7 噛み合わない歴史

 食器を片付けた終希はまた机の横の椅子に戻ってきてノートを読み始めた。しばらく無言の時が流れ、ページをめくる音と薪が弾ける音が静寂をより際立たせた。私は終希と違ってやることが全くなく、加えておなかがいっぱいでうとうとしていた。気怠くて話しかける気力も無い。

「なあ一葉、東京ってどんなところ」

 急な声に目が冴えた。話しかけないでくれというオーラを全身から発していた終希が、あろうことか自分からどうでも良いことを聞いてきた。

「え、私東京から来たなんて行ったかしら」

「人は東京にしかいない」

「あっ」

 東京以外の地域に人はいないというのは常識であったはずだが、終希と出会ってから認識が変わっていた。

「どんなって……うーん、良い所よ。人がたくさんいて、平和に暮らしている」

 色々あったけれど、世界は明るく見えた。小学校での事件も四日前飛び出してきたときのことも、全て私が悪かっただけだから、東京はどんなところと聞かれたら「平和」と答えるのが妥当だ。

 しかし、終希はふっと馬鹿にして嗤った。

「いいな、平和。じゃあ逃げてきた理由もどうせくだらないんだろう……そうだな、虐め?」

 やっと感情を見せたかと思ったら、人の心にずかずかと土足で踏み込んでケチをつけるとは! 怒りで言葉も出なかった。

「図星か。わかりやすいな」

「っ……」

 終希はまたつまらなそうな顔をして本の世界にのめり込んでしまった。あながち間違っていないから何も言い返すことができず唇を噛んだ。

 何も知らないくせに人の苦しみを自分の尺度で測って「幸せ」と判断する、その無表情を思いっきり殴ってぐちゃぐちゃにしたいし、なんなら殺してやりたい。いい人だとかすかにでも思った私が馬鹿だった。

 なにかケチをつけられるものはないかと終希のノートを見ると、黄ばんだ表紙に「日記帳」と書いてあった。見返しているのかと思ったら「藤原 陽菜」と女性の名前が記してある。

「人の日記読むなんて素晴らしい趣味をお持ちのようね」

「人が読んでいるものを盗み見るのとどっちが良い趣味だ」

 またこの仏頂面! ああ嫌だ、こんな状況になっていなかったら絶対に関わらなかっただろう。人を馬鹿にするような奴とは根本的な部分から合わない。手足が治ったらこんな所出て行って、二度と会うことのないところで暮らしてやる!

「……本当に嫌だわ」

 「出て行ってやる」と思ったものの、動けるようになるまでまだ暫くかかるだろう。こんなに暇な時間ができるとも思っていなかった。ゲームにあまり興味の無い私は生憎ゲーム機の類いを持っていないし、そもそもネットにつながるもの一切を持って来なかった。

 暇つぶしのものがないときにやることと言ったら寝るか話す以外無い。だんだん治ってきたが歩きたくないことを言い訳にぐうたらしているうちに三日も経っていた。

 嫌いな人といえども七十二時間も一緒にいれば人となりが分かってくる。

 終希は表情が乏しい人だが、全くないというわけではなさそうだ。ただ、長く持たないだけ。私を馬鹿にしてはふっと笑い、数秒後表情を消して本に目を落とす。嫌なことを言われても一瞬殺気を放つだけで、顔を背け息を吐いて通常運転に戻る。

 そして終希は人がいることに慣れていない。目を合わせるのも話すのにも躊躇しじっと止まっていて、そんなときは私から声をかける。話し始めたら物怖じせずにすらすら話してくれるのだが、ふいに止まり次の言葉を迷うように口をつぐむ。最後に考え抜いた台詞を簡潔に読み上げて、もう会話はしたくないというように本の世界に籠もってしまうのだ。

 結果的に本ばかり読んでいる。ただ、辛くないにせよ全く楽しいと思っていないようだ。活字に向き合う様子は押しつけられた作業をこなすのに似ていた。本を持っていない時間は風呂に行くときと家の外に行くときだけと言っても過言では無い。それが当然やるべき義務だというように、ずっと古い本を握っている。

 小説はあまり見かけない。それよりは参考書や実用書など。一番多いのは誰かの日記で、決まって旧世界の人の名が表紙に手書きされていた。かわいらしい子供の字もあればクセの強い大人の字もあって、一貫性は特にないようだ。しかし何百年も前の資料のため綺麗なページなど一枚もない。床に抜け落ちる中身を拾って適当な場所に差し込むなんてざらにあった。

