2 血のついたノート
後ほど明日香を終希に預け、身体を軽く拭いて家に戻った。終希は足がつかず怖がる明日香に泳ぎ方を教えている。階段さえろくに登れない体力では泳ぎなどできないだろうが、珍しく仲が良いので放っておくことにした。
玄関から廊下をぬけてリビングへ。そっと階段をあがり、時々ふりかえって足跡がついていないことに安堵した。別についてもいいのだが、足跡を消すためだけに掃除をしなければならないのは苦ではなくとも面倒だ。
書斎の開け放たれた窓から心地よい風が入ってきた。目の前には大きな葉を広げた大木が立ち並び、眼下には緑を映して揺らめく水面がある。冬は広場となり、夏は湖となるこの場所はやはり何度観ても幻想的で気に入っていた。
ふと本の山が目に入った。無造作に置かれたようでどことなく不自然な塊だ。第一私と明日香の部屋と化しているこの書庫にこんな乱雑な場所があること自体異様だった。犯人は確実に終希、終希以外ありえないのだが彼も明日香を投げたあの短時間でこんなに汚くするほど汚いもの好きでは無い。
「げ」
遊んでいた終希と目が合った。明日香の手を引いて窓の下からそっと離れたので、私が何をしたくてここに来たのかわかっているのだろう。それが終希の真似だということだけが嫌だった。
「おい、怖いのか」
「違う!」
渋っていると下から煽られた。窓の横の山を片目で見、終希を見下ろして、結局気になるので山の向かいにしゃがんで解体を始めた。
なにか隠しているのだろうと思ったが山には本しかなく、最後まで漁ってもやはり全て大小様々な本だった。しかし、一冊だけ他のものとは違い新しい色合いのものがある。それはごく一般的な大きさのノートで、深緑色の表紙には何も書いていなかった。
「ひっ」
何気なく拾い、落としたのは大量の血痕がついていたからだ。まだ開いてすらないのに、乾いて皺になった紙の隙間にもびっしり赤茶色の染みがついているのが分かる。
聞くしかないと思って、雑巾のようにそれをつまんで外から見えるように掲げた。顔を背けた終希の顔は青白かった。
泳げなかった明日香が両手で抱かれたまま終希の顔をのぞきこんだ。一切口を開こうとしない終希の髪を引っ張り、「おかあさん」と困り顔で私に助けを求めている。
それがあまりに可愛かったので、ポケットから端末を出して写真を撮った。明日香は反射的に人差し指と中指を立てていたが、終希はこっちを向いたまま相変わらずの無愛想だった。てっきり嫌がると思ったが、それすらどうでもよかったのだろう。
「しゅうきぃ、これなに?」
声を張り上げると、終希は対岸へと離れて行った。
本と端末を際に置いて、窓に足をかける。縁に手をかけて身を乗り出し、少し下を向いた。家から三メートル程は陸地だが、その先の湖は急に深くなっているので水にたどり着ければ問題ない。しかし二階とはいえそれほど高くない場所から三メートル以上飛ぶのには軽い跳躍では足りなそうだ。
助走なしで迷いなく飛んだ彼は慣れていたのだろう。終希が日常的にここから飛んでいたなんて考えにくいが。
斜め上目掛け、両足に力を入れて手を離す。跳躍した途端地面から解放され、普段できない上下移動に身を任せた。後ろへ流れる前髪と肌を撫でる冷たさに思わず口角が上がるのを感じる。息を吸い、急接近した水面へ蹴りを入れると、身体中を大小様々な泡が覆った。冷たく澄んだ水は私の体をゆっくり押し上げるが、待っていられなかった私は手足を大きく動かして岸へと向かった。
「終希!」
膜を破るように水面から顔を出すと、終希の行く手を阻む。
「お母さんも飛び込んだんですか!」
そう言って一層肩を強く掴んだ。余程怖かったのだろうが、私も二階から突然投げられたらそうなるだろう。それに背中からなので痛かったに違いない。
「ええ。ねえ逃げることないじゃない、あの緑色のノートは何? なんで隠したの?」
終希は尚も目を合わせず、明日香の手をそっと離して気まずそうに呟いた。
「……龍の」
近づくと、明日香は終希から逃げるように手を伸ばした。抱き上げてしっかり抱える。陸だと少し重いなと感じた体重だが、水の中だと幾分楽だ。
「お父さんずーっとムスッてしてるから、怖かったです」
「そんなことないでしょ」
