13 海に行こう

 日が暮れ始めた。今日一日がベッドと本棚を行ったり来たりしただけで終わってしまいそうだ。旧世界の資料を読んでも全く頭に入ってこないし、頭に靄がかかったように思考が進まない。

「どうしよう……」

 終希のことが心配だ。せめて話をするくらいはしなければならないが、彼が今最も話したくないのが私なはずだ。

 下から明日香の声が聞こえた。話し相手は終希だろう。終希がドアを開けたなんて信じられなかった。もう平気なのか、腹が減って仕方なく出てきたのか、娘の懇願に耐えきれなかったのか。娘、かぁ。

 終希が家族を大切に思っているのは龍さんの日記を読んでよく分かった。失ったことを直視しないように復讐だけに目を向けて、乗り越えたように見せかけていたことが何度も書かれている。

 とは言え龍さんも燃えた村が風化しないように何度も訪れ、掃除をしたり花を植えたりしていたのだからどっちもどっちだ。終希を支えるよりも先に龍さん自身が支えを必要としていたんじゃないだろうか。叶さんやサーティーンさんは火事の時亡くなった……H型の誰かが殺してしまった。

 龍さんの支えにはならなかったにせよ終希は家族を大切に思っているのは明らかだ。火事から五年経った今でも家族のために復讐をしようとするほどに。しかしそれが今明日香への意識に繋がっているのだとしたら由々しき事態だ。彼だってわかっているだろう、私達は研究所を壊すなり復讐するなりしたら別れる運命にあることを。私達は、特に私と終希は一緒にいてはならない。今はまだ辛うじて同じ目標があるからいいものの、それがなくなったら私達は離れた方が互いのためだ。

「俺は行かねえからな」

「えぇ、お父さんもいっしょに来てください」

「空気読めよ」

 軽いものと重いもの二人分の足音が近づく。足音を殺して立てかけてあった身長ほどはある大太刀をそっと掴み、柄と鞘を握っていつでも抜けるように構えた。明日香がいるとはいえいきなり終希が攻撃を仕掛けてくる可能性は高い。刀身が長すぎて引っかかるので後ろに投げられるよう鞘を投げられるスペースを確保し、腰を低く落とす。

 ドアノブが回り、次いで本棚が床を削るように滑った。覗いた亜麻色の髪は武器を持たず、隈のある目を私から不自然なほど逸らしているので、力を抜いて緊張を解くことが出来た。

 開いたドアの隙間から明日香が飛びついてきて、慌てて大太刀を置いて受け止めた。低い体温がこの真夏の暑さに気持ち良い。明日香は全てが終わったらどうするつもりなのだろう、帰る場所は壊してしまうつもりだが、引き取ってくれる人はいるだろうか。

「お母さん! 海にいきましょう。海! うみー!」

「えっ」

「お父さんも行くって言ってました!」

「言ってねえ」

「決まりです、やくそくですよ! わーい!」

「えっと……何の話?」

 終希は頭を抱えて大きなため息をついていた。なるほど、明日香が強引すぎて負けたのだ。

 念を押すように明日香が私の目を見た。上手いな、と思いながら頷いてしまう。海に行こうと言い出したのは私たちを気遣ってのことか、酷暑に耐えかねたのかは知る由もないが、明日香なりに色々考えたのだろう。明日香には関係の無い理由で三日間一人にさせて、可哀想なことをした。

「分かったわ、明日いきましょう」

「やったあ!」

 終希は「本気か」と言いたげにげんなりして階段を降りていった。

「終希も行くって」

「言ってねえ」

「聞こえてたのね」

 やや痩せていたような気もしたが、ひとまず大丈夫そうだ。

 明日香の腕をやんわりと外し、謝りながら頭を撫でると嬉しそうに笑った。何も心配のない子供に戻りたいと思ったが、私にそんな時代はなかったことを思い出す。私とは違っていつまでもそうやって人を好きでいて欲しい。

 夜は久しぶりに三人で食卓を囲んだ。私と終希はいつも向かい合って座っていたが今日ばかりはお互い対角線を譲らず、頬をふくらませる明日香から目を背けた。会話がほとんど無いのは存外いつも通りの事だが、意識していると静寂が気になってしまう。だからといって口を開くのも空気を読めないように思えたので、結局明日香から話しかけてもらうのを待つしかなかった。

 次の日、薬をそれぞれの腕に打って家を出た。明日香は小さなスコップを両手に持ち、麦わら帽子をつけて首から水筒を下げている。枝だらけの森を経由しなければならないが袖の無いワンピースを着ていたので、自分のことを棚に上げて上着を着せてやる。その時終希の冷ややかな目線を感じたが、暑いので半袖短パンのまま行くことにした。

「海は灰がぎゅっと集まった所ですが、薬があれば二時間くらい動けます。お父さんは自分で薬が作れるので一時間くらいは大丈夫だと思いますが……ちなみにお母さんもお父さんもなんで今から研究所行くみたいな持ち物なんですか?」

 終希の手にある拳銃と私の背中にある大太刀のことを言っているのだ。この状況で武器も持たずに戦いやすい場所に行く訳が無いだろう。終希はいかにも戦いたくなさそうにしていたが、私がこんな装備をしていたら持っていかざるを得なくなったのだろう。その割には替えのマガジンも持っているし、投げナイフと包帯もポーチに詰めていた。

 海が見えてきた。初夏、東京から戻ってきた時に終希が灰に侵されて落ちた崖が近くにある。つまり、龍さんが亡くなった場所がすぐそこにあるということだ。終希も意識しているようで、神妙な顔で黒い海を見つめて歩いた。

「薬さえあれば……いや、今更だな」

 砂浜にたどり着くと、明日香は目を輝かせて私の手を引いた。ここは終希が死にかけたところなのだが、明日香は分かっていなそうだ。楽しみにしていたようなので野暮なことを言うのはやめよう。

「お母さん、私海初めて見ました! これ全部水ですよ」

「湖は毎日見てるじゃない」

「家のまわりのとは大きさが全然違います!」

 手を引き摺ったままかけていき、サンダルを脱ぎ捨てて水に入る。そんな行動はいつだって家の周りでできるが、引いては返す波が楽しいようで手を離し息が切れるまではしゃいでいた。私は少し離れたところに光る石を見つけ、明日香に見せようと拾いに行くことにした。

「足がつかないところには行かないでね、貴方泳げないでしょ」

「はーい」

 終希がポーチを外し、木の枝にひっかけて靴を脱いでいた。両腕を左右に伸ばして真っ直ぐ海へ歩く。渋っていたくせに遊ぶのは好きなのだ、素直じゃない。

 平たい石を拾い上げて霞む太陽に翳すと、虹色に輝いて角度を変えるとまた違った色に変わった。貝殻のような質感だが、波で削られてこんなに小さくなったのだろう。こんなに形が残っているだけでも奇跡だ。

 突然世界が回り、背中と頭が強く打ち付けられた。思わず目を瞑ってしまい、鼻の奥がツンと痛む。「なに」と声を出そうとすると、口の中に大量の水が入り込んだ。今私は終希に沈められている。顔を水面から出して目を開けると、終希が怒りに満ちた冷たい顔で私を見ていた。

「最初から、そうすればよかったわ……」

「ああ」

 ようやく話が出来る。終希の手を払い除け、起き上がるついでに終希を水に叩きつけて背中の刀に手をかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る