9 歩き出す
*
四月中旬のこと。雪が溶け、景色は音を取り戻した。灰色の空に艶やかな緑が色を落とし、生命が一斉に姿を現す。ひと月前まで風の通り道だった森は枝葉を広げて空気を塞き止め、歩くと水を吸った落ち葉がぐにゃりと足を捕らえる。
嫌いな季節が近づいてきた。
俺だけが進み続けるのに、目の前に広がる村の景色は相変わらずあの時のままだ。道の焦げた跡も、へし折られた防災無線のスピーカーも、半分以上瓦礫となった家も。そして叶が植えた花は死んだように横たわっている。
……違う、叶が植えたものはとっくに無くなっているはずだ。これは。
「っ……」
はっと顔を上げて村を見渡すと、途方に暮れて立ち竦んだ。ここはどこだろうか。
数年前まではなかった雑草が石の隙間から顔を出していた。壁には蔦が蔓延り、ベランダや窓に使われていた金属は軒並み揃って錆び穴があいている。板に書いただけの表札は火事の時に真っ黒に焦げてしまったが、今では見当たりすらしない。下手したら六年間雨風にさらされた服は、ハンガーから滑り落ちて庭の隅にセメントのように固まっている。
今までは時間が止まっているように見えた。いつも花が咲いていたし、街は爆発したその時のまま風に動かされることも無く固まっていた。ベランダには洗濯物がかかっていて、さっきまで誰かがいたんじゃないかと錯覚することがよくあった。
そうか、龍が必死になって止めていたのだ。毎日のように村を訪れていたのはこのため。死人の声が聞こえる訳でもないのに馬鹿みたいに手を合わせに行っていたのだと思っていたが、とんだ勘違いをしていた。
龍の亡き今、もはやこの街は止まってすらいない。故郷は俺の知っているものとは遠くかけ離れて、見覚えのない光景に塗り替えられていた。
過去に戻れなくなったらこの先どうやって生きていけばいいのだろうだろう。
「どうしてお前まで……」
皆を置いてきてしまったことをこんな形で再確認したくなかった。こんな気持ちになるくらいなら、もう誰も戻ってこないと分かっていても龍のやっていたことをもっと早く知って受け継げばよかった。
サーティーンが住んでいた家に駆け寄り蔦に手をかけて引き剥がすと、根に貪られたレンガがポロポロと落ちてきた。破片を元の場所に戻そうとしても手を離すと必ず落ちてきてしまう。
もはやサーティーンの顔も声も靄がかかったように思い出せない。サーティーンだけじゃない、龍も叶もだんだん遠く手の届かない所へ離れて行った。
「離れたのは俺の方、だよな」
あの夏から六年、龍を置いてきてから三年と長い時が経っている。村が崩れるのも当然のことだ。俺は今日で二十になった。
じゃあ、なんで去年までは変わったことに気が付かなかったんだ、今日は何故か変わったところばかりが目につく。雪の重みでひしゃげた倉庫が台風で飛び、からっぽの家の中に転がっていた。
隆起した大通りを踏んで叶の家だった場所の玄関辺りに立つ。というのも玄関扉はいつの間にか無くなってしまったからだ。去年だったらそんな大きな違いですら気が付かなかった。当然六年も経っているのだから変わったのは今年ではない。そもそも龍が生きていた時だって、全てを変わらず維持できるはずがない。
「一葉」
声が漏れた。俺の名前、いつも何をしていたのか、龍のこと。そして封印していた壁のラクガキ。聞かれたら思い出してしまった。
今までは頑なに見ようとしなかったのだ。村が風化していることも、昔好きだったものが今はどうでも良く、あんなに嫌いだった森が庭のように近しい存在であることも、見えなかったはずの本棚の天端が気になったことも、最近ずっと目が赤いことも。
色々なものが変わったことはもう受け入れざるを得ない。家族全員を置いて未来へ進むことを選んでしまったことの意味が重くのしかかった。俺が忘れたらあいつらは消えてしまう。
両目を閉じて静かに息を吸った。空気が胸に落ちていくのと同時に心の波も収まっていく。暖かな風が髪を揺らして、その音に涙腺が緩んでいくけれど、奥歯を噛んで堪えた。龍は泣いた次の日心の整理がついたように笑っていたからだ。
火事以来初めて叶の家に足を踏み入れた。どこかに遺書の入った金属の箱があるはずだ。爆発で消えないように鍵までかけて厳重に保管していたのだから無いなんて言わせない。
案の定寝室の床が一箇所だけ残って屋根になっていた。その下に置いてある錆びた箱の模様は全く分からないし、箱自体もっと大きかったような気もするが、懐かしい雰囲気がそこに佇んでいる。
鍵は強引に壊されている。開けると龍の分はなく俺に向けた遺書が何故か封を少し千切られた状態で入っていた。箱自体に断熱材を仕組んでいたようで、状態も良い。いつから爆発があるとわかっていたんだろう。
『東に行けば街がある。そこで新しい生活を得るといい。お前は自由だ、村に囚われず森を越えて好きな場所に行け』
封を開けると中には二枚入っていた。一枚目はぎっしり書かれていたが有益な情報は無い。東京という都市があるんだとか、金の使い方とか、怪我をするなとか、姉らしい。一方で二枚目は一行しかなかった。しかも叶の筆跡ではあるのだが乱雑なものだ。
『裏切り者には絶対に会わないように』
「……裏切り者?」
会わないように、と忠告しているということはあの火事を生きのびているということだろうか。龍? まさか。
日が傾き家に帰ってからも裏切り者のことが頭から離れなかった。ぼーっとして熱くなってしまった風呂に水を足し、足しすぎてまた沸かし直してから入ったほどだ。
「あの火事の時は生きてたけど龍では無い」
裏切り者だったら俺と一緒に生かすはずがないからだ。それにあいつにそんなことができるとも思えない。
「サーティーンは死んだし、ババアも死んだし……」
だめだ、適当にやっていても埒が明かない。皮肉にも俺達には番号がついているのだから、最初から……
「ワン!」
ワンを最後に見たのはいつだ、火事の時には居なかったが、死んだなんて話は聞いてない。しかし少し信じられる気がしていた。ワンは長老の如くいつも一歩引いたところにいてあまり積極的に話そうとはしなかった。そのくせたまに来る研究者とはよく話していたような気がする。
本やお菓子なんかの贅沢品をよくくれたが、研究者から直接貰ったことは無い。実験体の情報を売った褒美だったというわけだ。
研究所を潰す前にやるべきことができた。
風呂を出ると鏡に酷い顔の自分が映った。一度も拭いていないのに綺麗なのは掃除しろと煩い一葉の仕業だろう。でなければ赤く充血した目に気が付けなかった。
「持ってあと二ヶ月か」
少量ではあるものの自ら薬を作ることができるG型が発症してから死ぬまではひと月ほど。しかし龍は充血しただけでなんの症状も無いままひと月は持った。他に比べて症状の進行が遅いのなら充血から半年は生きていただろう。
恐らく俺は龍よりも灰耐性がある。この手足が自由に動く二ヶ月の間にワンの居場所を掴む。
「首洗って待ってろ、ワンじい」
研究所はその後だ。
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