3 充血
西ブロックの端にある広場へ全速力で向かう。叶の家から十歩ほどで後ろの方から「ふぃふ、てぃ……」と溶けかけのアイスのような声が聞こえた。
広場の手前側はレンガが敷きつめられており、奥は靴が埋もれるほど芝生が伸びていた。芝地のさらに向こう側に村を一周ぐるりと囲む森が見えるのだが、鬱蒼としていて虫も多いのであまり近寄ろうとは思わなかった。上手く言葉に出来ないが、そこだけは行ってはならないような気がしていたのだ。
なんとなく薄気味悪い森に近い場所はいつもすっからかんで誰もいないので、いつも俺を見つけては勉強しろとか掃除しろとかうるさい大人達から逃げるにはうってつけの場所だ。無論こんな炎天下わざわざ外に出る元気が有り余った奴は俺たち以外にいないのだが。
「ラッキー、貸切だ」
早々に息をあげた龍を思いっきり引き離してレンガの道を駆け抜け、芝生の中央に置かれた水道から伸びるホースを親指で塞いだ。準備完了、狙いを定めて勢い良く栓を三回転すると、ちょうど到着し膝に手を当てて休憩しようとした龍の頭にクリーンヒットした。
「ぶっ……おいやめろって!」
龍は目を手のひらでぐしゃぐしゃ拭い、顔を上げてにっと笑ったかと思うと急に体当たりした。びっくりした拍子にホースを奪われ、今度は俺が背中に強烈な一撃を食らい、後ろ半身が下着までぐっしょり濡れて張り付く。しかし、その気持ち悪さを乗り越えてしまえば火照った体に流れ込むアイスクリームのような冷たさがすごく心地よかった。
びしゃびしゃのままキャッチボールを始めた。投げると袖が肩に張り付いて動きが悪かったので、自然に二人とも肩まで捲った。
龍が投げたものが思ったより速かったので、ムキになって全力投球すると、取り切れなくてこぼしてしまった。
「ごめん!」
「次は取れよ!」
龍はボールを追って、嫌な顔をしながら森の方へ駆けていく。取りに行くのが俺じゃなくて良かった。森には近づきたくない。
立ち止まっていると途端に暑くなってしまって、ホースを取りに回れ右した。
「ねえその集中力の無さどうにかならない?」
また水遊びを楽しんでいると、唐突に龍はホースの口を絞り、シャワーのようにして目を輝かせた。
「フィフティ見ろよ、虹ができてる!」
見ても何も無く、首を傾げると手招きされる。隣に立つと水しぶきが七色の光を映して光っているのが見えた。
「すげえ」
ホースを高くあげて、虹を大きくした。触ってみようと近づくと消えてしまったが、龍はその辺だよ、と笑っている。実感がないのに触っているよ、と言われても納得いかないので、龍の隣に立って幻影を確認して近づいてみるが、やはり一歩踏み出すだけで遠くへ行ってしまいやがて見えなくなった。
「逃げ水と同じだよ、フィフティ」
「はぁ……」
突然始まった科学の授業を龍は楽しそうに続けている。それをシャワーの中から聞き流して次の面白いことを求めて辺りを見回す。幸運なことにそれはすぐ見つかった。
蛇口に手を伸ばし、勢いよく捻る。急に強くなった水流はシャワーどころか槍のような鋭さとなり遠くまで飛んでいき、思い通り叶を巻き込んでくれた。
「はあ……全くもう、びしょ濡れじゃないか」
薄着に着替えて下の方で二つに髪を結った叶が両手を腰に当てて口を尖らせていた。龍は現実を飲み込んだ瞬間にオロオロと狼狽えて、手元の虹生成機はやる気を失い嘔吐するように水を垂れ流した。
「あっ……いやこれは違くて……」
クスクス笑っていると真上から拳骨が振り下ろされた。
「痛って」
「まあいい」
次の瞬間には涼しくなったと笑って、狼狽える龍の手からむんずとホースをつかみ取ると口をぎゅっと握った。水流で逃げようとする俺達に仕返しをする。
「冷っ、やめろよ叶! あはは!」
「頭を冷やせ馬鹿者!」
逃げ出した龍を叶が追いかけ、その隙に俺は近くに置いてあったバケツに水を汲む。溜まった頃に拾い上げると、ちょうど来た龍にグイッと持ち上げられ、自分でそれを頭から被る羽目になってしまった。
「馬鹿だなぁフィフティ!」
ゲラゲラ笑う二人につられてずぶ濡れのままめちゃくちゃ笑った。頭を振ると二人に飛沫がかかった。犬みたいだと言われたのがおかしくてあまりに笑ったものだから、脇腹が痛くてしまいには涙が出てきた。
「ねえ、叶」
急に龍が叶に一歩近づいて顔をグイッと近づけた。距離がぐんと近くなった二人を見ていると何故か胸の奥の方がチクリと痛んで、その違和感に首を傾げた。最近たまにこういうことがある。
「どうした? あははっ、お前鼻の頭に草付いてるぞ」
「……目、赤いよ」
「え?」
寒い真夏の真昼間、目元から笑顔がすうっと消えていく。地面を抉る水の音だけがやけに大きく耳障りで気持ち悪い。糸くずのように赤くなった両目の充血は、分かりやすく死病にかかったことを示していた。
前髪からぽたぽたと雫を垂らしながら三人の頬は引き攣ったまま固まっていた。
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