8 希死念慮

 肩と腰を痛めずに帰宅することは出来なかった。走って二日の道のりを三日かけて歩き休憩を多めにとったが、飯を作るのに火を使えず乾いたスティック状の完全栄養食を水で飲み込んだ。

「いてぇ……明日香、今日何日だ」

「おかえりなさい、十六日ですよ。昨日の夜帰ってくると思ってたんですけど」

「悪かったな」

 出発したのは十一日、行きに二日かけ、一日滞在して三日で帰ってきた。今日は約束の十六日で間違いない。荷物を置いたらすぐ発たなければ、着くのが正午になってしまう。

「一葉は」

「お母さんは朝から外に行ってしまったようです。私が起きた時にはもういなかったので」

 俺が集合場所に指定したからだ。こんなことになるなら家で待っててもらった方が良かった。元は家に寄らず村に向かうつもりだったのだが、肩に猛烈な痛みがあったので悩む前にやめたのだ。

 リュックも手提げも下ろしたのに引かない痛みで顔が引き攣っているのが分かる。肩をゆっくりと回そうとしたが、頂点まで上がらない。

「大丈夫ですか?」

「ああ」

 正直に「村に行く」と告げた。明日香のことだし、いつも日付どころか時間すら気にしない俺が聞いた時点で色々わかっているのだろう。

 と思ったのだが、いつもは何も聞かず「行ってらっしゃい」と送り出す明日香が焦ったように首を振るのだった。

「どうしても今日じゃなきゃだめですか?」

「ああ」

「どうしても?」

「何かやって欲しかったら明日にしろ」

 焦りが滲み出ていた。今日が何の日か分かっていないのか、だとしてこの反応は一体。

「……どーしても?」

「うるせえな」

「むうう」

 頬を膨らませ、不機嫌そうに食料品の入ったリュックを全力で引き摺った。そんなに重くないだろ、と手伝おうとしたら背中から転がって床に落ちる。宙に放り出された手足が昆虫のようだった。

 キッチンに行ってからは諦めたように何も言わずリュックを漁りだした。諦めたのだろうか。

 こっそり取りだしておいた火薬を家の裏に置いて布を被せておいた。言い訳はこうだ、「拾ってきた弾に入ってるやつは古くて使えない」間違ってはいない。

 気が気でないのを渾身のポーカーフェイスで隠し、薬を三本全て渡した。取って付けたような礼と心底からの蔑みを浴びる。肩が軽くなり清々しい朝だが、これからまた四、五時間は歩かなければならない。一葉を待たせているし休憩したいのはやまやまだが、リュックの中を入れ替えて六回忌へ赴いた。

「早く帰ってきてください」

「ああ」

「ぜったいですよ!」

 二時間歩き、目印にしては小さく目立たない椿の下に一葉を見つけた。薄暗く大木ばかりの雑木林はここじゃなくても飽きるほどあるのに、彼女は決まってここに座っている。

「一葉」

「おかえり。酷い顔ね」

 疲れが顔に出ているらしい。軽いリュックを背負い直して目頭を押さえた。

「色々あって」

「休んでから行く? ここからどのくらいなの」

「少し歩けば着く……あのさぁ」

 一葉はおもむろに鞄を開けた。嫌な感じがして村の方へ歩き出し、いつもより早足になって息が上がった。

「なんでそんなに嫌なの?」

「どうだっていいだろ」

 見たくないというのもある。けど、俺は見れないんだ。俺のせいで死んだ兄の日記なんて、おまけに血だらけと来た。あいつが海で灰に溶けたのは首と左手首に傷が多かったからだ。研ぎ損じたナイフが尽く自傷に使われていたのを知ったのが、死んだ後じゃなくてもう少し早ければと思うが、あの時気がつけるとは今でも思えなかった。

 足音がふたつに増えた。何か言いたげな呼吸を後ろに感じても足は緩めず逃げるように村へ向かう。喉に異物が詰まったような不快感があって唾を飲み込むが、解消されない。この話題が俺からも一葉からも抜けるまで走り続け、息が上がった。

「お前どうやってここまで来たの」

「え? 普通に歩いて……」

「東京の奴は外に出れないだろ」

 休憩がてら足を緩めると「ああ」と頷いてそれから首を傾げて悩んでしまった。質問の意味がわからなかったかと違う言い回しを熟考する。冬のことと言うか春のことと言うか迷い明日香のことも含めなければならないことに気がついて言葉が出なくなった。

「出れないわけじゃないと思う……出ないだけで。考えたこと無かったわ、皆ちゃんと法律とか言い伝えとか守ってたし、それが普通だから」

「言い伝え?」

 東京はすっかりチップによる完全支配された世界で、妖とか幻の類は全くないと思っていた。法律を絶対的に守ろうとするのはチップによるものだろうが、言い伝えなどという曖昧なものが受け継がれているとは。

