4 出会い
*
「っは、はぁ……」
笑い声に突き飛ばされるように目が覚め、夢の内容を振り返り奥歯を噛む間もなく呆然と固まった。
ここはどこだ。
パチパチと何かがはじける音がする。私は柔らかいものの上に横たわっているようだ。さっきまで雪の中で歩いていたはずなのに、ここは暖かくて心地よい。そんなわけあるか、とぎゅっと目を瞑り、頭を雪景色に戻してからもう一度開けてみる。
何度そうしても、目に映るのはやはり見覚えのない色だった。どう考えても建物の中。音の方に目を向けると、暖炉の中で薪が静かに燃えているのが見えた。うーん、やっぱりどう考えても建物の中だ。視界の端に低いクッションの壁があるので、私が寝ているのはソファとみて間違いないだろう。
「……」
自分の置かれた状況をあまりにも理解できなかったので、諦めて思考を放棄した。
もう一度寝て起きたらちゃんと現実に戻っているかも知れない。そう思って目を閉じてみるが、次に眠ったときは悪夢の続きだと思って眠れなかった。
耳を澄ますとかすかに足音がする。床がきしむ音は私に近づいてきて、すぐ近くで止まった。横にいるはずだが、それから一切の動きがない。背もたれのせいで影すら見えない。得体の知れない何かが怖くてしばらく狸寝入りを決め込むことにした。
ソレは離れることも声をかけることもなかった。より正確に言うとそれから一切の音がしない。あまりに何も起こらないので足音があったことが嘘だったのではないかと思えてきた。そうに違いない、と目を開けると、包丁を持った亜麻色髪の青年と目が合った。
「うわっ」
「ぎゃああっ!」
数分間ずっと同じ体勢で止まっていたらしい青年は、目を開けた途端のホラーに仰天して大きな声を出す私よりも驚いて猫のように後ろに飛んだ。
「な、なに? っ、痛ったぁ……」
起き上がろうと手に力を入れると、激痛が走った。見ると自分のものとは思えない指が目に入る。ひどい凍傷だ。足にも痛みがあることに気がついて恐る恐る見ると酷い有様が目に入った。薄汚い茶色に変色した皮膚は全て大きな水膨れで、小指に至ってはそれが潰れて中の組織が見えていた。全体的にむくみ、風船のように膨れ上がっている。少し動かしただけであまりの痛みに涙が出た。痛覚があるので壊死はしていないようだが、当分歩けそうにない。
「い、生きてるなら生きてるって言ってくれ!」
「えーと、生きてます……」
震えがちな低い声が背もたれの向こう側から聞こえた。あまりの痛みに起き上がれず、天井に向かって返答する。
「……うん」
いやいや、「うん」って何? 会話下手か。
雪道を歩いていたこと凍傷になったこと。どうやらこの青年に助けられたことは夢ではなく、今こうして生きていることも現実のようだ。どんなヘンテコな夢よりも現実の方が予想出来ない。
東京の外には人などいないというのが常識であったから、まさか一日近く歩いてやっとたどり着くほどの山中に人が住んでいるなんて思っていなかった。いたらいいななどと思ってはいたが本当に人と出会えるなんて。
「……死んでた方が楽だったな」
兎も角命の恩人である彼に、助けてくれてありがとうと一言言おうと思ったのが、やめた。確かに見ず知らずの人を拾って、その人のために意識を持って行かれるのは疲れるであろう。しかしそれは本人を前に言って良い言葉ではないし、普通の人は意識が戻ったことを喜ぶのではないだろうか。私だったらそうだと思う。
自分の首の左側にある焼き印が気になった。人に見られると居場所を無くす悪魔の刻印だ。
せっかく新しい環境に巡り会えたのに、家の場所と素性を意味するそれを見られたらまたあの過去に後戻りだ。また皆と何も変わらないのに、それがあるだけで人間ではいられなくなってしまう。だから首に手をやりたかったが、それが呪いの存在を誇示することになると思い至りぐっと抑えた。
彼はもう一度此方に歩いてきて、顔をのぞき込んだ。整ったとまでは行かないが特に欠点のない、平凡でどこにでもいそうな青年だ。目は東京人らしからぬオレンジ色で、そこになんの感情も無いものだから安っぽい飴玉のようにも見えた。
一番目を引くのは髪だった。髪の長い男性は珍しくないが、髪の全てを伸ばしているのではなく一般的な短髪に尻尾がついているような変な切り方をしている。いや、わざと残していると言った方が的を射ているだろう。一箇所だけ残し続けるのには手がかかる。
彼は眉一つ動かさずにやや筋肉質な右手を振り上げ、突然顔の真横に包丁を勢いよく突き刺した。
「っ!」
とっさに顔を思い切りそらして避ける。顔の三センチ横でざくっと言う鈍い音の後に白い羽毛と深緑色の毛髪がぶわっと舞い上がった。いつも腰に差してあるはずのナイフの柄を掴もうとするが、つかんだのは空気のみ。激痛の走る右手で殺人未遂を犯した狂人に対する武器を探すが、身につけてあったものは全て没収されてしまったようだった。
もっともナイフがあったとて、この体勢では勝ち目など無いだろう。
「いきなり何!」
「今からする質問に正直に答えろ。俺の気に障ったら殺す」
刃がギラリと光る。無駄に反抗しない方が良いと悟った。
「一つ、なぜおまえはあそこにいた」
光のないナイフのような目が私を見つめている。凶器を奪って、と考えたが自分の置かれた圧倒的に劣勢な体勢では難しいだろう。彼の背丈はそこまで高くないが、女性一人くらいなら簡単に持ち上げられる体格をしている。一方私は手足がほとんど使えない怪我人だ。
気に障らない答えが何かなんて分かりっこないので、いろいろ考えず素直に答えることにした。
「逃げてきた」
「逃げてきた?」
彼は目を丸くして綿からナイフを抜いた。なんという答えを想像していたのだろう、訳がわからないのは私の方だ。
「……二つ目、何故村に向かっていた」
包丁を握りしめたまま立ち尽くされても。
村というのは昼頃山の頂で見た廃村のことだろう。あんな崩れたレンガの塊に何か意味があるのだろうか。ただ、飴玉の奥底はテリトリーを侵されることにおびえ震えている。恐らく大切なものなのだろう。
「休憩がしたくて、そこに家があったから向かっただけ」
ナイフの切っ先を視界に入れながらも「怪しい人じゃないですよ」と両手を挙げると、ようやくナイフを下ろしてくれた。
「それで、他の奴らはどうした」
「誰?」
「お前の後の奴」
「後?」
「えーと……」
私の後と言う言葉の意味が分からず眉をひそめる。あと、とは私の後ろに誰かが付いてきていたのだろうか。それとも次という意味で言っているのだろうか。もしくは聞き間違えた他の言葉だろうか。
「……いや、いい」
彼は少し考えた後ふうっと息を吐き、綿毛の付いた包丁を振ってくしゃみをひとつするとキッチンらしいブースへと消えていった。
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