幸福を食卓で
平瀬ハル
幸福を食卓で
またこれだ。玄関を開け、漂ってくるエアコンの濁った暖かい空気に
「亜紀ちゃんおかえりー」
「換気してっていつも言ってるよね?」
「今しようとしてた」
ソファの上で踏ん反り返りながらテレビを見る
「……ねえ。掃除もしてないじゃん」
「ごめんって。仕事で疲れてて、これからするから」
こちらの苛立ちが声色でわかったのか、春樹はソファに姿勢良く座り直す。
「あ、でも洗濯は終わってるから」
自分の微妙な成果を猫撫で声で報告してくる春樹を呆れた表情で見るも、何か言い返す気力もない。春樹を無視して、マフラーとコートを脱ぎ、リビングの窓を開けた。
「ちょっと換気するからね」
「はーい」
冬の冷たい空気が一斉に部屋に入ってくる。深呼吸をして気分を整え、ふと窓の横に置いてある物干しスタンドに目をやる。亜紀の服と春樹の服が一緒くたに干されているが、きちんと洗濯はできているようだと感心する。一方で何故いい歳した男が洗濯したぐらいで感心しなければならないのだと、徐々に怒りが込み上げてくる。しかし、この生活ももう二年になるのでいちいち怒ることもしなくなった。
二十一の頃から付き合いだして早三年。春樹のだらしなさは同棲する前からわかっていたことではあったものの、月日が経つうちにさらに進行している気がする。そして亜紀の尽くし癖もひどくなっている。同棲始めたての張り切っていた春樹が懐かしい。
「……え、これどうしたの?」
一枚の白いセーターを手に取る。亜紀がよく仕事で着ていたセーターがどう見ても縮んでいたのだ。
「あ、それ洗濯したら縮んじゃって」
「縮んじゃってじゃないでしょ。これお気に入りだったのに。大切に着てたのに」
仕事の疲れと、春樹への苛つきと、上手く行かない同棲生活。亜紀の潤んだ声に春樹が驚いて立ち上がり亜紀の側へ近寄る。
「本当にごめん。なんで僕ってこんなにどうしようもないんだろう。亜紀ちゃんも疲れてるのにこんなことしかできない」
「そういうことじゃないんだよな……」
「ごめんって。洗濯の方法いまいちわかってなくて、またセーター新しいの買いに行こう」
「はー。もういいよ」
亜紀を抱きしめる春樹の腕を突き放す。
「ちょっと頭冷やすし、一人にして」
「そんなこと言わなくてもいいじゃん」
春樹の弱気な声にどうしようもない惨めさを感じ部屋を出ていく。
コートもマフラーもない冬の夜は冷える。吐いた息が白く曇り消えていく。思わず家を飛び出したものの、行く当てもないのでぶらぶらと近所を歩く。車の通りは少なく、街灯だけが冷えた歩道を照らしている。
春樹の情けない顔を思い出し、やっぱり帰ってやろうかなと心を落ち着かせた。今頃家でオロオロしているはずだ。春樹は追いかけてくるような気概はない。私が居ないと何にもできないんだから。もう別れる気はない。なんだかんだで春樹の横が心地いいのだ。でもセーターのことだけは許さない。本当は安いセーターだけど、これは教えてあげない。高いセーターお返ししてくれるまで許さないと心に誓う。
「今日のご飯何にしよっかな」
思わず呟く。春樹が掃除で私が料理。春樹は料理ができないから。同棲し始めに二人で決めた。春樹はサボりがちだが、私はなるべく作るようにしている。今思うと春樹の分担の方が多い気もする。
冷えた体を摩り、帰路に着こうと来た道を戻ろうとする。その時だった。
「亜紀ちゃん!亜紀ちゃん!」
もたもたと走りながらこちらへ向かってくる春樹が見えた。手にはマフラーとコートが抱えられている。亜紀の元まで走ってくると、荒くなった呼吸を落ち着かせる間もなく、春樹は慌てて話し出す。
「これ、マフラーとコート。本当は家で待ってようと思ってたんだけど、亜紀ちゃん寒がりだし、夜も遅いし」
「わかった。まずは落ち着きな」
