謙虚に生きて肉を喰らへよ

沖田一

主義主張

 突然だが聞いて欲しい。私は、「ベジタリアン」は理解できる。だが「ヴィーガン」たち、彼らについては全く理解できない。いや、むしろ許せない。


 いきなり過激な発言をして済まなかった。そして、「お前は何を言っているんだ」と言う聡明な方もいるだろう。だが、今少しチャンネルはそのままで。


 何事も、議論を始めるにあたっては言葉の定義から始めなくてはならないだろう。私が「ベジタリアン」、「ヴィーガン」と言うには、次の定義のもと使っている。


 まずは「ベジタリアン」。これは、自身の健康を目的として、または宗教などを理由として、動物性食品を摂らない者たちを言う。彼らが乳製品や卵製品を食するか否かは問題にしていない。ここで重要なのは、彼らが菜食をする目的は彼ら自身にあるということだ。


 次に「ヴィーガン」。ここで言う「ヴィーガン」とは、動物保護を目的とした菜食主義者のことである。ここでも、彼らが乳製品や卵製品を食するか否かは問題にしていない。重要なのは、彼らの目的が動物保護にあるという点である。これは、世の中で言うところの「エシカル・ヴィーガン」の定義に近いであろう。


 以上の定義をもとに、今後の話を進めていく。ここでどうか十分に気を付けて欲しいのは、私が定義した「ベジタリアン」と「ヴィーガン」は、本来の定義とは異なるという点である。


 さて、私は「『ベジタリアン』は理解できる。だが『ヴィーガン』たち、彼らについては全く理解できない。いや、むしろ許せない。」と述べた。それについて、簡潔に理由を述べよう。


 私が彼らを理解できないのは、彼らの行動が、彼らの目的を達成するにおいてほぼ無意味な点にある。あえて難解な言い方をすれば、彼らは結果に抗っているだけであり、その結果が生じる原因には一切関与していないのである。


 ここで、ひとつ分かりやすいたとえ話をしよう。


 君は学生で、君のクラスではある人物がいじめられているとする。君はいじめられている人物ではないし、いじめている人物でもない。ひとりの傍観者だ。


 この時、君がいじめを解決したい、撲滅したいと思ったとしよう。それ自体は非常に素晴らしいことだ。問題は、このときに君は如何なる手段を使って問題を解決するのかということだ。


 多くの人は、その手段として、いじめをしている人物たちに直談判を行う、または実力行使に出るだろう。少々奥ゆかしい人は、担任や親に相談して助けを求め、解決を図るかもしれない。


 この場合において、次のような人物が表れたら、君はどう感じるだろうか。


 その人物たちは、「いじめは良くない。だから、私はいじめには関わらない。私はいじめをしない。」と主張している。しかも、クラス全員がいじめをしなくなれば、いじめは無くなると信じ、この主張を他の生徒に訴え、ただの傍観者たちを批判したりさえもする。


 果たして、彼らの主張は有効か。確かに、クラス全員がいじめをしなくなれば、いじめは無くなるかもしれない。それでも、いじめを無くすために、私はいじめに「関わらない」という手段は、いささかその目的と相違がないだろうか。


 さて、ここまで話して、聡明な方ならもうお気づきかもしれない。このたとえ話で言うところの「私はいじめに関わらない」と主張している人たちが、現実世界における「ヴィーガン」である。


 「ヴィーガン」は、動物性食品を摂らないことによる動物保護を訴えている。これは、いじめを無くす手段に「いじめに関わらない」を掲げている状態と近似していないか。

 

 いじめや動物の悪状況を解決する手段として「私は関わらない」ことで、果たしてその状況を改善することができるのか。はっきり言えば、その状況を生んだ原因に対抗するのではなく、現在の状況に抗っているだけであり、その状況が改善されることは無いだろう。


 ここで、「ヴィーガン」から受けそうな反撃についても予め応えておこう。それは恐らく「先ほどのいじめの例にもあった通り、誰もいじめをしなくなれば、いじめは確かに無くなるはずだ。多少遠回りでも、結果的にいじめは無くなるだろう。」というもののはずだ。


 確かに、クラスの誰もいじめをしなくなれば、いじめは無くなるだろう。しかし、悲しいかな。いじめは無くならない。それは、いじめが人間の性だからである。本能と言ってもいい。これは、動物食が人間にとって本能的に必要であることと対応している。


 それに、現実世界の人口は、クラスの人数ほど少なくない。この世界の全ての人が「ヴィーガン」になることはまずあり得ないと、本人たちも薄々は気付いているはずである。いや、むしろ気付いていないならば、それはもう救いようがない。


 少数の奇人……いや失礼。「ヴィーガン」たちが動物食を慎んだところで、殺され、食される動物の数は大して減らない。それに、人間の本能である動物食を全人類に禁止させることもまた、不可能である。


 ならば、である。自分たちが「ヴィーガン」であることで動物を救えないならば、取るべき手段は「ヴィーガン」であることではなく、いかに動物を苦しめずに屠殺するか、いかに「人道的」な飼育が可能か、を考えることにあるはずだ。


 そのような、「結果」を生む「原因」部分を改善することを試みず、現状に無意味で自己満足な抵抗を繰り返しているのが「ヴィーガン」である。


 だから、私は「ヴィーガン」が理解できないし、許せない。


 無論、他にも、食物連鎖という人間すらも例外にない自然の摂理のなかで、自分たちだけそのサイクルから逃れていると錯覚し、「家畜に『人道的』対応を!」と叫ぶこと自体にも、私は悪寒がする。


 優しさや保護は、強者の特権であり傲慢である。そのことに無自覚で、「私たちはなんて道徳的で素晴らしいのでしょう!」と酔いつぶれている人物には、おぞましすぎて目もあてられない。


 ……話が長くなってしまった。とりあえず、ここまでにしておこう。最後までこの放送を見てくれた視聴者さんたち、どうもありがとう。もし君が「ヴィーガン」ならその立場を改めること、君が常人なら食する動植物に対する感謝を忘れないことを、心の底から祈っている。




―――ポチ。


番組がCMに入ったので、私はテレビのチャンネルを変えた。


今日食べているサラダは、なんだかいつもより美味い。

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