3 灰被りの帰宅

 電車は振動なく浮き上がり、滑らかに走り出す。

 簡単に電車とは言うが、これはもはや「車」では無い。というのも車の定義に必要なタイヤが無いのである。旧世界の早くから使われていたリニアが今では当たり前のものとなっていた。速度はそれほどではないが代わりに揺れは極限まで減らされ、他人に配慮さえすれば立ち話をしたりカップで飲み物を飲んだりという、部屋の中でやるようなことは概ね全て出来る。

 車内では子供達がカードで遊んでいた。次の駅で乗ってきた二人組は他人の愚痴で盛り上がり、数分後片方が降りた。

 ここでも同じだった。いつもだったら私の周りはぽっかり穴が空いたように誰も寄って来なかったのに、今日は人が近い。知り合いでは無いので未悠のように積極的に話しかけて来る人はいなかったが、皆私が近くにいてもなんのリアクションも示さなかった。

「喜ぶべきなのかしら……」

 嫌われていようが興味がなかろうが、反対に好意的に接してくれようが、私が東京の皆とは違う種族だということには変わりない。大多数が人間の中で、私や壁の近くに隠れている十数人の仲間だけが実験体。そして、その十数人の人達の中で私だけが壁の向こうに住んでいる。最も人間に遠い存在が私だった。気がついてしまったらもう、戻れない。

「人間になれたら変わると思うんだけど」

 「死ね」と同じ文句ばかり垂れていた妹が、急に「私が一番相応しかった」と反論した。

 終点で降りる。ほとんどがそのひとつ前までに降りてしまったので、改札を潜るのは私含めて五人程度しかいなかった。

 出口前は大きく開けている。低いビル以外に景色を遮るものはなく、巨大で真っ黒な空が街に覆いかぶさっていた。左の方には輪郭の曖昧な月がぽつんと浮かんでいたが、肩に浮かぶモジュールの方がよっぽど綺麗に影を落としていた。

「灰かぁ」

 ロータリーへ向かう歩道のど真ん中で立ち止まり、リュックを前に持ってくる。終希から貰った日記を引っ張り出して、最初の方をぱらぱらとめくった。球が本を感知し、自動的に読むのに適した光になって浮かぶ。

「数十メートル先は霞んで見えない……ということはかなり綺麗になったのね」

 顔を上げると数キロ離れたビルのあかりがひとつ、ふっと消えた。あれほど遠くまで見えるのなら灰があるのかも分からないが、場所によってはいつも霞んでいる。例えば未悠と会った場所では霞を利用してかくれんぼができるかもしれない。

 ロータリーの時計を見ると、あと半刻程で日付が変わろうとしていた。

「いけない、早く帰らないと」

 日記をリュックに押し込み、左を向いて線路の延長線上へ駆け出す。壁の入口までは三キロ程あってギリギリ間に合うか否かと言った具合だ。歩きではどう考えても無理なので走ることにした。

 壁は駅を挟んだ向こう側、背を向けない限りどこを見ても目に入る。存在感はさっき未悠と別れた外縁部とは比較にならないほどだ。こんなところに住んでいる人は追い出されたか頭のネジが外れているかだろう。

 廃墟の塀に飛び乗り、上を猫より速く駆けて隣の家の敷地にお邪魔した。ここは人が住んでいるが廃人の如くゲームに熱中しているので気が付かれたことは無い。カーテンの下から漏れる光を横目に、身長より高い塀に左手をついて飛び越える。

 両足に軽い衝撃を感じ、屈んだ姿勢から伸びるバネの力を前に進め、路地を疾走する。途中のショートカットポイントを全て使い、廃墟の庭を踏み荒らしていく。こんなに壁が近いところに人が住んでいたことがあったのか。

 壁に近づくにつれて塀は崩れて低くなり、家すらなくなってコンクリートの囲いのみになった。ここまで来ると素直に道を走るのが馬鹿らしくなり、真っ暗闇の中球が照らす足元だけを見てちょっとしたアスレチックのようにぴょんぴょんと真っ直ぐ壁へ向かう。

「うわぁごめん!」

 コンクリートの破片を運んでいた蜘蛛のようなロボットを間一髪で避けた結果、ガタガタな瓦礫の山に不時着し体がぐらりと傾いた。しかし無理に体勢を戻そうとはせず、勢いのまま斜め前に手をついて低姿勢になり、クラウチングスタートの要領で瓦礫を蹴る。ぐんと押された体は鳥のように軽く、足場の分からない荒野を大股で飛び越えていった。

 声を上げて笑っていた。こうやって道無き道を駆け回るのが好きだ。木があったら枝に飛び乗るし、家があったら壁を蹴って空を駆ける。幼い頃はこんなことしなかったが、一度覚えてしまったら最後自由の愉悦から抜け出すことが出来ない。

 三キロとは定められた道路を行くものであって、今私が通ってきたルートは二キロくらいしかない。歩いてもかなり余裕ができ、壁の南部にある唯一の出入口には門限の十五分も前に着くことが出来た。

「H型一番です……あ、君はここまででいいよ。入れないでしょ」

 両開きのドアの前に立って名を告げると、ゆっくりと分厚い扉がスライドした。壁の中に踏み出すとアシストロボットは眼前で「ご利用ありがとうございました」と文字を告げ、礼をするように数度点滅してどこかへ飛んで行った。

「はぁい、助かったわ」

 後ろの扉が閉じると暗黒世界にたった一人投げ出されたような気持ちになる。すぐに目の前の扉が開き光のある世界になるのが分かっているからいいものの、知らなかったら相当怖いだろう。

「……ただいま」

 まっすぐ自宅のある中心の方へ歩いていく。ほとんどの道は研究所へ伸びていて、その両隣に民家や広場がぽつぽつとあった。

 ここの住人は全員実験体の子孫だと聞くが、研究者は彼らを人間として見ていた。彼らは東京の人たちとさほど変わらない生活をしているが、研究所生まれの実験体達を煙たがることはなかった。研究所と自分たちを隔てる壁がないからだろう。

 壁の中に踏み入るとやや安心感がある。芝生とか木とかがそこら中にあり、自然を身近に感じられるのもその理由の一つだ。家と家の間隔も道幅も東京の三倍ほどあり、さっき上を歩いてきたような石塀は小さなフェンスで代用されていた。建物だってビルのようなものはなく、高くても三階建てと低めで統一されている。民家はきちんと壁張りだが、店舗はガラス張りで広々と見せる工夫がされている。そうでもしないと、空が見えないほど高い壁しか視界に入らず参ってしまうだろう。

「あー!」

「ん?」

 コンクリ造りで曲線の多い三階建ての研究所もまた、一階と三階の一部がガラス張りになっている。自動ドアから中に入ると、こんな時間なのに人と出くわした。

「一葉さん! やっと帰ってきたんですね、待ってましたよ!」

 ひとつだけ灯ったライトに照らされた長いストレートの髪は、水色をさらに薄めたような青で目も水色。実験体でなければあんな色の髪は見ないが、首にはなんの印もなかった。

 身長百二十程度の女の子は、大きな目を輝かせて私に手を振った。第一印象は可愛い子だ。

「見ない顔ね」

「明日検査が終わったらラウンジに来てください。伝えましたよ、ではおやすみなさい」

「えっ、ちょっと」

 敬語を流暢に使い風のように去る女の子の髪からは、ふわりと石けんの香りがした。

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