今にも座り込みそうなほど、背中を曲げ呼吸を整えている春樹を見ながら。小さく笑った。
「春樹の方が寒そうじゃん」
「急いだから、パジャマと適当なサンダルで来ちゃった……」
マフラーを春樹へ手渡し、コートを着た。
「春樹これ付けな」
躊躇いもせずにマフラーを巻く春樹。
「そそっかしいな。私が居ないとほんとどうすんの」
「うん。そうだよね。考えたんだけど、僕亜紀ちゃんに世話になりっぱなしな気がする」
「今わかったのかよ」
真剣な喋り声が春樹に似合わないことが気になってしまい、亜紀の怒りはどこかへ行ってしまう。
「……ごめん。亜紀ちゃんと一緒に居るとくつろぎすぎてダメになる。だから……」
不穏な春樹の表情にたじろぐ。
「だから?」
「だから僕も料理勉強しようと思って」
「おお!」
思っても見なかった提案が上がり、思わず声が出た。
「で、亜紀ちゃんが仕事で忙しい時は僕が作ったり、一緒に食べに行ったりする」
意気込んで決意したように話す春樹に亜紀は微笑む。
「そうしよう。後家事の分担見直そっか。春樹洗濯苦手だし」
「洗濯は教えてもらえればできるけど、そうしてもらえるとありがたい」
やっぱり掃除全部押し付けるのは良くなかったと心で反省し、赤くなった春樹の頬を優しく触る。
「帰ろっか」
亜紀の冷えた手を春樹の暖かな手が包み込む。早く帰ろうという春樹の言葉に頷き、二人並んで来た道を戻る。
「……今日は僕が作るよ」
「えー何作ってくれるの?」
「美味しいやつ」
二人で歩く夜の道は不思議と寒くない。二人の吐いた息が空まで登りスッと消える。静かな道をこうして歩くとまるで、世界の中に二人しか居ないような気持ちになる。でも怖くはない。横にいる春樹の顔をチラチラと見ていると目が合った。ニコニコしている亜紀の顔を見て不思議そうに首を傾ける春樹に対して、亜紀は急に恥ずかしくなり前を向き手を大袈裟に振り始めた。春樹もそれに合わせて手を振る。ご機嫌のままスキップしながら二人で家に帰った。
家に戻り部屋で着替えを済ます。よく考えると亜紀の部屋の掃除は毎日してくれていることに気がついた。きっと自分の部屋は後回しにしているのに。
部屋をノックする音が聞こえ、春樹が顔を覗かせる。
「じゃじゃーん! 亜紀ちゃんできたよ」
「もう出来たの? 早いね」
うきうきで部屋まで呼びに来た春樹に手を引っ張られ、リビングへ向かう。
テーブルの上には二つの赤いきつね。ピピピと春樹の携帯のタイマーが鳴る。
「やばいやばい亜紀ちゃん急いで」
「赤いきつねじゃん」
わかってはいたが春樹は料理ができない。
「わかったないなー。冬はこれが一番だよ」
春樹が亜紀に向けて人差し指を左右に振る。その動作がどうにも間抜けで思わず笑ってしまう。
二人でテーブルに向かい合って座り手を合わせる。
「いただきます」
蓋を開けると、温かで美味しそうな蒸気が上がる。箸を持ち、うどんを一口啜る。確かに美味しい。
「うーん。熱々で美味しい」
「たまにはいいでしょ」
美味しそうに食べる亜紀を見て春樹は穏やかな表情で同じようにうどんを食べ始めた。
「時間がない時でも簡単ですぐ美味しい。そして温かい。最高じゃん」
口いっぱいに頬張りながら喋る春樹を愛おしく見つめる。
「なーに笑ってんだよ」
「また洗濯のやり方教えてあげるよ」
「僕も赤いきつねの作り方教えてあげる」
見つめ合って笑う二人。
二人で一緒に食べるものはなんだって特別に美味しい。これから何度喧嘩をしても、同じように二人で手を繋いで帰るのだろう。そして美味しいご飯を食べる。これからもたくさんの小さな幸福を二人で増やしていきたい。そう思いながら亜紀はうどんを啜った。
幸福を食卓で 平瀬ハル @haru-20
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます