8 焼印
水を持って戻ってきた終希は話しかけるなと言わんばかりに背を向けて座った。首の左側が少しだけ見える。目を逸らし、瞬きをして自分が夢の中に居ないことを確認する。やっぱり赤茶色の呪いが。
「焼き印……」
それは「人間では無い」という決定的な
ということは私と同じだから首のことに触れないでいてくれたのだろうか。終希が東京から離れたこんな雪山に一人でいるのは研究所生まれだからで、私のように人間の枠に入れないのが嫌になったということか?
「……?」
終希が見られていることに気がつき振り返った。この話題で目が合うのは気まずいので膝の上の両手に視線を落とす。
「ううん、なんでもないわ」
その重い過去を知りたいという自殺行為のような衝動と自分の精神の安定を保ちたいという防衛本能が争っている。踏み込みたくないのは直接終希に攻撃されるからでは無く、私と同じ被害者であるということを実感したくないからだ。もう知人が苦しむ姿を見るのは嫌だった。死にかけながらたどり着いた新天地で研究所の痕跡なんて見たくない。
「……これか」
触れないでおこうとしているのに、私が実験体だと知っている終希は大したことと思っていないようだ。広げた襟からはっきりと人工的な火傷の跡が見える。
「
「分かってるわよ。私だって嫌だわ」
番号は生まれたときに与えられる真名だ。一葉や終希というのはその後付けられた呼び名なので、研究所で必ず真名で呼ばれた。最初のアルファベットはシリーズを意味し、その次の番号は生まれた順番を意味する。終希はG型の五十番目、私はGが廃版になった後に生産されたH型の一番目だ。
「だから、俺の方が、んん、年上だ」
タイミング良く終希が自然を装って話を逸らす。喜んでそれに乗った。
「そうね。今いくつ?」
頬が錆びた機械のようだ。自然に笑えていないだろうが、終希も同じだ。
「十九」
「あら、一つしか変わらないわ」
六年間過ごした道場では遥か年上の人ばかりいたため一つ差など誤差にしか思えなかった。そのせいで更に同調しやすくなっているのかもしれない。
終希は喉を押さえマグカップの中身を一気に呷ると、また表情の消えた顔を背けて「もう二度と話しかけないでくれ」と背中で示す。光のないオレンジ色が他人との交流を拒絶している。
でも、ふいに浮かんだ疑問が気になって気になって仕方ない。歯に挟まった繊維のようにもどかしく心を支配する。
それなら尚更、どうしてここにいるの、と。
実験体は焼印の下に埋め込まれたチップで研究者に監視されている。定期的に位置情報が発信され、研究所の外にいるとロボットに連れ戻されるか、最悪の場合は人目のないところで殺処分された。
位置チェックはひと月に一度だけだが、研究所から出ることを許されていない人はもっと高頻度でチェックされている。小学校に入学する前は私もそうだった。
だから私はすっかり地獄、つまり東京を脱出したような気分でいるが、このままずっとここにいる事はできないことは最初から分かっていた。外にいるのがばれたとき運良く処分されなかったとして、次の日から毎日監視されることになるのは分かりきっている。そんなの死と同じだ。
「なんで、貴方生きてるのよ。だって、その……チップは?」
眉間にしわを寄せて言葉を選び、恐る恐る声を絞り出して問う。かなり踏み込んだ質問をしているとは自覚している。
終希はすこし考え、後ろを向いたまま両手をあげた。
栞を持った右手で頭上を縦に裂き両手でその割れ目をこじ開ける。そして割れ目の中から異物を取りだしてギュッと握りつぶし、暖炉に放り投げた。新鮮な空気を貰った炎はぼうっと大きく上がり、また小さく収まった。
燃えつきたであろう物体にひらひらと手を振ると本の世界へ戻る。
「取り出したの? 首を切って?」
触れてはいけないことではなかったことにほっと胸をなでおろす。
頭が小さく縦に揺れた。もう口を開こうという気は無いようだ。
「信じられない」
一歩間違えたらチップが作動するよりも前に血管を傷つけるか神経を傷つけて死ぬ。首を切るなんて綱渡りなことをするより面倒でも東京に帰った方が安全だろう。チップは小指の先ほど小さく、組織の中から見つけ出すのは至難の業のはずだ。
「自分でやったの?」
今度は横に揺れた。長い一つ結びが腰の辺りでパサパサ荒ぶっている。
「誰に?」
急に空気が凍った。やってしまった、とうとう地雷を踏み抜いた。昔関わった人のことは触れて欲しくない話題のようだ。
終希は辞典のような分厚い本に栞を挟みパタンと両手で挟み込むと、立ち上がり机に叩きつける。そして暖炉に太めの薪を投げ入れると、本を掴んで行ってしまった。
「ちょっ」
一人になった広い部屋でその身に突き刺されたナイフの形をいくつか想像してみた。身体に色々なものを貼られたり、変な液体を無理矢理身体の中に入れられたりしたのだろうか。若しくは身体のどこかを切られたかもしれない。自分の知っている範囲内で粗方シュミレーションし終えたとき、はっと気がついて口に手を当てた。
これではあの時鼻で笑った終希と同じだ。私も彼も、他人の傷を自分の尺度で測って、自分が一番不幸だと思い込みたいんだ。
落ち着いた頃、静寂を破って大きな足音のあと乱暴に扉が開いた。何事か、と顔を向けると青い顔をした終希がドアノブに手をかけたまま私を見ている。
「終希、ドアをもう少し優しく……」
「一葉、次のチェックはいつだ!」
「えっ、二十五……あの、本当に声が……」
親指から順に指を折り、小指から開いていって中指を立てて頷く。そう、あと八日だ。
あまりの声にもう一度大丈夫? と声をかけたが、終希はそれを聞く前にドアを閉めてしまった。
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