5 曰く、護身用

 一体あの訳の分からない質問の意図はなんだったんだろう。後……とか何とか言っていたが思い当たる節はない。

 肩にかからない程度でしか無かった右髪が更に短く切られたこと以外は特に傷を負った事も無く、無事に解放されたことにほっと息を吐いた。ただ、ナイフが手元にないことに気がついてしまってからはずっと落ち着かない。あれが無いと自分が途端に弱くなってしまったように思えてしまう。

 小学校に行かなくなってからずっと腰にナイフを隠し持っていたが、東京は凶器を持って自衛しなければならないような治安の悪い場所ではなくむしろその対極にある。日常的に使わないような凶器を持っているのがばれれば即通報され、馬鹿力の警備ロボットに連れて行かれてしまう。犯罪に対する対処は様々だが、危険物を持つような人物は即刻排除するというのが東京の常識であり、戦争を乗り越えた人類の総意だった。

 それほどの危険を承知でいつもナイフを持っているのは、別にそこまでして元同級生たちや先生に復讐したいからではない。その小さな刃物が私のお守りだからだ。いつも私の身と心を守ってくれる。

 それが手元にない今、不安にまとわりつかれ落ち着かない。

「あの、私が持っていたものって」

「そこ」

「どこ……」

 視界の外から声だけが聞こえる。おそらく所在を指しているのだろうけど、視界に天井しかない私に分かるわけがない。返答がないので、仕方なく首を少し浮かせて部屋を見渡してみた。

 ソファの正面に小さな机があり、その隣には手作り感のある木の椅子がちょこんと置いてある。上に小さなノートが乗せられていたが、なんの本なのかまでは見えなかった。奥にあるガラス窓の暖炉が先程からパチパチと音を立てている。暖炉の左側に窓があり、カーテンレールに私のコートが掛けてあった。リュックやポーチなどはコートの下に積まれている。

 ナイフがあるとすればあの山の中だ。取りに行こうと思えば数歩でたどり着ける距離だが、この体で起き上がって歩き、重たい荷物を持ち上げて、それを運びながらここまで帰って来られる自信はなかった。

 しぶしぶ彼に取って貰おうとして固まる。開いた口から出すべき音が見当たらなかった。

「ねえ、貴方名前はなんて言うの?」

 陶器と陶器がカチャカチャぶつかり合う音がピタリと止まり、静寂が訪れる。聞いてはいけなかったのだろうか。

 暫くして隣で薪がピシッと弾けたとき、ようやく答えが返ってきた。

「……しゅうき」

「なんて?」

終希しゅうき、終わりに希望の希」

 変わった名前だ。

「終わり……?」

 人の名前に「終」という負の印象を持つ字を使うのは極めて珍しい。そして「希」という字は稀とか珍しいとかの意味も持っているが、一般的にまず思いつくのは彼の言ったとおり希望だ。二つを組み合わせると希望の終わり、絶望、そんなマイナスの意味の単語。聞いただけで生まれたときに何か大きな事件があったと思わざるを得ない不吉な名前だった。名乗るのを躊躇するくらいなら、偽名でも良いからもっとまともな名を名乗れば良かったのに。

「終希、バッグを取って欲しいんだけど……」

 ええ……? と怪訝に思いながらも名前を呼んでみる。彼はどうやらその名前が嫌いではないらしく、二つ返事で引き受けてくれた。嬉しいとか恥ずかしいとかは分からないが少なくとも嫌そうなトーンではなかったので安心する一方、その不吉な名前を多少なりとも受け入れていることが不思議に思えた。

「ここでいいか」

「ありがとう」

 終希は相変わらずの不機嫌そうな顔でバッグ類を抱え、ソファの前に置いてキッチンへ戻っていった。

 また腹筋を使って起き上がり、水膨れにできるだけ触れないように気をつけながらファスナーを開ける。てっきり終希は私から何かを聞き出したり脅して従わせようとしたりすると思っていたのだが、そうではないようだ。減っている持ち物は何もない。

 ナイフはホルスターごとサイドポケットに入っていた。

 鞘から引き抜いて驚いた。明らかにいつもより光沢が増している。研いである。

 終希はどうやら刃物の扱いに慣れているようだ。あの包丁もとても切れ味が良いらしく綿の飛び出たソファの切り口はとても綺麗だった。あれが頭に当たっていたかと思うとぞっとする。

 ナイフで自衛ができるとは言え、これをくれた恩人である道場の師匠は地下室以外で使うことを禁じた。万が一警察沙汰になったときのことを危惧し、使うのは自分と自分の仲間を犠牲にしても良いと思えるときだけとたたき込まれている。おそらく今でも仲間達は東京の例の場所で人間たちに溶け込み、ナイフは持たずに生活している。

 今さっき殺されかけたのだから私が今更ナイフを出したところで悪いのは終希の方、とナイフを人目にさらけ出していることを正当化する。私は脅されるだけの人間じゃない、と凶器をちらつかせて振り向いた。流石に警察もここまでは来ないだろう。歩いて一日もかかったのだから。

 カウンターの向こうに立った終希と目が合う。私達はしばらくそのまま見つめ合っていたが、私が何もしないのを見ると何事もなかったようにふいっと逸らしてしまった。もし何か敵意のあるリアクションがあったら研いでくれたことの感謝を伝えてごまかそうと思っていたが、投げられた感情は「無」だった。ナイフが怖くないようだ。

 使い道のない武器を取り返した私はそれをまじまじと見つめ、仕舞ってホルスターごと枕元に置いた。

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