3 灰に手を伸ばして

 ワンが仲間だと思っていたのは俺と龍だけだったようだ。ほかは皆、研究者と繋がりのあるワンを恐れ、作り笑いで隠し、反撃の機を伺っていた。いつか村から逃げ……灰病で穏やかに死んでいくその日を待っていた。

 チップがあるうちは村を出ることが出来ないし、村の中にいては薬を入手することが出来ない。研究者に媚びても結局彼らからすれば実験動物が可愛く鳴いているに過ぎなかった。そこで可哀想などと情が湧いて助けるような人間は人体実験なんてしない。そう、何度も龍が懇願し、嘲笑われて終わったように。

 とにかく、ワンがいなかったら村が焼かれることは無かった。ワンが薬を渡してくれさえすれば。あいつがいなければよかった。

 下で物音がした。足音の重さは一葉のものらしい。寝たんじゃなかったのかと思ったら、窓の開く音がした。あろうことか窓枠に足をかけて屋根に登ってくる。

「お前何してんの」

 思わず立ち上がり、屋根にかけた手首を掴んで引っ張りあげる。思ったよりも重く、危うく二人とも転落するところだった。ヒヤリとして眠気が吹き飛んだ。

「なにか上にいるのかなって思って。終希だとは思わなかったけど……貴方こそ何してるの?」

「何も。登るならそっちに梯子かかってんぞ狸」

「まあ」

 昼間の彼女と今の一葉は同じようで何かが違う。無理に強がっているのだと思えば納得が行く、歪に思えてもはっきりした声がした。一葉は強い。チップが発動している時にこそ堂々としている

 月のない夜では一葉の姿は動く影としか認識できず、表情はおろか髪の色すら分からない。一方でそのおかげか不思議と嫌悪感は少なく、再度屋根に寝転んで星を見上げた。

「本当に何もしてないの?」

「うるせえな」

 一人でいる気だったので、突然の来訪者にはうんざりだった。他人がいると自分のペースで居られない。話に返答しなければならないし、人がいるということを意識しなければならない。一人暮らしを始めた時から何度も話し相手を欲したことがあったが、家族のような気の知れた人であって一葉のことではなかった。

「うるさ……」

 俺が何も言ってないのに急に一葉が悪態をついた。理不尽で不可解で「え?」と反応したら一葉は慌てて手を振った。

「ごめんなさい、なんでもないわ」

 なんでもないということは、悪態をついたこともその内容も分かっているということだ。意識して言ったその言葉に意味が無いわけが無い。

「妹ってやつ?」

「……随分小さくなったんだけど」

 茶化してやろうかと思ったが、そんな気もなくなるほど本気で悩んでいるようだった。幻聴ならば本気で気が狂っているが、九割九分チップのせいなのでこの家から離れない限り止まることは無い。だから昼間などはできる限り声の聞こえないところに行っているのだろう。それで声に悩まなくなるのならいいが、しかし外にいる時の一葉は恐ろしく感じた。

 一葉は俺の隣に腰を下ろし、寝転んで空を見上げた。俺がそうしているのを真似すれば俺が何をしているのかわかると思ったのだろう。

「本当に何もしてないのね」

「言ったろ」

 星はちょうど雲か灰に隠れて見えなくなってしまった。それはそれで何となく寂しさを感じる。

「終希、もうそろそろ東京に行くでしょ?」

 これは何か買ってきて欲しいものがある時の言い方だ。俺が東京に行くとなると食材はこれが欲しいとか、破れたから服が欲しいとか、明日香がリップクリームを欲しがっていたとか言うのだ。一葉が行けば解決することだが、不憫に思えてしまって俺が行くことになる。

「何が欲しいんだ」

「え? 違うわ、違わないかな……終希私のナイフ覚えてる? こっちに来る時に置いてきたものなんだけど」

 あの奇妙なナイフか。捨ててきたでも忘れてきたでも失くしたでもなく、意図的に『置いてきた』と言った一葉愛用の短剣だ。実用性に特化した飾り気のないもので、俺が研ぐまでもなく切れ味抜群の良品だった。

「お前まさか、取って来いって……」

「ええ。お願い」

「ふざけんな」

 なんで自分で置いて行ったものを他人の俺がわざわざ取りに行かなきゃならないんだ。取りに行かせるなら置いてくるなよ。マジで意味がわかんねえ。

 しかし、流石に「お前が行け」とは言い出せなかった。東京の人達が全員自分を無視するとか、自分以外の全員と常識が違うとか、そんな恐怖は耐えられないだろう。俺は東京にいる奴らが皆首にチップを持った実験体だと知っているから全て納得して軽蔑できているが、全員人間だと思っている一葉にとってはそうでは無い。

 よく今まで自死を選ばなかった、と感心する。

「場所は壁の西側に広がってるスラムの中。行けばわかるわ」

「まだ行くなんて言ってねえ」

 一葉は起き上がり、前屈して腕を伸ばした。

「よろしく」

「はぁ?」

 壁の西側って言ったってかなりの広さだ。それに、いつも言っている東京の端ではなく壁の近くのスラムだと言う。一体どれだけ歩かされるのだろうか。中に入ったら電車利用が楽だが、乗り方を教えろなんて言ったらバカにされるに決まってる。

「はぁ……明日具体的な場所教えろ。一回だけだからな」

「ええ。お願いね……貴方にとって良い話のはずよ」

 小声で付け加えた言葉の意味はよく分からなかった。ナイフ一本増えただけで劇的に戦力が拡大するわけでもあるまいし。

「お前武器が手に馴染んでないと動けないタイプ?」

「ええ、もちろん」

 面倒臭い。少しだけ嬉しそうな一葉が裸足のまま梯子を下っていくのを見送り、その日はそこで寝落ちた。

 夢の中でワンに再会した。歳で髪の抜けた爺は昔のように「体が腐る」と俺を家の外に叩き出す。しかし今までと違って俺は家族であったはずのワンを睨んでいた。

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