たぬきつね論争――雪の日の家族――

@yo_ko_s

あの頃は、なんでもないことで笑ってた。

 うすみどりのカーテンの隙間から、淡く黄色い光が射しこんで、重い瞼を優しくくすぐる。 腕で目を覆って、寝返りを打つ。それでも、何光年と離れたところからようやく私の瞼に辿り着いたその光の残像は、くっきりと跡を残して、消えてくれない。

 それで仕方なく薄く目を開けて、ぼやけた世界を受け入れようと、時間をかけて瞬きを繰り返す。やがてのっそりと起き上がって、引き寄せられるかのように、その光に手を伸ばす。

 カーテンを開けると、光はさらにまばゆくなった。雪が積もっていたから。

こういうとき、こういう、朝の雪景色を見たとき、まだ思うようにはたらかないぼうっとした頭の中でも、あの音だけは鮮明に響いた。


ズズズズズズズッ、ズオオオーー


 雪が積もっているのを見ると、今でも私の耳の奥では、父がソバを啜る豪快な音が響く。



「ミカ、リナ、サキ、外行くぞ!」

 雪が積もった朝、父は必ず私達三姉妹を雪遊びに誘った。

「これ食って、身体あっためてからな」

 そう言って、テーブルに赤と緑のカップを並べた。父と私は緑、姉のミカと妹のサキは赤。


 父はよく、緑のたぬきをアレンジして食べていた。卵の黄身をお椀に溶いて、そこにソバを浸して食べる「黄身つけソバ」とか、磯ノリをトッピングした「磯ソバ」とか、とろろ昆布と梅干しを乗せた「梅昆布ソバ」とか。

「リナ、ちょっとこれ食ってみ。パパの新作」

 そう言って父が食べさせてくれるソバに、ハズレなんて一個もなかった。

「美味しい!」とそのまま食べ続け、汁まで飲み干す私を見て、父は「パパ、そろそろ東洋水産さんからスカウトされちゃうな」と満足げに笑った。


 謎に美味しい食べ方を発見する才能は、妹のサキにもあった。サキはいつも、湯を入れる前にきつねを取り出して、そのままかじった。最初にそれを見た時は引いたけど、おそるおそる食べてみると甘くて柔らかいおせんべいみたいで、美味しかった。サキはいつも、半分だけそうやって食べて、残りの半分をうどんに入れていた。時々食べすぎて、うどんに入れる分がなくなり、泣くことがあった。そうすると姉のミカが自分のきつねを半分、サキのうどんに入れてやった。


 私達が麺を啜っている間、母はコートやマフラーを準備してくれた。食べ終わると、父と三姉妹とで「ごちそうさま」をして、カップと箸と湯飲みを台所へ運び、流れるように防寒具を身にまとった。

 玄関で長靴を履いて、コートのファスナーを一番上まで上げる。サキは母に、マフラーでぐるぐる巻きにされる。

「ママも雪合戦しようよ」

「ママはトースト食べながら窓から眺めてるわ」

 サキは「えー、また?」と唇を尖らせる。

「ママが一緒に行ったら、冷えたあなた達のためにお風呂と毛布を用意する人が、いなくなっちゃうでしょ」


玄関のドアを開けて、駆けだす。冷たい風が優しく頬を撫でた。

「さっむー!」

 三姉妹で、ゲラゲラ笑った。その頃は、寒いことが、おもしろかった。なんでかはよくわからない。よくわからないことがおもしろかった。大きいおならが出たとか、友達と靴下の色が同じだったとか、禿げている人がいたとか、そんなことがおもしろくて、いつもゲラゲラ笑っていたような気がする。

 それを見て、傍にいる父も、トーストをかじりながら窓越しに眺めている母も、クスクスと笑っていた。


 雪合戦をした。泣き虫なサキも、雪合戦の時は、雪玉が当たった時でさえ泣かなかった。雪だるまを五つ作った。それぞれを、家族の顔に見立てる。父さんの鼻は大きいから松ぼっくり、私の目は腫れぼったいから一番小さな木の実……みんなで協力して、あーでもないこうでもない言いながら、大量の木の枝やら木の実やらを集めた。母の雪だるまを一番美人にしないと、父に叱られた。

