9 裏切り者め
引鉄を引く初動を見て咄嗟に真横に転がり、雪を大きく舞いあげる。雪の壁で視界が奪われているうちにおもいっきり後ろに走って距離を取った。
「なんて物を……」
発火を見てから避けていたら絶対に被弾していただろう。この距離でもまだ危ない。
銃はダメだ、終希に銃を持たせたらダメだ。ここで私が死んだらこの先何人が終希に殺されるか! 死ぬつもりも手を抜くつもりもないが、なめてかかると殺される、早く終希を止めなければ私も死ぬし、放っておいたら研究所の人たちも殺しかねない。
銃を見たのは初めてではなかった。銃は、とりわけ終希が使っているようなハンドガンは実験体の射殺によく使われていた。たった一センチ程度の穴が空くだけではなく、穴を押し広げた衝撃で離れた組織をも壊していく。例え心臓に当たっていなくても、胸の端にかすっただけで簡単に死ぬのだ。それが頭だったら? 今まであれで何人が殺されたか。
狙いは完璧だったのに敵を仕留め損ねた終希が、激昂してもう一度発砲した。本気で私を殺そうとしている。彼に数日間過ごした仲間という意識は欠片も無く、全て私を殺すために放っているのが信じられなかった。復讐の標的が私に移り、その身に収まりきらなかった憎悪が溢れ、足が寸時鋼鉄の鎖に掴まれたように固まった。
「終希ぃ!」
恐怖を怒鳴りつけて薙ぎ払い、無理矢理鎖を引きちぎって間一髪で避けた。低い風切音が耳元で聞こえたが、その行く末を見るような悠長な時間は無い。立て続けに四発、避けた先に飛んできている全てが額を狙っていた。両手に冷や汗を握っていることすら気がつかず、ずっと終希から、いや、終希の手元から目を離さない。右へ左へ飛ぶ度によく知った死の冷たい感覚が呼び起こされた。
ふっと息を吐き頭を切り替えた。怯えてなどいられない、終希を倒すことに集中する。
後ろ五十メートルに森の気配がある。木は葉を落とし視界が悪いとは言えないが、雪原より障害物のある所で戦わなければ私に勝機は無い。雪で踏ん張りがきかず思った以上に体力が削られているのだ、避けられなくなるのも時間の問題だろう。
銃声が響く度に転ばないことを祈りながら走り避け、どんどん下がっていく。しかし、射程ギリギリになっても終希が玄関から出てくる気配は一向に無かった。
つまらない。
自分がそんなことを思ったことに驚愕したが、やがて腑に落ちた。私はそういう奴だったんだろう。自分と相手が生きていることを感じられるあの緊迫した空気が好きだ。
「対等に戦え!」
終希の表情がよく見えないくらい離れたにもかかわらず射撃の正確さは保ったままだった。なんという正確さ、舐められているが確かにそうするくらいの実力がある。
終希は焦っているのか先読みすることはなかった。それが幸いと言えばそうなのだが、退屈で興が冷める。本気で戦う気のない人を負かしても私の勝ちにはならない。
声を上げて数歩下がり、射程外まで出た。
「本気で来なさいよ!」
「――」
遠くて何を言ったのか聞こえないが、苛ついていることは分かった。届いていないのが見えたのか鉛を吐き出す鉄塊の動きが止まった。その隙に背を向けずじりじりと下がってくるりと振り返り、森に飛び込む。障害物のあるところだったら私もお構いなく動けるし、一方的にはならない。
終希がここで私を逃がすとは思わなかった。願望に近かったが、自信があった。だから、身を隠し、時折木の合間からわざと見せて森の奥へ誘導する。
*
全てが終わったあの日からずっと炎が脳を焦がし、耳の奥で「許さない」と自分の声が反響している。
「本気で来なさいよ!」
「死ねよ」
仕留め損ねた。ブーツを履いて外に出るとやや風があったが、寒いとは思わなかった。
こっちは本気でやっているのに舐められているのが余計に頭に血を上らせた。弾よけゲームじゃないのに、一葉はこれを楽しんでいる。風の影響を加味しても全て狙いに狂いはなかったのに、余裕を持って避けられてしまった。それに加え、「戦え」だと? 馬鹿馬鹿しい、これは一方的な殺戮だ。早くあいつを殺さないと。研究所に味方する奴は全員殺さないと。
一葉は森に逃げ込んだ。ざまあみろ。
目の良さには自信がある。それに、いくら隠れようとも家の周りの森は庭のような物だ。何がどこにあるのかよく知っているし、目を瞑っていても走れる。遮蔽物があろうと自分の有利には変わりない。
木の幹に隠れて不意打ちするつもりなのは想像に難くないが、幸い雪が降った後だから足跡を見れば分かる。一葉が馬鹿で助かった。
「どこ行きやがった」
しかし急にどこにいるのか分からなくなった。足跡も途中で途切れている。森に数十歩踏み込んだだけなのにもう見失ったようだ……何故だ、死角になる場所は全て確認済み、変な音もしていない。右もいない、左も何も変わっていない。後ろか! と振り向いて銃を向けたがそこにも何もなかった。二人分の足跡がこちら側に続いているだけだ。
逃げられた、殺せなかった? あいつを殺さないと研究所にここのことも俺のこともばらされて、家族のことも龍のことも俺のことも人間としての尊厳もなく処分されてしまう。許さない。
「クソッ!」
「戦えと言ったのは貴方が先よ」
上! と気がついたときには既に後頭部を蹴られた後だった。刹那意識が飛び、戻った時には銃を持った左腕を掴まれ、喉元にナイフが当てられていた。当てただけで切れるように研いだのは俺だった。
「てめえ……」
邪魔をするな、賛同してたくせに、何故止める裏切り者、死ね、死ね、死ね!
