11 在り処
明日香を抱えて坂を下り、登る。いつも駆け足で通り過ぎるこの道も歩くと寂しく見えた。以前はそれでもちらほら泥酔者や路頭に迷った暗い顔を見かけたのだが、元々壁の近くというのもあって人の影はない。
右手に壁を見ながら西へ回る。壁を囲うように壊されたビルや一軒家が瓦礫の山となって転がっていた。行きで見たゲーマーの家が見当たらないのは、この二ヶ月の間に立ち退きさせられたからだろう。壁を外側に再建するとか。
「重……くない、重く……いや……」
早く休めるところに行かなければ、ここで野宿になってしまう。正直私はそれでいいのだが、明日香にとっては酷だろう。ここにはコンクリートしかなく、寝転ぶと土よりも数倍キツい。このまま抱えて一夜過ごすなどもってのほかだ。
「……師匠」
最後の直線に差し掛かった時、見知った老人が光る道案内ロボットを携え立っていた。毅然と仁王立ちで、道のど真ん中に。薄い髪から頭皮が覗き、皺の寄った首には焼印がある。
「あの、泊めて欲しいんですけど……せめてこの子だけでも」
間合いをこれ以上詰められず、暗い道の真ん中。まるで今からひと試合するかのようだ。こんな態度を取られるのは初めてで怖気付いてしまった。
希望を信じてここに来たのが間違いだったのだ。去らねば、これ以上傷つく前に。
でも、足が動かなかった。
「今先生は」
声が震えていることに気がついた。どうしてだろう、この人は学校に行けなくなった私を匿って長い間家族のように育ててくれた一番信頼をおける人なのに、今はとても恐ろしい。まだ一言も発していないのに、だ。「出て行きなさい」と言ったあの時と同じ目をしている。
「先生は……あの、師匠。貴方はよく外にいけと仰いました。何故ですか」
まだ口を動かさない。思い浮かぶのは共に木刀を構え汗を流した日々。少し眠くなりながら人間に欠かせない大切なものを教わった昼下がり。出来たてパンの甘さと優しさ。学校で教わるはずだった全てを貰っていた。大好きで、尊敬している。それは今でも同じはずだった。
分かっていたのに目を逸らしたのは私だ、この人はもう私の味方ではない。分かってないとこんな、問い詰めるようなことはしないから。
「体が鈍るから? 違います、先生を私に会わせないためですよね」
それは冬のこと……終希に拾われる前日のことだ。いつも通り道場に顔を出すと、私を地獄に叩き落とし姿を消した悪魔が待っていた。それも、首に古い焼印の跡を見せて。歳のせいでかなり白髪が増えていた。
「なんで」と聞いた。なんで人間の世界から追い出した張本人が実験体なんだ、と。小学校から追い出しておいて、まだ私に付きまとうのか、と。
先生は答えた。「貴女のお父さんにされたことを忘れるわけないでしょ?」と。
何をされたのかは分からないが、それは娘でもなんでもない私に八つ当たりするものじゃ無いはずだ。こんなのおかしいに決まってる。復讐するつもりだったのだろうけど、相手が間違っている。私は何もしていない。
しかし言っても無駄だった。そもそも所長近辺のもの全てが憎いのだと気がつくのにそう時間はかからなかった。この時も娘じゃないと否定しても誰一人として聞いてくれやしなかった。
「師匠は知って匿ってくれたはずでした。黙っていてくれたんじゃなくて、気にしないでくれた。だから先生と会わないようにしてくれたんでしょ? 私だって実験体よ、皆と何も変わらないわ! どうして止めてくれないの!」
「……皆の立場に立ってみなさい一葉ちゃん、分かるだろう。所長は壁の中から絶対に出てこないんだよ。すると矛先はどこに向く?」
大きな溜息と共に聞かされた台詞は自分だけは善人だと言い張っているようにしか聞こえなかった。取り繕ったところで私が邪魔だと思っているのは変わらない。下唇をぐっと噛み、血の味のする唾を飲み込んだ。
「すまないね、私は一葉ちゃんだけを守らなければならないわけじゃないんだよ」
「なにが……」
なにが「すまない」だろう。謝るくらいなら親身になってくれてもいいじゃないか、今までのように!
「これからは自分で居場所を見つけなさい。一葉ちゃんもこの夏には十九になるんだよ、大人として自分に責任を持つ頃合いだ。その子も壁の中の子だろう? なら尚更匿えないよ」
散々道徳や人にしてはいけないことを口煩く言った彼は腕の中の明日香に人差し指を向けている。この子こそ何の関係もないのに。生まれた場所は同じで、暮らしている場所が違うだけだ。それの何処が彼らと私達を分けているのかさっぱり分からなかった。私だってこの子だって、同じ実験体なのに。
師匠はこれ以上話していたくない、というようにもう一度溜息をつく。それを合図に決心がついた。邪魔者は去ろう、生きていることを願われていない私はちゃんと消えよう。納得できなくても、こうなっては喧嘩したところで受け入れられやしない。
「分かりました」
一礼して明日香を抱え直し、師匠の方へ歩み、すれ違う。首の焼印は私や明日香と変わらないが、それだけで同じというのは違ったんだ。
「……」
初めて師匠の本当の名前を知った。だから、崩れた一軒家に立ち入り、床から漏れ出す小さな光を見下ろした。この下に道場があるのだ。今まではこの家だったものがカモフラージュになっていたが、今では入り口が剥き出しだ。明日香をそっと寝かせ、師匠の腕を振り払い腰に手を当ててナイフを取り出す。
「ふっ!」
光にそれを突き立て、足で一発踏み付けて誰も取れないほど強く強く押し込む。突然たからものを乱暴に扱う私に戸惑う師匠を横目に、明日香を抱えて西へ歩き出した。
日が昇るまで歩き続けた。西へ、西へ。繁華街にはこんな夜遅くにも起きている不健康児が何人もいて、出会うたびに殴られ蹴られ罵倒された。それでも反抗せず歩いた。暴れたら明日香を起こしてしまうと思った。
西へ、東京の外へ。鼻を啜り、震える唇を強く噛んで、ぐしゃぐしゃになった顔を拭いもせず嗚咽を堪えて。
「くたばれバケモノ!」
あの日急に優しくなった東京はいつも通りに戻っていた。この居場所のなさが愛おしくて、懐かしい。やっぱりここは私の場所ではないのだ。
未悠も師匠も最初は私の味方でいてくれて、心から信頼していた。嬉しい時は自分の事のように喜び、困った時には支え合っていつも楽しかった。あれが彼らの本性で、それを汚したのが私なのだ。でも、私は誰かを罵ったことも誰かのものを壊したことも誰かを傷つけたことも記憶にないのに、何故生きてはならないのだろう。
――早く死ねよ
「うるさい……死んで、たまるか! 帰るって約束……っしたのよ、私!」
好意を向けられるのは好きじゃない。三度もそこから突き落とされれば自ずとそうなる。絶望するのは御免だ。だから最初から真っ直ぐに「嫌い」と言ってくれる終希が……嫌いだった。
「終希……終希……」
無くなったナイフの代わりに冷たいけれど暖かい小さな明日香をぎゅっと抱きしめる。帰ろう、家に。早く帰ろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます