妻と旦那とうどんと天そば
三上一二三
第1話
映画館は好きだが人混みは苦手なので、朝一番の上映に足を運ぶ映画ファンは多い。
先週「寄生獣」観たんですけど、最高だったんです。
わたし、ホラー苦手なんで。
透き通った冬空にカラスの鳴き声がアーと響いた。
大樹とて晶子に好意を抱いているわけではない。けれど、女子が発する退屈オーラに耐えられる程の図太い神経は持っていなかった。脳内の面白トークの引き出しをかたっぱしから開けていく。女子が食いつきそうなネタは、無い。途方に暮れて周囲を見渡すと、横断歩道の先に立ち食いそば屋を見つけた。
普段なら待ち時間をカフェで過ごす晶子にとって、そこはまさに異世界だった。人とすれ違うのがやっとの店内、BGMの演歌、ボタンだらけの券売機。朝カレーセット……朝からカレーを食べられる人がいるんだ。勝手がわからず好奇心だけが空回りする晶子に代わって、大樹がかけそばの食券を二枚購入した。
店内の温かい空気とだしの香りに包まれて、たちまちお腹が減ってきた。お互い朝ご飯を食べていない、という共通の話題を見つけたことで会話も弾み、晶子の凍てついた心が解け始めたのもつかの間、新たな問題が発生した。そばを注文した大樹にうどんが出てきたのである。
さてどうするのか、晶子が黙って様子をうかがっていると、大樹は「うどんでもいいですよ」と受け取ってしまった。「申し訳ありません、すぐに交換します」と店員が言っても、廃棄するのはもったいないからと断る。「お代をお返しします」と言われても、値段は一緒ですからと断る。大樹の受け答えに嫌味は感じられない。それどころか注文を間違えた店員の心配をしているようだ。
「わたしなら取り替えてもらうけど」
「いつもそばしか食べないから新鮮だよ」
そんなお人好しじゃ世の中やっていけないよ、のセリフはお冷と一緒に呑み込んだ。女子の手前、器が大きい所を見せようとしているのかしら。それともマジで神?
その日見た映画の内容は忘れてしまった。けれど、店員に文句も言わず、下がり気味の目じりをさらに下げ、美味しそうにうどんを
「僕、そばが食べたいって言ったよね」と大樹が呆れて言った。
「そうだっけ、じゃあ、明日買ってくる」と晶子が平然と答えた。
昨日、買い置きしてあった残り最後の赤いきつねと緑のたぬきをめぐり、入念な話し合いの末、旦那がたぬき、妻がきつねと合意したにもかかわらず、晶子が考えなしに協定を破棄したため、ここに「カップめん勝手に食べた戦争」が勃発したのであった。
ここから先は売り言葉に買い言葉。晶子はリビング、大樹はダイニングキッチンに陣取り、お互い顔を合わせないどころか背中を向けたまま陰険な言葉の応酬を繰り広げた。今忙しいから後にして。テレビ見てるだけだろ。アマプラですけど。一時停止すればいいじゃないか。謝ったじゃん。謝ってないよ。
この世界一くだらない争いの背後には、互いの人生観やお金の使い方といったマクロな問題から、妻のドアを閉める音がでかい、旦那の集めたフィギュアが邪魔、などのミクロな問題まで、結婚生活三年間で溜まりに溜まったドス黒いものが淀んでいた。いつもの大樹なら頃合いを見て、次は気を付けてよ、と喧嘩の幕引きを図るのに、今日はかなり虫の居所が悪かった。
「そばがないならうどんを食べればいいじゃない」
「約束を守らないことを怒ってるんだよ」
晶子が停戦を願って出したパスは、旦那のクソ真面目な返答によって明後日の方向へ飛んで行った。そこは「マリー・アントワネットか!」とツッコミを入れるところじゃないの、お笑いのセンスゼロ。
あの日、そば屋で見せた優しさは嘘だったのかしら。店員には優しくて妻に厳しいってなんなの。異常な内弁慶か、今まで眠っていた闇の人格が目覚めたとしかおもえない。人を注意するときに大切なのは声のトーン、言葉の選び方、それと怒りを鎮める6秒ルールなんだよ。と、晶子の脳内ではすでに自分が被害者だった。
キッチンからピロローとお湯を沸かす音が聞こえてきた。
馬鹿な、この状況でうどんを食べるだと!
