12 君に託す願い
*
六年前の今日起こったことを若干思い出し、布団を握りしめて窒息する寸前まで顔を押付けた。
他人の記憶を辿ってはいけない。最後に待っているのは死の記憶なのだから。
殺したいなんて思わなかったはずだ。友人や知人が殺されているのを何度も見ている十二歳の少女が人殺しを望むとも思えない。妹も私と同じ遺伝子を持った同一人物だ。
ドアが鳴り、「お母さん」と心配する声がした。しかし帰ってすぐ本棚をドアの前に移動してしまったので、それが開くことは無い。今は誰にも会いたくなかった。
「お父さんも出てきてくれないんです」
ドアノブが何度も回って本棚にドアが当たるが、幼い明日香の力では開かない。関係の無いあの子に心配をかけたくはないが、笑える余裕の無さが不甲斐ない。普通に振る舞うためには少しだけ心の整理と準備が必要だった。
「ごめんね、体調が悪いから寝かして欲しいの」
「お母さんのうそつき」
手すりを掴んで口惜しく階段を下る足音が遠ざかった。何も出来ないことを力不足だと思う必要は無いと伝えればよかった。私のことは私ひとりで何とかする。
全員の記憶を遡ったことは無いから知らなかったのかもしれない、なんて誤魔化そうとしたが、そう言い訳するには重すぎた。謝って済む問題ではないが、法に裁かれてしかるべき問題でもない。だから終希に任せるのが正解だったのに、私情で動くはずの彼は沈黙を貫いた。望んでいた復讐を奥歯を食いしばって耐える姿には非常に胸が痛んだ。終希なら悩むことは無いと思っていたのに、どうして撃たなかったんだろう。
彼が気がかりだ。わかりやすいとはいえ大きく表情を変えない彼が、今まで見たこともない苦痛を見せた。子供のように顔を覆って、弱みを見せるのが嫌なんてプライドを突っぱね感情的に肩を震わせた。あの時私はどうすればよかったのだろう、私の立場で彼に何ができただろう。
何度考えてもできることは何も思いつかなかった。私が私でなければ何かしら声をかけるなりそっとしておくなり出来ただろうが、私が私であるために傷つけることしか出来ない。
外の空気が吸いたくなって窓を開けた。
空は依然として黒に近い。東京の空もこんな感じだろうが、意識して見ようとしたことなどなかった。この灰色に何百万人が殺された人がいたことだって知る由もない。
でも、今は違う。灰に殺された人がいたこと、それでも生きようとしていた人がいたこと。そして殺された人がいたこと、残された二人の存在。怒りも希望も知っている。生かされた私は、どんなに辛くても過去を覚えていなければならない。
終希に渡して無理やりにでも読ませるつもりだった日記が未だに手元にあった。ここを飛び降りて渡しに行こうかと頭をよぎったが、今は飛べる気がしなかった。
人生のうちたった数十日分しか記されていない日記を読んだだけでも、龍さんがどれだけ優しさも厳しさも兼ね備えた立派な人間であったことが分かる。たった一人の家族であり友人でもあるというだけの繋がりで、仲違いしたまま終希を支え続けた。運動は苦手だったようだが、復讐に協力できない代わりに生活のほとんどを担っていたらしい。
――十月二十日。フィフティは一向に本を読もうとしない。復讐は頭使わないと出来ないと言ってみたら、二階から飛んで逃げられてしまった。「お前に任せる」って。まったく、そういうところは変わらないんだから。風邪ひかないでね。
代わりに俺が読むことにする。復讐を止める方法が載ってるかもしれないし、もし研究所に行くことになっても死なせない方法を知っていたい。どっちにしても俺は武器を握れないから。
まだ白いノートを指を滑らせるようにめくった。今日の献立、終希に話しかける勇気がなかったこと、本の感想、目すら合わなかったこと、結局一日中言葉を発しなかったこと。考えて考えて結局何も進展しない日々が伝わってくる。
そして次第に血が着いたページが出現して、自己嫌悪が増えるようになっている。
――なんで俺が生き残ったんだろう。
冬のある日を締めくくるようにそうあった。紙には所々水でふやけたような皺があり、左下に傷口を押し付けた痕が残っていた。血の下は目を凝らさなければいけないが、それでも一度目を通した。
血の味に気がついて日記を閉じた。舌で探ると下唇の内側からじわりと滲んでいる。いつもはすぐ治る口内炎が、最近は治る前に再発することが多い。
はるか上で鳥が飛び立ち、どこか遠くへ消えていく。
――誰か、終希を助けて
一面血に濡れ全く読めなかった最後のページの隣、裏表紙ウラにそういった血文字があった。男の太い指の幅で、書き終えた指紋がそこで手を握ったように掠れている。
龍さんの傍には終希しかいなかった。頼れる人はたった一人の弟しかいないが、終希は口も聞いてくれなかっただろう。それに龍さんが生かされた理由はその弟を助けることだ。千日近くの長い孤独と死にたくなるほどの心傷を受け入れた彼が、誰も頼れなかった彼が、最後に縋ったのがいるはずもない終希以外の日記の読者――つまり私だ。
なんであいつなんか。
でも自分に出来ることを超えてやり尽くし、それでも届かなかった願いを蔑ろにしたくもない。死ぬ間際に苦渋の決断で縋り、託したのに、私は無視するのか?
終希を助ける? なんで?
しかし龍さんを救わないのかというと、そういうんじゃない。
それが原因で自殺したことを知って、どうして引き継ぐと言えるだろう。他人のために心まで削る覚悟が私には無い。龍さんと違って終希は他人だ。そりゃああんな顔見たくないし、救える人がいるなら手を差し伸べたい。そんな人になれば居場所を守れると思って理想を追い、それでも自分の肩書きに負けて追い出されたがまだ諦めたわけじゃない。
でも、終希や龍さんの抱えたものは今まで出会った人の誰よりも苦しく見えた。
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