天気は晴れ。転機は曇り
三河安城駅。
俺の家から徒歩五分圏内にある最寄り駅で、新幹線も在来線も各駅停車しか止まらない負の駅、というのが俺がこの駅に下している評価だ。駅付近は飲み屋や外食チェーンも多いが、それ以外に取り得は無く、深夜になればスケボーを片手に持ったならず者で溢れかえる、謂わば田舎の溜まり場。ああでも、最近ダイチャリステーションが出来ていたな。
一方一駅隣の安城駅の方は、徒歩二分圏内に安城市図書館もあれば、少し行けばコロナワールドもあるわけで、基本学生はそこが御用達だ。なのでこの駅で降りる人々は、新幹線でゆっくりと旅をしたい人間か、ここ付近に住まう人間に限られる、というのが俺の偏見だ。
とはいえ、基本部屋に引き籠っている俺には三河安城駅だろうが、安城駅だろうが縁は無い。ただ、登校日だけは別である。
「最悪の気分だ……」
現在7時50分。いつもなら二度寝をしてベッドで布団にくるまっている時間だが、生憎と今日は月に一度の登校日。先ほど田舎の溜まり場などと評したが、田舎の溜まり場だろうが駅は駅であり、ここいらでは数少ない交通インフラなのだ。早朝は人でごった返している。三年間の引き籠り生活のせいで、すっかり人混みも苦手になってしまい、外に出る機会も減った今は、この時間が一番の苦痛だ。
リモート授業では服装は自由だが、登校するとなるとそうもいかない訳で、我が校の人気の一因にもなっているブレザーを着用しているのだが、普段から慣れていない服を着るのは妙な窮屈さを感じてしまい、より気分を悪くしていた。
「はぁ……」
今の一息でどれだけ幸せが逃げたかなど知る由も無いが、ただ今は電車が来るまでの残り五分を必死に耐えながら駅のホームに立っていた。
●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇●
「で、なんでお前ここにいる訳?」
「別にいいじゃないっすか。どうせ暇でしょ先生」
「俺の担当はお前だけじゃねっつーの!」
登校して真っ先に向かったのは、武者先生のいるサーバールームだ。彼はこの学校の校内ネットワークの管理も行っており、自身の授業の無い日は殆どここで仕事をしている。今日も案の定、ここで仕事をしていたので立ち寄ったわけだ。勿論、というのも可笑しな話だが自分の所属するクラスには顔は出していない。
「お前の担任の袴田先生、新米で右も左も分からねぇってのに、お前のことめちゃくちゃ気に掛けてんだから、教室くらいは顔出しとけよ全く……」
「毎回仲介ありがとうございます」
「ほんとだよ全く……仲介手数料は出世払いな」
「考えときます」
「考えてくんじゃなくて、絶対払え」
ピンポンパンポン
朝会の鐘が鳴った。
本来であれば教室に向かって出席しなければいけないが、こういった時に特待生制度は非常に都合がいい。学校に来ている事実さえあれば、あとは下校前に担任に顔を見せるだけで済むのだから。こういう時に武者先生は何だかんだ言って融通を利かせてくれる。ポケットからスマホを取り出すと、チャットを開いて何かを送信した。恐らく相手は俺の担任である袴田先生である。
ポケットにスマホを戻すと、先生はPCの画面に映る物理の小テストの問題の作成を続けた。声音は機嫌を隠していない。
「で、今日も俺はパシリなのね」
「すいませんが……」
「え、気持ち悪、急にかしこまんなよ」
「飴と鞭は大切かと」
「お前マジでそろそろシバいていい!?」
「ごめんなさいお願いします」
そう言うと、再び集中して武者先生は問題の作成に取り掛かった。
実際申し訳ないと思っているのは本当だ。
不登校で、心の開ける数少ない人間に情けなくも甘えている自分を、この人は文句を言いながらも聞いてくれているのだから。いい加減変わらないといけないのは承知していても、ただ一歩、ほんの小さな一歩を踏み出すことに恐れている俺を、容認してくれている。
登校日の日ですら、自己嫌悪で気は落ちる一方だ。
武者先生の問題を作成するスピードに落ちる気配はない。
ただ、俺を心配してくれているのか、ちらりと一瞬こちらに目線を移した。無精髭の生えた気怠そうなその顔に少しの哀愁を孕ませていたのを、俺は見逃さなかった。
この人に全く悪意は無いし、寧ろ俺のことを心配してくれていることはその表情で十分伝わってくる。だからより一層、罪悪感は募った。鞄は下ろしているから肩に重荷を背負っている訳ではないのに、錯覚は肩を勝手に重くしてくる。人体といのは実に不条理なものだ。
