4章 在り処を探して
1 望まぬ再会
円柱状の巨大水槽が所狭しと並ぶ部屋の一角、水色の少女は鼻歌を歌いながら作業していた。曲は誰も知らない即興のものだったが、ひとつたりとも音を外さず可憐に歌っている。心さえ込めれば歌姫になれたろうに。
小さな立方体の上で数多に浮かんだ数列を摘まむ。それを動かしてパズルのように組合わせ、複雑な線を描いて「エクセキュート」と呪文を放った。すると先程触れたもの以外が一瞬で消え、重要な数字だけが点滅を始めた。
「上手くいきますよーうに」と処理を始めた立方体にお願いし、ワンピースを踊らせながら可愛くくるりと回る。
少女はふと歌うのをやめ、目の前の水槽を見上げた。中に浮かぶ一糸纏わぬ少年の伏せられた睫に目を合わせると、その実験体にだけつけられた黒いカーテンを引き、水槽を覆ってしまった。
少年と話したことは無い。これからも無いだろう。
*
終希の家から急ぎ足で十時間程、ようやくホログラムの立ち入り禁止バリケードと錆びた看板を超えた。やっと雪が止み始め、アスファルトを叩く音がしんとした荒野に響く。
しかしここはまだ人の住む場所ではない。
――お前が死ねばよかったのに。
「っ……」
唐突に脳内で響く自分によく似た声。最近はずっと聞こえていなかったのに、どうしてまた。
――お前のせいで
声の主が自分の意思と反して勝手に喋ることも、必ず私の死を望んでいることも、実のところ何年も変わらない。むしろ終希の家で聞こえなくなっていたことの方が珍しく、今こうして急に聞こえなければ、今まで静まりかえっていたことすら気がつかなかっただろう。そのくらい日常茶飯事だった。
幻聴は元はと言えば私のせいで、声の主は私が殺した妹達の亡霊のようなもの。死してなおこうして呪ってくるのだ。声がする度に心の中で謝ってはいるが、しかし彼女の望み通りの償い方は出来ない。
「私はそう簡単には死なないわよ」
ノイズをシャットアウトして気持ちを切替える。依然として声は私を殺そうと悪意を放つが、もう気にならなかった。
「きっと貴方たちを閉じ込めた檻を壊してあげるから」
冷たい空気を吸って、吐いて、遠くに見える白い壁に手を伸ばした。あれを壊すために帰るのだ。
今立っているここは人類の最後の砦、東京。しかし近くには殆ど人の姿はなく、建物も倒れたりツタに占拠されたりしたままだった。ここは静かすぎて薄気味悪く生活に向いていない。動くものと言えば風に吹かれた草か、たまにいる丸い頭で六本足の生えたロボットくらいなもの。ロボットは蟻のように群がってビルを修理するのが仕事だが、ただこなすだけでその意味まではわかっていないだろう。
一方坂を下れば急に住居や店でごった返す賑やかな都になる。人は皆白い壁に近く、しかし近すぎない場所に住処を構えていたが、どこもかしこもロボットが清掃のために張り付いている。そう、本来あれは人間の為に働くものであって廃墟の現状維持をするためのものでは無い。
それはともかくここから見える光の粒は私の好きな風景のうちの一つだった。
――お前さえ居なければ。
ああそれは確かに、同意する。私があの景色の中にいないというのはとても良い。私がいなければ皆ずっと笑顔でいられる。
「誰!」
人の気配に勢いよく振り向いた。ナイフには手を伸ばさず、腰を落としていつでも殴れるように身体をこわばらせて。
「わあ! 私だよ一葉ちゃん。久しぶり」
「未悠……」
足音の正体はなまめかしく、しかしどこか懐かしい声。背の低い彼女は緩やかにウェーブした茶髪に十八歳らしくかわいらしいチークを施して立っていた。
一方私の髪は所々絡み、顔には枝に引っかかったときにできた細かな傷が多くのこる。化粧など言うまでもない。お洒落が美徳だとは思わないがそれでもやや劣等感があった。
「久しぶり」
言いたいことを五秒かけて押さえ込み、貼り付けた笑顔で答える。一応知り合いだ、殴りかかろうとしていた腕は下ろすことにし、代わりにさりげなく距離を取った。私をばい菌か何かだと思っているはずだから絶対にあり得ないが、再会に便乗して抱きつかれでもしたら嫌だ。
未悠は小学校の時親友だったが、今は仲良くなることの出来ない別世界の住人だ。不登校になってから端末を変えて連絡を取れなくするまでの半年間、「ごめん」すら言わずずっと沈黙を貫いて知らぬ存ぜずを貫き通した傍観者。
「やった、覚えててくれたんだ嬉しい。あ、髪切ったんだねぇ、バッサリ行ったけど短いのも似合ってるよ。それにしてもこんな所で会えるなんて思ってなかったよ。いつもここ来るの?」
嫌な顔一つせず、むしろ好意的なことに目を見張った。私の不機嫌も気にせず自分のペースで明るく話を始める未悠は多分、嫌われているのが分かっているからこうやって作って、けれど自然に笑っている。
未悠は昔のような無垢な清楚系ではなくなって、表向きの明るい言葉の裏に本心を隠す大人になってしまった。変わったのは私も同じだろう。
「……まあね。未悠こそこんな気味悪い場所に何か用事でもあったのかしら」
嘘をつく。人のいないこの場所は静かすぎるが、私からすればむしろ気が楽だ。他人の目は不愉快だから。
だが未悠は今すぐにでも家に帰りたいのを我慢して気丈に振る舞っていた。こんな見え透いた芝居に引っかかるとでも思うのか。東京の人たちは壁と同じくらいここが嫌いなのに? 私に逢いに来た本当の狙いは何?
「ないけど……何か出そうで怖いけど凄いねここ、街の光が綺麗」
「でしょ」
「うん。もう、教えてくれたって良かったのにぃ」
何で貴女に教えなきゃならないのよ、と喉まで出かかったが、未悠は何故か私のことをまだ友達だと思っているようなので景色に見惚れるフリをしてやり過ごした。
「帰りましょ。もう日が暮れてるわ」
「えー、まだ早いよ。てか一葉ちゃん連れて行きたいところあるんだよ」
「ごめんなさい、明日早いのよ」
未悠の腕時計をチラ見すると、短針はXを示していた。話す気がないのなら一刻も早く別れて一人になりたい。
話す度にあの時の怒りが舞い戻る。確かにあの時皆が私を嫌い遠ざけたのは私が実験体であるせいだが、何もしなかったくせに未だに親友だと思われていることに腹が立つ。もうちょっと話そうよ、と不満げに歩き出す未悠の背中にナイフを突き立てる妄想をしては実際にそれをやっていないことに安堵した。
「あ」
くるりと振り返って首をかしげる。もういい加減離れてよ。
「ねえ、一葉ちゃん家ってどこにあるの?」
「は?」
狙いはそれか、と思うと同時に六年前では出さなかったような低い地声が飛び出た。
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