2 家族を演じ
一葉が見えなくなってから数時間ほど体力維持のために山を走り、そのまま走って帰宅する。火照った身体で風呂に直行して汗を流し、一葉がキッチンに立っているのを横目にソファへ倒れ込んだ。
九月にもなると夜は少し肌寒くなり、半袖でいるよりは一枚羽織った方が快適に過ごせるようになった。時折吹く強い北風に森が唸りをあげる。まだ暖炉に火を入れるには早すぎるが、明日香はこの高気温でもう迷っているようだった。
夕食後突然抱きついてきた明日香の髪を梳いてやり、代わりにようやく乾いた自分の後ろ髪を結ってもらう。すると図々しく「私も結んでほしいです」と無茶を言うので、俺よりはマシであろう一葉に押付けることにした。
二人の声が扉の向こうへと遠ざかる。今まで笑えていたなんでもない日常を楽しめなくなってしまった。苛つくと何でも彼でも一葉のせい、と結論付けてしまう。そうであろうととばっちりであろうと関係なく、ただ一葉の存在自体が気に食わないのだ。そして、そんな考え方をする自分が気に食わない。
しばらくすると髪を見たことの無いやり方で縛った明日香が洗面所から飛び出してきた。ただヘアゴムで止めたのと違うのは分かるが、果たしてどうやったらそんな作品になるのだろうか。どうせすぐ解くくせに何故飾ろうとするのか。
「似合ってますか?」
「分かんねえ」
「ええー」
一葉が続いて出てきた。一瞬髪型でも変わっているのかと思ったが、いつも通り洒落っ気のない一葉だった。家の中なのに首には赤いストールが巻かれており、H-01の焼印がその下に隠されている。しかし寒がりという訳ではなく、肩までまくった半袖シャツから覗いた肉付きの良い腕にはじんわりと汗が滲んでいた。
目を逸らしたらわざとらしくなってしまった。明日香の目線が痛い。そうして今日もまた追われるように自室に戻り、血塗れの硬いページをめくる。いつものように一日が終わっていく。
龍の日記には時々懐かしい家族の名前が書かれていた。
ワンが何をしていたのか知る術が無い、とあったことは惜しい。しかし、サーティーンが率先して俺たちを逃がす準備をしていたとは驚いた。サーティーンが頭脳派であることは何度か言われていたものの発揮されたのを見たことはなく、皆の言う「サーティーンは天才だ」という言葉は褒め言葉ではなく貶し言葉だと思っていた。俺からしたらガキのしょうもない遊びに付き合ってくれるノリのいい兄ちゃんだ。それにあいつは確かあのとき、奥さんの灰病で大変だったんじゃなかったか。俺たちより大事な人がいたはずなのに、どうして。
次に叶という文字が目に飛び込んできた。明るくて優しい非の打ち所のない憧れの少女。あの頃の俺はあいつが好きだったが、それでも龍の代わりに生きていればなんて思ったことは無い。「俺じゃなくて叶が生きてればよかった」なんて書いた龍だって、忘れることができない大事な兄弟だ。
あの時の俺では龍の悩みに気がつけなかった。もっと早く気がつけていれば龍を殺さずに済んだんじゃないか。
風が窓ガラスを揺らした。開け放つと少し冷めた空気が目を覚まし、ついでに日記を捲って赤いページを示す。「終希を止めないと」と書かれた龍の独特な筆跡に懐かしさやら悔しさやらが募り、苦し紛れに日記を閉じて外に出た。
数日に一度こうして家の外に逃げるので、今や誰も引き留めようとしなかった。
月は出ていない。真っ暗な空に真っ黒な葉が散りばめられ、いかにも何か出そうな雰囲気だった。もし死んだ家族が出てきてくれるのなら、と思わないわけではない。しかしそんな非現実的なことを考えてないでワンの消息を掴み、一葉を生かすか殺すか決めるべきだ。
「決められるかよ、クソ……」
梳かしたばかりの頭に手を突っ込むと、湿った髪が指に絡みつく。リビングの灯りが消え、代わりに二階が明るくなった。開けたままの窓から談笑が聞こえてくる。明日香が最近読んでいる小説の話のようだった。ヒロインが鈍感でもどかしいと言う高い声と、聞き専に徹した低めの相槌が交互に降ってくる。
最終的には、明日香が一葉に「好きな人はいるんですか」などと答えにくいことを聞き、一葉が愛想笑いで躱していた。
「お父さんは?」
「一番ないわね。見てればわかるでしょ?」
「お母さんとお父さんなのに、嫌いなんですか?」
「まさか、私終希のこと恋人だと思ったことないわ」
思っていたよりもしっかり嫌われている。手放しに安心できない自分に気が付き、俺の目の前以外では多少マシな評価を期待していたことに頭を抱えた。嫌われたくなかったのだろうか、俺は一葉に死んで欲しいとさえ思っているのに。
電気が消え暫く経った。ふと空を仰ぐと、珍しく灰が薄い日だったと知る。いつもは見えない、月と太陽以外の星が三つだけ見えた。目がいい方だという自信はあるが、どれだけ目を凝らしてもそれだけだ。
気分転換に伸縮式の梯子をかけて屋根に登った。昔は他人の家の屋根に登り、散々怒られていた。馬鹿と煙はなんとやら、だ。確かにそうだが、そうやって俺を笑った家族は皆灰となって空に消えてしまった。あの時一緒に逃げてくれればよかったのに、どうして。
空を見たくなるのはそういう意味もあるかもしれない。天国なんて存在しないが、空中には今も尚灰が漂っている。ここにいると、彼らに少しでも近づけたような気がして、そんな妄想に安堵する。満天の星空が見えないことに溜息をつき、口角を上げて目を閉じる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
窓から漏れた光が消える。
もしも一葉が村を焼いた張本人ではないと言う確証が掴め、死人の声を垂れ流すチップを停止させられれば変わるかもしれない。今のところ「あいつがそんなことするはずがない」と思っているだけで、最終的な結論は下せずにいた。
村を焼いたあの少女は、死んで灰になっていく人々を見て笑っていたのだ。俺と龍が逃げ惑うのを嘲笑い、自分が殺した人達を数えるような残酷な奴だった。一葉の性格とは真逆だ。
そいつがもう死んでいるらしいことと、穏やかな死に方をしていなかったらしいということがせめてもの救いに思えた。俺は自分の手で殺してやりたかったのだが、今さらとやかく言ったところでどうしようもない。どうせ復讐相手はもっといる。一人減ったのは手間が省けて好都合だ。
しかし、一人減った代わりに増えた奴がいる。ワンだ。裏切り者のワン。研究者に情報を垂れ流し、金品と情報を受け取って自分だけ助かろうとした愚かな爺。あいつがいなければそもそも村が焼かれることはなかったし、あってももっと後だった。全員と別れの挨拶を済ませる時間が稼げたかもしれない。灰の薬を入手し、皆が助かったかもしれない。
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