 雪だるまの出来栄えに満足する頃には、もうコートやマフラーや手袋は既にびちょびちょだった。

「あーもー、また洗濯物が増えたじゃない」

 玄関で迎えてくれる母さんは、そう文句を言いながら、バスタオルで優しく顔を拭いてくれた。

 幸せな家族の時間は、雪の煌めきに似ていた。


 けれど、三姉妹が思春期を迎えると、雪遊びの文化は無くなった。

「雪遊び、しないか?」

 しわの濃くなった父には目もくれず、スマホを操作しながら「無理―」と答えた。

 父は「そうか」と言って台所に行って、緑のたぬきに湯を入れた。その時の父がどんな顔をしていたのかは、わからない。

「リナ、これ食べてみないか。新作。のりチーズソバ」

 三分後、そう言われてようやく顔を上げる。父の持つ緑のカップの中には、刻みのりと、ピザトースト用のとろけるチーズがトッピングされていた。

「は? ソバにチーズは変でしょ」

「いや、本当にうまいぞ。嘘だと思って」

「いらんって!」

 私が少し大きな声で言い放つと、父は少しびくっと揺れてから「そうか」と絞り出すように言った。


 その数日後、父は死んだ。急に、会社で倒れてそのまま。

 葬式にお通夜に忙しくて、泣く暇もなかった。食べ物を用意する余裕もなかった。

 お通夜の後、買い溜めしてあった緑のたぬきを雑に掴んで、包装をビリビリと破った。いつもはすぐに剥がせるのに、その日はなぜだか全然剥がせなくて、イライラした。

湯を入れる。ぼーっとしていたら、湯が内側の線を越えてしまった。いつもだったら、スプーンを使って湯を取り除くけれど、もうどうでもよくて、そのままにした。

 食器棚から箸を取り出すとき、棚の端の箱の中に、刻みのりの袋があるのが目に入った。父が生前、「のりチーズソバ」に使った残りだ。

なんとなくそれを手に取り、冷蔵庫から取り出した賞味期限ぎりぎりのピザトースト用チーズと共に振りかける。

 瞬く間にチーズがとろけて、のりと絡み合う。それを麵と一緒にすくって、「ズズズズッ」と啜った。

「うまっ!」と思わず声を上げてしまううまさだった。

「これは流石の東洋水産もびっくりだわ」

 うますぎて、涙と鼻水が、同時に出てきた。

「はー、もっと早く食べてればよかったわー、父さん、もっと強く勧めてよね、ほんと、やんなっちゃう」

 やんなっちゃう。一人で啜るソバは、寂しく、温かかった。



 階段を下りて、リビングの扉を開ける。ミカはこたつでスマホをいじり、サキはソファに転がってファッション誌を読んでいた。

 それから母さんは、ダイニングテーブルで酒を飲んでいる。父さんが死んでから、母さんはよく酒を飲むようになった。休みの日には、こうして午前中から。酒を飲みながら、時々ふと顔を上げて、ぼーっと静止して、それからテーブルに伏せる。それを繰り返している。もう父さんが死んで、六年も経つのに。

 母さんの横をすりぬけて、窓辺に行く。雪は、綺麗だった。ずっと変わらず、綺麗だった。あのときの雪の冷たさも、ソバの香りも、なんでもないことで笑えた幸せも、まだそこにある気がした。

「ねえ、雪遊びしない?」

 私がそう言うと、姉と妹は「は?」と、スマホとファッション誌から顔を上げた。

「なんで?」

「なんとなく」

 二人は訝しげに私を見つめる。ミカの手の中のスマホからは「ピコン、ピコン」とラインの通知音がする。でもそれに目をやる余裕のないくらいに、私の言葉の意図を読み解こうとしていた。

変な時間が流れた。

「いいんじゃないの? 行ってきたら」

 シーンとした空気を破ったのは、母のはっきりとした声だった。酒を飲んでいるとは思えない、確かな口調。母はもしかしたらいつも、酔えてなんていなかったのかもしれない。

「いや、雪遊びなんてしんよ、もう子供じゃないんだから」とサキが言うと、「何言ってんの、あんたたちはまだまだ子供でしょうが」と母が呆れたように言った。

 母の言葉には、なんだか、母の願いのようなものが滲み出ている感じがした。


 また一瞬、変な間が空いた。それから「……あったまってから行った方がよくね?」とミカがこたつから足を抜きながら言った。

「母さん、たぬきときつね、あるよね!?」

 サキはファッション誌を閉じて、台所に駆けだした。


……


「やばい、ほとんどきつね食べちゃった。姉ちゃん半分ちょうだい」

「は? まだその食べ方してんの?」

「もちろん」

「しょうがないなあ、ちょっとだけだよ」

「やっぱ、緑のたぬきしか勝たん」

「いや、赤いきつねでしょ」

「なにいってんの、出汁も麺もたぬきが一枚上手よ。しかもアレンジしても美味しい」

「そんなん言ったらこっちなんて、きつねをそのままかじるっていう最強のアレンジがあるんやで。追加の具材が要らないアレンジには、そっちも勝てんよ」

「でもうどんに入れる分なくなって後からショボくなるやん!」

「ちょっと! いい加減たぬきつね論争やめんさい!」

 母の止めが入る。

「そういえば母さんはどっち派なの?」

 とても基本的なことなのに、知らない。ずっと母さんは、私達を見守っていたから。

「うどんが好きだけど、天ぷらも好きなのよね。あんたたちが生まれる前は、私が赤いきつね、あの人が緑のたぬきにしてね、きつねあげと天ぷらを交換してたのよ」

「赤いたぬきと緑のきつねやん」

「まあそういうことね」

「ひゅう、ラブラブ」

母さんは「やめなさい」と笑った。母さんの笑顔を久しぶりに見た。


玄関の扉を開けると、「さっむー!」と三人でハモる。

「こんな寒い中出てきてる成人済みの三姉妹、バカすぎん?」

 ゲラゲラと笑った。大人になっても、おもしろかった。

 雪合戦をした。大人になった三人の真剣勝負は凄まじくて、白熱した。でも窓越しの母はもっと白熱していた。甲子園でも見てるのかってくらいに、その試合を応援していた。

 それから、雪だるまを作った。器用になった三人の作品はなかなかに完成度が高くて、家族の特徴をとらえた雪だるまは、なかなかに似ていた。

 びちょびちょになった私たちを、母は玄関で迎えた。「あーもー、洗濯物が増えた」と、嬉しそうに言った。

 暖かい部屋の窓から、外を見る。五つの雪だるまが、白く輝いていた。


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