「そう。東京の外には何も無いの。面白いものも、捜し物も、好きなものも、誰も知らないものも。何も無いから、行く価値がない」

 東京の外には絶対に行くなという研究所の強い意思が感じられる言い伝えだな、と冷めた目で振り向いた。一葉の額にも若干汗が滲んでいたが、速すぎるとか休もうとか言わずに後を追って来る。

「じゃあお前は何で来たんだ。何も無いんだろ」

 一葉が斜め上を見るのでつられたが、そこには落ち葉が一枚蜘蛛の糸に引っかかって揺れているだけだった。

「何も無いから」

 きっぱりとそう言いきった。ナイフを取りに行く時は真っ直ぐ進んだ道を左に逸れて、太陽を左手に感じながら進んでいく。暑さに耐えかねて腕を捲ったら棘に引っかかって線状の傷がついた。

「でもどうだろう、ね、だって自殺行為じゃない」

「死にたかったんだろ」

「私が? まさかぁ」

 馬鹿にするように笑い飛ばした。

 だったらなにか別のものがあるんだろう。チップが何らかのきっかけで動かなくなったから禁忌とされている東京外への逃亡案が思いついたとか、壁の中でしか生活することを想定されていない実験体には東京外についての制限がされていないとか。

「村ってあれ? なんか……」

「そうだよ」

 木々の隙間からちらちら人工物が見えた。歩いているとすぐ見えなくなってしまうので立ち止まって目を凝らしている。進めばいくらでも見れるのに、物珍しさだろうか。赤茶色の廃墟は到底人が住んでいたとは思えない荒れっぷりで、今にも森に飲み込まれそうだった。

「行くぞ」

 うん、と名残惜しそうに答えた一葉は崖下を見ながらついてきた。足を踏み外すような道ではないし、一葉だから問題ないだろうが。

「ナイフ、大事にしてただろ。どうして置いてきたんだ」

 ふと思い出しただけだった。そういえば理由を聞いていないな、というだけの。

「一葉?」

 神妙な顔で村を見たり細い幹を掴んで足元を見たり、山を下ることに必死で聞いていない。急勾配ではあるが山道としては普通の斜面なのに、いつもより慎重に足を運んでいる。ここで初めて一葉を待つという時間が出来、これだけ多くの日を過ごしてようやく顔をきちんと見た。深緑色という普通でない髪の色と同じ色の両目は紛うことなく実験体の証だが、同じ色をどこかで見た気がする。頬にある十字の傷はいつからあっただろうか。ほとんど消えかけているので相当昔にできた切り傷だろう。首の赤いストールは……

 気が付かれ、睨まれるのを察して視線を村に移した。

 俺が知っている村はもっとレンガの赤が多く、身長を超える程の草は生えていなかった。勿論家の中から木が生えることなどないし、そもそもあんなに汚くない。

 もう一度皆に、龍に会いたい。

「……私を裏切ったあの人達のことは正直許したくないわ。けど、許さなきゃいけないんだと思う。私一人が生まれなかったら上手く回ってたんじゃないかって、今更死にたくないけどね、分かってるの」

「は?」

 この怪文を考えるために時間を使っていたのかと頭を抱えた。ナイフを置いてきた理由がどんな思考をしたら悩み話になるんだ。しかも自分自身で答えを出しているのだ。俺はなんて返せばいい。

「だから何も無いところに逃げた。でもね、私東京が好きなのよ。分からないでしょ、ふふ」

 その時、ある日記に書いてあった「女特有の察しろってやつ、分かるわけねえだろ」の意味がわかった。どんな徳積んだらこれが分かるんだ。

「お待たせ。あとはここ降りるだけでしょ?」

 ようやく追いついてきた。ちょっと肩を竦めて謝るフリをするが、面白がっているのは明確だ。

「先行くか」

「……ついてく」

 だったらなんで聞いた。

「なんで怒ってるの?」

 沈黙を貫いた。一葉に対して急に頭に来ている理由が答えられなかったからだ。家を掃除しろだとか本を片付けろだとか明日香と仲良くしろだとか言われた時よりも得体がしれず、読書中や睡眠中に騒がしくされた時よりも猛烈に怒りを覚えている。しかし、分からなかった。

 いつもと違う道から来たので、龍と逃げた南側ではなく正面のある北側に出た。研究者はここから入り、戯れに数人杖や銃で殺して火をつけた。昨日のように鮮明に炎が見えるが、流石に殺戮者の目線で思い返すことは出来ない。最も覚えているのは東側に逃げた時のことで、家が内側から吹き飛ぶ時の心臓に響く爆発音や耳障りなサイレンまで聞こえてくるようだった。足裏は靴を履いているはずなのに熱く、顔や腕などの露出部は火傷間近で痛かった。

「終希」

 か細く一葉らしくない震えた声。振り向くと、膝から崩れ落ちるのがスローモーションに見えた。

 虚ろに村を見つめるその手に握られていたのは、六年もの間風雨にさらされて錆び、穴が空くほどボロボロになった火炎放射器だった。

「ごめん」

 長い一呼吸の間に親指はホルスターの留め具を弾いていた。

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