「日記が読みたいわけじゃなくて、旧世界のことが知りたいだけだ」

 他人の生活を覗く趣味があるのだと思っていた私は心の底から申し訳ないと謝った。

 今日読んでいるのもまた旧世界の日記だ。旧世界の人は必ず名字を持っているのですぐに分かる。年代は二二一三年から四年の一年間のものだと表紙に記載されていた。

「お前は特に、名字は違和感あるだろ」

「ええ。今は名前しかないから。旧世界の人間はいちいち長い名前を書かなきゃならなかったのよね。今に生まれて良かったわ」

 家族共通の名前がなくなったことは世界が新しくなったときに大きく変わったことの一つだ。狭いシェルター生活の末、敬称をつけるほど疎遠な人はいなくなり自然と消滅したと授業で習った。だから旧世界の人と今の人は名前を見れば分かる。長いのは旧世界、短いのは今の人。テストで原敬がひっかけにつかわれる。

 もっと早く名字が消えていれば社会のテストで満点を取れたかも知れないのに、と愚痴が飛び出た。

「満点? お前頭良いの?」

 驚き疑いの声を発しながら終希が顔を上げた。終希は私のことを馬鹿だと思っているのだ。

「学級委員長もやっていたのよ私」

 ふふん、と胸を逸らす。

 六年の半年だけだが、事実は事実。それに、無能だったから引きずり下ろされたのではなく、学校に行けなくなってしまいやめざるを得なかったのだ。終希が思っているよりは優秀だと言うことになんの不都合もない。

「へえ、じゃあ今は西暦何年?」

 足し算に初めて触れた子供に繰り上がりのある問題を出して意地悪するときみたいに笑う。

「西暦ですって! ええと……二千二百……いくつだっけ、に四四〇足して……」

 予想外の質問をされた私は素っ頓狂な声を上げてしまい、咄嗟に宙をノートにして筆算をはじめる。計算しようにも何と何を足せば良いのか分からないので、と適当に「二千六百」と答えた。

 だってシェルターから出てからは「新暦」という暦しか使っていないのだ。誰にも通じないので西暦を使う人はいない。

 終希は私を鼻で笑って「馬鹿だな」と罵ったのを最後に表情を消し、黄ばんだ参考書に目を落とした。

「三八〇九」

「はぁ?」

 いやいや、三千はないだろう、千の位を間違えるなんて終希の方が馬鹿じゃないか。

「わけわかんねえって顔してるだろ、東京人」

 終希は言い間違えではなく本気で今が三千年代だと思っているようだ。ずっと読んでいる本はオカルトじみた内容なのか? なんてちらっと思う。終希が自信満々に振る舞うので最終学歴小学生じゃ確かに私は馬鹿だと一瞬頭をよぎり、いやいや流石にそれはない、と吹き消した。今は新暦四四〇年、西暦二六○○年くらい、小学生でも知っている常識だ。

「どうして今が三千八百年だと言っているの? 貴方おかしいわ、小学生からやり直したらどう?」

こんなに話の噛み合わない人が私と大体同い年だとは思いたくない。

「無知って良いなぁ」

 常識知らずはどっちよ。

 とんちんかんなことを言っているくせにそれをさも当たり前のように披露する終希に嫌気がさした。

「どうしてって聞いているのに、馬鹿にしないでよ」

「お前じゃ理解できねェだろ……」

 嘲る終希の声が掠れた。喉に何か不調があるのだろうか、首に手を当てている。

「あー、んん」

「……声、枯れてるわよ」

 もともとかなり声が低かったが、今は少しだけ高くなってイガイガしている。風邪でも引いたのだろうか。

「うるせえお前のせいだ……人と会話するの三年ぶりなんだよ」

「うそ、この程度で喋りすぎたって事?」

 終希は昨日、三年も誰にも会わず一人で暮らしているのだと教えてくれた。

「独り言はこうやって人と話すときほど……あぁ声でねえ、喉使わねえから」

 私が上手(うわて)に行くことができるものを見つけた。暫くこれでいじれそうだ。

「今日はもう喋りたくねえ……さっきの年の理由、どうしても知りたかったらまた今度五時間かけて教えてやる」

「長過ぎ、今三〇分で教えて」

「殺す」

 ガラガラな声で悪態をつく終希を鼻で笑う。笑われた終希は暖炉に向かって舌打ちした。

「ねえ終希」

「……」

 喋りたくないと言った直後に声をかける私をギロリと睨む。終希は怒ってもたいして顔は変わらないが、わかりやすく殺気を放つ。しかし、声がかすれていてはライオンのような恐ろしさはかけらもなく、みぃみぃ威嚇する子猫のようだった。

「ナイフ、研いでくれてありがとう」

「話かけんじゃねえ」

「あははっすごい声!」

 舌打ちして椅子から立ち上がり、私の頭の方を回ってキッチンに行ってしまった。

 そのとき一瞬、しかし確かに、終希の襟の下に赤茶色の傷が見えた。

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