流れるように大きな幸せを口から逃がそうとしたその時、武者先生はおもむろにキーボードを叩く手を止めると、座っているオフィスチェアを180度回転させた。
「あ~、そのなんだ。弥生お前、保健室行ってこい」
「……佐藤先生にまで迷惑かけられませんよ」
「俺に迷惑掛けてることは悪いって思ってくれてるのね」
「そりゃ、いつも甘えちゃってますし……」
「月一の迷惑が月二に変わるくらいで佐藤先生は怒りゃしねぇよ。ほら行った行った」
「…………」
「話し相手になってやりてぇところなんだが、今日は生憎マジで忙しいのよ。煙草も吸いてぇし、頼むわ。な?」
「……分かりました」
コクリと頷いて了承すれば、武者先生は柔らかい表情で俺の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫で、オフィスチェアを再度回転させ元の向きに戻ると、パチパチとキーボードを打ち始めた。整えていない髪の毛は、更にボサボサになってあっちこっちへ顔を向けていた。それを手で整えて椅子から立ち上がり、机に置いた鞄を背負う。
鞄を背負ったというのに、先ほどより何故か肩に重さは感じなかった。
●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇●
コンコン
「はーい、って弥生くん。今日って登校日だっけ?」
「はい、すいません。武者先生に保健室に行くように言われて……」
「あら~、雨宮先生が?また弥生くん、嫌味なこと言ったんでしょ~」
「いえ、そんなことは……」
「あるんでしょ?」
「……はい」
保健室で出迎えてくれたのは養護教諭である
長い黒髪と泣きぼくろが印象的な美人教諭で、うちの男子生徒からは絶大な人気を誇っている。生徒のカウンセリング担当もしており、包み込むような優しさとほんわかとした間延びした話し方は相談者の肩の力を抜いてくれることで評判だ。
気さくで聞き上手な彼女は、乙女の相談相手として女子からも人気が高いようで、彼女が微笑めば万人を惹きつける。正に名に恥じぬ大和撫子。ここまで名の通り生きている人も少ないだろう。
だからと言って、服装自由とは言え着物を着ているのには最初は驚いたものだ。先代達が言うにはこの学校の名物の一つらしいが、最初耳にした時は随分と愉快な名物だと思ったものだ。実際は愉快ではなく
彼女が着物を着ている様は、端麗な容姿も相まってまるで美しい海を見ているようだから、
ちゅかい、ちゅかい。
「君の頭の中のほうがよっぽど愉快ね~」
「ん、今なんと?」
「まぁまぁ。それで、今日も教室に行けなかったんでしょ~」
「あ、その、はい」
「うんうん、まぁ人にはペースってものがあるからね。取り敢えずゆっくりしていきなよ。先生この後出ちゃうけど」
「ありがとうございます」
「立ってるのも何だから、何か飲む?」
「じゃあ、コーヒーで……」
「はーい」
デスクにかけられたパイプ椅子を用意した佐藤先生は、そこに俺を誘うと棚からカップを取り出してポットにあるコーヒーを注いで俺に渡し、同じように自身のワークチェアにコーヒー片手に腰を掛けた。
着物でコーヒーを飲んでいる姿は中々シュールだが、一つ一つ所作が美しく細かいことはどうでも良くなるのだから、美人の力は圧倒的だ。
ニコニコとこちらを見る目は温かく、不安定な精神も落ち着いてくる。いつもは画面越しにカウンセリングをして貰っているのだが、あまり対面で話したことがないから妙に緊張してしまって上手く言葉が出てこない。誤魔化すようにコーヒーを喉に流し込むと、一限の開始を知らせる鐘が鳴った。
ガラガラ
コーヒーを飲んだことがスイッチを押した如く、保健室の扉が開いた。
「あら、いらっしゃい」
「ごめんなさい、佐藤先生。今日は退屈だからついサボりに来てしまいました」
「サボっていい理由じゃなわね~。いいわよ~」
「ありがとうございま……あら、先客ですか?」
「ええ、初めましてかしら」
思わず振り向くと、そこに立っているのはそう。美しいという言葉で表現するには余りある程端麗な容姿をした女生徒だった。思わず俺は息を飲んでしまった。
背まで伸びた艶のある黒髪。
キリっとした目に、少し離れていても分かる長い睫毛。
唇は触れたらプルッと音をたてそうで、スタイルも抜群。
それほどまでに、目の前に立つ少女は美しく、そして何処か儚げだった。
「……見ない顔ですね」
これが、俺と彼女、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます