すまないが娘抜きで先に朝食を取ろう。君も一仕事終えて疲れただろう」

「なら食事より先に汗を流したいです。彼女が一人で朝食を取るのは寂しいでしょうから」

早朝に夫婦の新居に訪れたシャルは、手筈通り引っ越し先の邸宅に案内された。私室として用意された部屋に入るや否や、寛ぐのに高価な調度品は邪魔だと言って、夫婦の許しを得て模様替えを始めた。

そして執事や侍男侍女たち使用人の仕事が遅いと、一人で用意された調度品を運び出し、掃除まで終えて小一時間程働いていた。夫婦の愛の巣に転がり込んできた不審者を使用人たちが歓迎していないことは察していたが、主人の前に自分たちの仕事の不手際を見せられる羽目になった。

「分かった。では着替えを用意させよう。ちゃんと浴室でシャワーを浴びてくれよ」

「女性の居る前では裸になりませんよ」

「あら、残念。見たかったのに」

「お戯れを」

恐縮する使用人たちの様子に三人は鷹揚な態度で接し、運び出された不要な調度品を処分する彼らを尻目に冗談を交わしていた。


いつもより遅い時刻に目を覚ました。

朝食に間に合うようにメイドが部屋に朝の支度を用意して起こしに来る。ルーチンワークのない今朝は調子が狂う。お湯の張った洗面台も、口を濯ぐコップの水もない寝室から出ると、いつもより屋敷が慌ただしい空気を感じた。使用人たちの姿は見えないが、どこかで誰かたちが作業をしている気配や物音が聞こえてくる。今日は将来の夫となる人物がやって来る日だから、その歓迎の準備で慌ただしいのだろうか。その所為で主人の娘であるアデルの身の回りの支度の手伝いを忘れるなんてこと、在り得るのだろうか。

そんな疑問を持ちつつ、脱衣所で服を脱ぐ。お風呂場の水道からはお湯と水両方が出る蛇口がある。ついでに寝汗をかいていたようなので、シャワーを浴びてスッキリしたかった。

既に浴室から滴る水音に湯気に煙るガラスドアに人影が映っている。多分、両親のどちらかだろう。どうにも悪戯心が湧いて来る。朝の内からシャワーを浴びていると言う事は、どうせ昨夜も飽きもせず睦み合っていたのだろう。

わたしが一人寂しく寝ているのに、二人は毎晩一緒に寝ているのは不公平だと何度も異を唱えたことがある。その度にはぐらかされて、寝かしつけられた後は二人で乳繰り合っていることにはもう知っている。その仕返しをして見たくなった。

「わっ!」

勢いよくガラスドアを引き開け背中に飛びつくアデルの身体を受け止め、ビックと逞しい背中が跳ねた。想像以上の反応だ。首に組み付いた腕を掴んだ男の手を見て、違和感を覚えた。

「おしとやかな見た目に反して、随分とお転婆なのですね」

一瞬で異常事態を理解したアデルの思考はフリーズした。父親以外の全裸の成人男性に裸で抱き付いている女がいた。わたしだ。

シャルは座ってアデルの身体を下し、足元から湯をかけて濡らしていきバスチェアに座らせた。顔を洗うようにお湯を張った洗面器をアデルの膝に乗せた。シャルはアデルの腰から背中、肩へシャワーをかけて身体を温めていく。

これは何だろう。フリーズした思考が徐々に動き出した。髪の毛を濡らし始め、余分な水気を漉き落として洗髪料を付けて泡立てて洗い始めた。何故だかそれがくすぐったく、恥ずかしさが限界値を突破し、洗面器のお湯の中に顔を突っ込んだ。穴が有ったら入りたいと言う言葉の意味が分かった。羞恥心が許容量を超えると、顔を隠したくて仕方が無くなるのだ。

水中で思わず叫んだ。視えなくても分かる。完全にこの男は、わたしを一人でお風呂に入れない子供だと思っている。子供扱いされている。わたしが恥ずかしくて堪らない衝動的な行動もすべて子供がはしゃいているとしか思っていない。

その事が分かると少し落ち着いて、羞恥心がある種の八つ当たりの怒りに変わっていくのが分かった。これが癇癪の様なものだとは分かっているが、感情的になるとどうしても止められなかった。息が苦しくなって洗面器から顔を上げると、顔から滴る水を手で拭かれた。

髪の毛を登ってうなじを揉みながら泡で覆っていく。悔しいがメイドの誰よりも指使いが気持ちよかった。耳の裏や頭皮を優しく撫で髪を解し、柔らかく髪を揉み込んでいく指と手の温もりは心地好い。獰猛な野良猫でも顎の下を撫でられると蕩けた顔になって大人しくなると言うのを聞いたことがある。人間にもそんなことがあるのだろうか。

「痒いところはりませんか?」

「ないけど、もっと」

しばらくそのまま頭髪を洗われ続け、泡を流された。その後、トリートメントを髪の毛に染み込ませるように弱く叩き込まれ、時間をかけてシャワーで流された。男の身体は既に湯冷めしている様だが、既に勝手知ったる他人の家と言わんばかりの動作で、甲斐甲斐しくアデルの世話を焼いていく。

恍惚な表情で少しのぼせた様子のアデルを抱き上げ、脱衣所で身体を拭きベビーパウダーを塗して濡れた髪をタオルでまとめた。

脱衣所に未だに着替えが無いことに気付いたシャルは、少し怒った顔をして新しいタオルをアデルの身体に捲いた。直ぐに自分の濡れた身体から水気を拭き取り、裸のまま脱衣所の引き戸を開けた。

