一杯のきつねうどん

とりもち

第1話 一杯のきつねうどん

 真っ暗な空からは湿った雪がちらちらと降り注いでいて、窓を開けると冬の匂いが鼻腔をくすぐった。


 どうやら今夜は記録的な寒さになるらしい。


 記録的、といっても毎年のようにどこかで言われている気がするので、いまいちピンとこない。


 時計を見ると、あと三十分ほどで十二時になる。

 そうなれば、また新しい一年が始まる。


「高位破水してたみたい。促進剤打つかも」

 そう妻から連絡がきてから三時間ほど経つ。


 机の上ではすっかり冷めてしまったコーヒーが恨めしそうにこちらを見ている。とりあえず淹れてみたが、よくよく考えると自分はコーヒーがあまり好きじゃなかったのだ。


 とはいえ、感染対策で出産の立ち会いも病院での待機も禁止となると、こうやって家で好きでもないコーヒーを飲みながら連絡を待つしかない。


 今の私に出来ることはないのだろうか。


 冷めたコーヒーを少しとすすると、苦味と酸味が口に広がった。

 やはりコーヒーは苦手だ。

 胃袋の方も「そんなものよりもっと旨いものを寄越せ」と要求してきた。


 どんな時でも腹が減るのが人間だ。

 だから、夜食を食べることにした。

 そのためには、向かいの寝室で寝ている三歳の娘を起こさないように行動する必要がある。


 ドアノブをひねり、部屋のドアをそっと開ける。こんな時だけ蝶番ちょうつがいの摩擦音がやたらと大きく聞こえる。廊下は寒く真っ暗で、深夜と昼間では別の世界のようだ。一歩踏み出すと、フローリングがギシギシと悲鳴をあげ、小さく声が漏れる。遠くの方から救急車のサイレンの音も聞こえてきた。


 しばし暗闇の中で様子を伺うが、彼女が起きた気配はない。安堵しながらも慎重に足を運び、ようやくキッチンにたどり着いた。


 流しにある電灯だけ点け、ケトルに水を入れる。そして、お湯が沸くまでの間に棚の中を物色する。薄暗い部屋の中で棚をあさるなんて、泥棒にでもなった気分だ。


 棚からは三種類のカップ麺が出てきた。

 味噌ラーメン、カップ焼きそば、そして、きつねうどん。


 心がざわついている時は、ダシの香りが恋しくなる。他の二つは元に戻し、赤いきつねをテーブルの上に残す。


 包装を破いて、作り方を読む。

 なにも難しいことは書いていない。フタを開けて粉末スープを入れてお湯を注いで五分待つだけだ。

 分かりきっているはずなのに、ついつい読んでしまう。


 しばらくの間、作り方のついでに原材料を眺めていると、お湯の沸いた音がした。


 フタを矢印の位置まで開け、粉末スープを入れる。お湯を注ぐのは、秒針が十二を差した瞬間。


 あと二十秒。

 タイミングを見計らう。


 あと十秒。

 お湯を注ぐ体勢に入る。


 今だ――。


「パパ?」


 いざ注ごうとした瞬間だった。

 振り返ると、そこには娘が不思議そうな顔をして立っていた。時間を気にするあまり、背後から近づく娘の存在に気がつかなかったらしい。


 彼女は私のことを見上げながらペタペタと歩き、腰に抱きついてきて、一旦ケトルを置いて頭を撫でると、嬉しそうに微笑んだ。


 そして、テーブルの上を見ると、私が何をしようとしているのか理解したらしい。


「れなもたべる」

 そう言って彼女は自分の椅子に座った。


『夜に間食はさせないでね』

 妻の言葉が頭をよぎる。

 が、事ここに至っては、その願いはもはや叶わぬものとなった。


 娘が見守る中、跳ねないようにゆっくりと熱湯を注ぐ。

 お湯の量はカップの線より少し上にして、やや薄めに作る。卵を落としたり薬味を足したりと、色々アレンジする方法はあるが、やはりそのまま食べると落ち着く。


「五分待つよ」

「うん」


 出来上がるまでの間にスマホを見てみるが、妻からメッセージは送られてきていない。


 出産は順調なのだろうか。

 帝王切開なんてことになっていないだろうか。

 その場合はいつ連絡が来るのだろうか。


 問題があったとしても病院に入れないのだろうから、心配しても仕方ないのかもしれないが、やはりただ待ち続けるというのは神経を使う。


「ママもおなかすいてる?」


 フタの隙間から湯気が漏れ出している様子を眺めながら、娘はポツリと呟いた。この子なりに母親のことを心配しているのだろう。


「ママはおにぎりとお菓子を持っていったから大丈夫だよ」

「おかし?」

「そう。たぶんいっぱい食べてるよ」

「うん」


 どうやら少し安心したようで、鼻歌をふんふん歌い始めた。私もスマホを見るのはやめて、娘と一緒に鼻歌を歌うことにした。といっても、一体何の歌なのか皆目見当もつかないが。


 そうしている間にうどんは出来上がり、お椀を一つ出し、娘の分のミニうどんを作る。娘はそれをフォークで一生懸命に食べ始めた。


 その様子を見て、私も熱い汁を一口飲むと、出汁の良い香りが鼻を抜けていった。

 張り詰めた緊張の糸が、少し緩んだ気がした。

 その後は、ひたすらに麺を啜った。

 大晦日だとか、もうすぐ産まれるかもしれないとか、食べている瞬間は頭から消えていた。

 そこにあるのは「旨い」という事実だけだった。


 私たちが食べ終えた頃には、新しい年を迎えていた。


 そして、満足感に包まれている私たちに一通の便りが届いた。妻と小さな男の子が写っている写真だ。


「生まれたよ」

 その写真には、一言そう添えられていた。


「ほら、れなちゃんの弟だよ」

 写真を見せると、娘はスマホを両手で掴み、食い入るように見始めた。


「パパとおうどん食べたのはママには内緒だよ」

 そう言ってみたが、娘は送られてきた写真に夢中で、私の声は届いていない。

 どうやら、私に今できることは、退院した妻に娘が嬉々として今日の出来事を話さないように祈ることだけのようだ。

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一杯のきつねうどん とりもち @tori_mochi

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