4 優秀で意地悪な妹

 次の日。背中や腰の痛みに耐えかねて、まだ真っ暗なうちに起きた。時計を見ると四時、二度寝しても余裕過ぎるほど時間がある。ベッドの質一つでこんなに疲労がとれないものなのか、と愕然として一日が始まった。

「今まではこれでも十分だったのに」

 打ちっぱなしの床や壁が氷のように冷たく、手探りでコートを羽織った。終希の元がどうとかそれよりも、ふかふかのベッドを手に入れないと一年もしないうちに身体が崩壊しそうだ。

「いてて……この環境どうにかしなさい、よっと」

 腰に手を当ててうんと背中を反らす。あちこち痛くて不愉快だ。

 やっと目が慣れてきて、鉄格子に反射した廊下の非常灯でなんとなく部屋の中が分かるようになった。旧世界でもなかったであろう粗末なパイプ椅子。粗大ゴミの中から掘り出したような机に開いたままの日記が乗っているのをまずいな、とリュックに押し込んだ。

 他の実験体達を起こさないようにと自室からそうっと出る癖が抜けない。H型がほぼ全滅して以来前後左右はずっと空室だが、それでも音を立てるのが申し訳なく思えた。

 階段をひとつ降り、一階の実験室が並ぶ通りを横切ってドアを開ける。五段程度の階段を降りて短い廊下を抜けると一般人でも入れるラウンジに出た。

 正面にあるガラス張りの自動ドアを抜け、二、三度屈伸して走り出す。最初はゆっくり体を慣らし、徐々にスピードをあげる。走ってみると今日はむしろ調子が良かった。朝は肌寒く、火照った体に心地よい。冬の空気を胸いっぱいに吸いかけ、ふと日記のことが頭をよぎって呼吸を最小限に収めた。せっかく気持ちの良い朝なのに、残念だ。

 見上げると朝日を反射した東壁の上端が光っていた。もう二時間ほどで太陽が見えるだろう。

 壁沿いを一周し、良い具合に火照った顔をパタパタ仰ぎながら研究所に戻った。ラウンジは掃除が終わり、各机にカフェのメニューが表示されていた。

 隅っこの定位置に陣取り、常温のサンドイッチを食べて一階の研究室へ。ちょっとした階段を上り右手のドアをスライドすると、いつもの研究者が惣菜パンを片手に数字とにらみ合っていた。雑に前髪を結わえ、若干血色に染まった汚い白衣を羽織っている。

「あ、やっと起きたか、おはよう……」

「おはようございます。私、四時には起きてたわ」

「んあ? あ、ああ、一葉か。座れ」

 私の姿を見るやいなや舌打ちをして食べかけのパンを机におき、黒い箱を弄って別の画面を出す。病院で見る問診票とたいして変わらない画面がセンサーだらけの大きな椅子に座った私の目の前にも表示された。

「あ、おい、読んでから答えろ」

「毎回同じなのに読む必要ないでしょう」

 ところどころNoと答えなければならないところはきちんと外してYesの文字を上から連打。内容は気分は悪くありませんかとか変なことはありませんでしたかとかそういうもので、回答を間違えたら質問が増えるしセンサーが起動するしで面倒になる。実際に体調は悪くないし、ずっと頭の中にいる声は今に始まったことではない。だいたい人に言ったところで理解されるわけない。

 ため息を吐いて立ち上がる彼からぷいと目を逸らすと、問診票が消えて視線の先の机に「灰の人体に及ぼす影響とその対処法」というレポートが乗っているのが見えた。今時珍しいアナログに印刷されていて、マーカーが引かれている。

「ねえ、灰って何?」

「も、ももも燃したときに出る、あ、あれか?」

 ピクッと上がった肩からあからさまにおどおどしているのが見て取れた。灰を隠そうとしているという終希の見立ては間違っていなかったのだろう。世界中の空を曇らせてしまうほどありふれている物質に疑問を抱かせないように歴史を塗り替え、空が元々灰色だったと認識させる徹底ぶりには畏怖の念すらある。

「何で隠すのよ」

「……」

 サッと紙をまとめて本棚に押し込んでしまう。いつものチェックを進めようとする彼の機嫌はとても悪そうで、得体の知れない液体を注射針で右腕に流し込むのになんどか刺し間違えた。

「これは何?」

「いい今までそんなこと聞かなかっただろ、ななな、なんなんだお前は! 二葉H-02は従順で、い、良い奴だったのになんで殺したんだ! ったくあんな事件起こしやがって飛び抜けて素晴らしい好奇心と……」

――く、す、り。

 とブツブツ早口で何か言い続ける研究者の代わりに私の耳に内側から語りかける声があった。

「薬……ありがとう、二葉ふたば

――馬鹿な姉さんには勿体ないよ。どうせ死ぬのに。

「うるさいわね」

「……向上心があって最も人間らしい行動を……それに将来性もあって申し分ない……」

 そんなに惜しまれていたなんて羨ましい。妹がそんなに良かったならこの呪いのようなものを代わりに背負って欲しいのだが。そしたらきっと分かるはずだ、H型の中で飛び抜けて性格が悪い奴だってことに。

「所長の娘と同じ人間がお前しかいないから生かしてやってるけどな、く、クローンなんていくらでも増やせるんだ、おおお覚えとけよ

「……」

 大げさに指なんかさしちゃって、必死に優位に立とうとしているのが滑稽だ。後の自室監禁さえなければここでその辺の瓶に入った謎の液体を頭からぶっかけるのに。

「チェックは終わったでしょ、私これから予定があるの。じゃあね」

「おい、まだ終わって……H-01エイチワン!」

 部屋を飛び出すと、待ってましたと言わんばかりに水色の女の子が腰にぎゅっと抱きついた。

「もう、遅いです! 待ちくたびれました」

 水色の少女は足にしがみついたまま、研究者に見えるように頬を膨らましてみせた。

「い、いや、あああ明日香あすかさん別に遅れては無……」

「あのね、悪いことしたらごめんなさいって言うんですよ」

「ちょっと、ねえ何なの……」

 こんな小さな女の子に慌てて謝る研究者と、所長の娘の複製体にすら威圧的な研究者を従わせる明日香という少女のどちらも興味深く映った。

「んー許してあげます。行きましょ、一葉さん!」

「ええ……」

 にこっと笑うと研究者もほっとした表情になる。そのゆるんだ表情に思わず引きつってしまった。子供が可愛いのはよく分かるが、いい歳したおっさんのくせに親に褒められた時のように満足気だ。

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