驚愕する晶子をよそに、大樹が粛々と赤いきつねを食べる準備を進めていく。
「うどんは5分なんだ」と旦那が聞こえるようにつぶやいた。
会話のきっかけが欲しいんだろうけど無理だね、話したくない。しかとする晶子の鼻腔に鰹節と昆布を利かせたつゆの香りがとどいてきた。アマプラを再開したものの、赤いきつねの甘じょっぱい香りは無視できない。どうぞコシのあるうどんと甘いお揚げをお楽しみください。わたしは緑のたぬきを心行くまで堪能いたしました。のどごしの良いそば、香ばしい小えび天ぷら。思い出しただけでまたお腹が減ってくる。
カップめん勝手に食べた戦争は終結を迎えぬまま、翌日に持ち越された。海外ドラマは全12話をぶっ通しで見たにもかかわらず、真犯人不明なままシーズン2に突入する。なんて不毛な日曜日。
プライベートが上手くいかないと仕事がはかどるのは気のせいだろうか。今日の晶子は通常の三倍手際が良く、電話対応はいつになく上品で、見積書や請求書の作成をノーミスで終わらせると、気が付けば退社の時刻を迎えていた。
「ご飯とみそ汁できた、おかずよろしく」と大樹からLINEが届いた。朝は険悪だったのに、夕飯の準備をしてくれたんだ。本当に真面目だけが取り柄のような人。先に帰宅できた方がご飯とみそ汁を用意する、それが二人のルールだ。弁当を温めることしかできなかった大樹に、一年かけてご飯の炊き方とみそ汁の作り方を教え込んだ。副食はなるべく晶子が用意することにした。旦那に任せると唐揚げの無限ループに
スーパーでお惣菜だけ買って帰る。
「あの、すみません」
晶子が驚いて振り返ると、若い男女がカップめんを取りたいのに手が出せず、おろおろしていた。晶子があわてて場所をゆずる。恋人たちはうどんと天そばを一つずつ籠に入れると、見てはいけないものを見てしまったかのように足早で去っていった。
わたしはそんなに恐ろしい顔で特売コーナーを見下ろしていたのだろうか。母親から「お前は目が吊り上がっていて顔が怖い」とよくからかわれた。「お母さんに似たんでしょ」と家族にだけは軽口をたたけた。友人や恋人にからかわれると、ただ笑って受け流すことしかできなかった。晶子の周囲で、大樹だけが「殺し屋みたいでかっこいい」と大真面目に褒めてくれた。「何それ、素直によろこべな~い」などとじゃれ合ったりしたのが遥か昔に思える。
急によみがえった甘い記憶にほだされて晶子がカップめんに手を伸ばしかけたその時、大樹から「おかず買った?」とLINEが届いた。「まだ」と送信すると「良かった、唐揚げあるよ」と返ってきた。昼に食べた唐揚げ弁当が口の中によみがえる。危ない、思わず旦那と和解するところだった。わたしの帰りが少し遅いから、余計な気を利かして近所の唐揚げ専門店に行ったに違いない。本当にもう、優しいのか、天然なのか、何なんだか。
マスクから解放されている目元や耳を、夜の冷たい空気が撫でていく。街にクリスマスの装飾が施され、もうすぐ一年が終わるのだと実感させられる。コロナ禍と言われて二年経つ。ワクチン接種がすすみ、最近は感染者数がだいぶ減ってきた。けれど、街に活気が戻ったとは言い難く、飲食店などの灯りも元気がないように見える。その代わり、家屋の窓から漏れるブルーやオレンジの光が目に留まるようになった。あの光の数だけ人生があるのだろうか。数えきれない光の中に、カップめんで戦争状態の夫婦は一体どれだけいるのかしら。
「昨日はごめんね」
先に謝ったのは大樹だった。
テーブルに赤いきつねと緑のたぬきが二つずつおかれていた。二つずつ買えば昨日のような喧嘩は回避できるだろう、という大樹の考えが手に取るようにわかる。
晶子が照れくさそうにマイバッグからうどんと天そばを一つずつ取り出した。
テーブルに並ぶ六個のカップめんを見て、大樹が微笑んだ。彼の笑顔を正面から見るのは随分と久しぶりな気がした。晶子もつられて微笑みそうになるが、すまし顔を取りつくろった。
「夫婦で無駄な買い占めしたみたい」
「何があってもおかしくない世の中だもの、保存食としていいじゃないか」
大樹が「僕、今すごく良いこと言ったでしょ」と言わんばかりの顔をしている。
まずい、完全に旦那の
「何かある前に、そば全部食べちゃうかもよ」
真っ赤な顔で、精一杯の軽口をたたく晶子だった。
【おわり】
妻と旦那とうどんと天そば 三上一二三 @ym3316
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