12 曼珠沙華の海

 自分の影が前にできて、遠くの霞が白く輝く。抱え直すと何度かむにゃむにゃ身動ぎをするが、朝日が目に入るまで起きなかった。眠りが深すぎるような……子供はこういうものなんだな。ただ、ずっと抱えていたものだから腕と腰が痛くて仕方なかった。

「おはようございます……あれ、一葉さんずっと歩いてたんですか? 泊まらなかったんですね」

 こっちの気も知らないで爆睡していたくせに良く言う。有無を言わさず降ろして、軽くなった腕をストレッチした。ごめんなさい、だって。子供じゃなかったらぶん殴っていたわ。

「一葉さんは寝ないんですか?」

「ええ。お腹すいたでしょう、何か買ってくるわ」

 徹夜なんて慣れているし、頑張ればあと一日くらい歩ける。それより階段を登るだけで息切れしていた明日香の方が心配だった。とりあえず近くの無人販売所でパンをいくつか買った。

 戻ってくると、明日香は山の方を見て顔を顰めていた。私の顔を見るや否や申し訳なさそうに目を下へ逸らす。もう怒ってないよ、と笑顔でパンを渡した。

「どうしたの?」

「思ったより灰濃度が高いようなので……」

 受け取り、両手で小動物のように食べ始める。その間もずっと山を見たり、振り返って街の霞み具合を見たりして落ち着かなそうにしていた。見た限りいつもの視界と同じくらいで遠くの木々は霞の中から生えている。しかし建物の外をあまり見ていなかった明日香には怖かったようだ。これが全て毒ガスだというのは恐ろしいが、現に私は毎日元気だった。

「大丈夫よ明日香、私この街で何年も生きてきたけどなんともなかったわ」

 しゃがんで目を合わせると、最後の一口を飲み込んでバッグから何かを取り出した。

「一応薬を持ってきたので一葉さんも持っていてください」

 好意で渡してくれたのは分かるが、もしポケットがパンパンだったら薬を受け取らず無視していたかもしれない。

 案の定明日香は体力が無かった。道すがら何度も立ち止まるから結局背負った方が速い。ただでさえ徹夜で疲れているのに休む間もなかったが、途中から筋トレなのだと自分に言い聞かせ、自分で歩くと言う明日香をなだめて薮をかき分ける。

 道中は決して楽ではなかったが、明日香の物知りには舌を巻いた。植物も石も虫も全て名前を知っていたし、食べられるものも教えてくれた。連れてきた理由には申し分ない。

「ほら、着い……」

 やっとのことで終希の家に辿り着いた。

「湖……」

 雪が解け姿を現した景色は想像の何倍も美しかった。平地だと思っていた場所は湖になっていて、小島に一軒家がぽつんと建っている。湖の周りには青々とした森が広がっていて、灰色の空を覆い隠していた。

「ここは空気が澄んでいますね」

 明日香もほうと息を吐いた。池には川から透明な水が流れ込み、またどこかへ流れて行く。我を忘れるほど綺麗だ。

 家に明かりはなく、玄関から外側に伸びるように石が転々と浮いている。畔にはボートが停まっていて、近くの木の枝に紐で括り付けられていた。森に向かって獣道が伸びている。その先にいるのだろう。

 思わず駆けだした。無我夢中で崖を駆け下り、湖をぐるりと回り込んで足跡を追っていく。明日香には転がり落ちたように見えたようで、悲鳴が降ってきた。

「ゆっくり来なさい! あの家で待ってて」

「えっ、ここ降り……一葉さん!」

 話が合わなくて物騒で冷たい大嫌いな彼に、何故か会いたくて仕方ない。靴下は机の下に脱ぎ散らかし、収集した本を虫の餌にして、たまに狂気的に嗤うけれど、私が必要だという言葉を信じたい。

 頬や枝をひっかけ血を出しながら走る。絡まった髪をナイフで千切ろうとしたが、置いてきてしまったので枝の方を折った。

 さらに進むと急に視界が開けた。下の方からザアアッと爽やかな音がする。途絶えた地面の先では空が白く広がって、緩やかな弧が天と地の境界線を引いていた。

 崖の際で長い髪を揺らす姿に二階で見た夕焼けが重なる。懐かしさに目を細めて、名前を呼ぶ。

「終希」

 しかし振り向き見開いた両目は真っ赤に染まっていた。灰病の、最初の症状。

「……なんだよ」

「終希、目が」

「他に言うことあるだろ」

「……ただいま」

 少しだけ目が細くなり、口の端に力が込もる。前は氷のような空気があったような。そうか、姿勢のせいだ。やや猫背気味になり、杖……なぜ杖をついているのだろう。

「いや違う、何を連れてきたっつってんだ!」

 忌々しげに此方を見て、腰から銃を引き抜いた。しかしその照準が合うことがなくよろけ、次の瞬間視界から消える。

「終希!」

 遅れて銃声が聞こえた時、私は既に崖から飛び出していた。下は真っ黒。光を全て飲み込んで蛇のように蠢いている。

 得体の知れない恐ろしさに息を止め、しかし泥に飲み込まれんとする終希に手を伸ばす。

「お前も死にたいのか!」

「っ……」

 こういう時に限って迷う。

 そうだ、終希を止めないとまた誰かが死ぬ。

 ここで見捨てれば壁の中の人達に危険が及ぶことはなくなる。研究所が赤黒く染まることも無く実験体を解放できる。なんなら私も居なくなってしまえば皆、


――やっと死んでくれるんだ


 あはは! と静かになったはずの妹がまとわりつくように笑う。考える前に叫んでいた。お前の言いなりにはならないわ、と。

「死んでたまるか!」

 悔しげに唇を噛む終希の手を掴み引き寄せる。同時に強い衝撃が身体を殴り、黒が視界を覆い尽くした。目を開けても恐ろしい暗闇が晴れることは無かったが、右手に伝わる微熱だけは離さずにいた。

「ぷはっ」

 闇を掻き分けなんとか水面に上がった。しかし終希は諦めたかのように引き摺られるだけで、むしろ重しのようだ。

 自分で泳ぎなさいよ、と乱暴に引き上げると咳き込んで瞼を拭う。なんだ、意識あるじゃないか。

「一葉……っは、これは灰だ」

「そんなことだろうと思ったわよ。それより貴方泳げないの?」

 答えるよりも肩に腕をかける方が早く、明日香よりも遥かに硬くて高い体温が伝わってくる。私を沈めようとしてるのかと思って振り払うと、終希の方が黒の下に沈んで行った。

「何やってんのよ!」

「泳げる、いや……は、っ、前は、だ。クソ……力が入らねえ!」

 引き上げてよく顔を見ると、目の充血だけでなく酷い息切れで頬が真っ赤だった。杖をついていたのは自力では歩けなかったから? 灰病の進行がかなり進んでいる証拠だ。助からない病だと日記にも書いてあったし、これのせいで終希の家族は全滅した。しかし終希の目にはまだ強い光があった。

 とりあえず話は近くの岸に上がってからだ。幸運なことに崖の下には少しだけ砂浜があるところがあった。

 終希を肩に掴まらせ、時々溺れそうになりながら必死に泳ぐ。明日香を担ぐ方が遥かに楽だったが、それよりもずっと進む意味がある。

「すまん……借りは返す」

「ええ勿論返してもらうわ」

「オムライスでいいか」

「良いわよ!」

 喋る暇があるなら泳ぎなさいよ、と一喝するより早く肩を掴む力が消えた。

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