明日香は首に腕を回して上機嫌で、終希は荷物が無くなった瞬間に泳いで逃げようとした。
「ねえ、りゅう、って誰ですか?」
逃げる前にリードのような後ろ髪を握った。後頭部を押さえて顰め面をする終希を笑いかけて、顔を背けることで耐えたようとしたが、あまりにおかしな光景で耐えられなかった。
終希が耐えかねて両手を上げたので手を離し、全員で陸へ上がった。こちら側は家側とは違って浜辺になっていて、途中から明日香も足が着いて自力で動けるようになった。
水から上がると終希はおもむろに上着を脱いで雑巾のように絞る。それから髪を上から順に握り、服で顔を拭く。俯きがちでこちらを睨むいつもの顔は、なんだか少しやつれて見えた。
「龍は俺の……いや、G型の生き残りのひとりだった。お前ならわかるだろ研究所にいたんだから」
ズボンも同じようにする。平らな場所に立っているのに腰が斜めになっていて、足の色が左右で違った。G型は皆こんな感じでどこかしら移植されていたんだろうな、と今は関係の無いことを思う。薬の注射を毎月するのと薬を作れる体を手に入れること、どちらが楽だろうか。物心つく前にやってしまえば終希達の方が後々楽だが、今から手術する気にはなれない。
明日香は終希と話しているはずなのにこっちを見ていた。
「なるほど。今は居ないんですか?」
「死んだよ。てめえらが殺し損ねたのは俺一人だ」
終希はまた家族の死をさらりと口にした。私も終希と同じように服を絞っていると、明日香が何故か私と終希の間に立った。二人とも滴る水を何とかしたのに、明日香はワンピースを両手で握りしめて鬱陶しそうにするだけだ。
「どうしたの?」
「お父さんは男性です」
「ええ、それがどうかした?」
「……」
服を着直した終希も不思議そうに見下ろしていた。とうとう明日香は足踏みをして頬を膨らませ、小舟に乗って家まで帰ってしまった。何か癪に障ることをしただろうか、と自分の行動を振り返るが、思い当たる節はない。原因がわからない以上、これからも同じ事で機嫌を損ねてしまいそうだ。
「あのノートは龍の日記だ。汚れてたのはあいつすぐ手首を切ってたからだよ。今思えばそれも俺のせいだ。気が付かなかった」
ぺたぺたと二つの足音が土を踏んだ。時折小石が足裏に刺さって痛い。俯きがちに家へ向かう終希は濡れて絡まった後ろ髪を左から前に回した。背中を追う私は、彼に何もいい台詞をかけられなかった。
「龍は水死した。海に飛び込んで、気がついた時は灰に溶けてた。飛んだのは……俺のせいだ。でも何がいけなかったのか分からない」
「そう……」
終希は龍さんを殺したと言っていたが、彼が直接手を下したのではないのだということにほっとしている自分がいる。かつて家族のことを何より大切に思っていた彼には、心変わりした後も兄を殺すなどできなかったのだろう。だから自殺に追い込んだことを「殺した」と表現しているのだ。あっさり死を口にするから何も感じていないのかと思った。
「……日記読んでもわからなかったの?」
「読んでない。読みたければいいけど、俺には内容教えるなよ」
「なんで?」
何故すぐそこに真相があるのに読まないのだろう。だって、読めば家族に少しは近づけるじゃないか。勿論もう一度会うことは出来ないが、大切な人の心を知ることはできるし、思い出に浸ることだってできる。
「知りたくない」
終希は更に小さな声で言い、足を早めて行ってしまった。
石を渡り終えると玄関を開け、入る前に振り返った。遅れて石を渡りきった私の動きを追うように見て、視線を濡れたズボンと足に移す。片足を上げたところ、リビングの扉が開き、花柄のワンピースに着替えた明日香が走ってきた。私も終希も洗濯したばかりのタオルを押し付けられ、息が上がった少女に面食らっていた。
「もうお父さん、家に入る前に拭こうとしたのは良いんですけど、服はだめです!」
「……ああ。サンキュ」
思わず吹き出した。家族みたいな会話だが、これじゃまるで終希が弟や息子みたいだ。しかし水遊びしていた時も今も、以前のような距離感は無くなってきている。
こういう幸せな家族に似た関係に憧れていた。殺人者には相応しくないが、少しくらい良いだろう。
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