3 羨望

 びしょびしょの服を着替えて昼を食べ、各々あちこちに散っていった。終希は自分の部屋に籠り、明日香は調べ物をすると言って二階へ。そして私もあの日記を取りに二階へ向かった。

 窓辺に置いてあるノートを手に取り、めくる。鉛筆で書いた薄い字がその日の日付と出来事を記していた。他人の日記を読むなんて本当は気が引けるが、ちょっとした好奇心がそれを上回っていた。

「別に知る必要、ないけど……」

 あんな顔されたら気になる。

 最初のページには染みが無く、均等に引かれた罫線に読みやすい字が並んでいる。とめはねはらいがしっかりとされているが、やや右上がりで文字が薄い。

『きっとフィフティは俺がいないとダメだと思うから、居なくても平気になるまでは頑張って生きよう』

「……」

 たったそれだけしか書いてなかったのに、ページをめくることが出来なかった。

 私の家族はあの父親と殺した妹で、血の繋がりだけの関係だ。普通を知らなかった頃に未悠や他の旧友の家に呼ばれた時はあまりの違いにひっくり返りそうになったものだ。家族間で会話があると思わなかったし、それも敬語ですら無かった。自分の部屋があって、自分の食器があって、共有のソファがあった。

 小学生の頃は遊びたいがためにわざわざ親友の家を訪れ、帰って泣いていた。数度やってからは遊ぶ楽しさより辛さの方が強くなり外遊びに移行したので、滅多に友人の家族と会うことは無くなったが、それでいつしか自分の周りと普通の家庭は別物だと諦められるようになった。でも、今は出来なかった。

「どうして……」

 ここまでの家族愛を間近で感じたのは初めてだ。終希から家族の話を聞いた時もそうだったが、G型の中にあった絆は私の知るどれよりも強く眩しく思える。学校を辞めてから通った実験体だけの道場でも、自分の命を投げ出してまで誰かを守ろうとしていた人はいなかった。

 こんなに愛されていたのにどうして終希はそれを無下にするように復讐ばかり考えているんだろう。「生きろ」と言われていたのをまさか忘れているんだろうか。挙句の果てに最後の家族すら殺したなんて言って。

 閉じたノートをリビングに持っていこうとしたところ、背後で椅子が倒れる音がした。明日香が画面を見て息を呑んでいる。真後ろに寝そべる椅子をかかとでもう一度蹴ってたが、それすら気が付かない様子で顔を歪めている。

「明日香?」

 目元を手の甲で拭い、ノートを持ったまま画面を覗いた。メールのようだが、誰からだろう。

『大好きだよ』

『帰ってきてよ、会いたいよ』

『世界で一番大切にするよ』

『愛してる』

 そんな言葉が十数行に渡って書かれていた。見ようによっては愛らしく、しかし不気味で奇妙にも見える。明日香の震えた唇からは、このメッセージが良くないものであることが示されていた。

「……明日香は彼氏さんがいるの?」

 どこが彼氏なんだろう、と口を噤んだ。ストーカーという単語を思い出したのは言ったあとの事で、時既に遅し、睨まれてしまった。

「はい」

「え」

 彼氏、居たんだ。

 別に欲しいわけじゃないが、私には彼氏なんていた事はなく、明日香が遠い人に思えてしまった。私と明日香の間に引かれた境界線は私が変わらない限り無くなることはなく、私が変わることは絶対に無い。だから私を好きになる人なんてこれまでもこれからもいない。

 私自身を変えられるなら教えて欲しい、どうしたら実験体を辞められて、所長の娘じゃなくなるのか。

 目を瞑り、深呼吸した。こうすればどんな不都合もどうしようもないと諦めることが出来たし、うじうじ悩むことも無くなる。マイナスなことをずっと引き摺っていたって仕方ないから、その時間を他人のために使うことにしている。

 明日香は彼氏からメールが来たことで相当取り乱していた。

 私は相手がどのような人か分からないので、東京から歩いて二日三日かかる程離れた山の中まで届くメールの方に口が開いていた。自分の端末を見ると、右上の表示は圏外になっていた。衛星が飛んでいる訳では無いこの地球で、どうやってメールを送ってきているんだろう。

「いえ、彼氏……というのは過去の話で、今はストーカーなんですけど」

 いつもよりご機嫌ナナメで、ぶっきらぼうな物言いだ。夜ご飯に苦いピーマンが出てきた時よりも唇が尖っていたし、何より目つきが怖かった。所詮子供が怒っているのでそれでも可愛く見えるが、本人は本気で困っているようだ。

 ストーカーと聞いて明日香の感覚が鈍いのではないと少しほっとしつつ、更に心配になった。私はストーカー被害の経験なんてもちろんないが、明日香にとって相当ストレスなことだということは容易に想像できる。このメールを送るためにすごい執念でここまで届く電波を探したのだろう。これを返したら居場所がバレて、次はここまで追ってくる……までは考えすぎかもしれないが。

「私の話はどうでもいいですよ、それよりお母さんも気がついてますよね。中継機はお父さんにぜんぶ壊されちゃったので、普通ここまでメールを送ることはできません。壊したっていうのが嘘だったんでしょうか……」

「中継機? 終希が壊した?」

 明日香は目を丸くし、指を揃えて口元に当てた。どうやら私に伝え損ねていたものがあったようだ。やっとこちらを向き、手を上から下に振ってメールを閉じる。パソコンの電源は点灯したままだったが、微かなモーター音のおかげで夜よく眠れるのだから電気の節約を切り出すつもりもなかった。

「伝えてませんでしたっけ」

「初耳よ」

「お父さんに聞きに行くので、そのついでに説明します」

 明日香はさっさと部屋を出て行った。

 ノートを置いていくか持っていくか迷い、持っていくことに決めた。先に降りていった明日香は一直線に終希の部屋へ向かう。さっき二人で水遊びしていたのに、近づくにつれ足が遅くなっているような気がした。

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