関西風は大学生協にのみ存在する

森川音湖(もりかわ ねこ)

関西風は大学生協にのみ存在する

 東京にある芸術大学というと、みんなどんな想像をするのだろうか。実際は東京のど真ん中といえど、森と古ぼけた民家と寺に囲まれた古い校舎で、煌びやかなドラマのような事は特段起こらない。いや、起こっていた人もいたのだろうか。第一、実家暮らしだった私は、片道一時間半かけて学校に通っていたため、周りの下宿生のように、大学の中で一日をほとんど過ごすということも、特になかった。常にあのゼミ部屋で暮らしているような他の学生とは、少しだけ距離を感じていた。それでも附属高校から上がってきた私には、そのゼミ部屋でカップ麺をすすることに、なんの抵抗もなかった。


「みゆき、何食べてんの?」

「これ? 生協で買ってきた」

 なんと、いつも空気が悪くて、カップ麺のゴミの匂いと、あいつの制汗剤の匂いが混ざった小さなゼミ部屋に、どうやっても抗えない香りを放つ赤いどんぶりを持つ同期は、空気も一緒に食べるように、ずるずると赤いきつねをすすっていた。

「何それ、めちゃ美味しそう」

「関西風なんだよ、これ。なんか生協で見つけた。あそこのセブンには売ってないの」

 大学の敷地は、なぜかどの駅からも微妙に遠い。学食はなぜか微妙に高い。近所のセブンイレブンは、学生たちのお膝元であったが、行って買って帰ってきたら20分以上はゆうにかかる。当時は感じた事はなかったが、今思うと、いつもおやつや昼食を買うだけでそれだけ時間をかけていたなんて、食べるものには苦労をする大学である。普段そこまで大学に入り浸らない私は、向かいの学部の地下にある生協にそんな多種多様のカップ麺が置いてあるなんて、知る由もなかった。

「え、関西風なの? じゃ関東風もあるってこと?」

「多分、セブンに置いてある何にも書いてないのが関東風なんじゃない? ここ東京だし、関西行くと味違うらしいよ」

「せやで! カップ麺でも東京と関西じゃぜんっぜん味ちゃうねんで! 最初見た時びっくりしたわー!」

 関西出身のもう一人の同期が話に入ってきた。確かに、この赤いきつねの色は昔食べていた赤いきつねよりも、色が薄くて、だしの匂いが濃い気がする。普段カップ麺を選ぶ時に、赤いきつねや緑のたぬきを自ら選ぶことはなかったのだが、この匂いはどうにも抗えない。

「へー! 初めて知った、今度絶対食べよー」

 それ以来、私は特に一人の時は、生協で食料調達をする頻度が特段上がった。カップ麺はほぼ三つに絞れて、その一つが赤いきつね関西風。確かにセブンイレブンに行ったときに目にする赤いきつねには、関西風のロゴが入っていない。


 大学三年の夏休み。長野に長期遠征に行った時に、長野にはたくさん美味しいものがあるというのに、突然あの赤いきつね関西風が無性に食べたくなった。ホテルの下にあるコンビニの赤いきつねに関西風のロゴはなかったが、買って部屋で食べてみると、やはり味が違う。これもこれで美味しいのだが、やはり関西風の味は二十歳の学生には至極である。

「ちょっと! 匂いすごいんだけど、窓開けてよ!」

 帰ってきたルームメイトに怒られた。




「みゆき、なんでそんな事もわかんないのよ!」

「そんな言い方しなくたっていいでしょ! ねこちゃんには関係ないじゃない!」

「知らない! じゃあ私に聞かないでよ!」

 小さなことで喧嘩した。ゼミの同期が全員女で三人しかいないとトラブルはつきものなのだが、私たちが喧嘩することはほとんどなかった。この時ばかりは何かがあったようである。今となってはそんな事も思い出せないが、私は無性に腹が立っていた。みゆきもきっと腹が立っていたのだ。小さな衝突は尾を引くものである。早く解決しないとなかなか難しい。おまけに芸術界はかなり小さな世界だ。いつまでも腹の中にモヤモヤを抱えていると、なんでもないことや、学生時代のわだかまりが、いい大人になっても消化できないことを私たちは重々知っていた。しかし、若いというか、子供というか、頭にすぐ血が上って、しかもそれを落ち着かせる方法も当時の私は知らなかった。

「ちょっと!トイレ行ってくる!」

 私はゼミ部屋にある汚いテーブルの上に、麺と具を食べ切った赤いきつねを置いて外へ出た。

 こんなに彼女に対して声をあげてしまったのは初めてだった。私はトイレの中で、申し訳ない気持ちと、どうやって謝ったらいいのかとか、それでも謝りたくない気持ちとか、色々な気持ちが交差してぐちゃぐちゃになった。突然、赤いきつねのスープを捨てるために、容器を持ってくればよかったなぁと、どうでもいいことを考えてしまった。(普段はスープも飲み干すのだが、その時は塩分を気にしていた)

 トイレから出ると、みゆきが前に立っていた。

「何?」

「ねこちゃん、スープ飲まないの?」

「……え?」

「赤いきつねのスープ」

「……ああ。どうしようかな」

「飲んでもいい?」

「え?」

「ねこちゃんの赤いきつねのスープ飲んでもいい? 匂いが限界、我慢できない」

「……うん。いいよ」


 私たちはそれ以来、喧嘩をすることはなかった。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

関西風は大学生協にのみ存在する 森川音湖(もりかわ ねこ) @neko-bassoon229

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