10 二ヶ月ぶりの空

     *

 階段を上り終えた私たちは、休むことなく夜のうちに壁を越えることにした。

 一度部屋に戻ってリュックに日記とカード、それから最低限の着替えを入れて腰にナイフがあるのを確かめる。机の上に端末が置いてあったが、それは置いていくことにした。電気のない場所で使えるとも思わなかったし、暇つぶしなら本が山ほどあるからだ。

 それに未悠から連絡でも来たら気が狂う自信があった。

 学校を追い出された直後滝のように送られてきた罵詈暴言のメッセージは、端末の自動読み上げ機能によってすべて再生されてしまった。見なければいい、とは簡単に言うが私は「死ね」と放つものに近づくことさえ出来なかった。結果部屋の隅で遮音性の無い布団を被って震え、一日中聞いても終わらない非難を全て身に刻んでしまったのだ。今でこそ自尊心を失わせる言葉には慣れたし読み上げも切ったが、そのせいでメッセージは今でも好きじゃない。

 一方で決済用のカードは持っていくことにした。何度か買い物のため東京に来ることはあるだろう。電子レンジとか照明とか。あの頃は人に会うことすら出来なかったのに、随分と強くなったものだ。

 研究所の外に出ると、ねずみ色のリュックを背負った明日香は小さな正方形を取り出した。聞くと監視カメラの映像をすり替えていたらしい。確かに死人と失踪者が我が物顔で闊歩していたら驚くに決まっている。

「こんなので本当に大丈夫なの?」

 急に綺麗になった部屋に違和感はないのだろうか。自分で言うのもなんだが私は所長の愛娘唯一の複製体だぞ。

「大丈夫ですよ、研究者はコンピュータをうたがうことが恥ですから。研究者がまず初めに作ったのは旧世界をはるかに超えるほどの高性能人工知能ですが、彼ら、それを神と崇めるほど信じています。私がやったは研究者をあざむくためではなく、カメラ自身がデータとの違いを見つけないようにするためですよ」

 機械に頼り切って疑わない生活をしている人々を研究者と呼んでもよいものか、と軽蔑しながら振り返ると、ハッキングされたにもかかわらず建物全体がしんと静まり返っていた。知識に過剰な自信があることが警備のザルさに現れている。

 しかし静かというのは相対的に妹の声が大きくなるということで。

「うるさ……」

「ごめんなさい、つい語りすぎました」

「違うわ、気にしないで」

 声を明るく努めてしゅんとした明日香の頭を撫でる。独り言に気をつけよう。悪いことをしてしまった。

「チップはもうシャットダウンしてあるのよね」

「はい、三時間ほど前に」

「そう……」

 声は本当に亡霊か何かなのだろう。チップが作動している時に終希の家に行った時には確か聞こえなくなっていたが、停止した今も聞こえるのなら東京という場所がいけないのだろう。地縛霊か。

 そんな考え事をしながらも常に意識は周囲に向け、壁へと歩き出した。こんな夜更けに散歩する人なんていないだろうが、警戒するに越したことはない。明日香がそんなにビビらなくても大丈夫だと言うが、楽観的すぎる。

「壁を越えたら一度休みませんか」

「……そうね」

 大通りを南へ歩きながら明日香は何度も何度も目を擦っている。そのせいで足がどんどん遅くなっているので冷たい手を握っていなければならなかった。この子はどうして一度死んでしまったのだろうか。

 壁の前に辿り着いたときには日付が変わろうとしていた。やはり目の前にすると圧迫感で気が狂いそうだ。慣れたとはいえストレスであることに変わりない。

 運良くここまで誰とも会わなかったが、残念ながら最後の最後に門番が立っている。片方は立ったまま船を漕いでいて、もう片方はシャキッと立っていた。真面目すぎて宜しくない。

「明日香、どうすればいいかしら」

「いつも通り名乗れば通らせてくれますよ……ふぁぁ」

 そんな馬鹿な。しかし明日香はこれ以上会話が出来る状態では無さそうだ。……どうにもならなかったら強引に通り抜けてしまおう。

 明日香を抱っこして言われた通り正面から堂々と門へ向かう。起きている方はこんな時間に人がいることに驚き、こちらへ血相を変えて駆け寄ってきた。顔馴染みだと分かるとほっとしたようだが、抱えている少女を見てまた眉間に皺を寄せる。

「その女の子誰っすか?」

「明日香っていくつだっけ」

 首を覗くが薄くてよく読めなかった。ちょっと触ると肌色の粉が指につく。

「アイ、スリーです……むにゃ」

「あとH-01。ここを通りたいの」

 私と明日香の名前を告げると、もう片方もようやく起きてキョロキョロと見回した。

「……」

「……あの?」

 返答を待っていると、いつものように身長の三倍はある大きな扉に貼られた立入禁止を意味する「keep out」やク……レマイン? などの文字が消える。扉は左右にゆっくり開き、いつも何かしらフランクに話しかけて来る二人が俯き無言で壁の中へ手を差し伸べた。

「どうしちゃったの?」

「……」

 不気味な二人の左首を見たが、前々から知っての通り焼印は無かった。明日香のように化粧で隠しているようにも見えない。それもそう、壁の外では隠れて働いている者もいるが、堂々と表舞台で働いているなんて聞いた事がない。私達は彼らと違って人間の役にすら立たない生命体だ。

 真っ暗闇を進むと二枚目の扉が開き足元を仄かに照らした。暗闇が嫌いでなくても光が見えるとそっちに進みたくなるのは誰でも同じだろう。この闇の前にも後ろにも素晴らしい世界など無いが、光が差せばいいものに見えてしまうのだ。

 外に出た瞬間、目の前が大きく開けた。なんと言ったって空が見える。今日は月が見えないが、空と山の境界がぼんやりと分かるほど遠く広がっていた。久しく忘れていた感覚だ、灰があっても壁が無いだけでこんなに世界が広大に思えるなんて。

「明日香、明日香、起きて」

 壁の外を見た事がない明日香にこの景色を見せるのが明日の朝なんて勿体なくて、頬をペチペチと叩いて起こした。

「壁の外に出たわよ」

「うーん……そとぉ……?」

 腕の中でとろんとした目を擦っていた明日香は、次の瞬間目をまんまるにして身を乗り出した。

「わぁぁあすごい……広いですね」

「でしょ?」

「うん……」

 感動が眠気に勝てないところが年相応に可愛い。いつの間にか私は明日香を娘のように可愛がっていた。こういうのは妹と言う方が良いのだろうが、妹が可愛いという認識は持ち合わせていないのだ。

「外に来れて良かったです……」

 残念、少し興奮したところで眠気は醒めないか。出来れば東京の外側に広がる廃墟まで行きたかったのだが、諦めるしか無さそうだ。私一人ならいいが体力がなければ眠気にも勝てない子供を連れて行くのは骨が折れる。寝る場所を探そう。

「眠そうね、少し歩くわよ。事情を話せば休ませてくれるはずよ。ああもう、自分で歩いてくれないかしら……」

 正直頼るのは気が引けた。実験体達の隠れ家から追い出されてしまったから東京を出ることにしたのに、また戻ってもいいものか。しかし小学校を中退してからつい最近までずっと私を匿い育ててくれた我が家のようなものだ。

「きっと皆寝ちゃってるけどね」

 師匠さえ起きていればいい。あいつさえいなければ、一日くらい置いてくれるだろう。

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