「諦めなさい、この状況で貴方に勝機なんて無いでしょ?」
「思い、上がるな」
この状況でも飛び道具がある俺の方が有利だ、手元が狂ったら自分の頭に穴が空く危険があるから容易には出来ないが。
何を思ったか、ナイフが外されて自由になった。馬鹿に感謝しながらすかさず殆どゼロ距離にいる敵を撃ち抜……
「どこ行った!」
「諦めなさいと言ったのよ!」
足首を蹴られて胸に強烈な一撃が叩き込まれ、降り積もった雪にめりこんだ。肺の空気が全て押し出されて、代わりに雪を吸い込む。女とは思えない力強さで踏みつけられて、雪すら吸い込めなくなった。肋骨から嫌な音がして、感じたことのない痛みが襲う。左手に握っていたはずの銃がない。
「復讐なんてさせない」
足を掴むともう一本折れた。下手したらそのまま踏み潰される。
クソが。声が出ない。代わりに火が起こるんじゃないかと言うほど怒りを込めて睨みつけた。
「貴方の負けよ。話を聞いて」
聞く気はないが、生き延びるために両手を頭の横に置いた。これ以上抵抗したら研究者共を蜂の巣にする前に俺が潰れて死ぬ。こんな所で死ぬなんてみっともないことできない。
やっと解放され、胸が痛むのに何度も咳き込んだ。鉄の塊は手を伸ばせば届くところに落ちていたが、もはや抵抗する気は無い。
負けた。
ということは、俺が表面上とはいえ一葉の意見を受け入れなければいけないということだ。俺と同じ実験体であったとしても、育ちが東京である以上俺とは異なる思考をしている。それはこれまでに幾度となく感じてきた。
「終希、実験が止まるまでは仲間でいましょう」
何が言われるのかと思ったら、あろうことか勝者は手を差し伸べた。屈辱的なセリフを吐きながら。ふざけるな、研究所を擁護(ようご)するやつと仲間でいられるわけが無い。
……いいや、問題ない。イエスの一言くらい、言ってしまえばいい。約束は破るためにあるものだ。
「……っ」
しかし、言葉が喉から上に上がってこなかった。無理だ。口先だけとはいえあいつらを生かす選択など出来ない。
「死にたいなら手伝うわよ」
「……」
一葉は俺の胸ぐらを掴んで言い放った。顔がとても大きく見えて思わず目を逸らすと、手を伸ばせば届く高さの枝の上にだけ雪が乗っていないのを今更見つけた。あの枝は切っておくべきだった。
死ぬことはあいつらに殺されるのと同義の侮辱になる。だから、あいつらを殺すまで絶対に死んではならない。そう、ただ同意すれば解決する簡単な問題だ。
「貴方だって言っていたわ、一人では無理だって。そうでしょ? たったひとりで研究所に乗り込むなんて無理だと思ったから私に話を持ちかけたんでしょ」
ゆっくりと解放されて胸の痛みが幾分引き、また噎せるように咳き込んだ。青みがかったグレーの空、乾燥した空気が喉と肺から潤いを奪う。
「……わかってんじゃねえか、一人では無理だ。だからお前に力になって欲しかった」
よくも台無しにしてくれた。こんなに強い奴が仲間になってくれてどんなに心強く感じたか。
あの日一葉は協力すると言ってくれた。不安要素はあったが、友好的にいれば共に戦ってくれると思っていた。
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