「着替えを持ってくるのが遅い。オレを蔑ろにすることに文句はないが、お前らの仕える主人のご息女への奉仕を疎かにするとは何事だ!」

よく通る怒声が屋敷中に響いた。表情はまるで怒っていない、柔らかな真顔のままだった。

「たっ、ただいま参り………っ!?」

アデル付きの侍女が堂々たる全裸の男と風呂上りらしいご令嬢の姿を認め絶句した。

「早く動け。オレはいいが子供が湯冷めしたら風邪をひく」

侍女が固まったまま動かないことに、ため息を吐いたシャルは裸のままアデルを抱き上げ彼女の部屋の前まで運んだ。そこで侍女はようやく正気を取り戻し、声を上げた。

「破廉恥な!」

「着替えはお一人でも大丈夫ですか?」

「問題ないわ。あなたも早く服を着て、見せられるのは恥ずかしいわ」

「では失礼します」

「濡れたタオルでも巻いていればよかったのに」

平然としていたが、きっと彼も予想外な状況で混乱していたのだろう。自分の羞恥よりも婚約者であるわたしを優先した行動を鑑みれば、おそらく大切にしてくれるつもりなんだろう。少しだけ可愛いと思えた。思えてしまった。


「二人にテーブルマナーを指導したいと思います」

イスラ・ペンドルトン夫人は笑顔でそう言い切った。シャルとアデルが共に食事を取る様子を見て、これはマナーの指導が必要だと思ったらしい。

「まだ先の話だけど、婚約のご挨拶にお爺さまの宅に伺うことになります。その時に粗相しないように、シャル君とアデルにはお昼から実演講習を受けて貰います」

心なしかシャルの無表情は物凄くイヤそう見えた。アデルにはシャルの顔がどんな喜怒哀楽の表情を浮かべていても、微妙な動きの差異や瞳の僅かな変化で内心の感情が分かるような気がしていた。

「それは願っても無いありがたいお話です。私は武芸百般を修めていますが、会食での礼節を学んだことはありませんでした。公爵殿下にお目見えするだけでも光栄の至りですが、ご相伴にまで預かれるとは望外の喜びです。是非、失礼のないようにご教授頂ければ幸いです」

「あらあら、そんなに嫌なの。あなた野営慣れし過ぎてジビエ料理ばかりで、ロクに作法も何も無いものね。軍人やら傭兵やらの物騒な人達だけならいざ知らず、冒険者なんて怪しい職の連中とまでつるんで。安酒場でしかテーブルのある場所で食事なんてしてこなかったんでしょう?」

「帝国ではレストランで食事をしたこともありますよ、一応」

「どうせ供用の接待でとか護衛としての毒見役とかでしょう?今回はあなたが主賓として迎えられるのよ、シャル君。それにただの公爵様ではなく、お爺さまは公王様です。殿下ではなく陛下とお呼びしなさい。ただのシャル君」

「イエス・マム」

「シャルは帝国の公爵家の人に育てられたのでしょう。どうしてまともな会食でのマナーが身に付いていないの?」

「……シャイマール公爵は帝国内でもちょっと特別でね。養母は300年以上生きている魔族の太祖だ。基本的に長寿な彼らにとって人間は寿命が短い生き物だから、家族として迎えられても割り当てられた役割以外の教育は最低限でしかやらないんだよ。オレは裏方の家業を継ぐことを期待されていたから、職能的に不必要なテーブルマナーはあまり知らない。豪華な食卓の席に着くより、食卓を彩る料理の材料を調達する機会の方が多かった。

どうにも御馳走って物は食べるのが苦手なんだ。いい思い出が無い」

「じゃあ、わたしとの婚約発表の御馳走があなたの初めての好い思い出になるのね」

アデルの言葉にシャルは表情を取り繕うまでもなく驚いていた。目を丸くした顔は犬のような印象を受けた。それはアデルが引き出した。シャルの初めての素顔だと分かると、何かに勝利したような達成感を覚えた。

「嬉しそうね、二人とも」

イスラの言葉にシャルはそっぽを向いて耳まで紅潮していた。そしてアデルの青い瞳を見詰めて、顔引きつらせた。自然とはにかみそうになる表情筋の反応に戸惑っているのだ。

「シャル、わたしの前ではちゃんと笑いなさい。そんな風に外面ばかり気にしていると、自分の心まで見失ってしまうわ」

母の言葉に対するリアクションの方が大きいのが悔しくて、イスラの日記にあった言葉をここぞとばかりにシャルに伝えた。今度はイスラが驚いた顔をして、アデルを見て目を細めて胸に手を当てた。すべてを包み込む慈母のような眼差しで頷いていた。予想外の反応にアデルが首を傾げようとすると、唐突に身体を抱きしめられた。そして短く洟を啜る音が耳朶を打つ。もうシャルの顔は見えないが、泣いているらしい。

母がその場を静かに後にすると、彼の喉から嗚咽が漏れだした。

他愛のない軽口のたたき合いのつもりで、どうやらわたしは彼の心の鍵を開けてしまったらしい。声を押し殺しながらも、感情が決壊したように泣き続けるシャルの身体は震わせて子供のアデルに縋り付いている。どんな事情があるか知る由もないが、シャルはもうアデルに心を開いている。それどころか心の拠り所にすらされた気さえする。

正直、すごく困った。大人の男にこんな風に懐かれるなんて思っていなかった。

自分の予想外の方向へ運命は転がって行く。

両親の意図の分からない政略結婚は、シャルと言う男にとっては自分の人生を捧げる程の価値のある取引だったのだ。恋愛感情や愛情なんてものはまだ分からない。

アデルは両手を回し、頭を垂れてシャルを包み込んだ。

分からないなりに、そうすべきだと思った。

人生の伴侶として見染められている。

その意味が分からない程、わたしはもう子供ではないのだ。

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凄腕冒険者の弟子がお嬢様のヒモになる迄 前日譚 @rorum335

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