サキソフォンと笹舟

 昔の人は言った。草のそよぎにも、小川のせせらぎにも、耳を傾ければそこに音楽があると。だからオレは今日河川敷に行った。お気に入りのアルト・サキソフォンを抱えて。土曜日の昼間、一番にぎわう時間帯がつくる音楽を求めて。


 相棒のサキソフォンはいつ吹いても楽しい。木のリードを口にくわえて、息を思い切り吹き込むと、元気の良い音が飛び出すのが良いんだ。サックス、とは呼ばない。スウィングにブルース、ビッグバンド、何でもできるんだから、ちゃんとした名前で呼ぶほうがいいだろ。

 こいつとは、高校時代に出会ったんだよ。高1の吹奏楽部から今の今まで、ほとんど毎日練習してきた。四捨五入すりゃもう10年。今じゃ、インディーズのジャズ・ビッグバンドのメンバーだ。時々先輩たちに誘われて、別のバンドでサポートもさせてもらうんだぜ。すごいだろ? 


 ……とかイキリたおしたけど、オレ実は今日、すげぇネガティブな理由で出かけてんだよね。うちのアパートにいてもクッソうるさくて落ち着いてらんねえの。外から電気ドリルや、金槌や、なんかの機械のうなり声が爆音で響いてる。今日から2週間ぐらい、改修工事するんだってさ。おかげで耳がガンガンしてろくに集中できない。あーあ、ヤんなっちまうよ、ホント。今度デカい街のライブハウスで演奏控えてるのにさ。


◆◆◆


「ダメだー……ぜんっぜんダメだ。まるではかどる気がしねぇ……」


 オレはサキソフォンを抱えたまま、へなへなと芝草のうえにしゃがみこんだ。数メートル離れたところで本を読んでいた男性が、どうしたのかと顔を向けた。

 今度演奏する曲が、まったく吹けないのだ。

思うような音が全然出ない。集中できない。いろいろなところが気になってくる。舌づかいや息づかいのせいなのか、力みすぎてるのか、考えすぎて一層気が散ってくる。

 しょーがねぇや。ちょっと場所移動しよう。たぶん緊張してるんだろ、オレ。歩いたほうが、気分転換にもなるしさ。


 土曜の昼間の河川敷は、賑やかだ。オレみたいに釣りに来た人だけじゃない、辺りを見回せば、誰もが思い思いの時間を過ごしてる。散歩中の老夫婦。釣りに励む釣り人。やわらかい草の上で遊んでいる家族連れ。お父さんがフリスビーを投げ、きゃーっ、と子供のはしゃいだ声がする。護岸ブロックの上では、暇を持て余した野球部員2人がムダ話をしてる。基礎練だりぃなー、せっかく天気がいいのにさ、オレらまだ一年だもん仕方なくね? 帰りに「やまねこ」でも寄ろうぜ。

 やまねこ、と聞いて、オレはつい目をそらす。馴染みのカラオケボックスだった。利用料は安いしフードも美味しい。何よりデカいのは楽器持込みOKってとこ。いつも人のいない時間を狙って河川敷で練習してて、気分のらなくなったらその足で「やまねこ」にサキソフォン抱えて飛び込む――そうしたほうが、もっとうまくいったんじゃないか?


「あー……みんな、今ごろは猛練習してんだろな。オレ、こんなとこで何やってんだろ」


 直近の演奏、2週間後なんだぜ。2週間。オレホーンセクションだから、最前列でリーダーたちと並んで吹くの。しかもその数日後には、別のバンドのサポートもするんだ。こないだ調子こいて予定詰めまくった。なんかいつにも増してうまく吹ける気がする、って。

 その結果がこれだよ。まったくダメ。吹けねぇ。気ぃゆるみすぎじゃね? なんで今日サボってんの?

 後悔先に立たずというか役立たずというか、一度思い出しちまうと、そんな考えがもやもやとわいてくる。バカみたいだ。もやもやから目を逸らすように、さらさらと流れる川へ目をやった――視界の端っこに、何か変な緑色のものが入った。


 最初は、弱った魚かなと思った。ぷかぷかと水面に浮かんで、岩に引っかかっていたから。拾った長い枝にひっかけ、手元に拾ってみた。ひっくり返った笹舟だった。葉の端っこは、重なるように折り込まれているもんだけど、これは片方がほどけてる。


(あー、折り込みが甘いのか。不器用な子が作ったのかな? この葉っぱ、ちょっと硬いから、うまくできなかったんだろうな)

「あれー、赤瀬くん? 赤瀬くんでしょ?」


 しげしげと眺めていると、後ろから能天気な声がかかった。背の高い影がぬっと足もとを覆う。


「うわっ、牧か! 急に声かけんなって……あー、心臓止まりかけたわ」

「あ、やっぱり赤瀬くん! 今日、ずいぶん早く来たんだね。いつもここで練習するの、夕方とか言ってなかった?」


 親友の牧だ。大学生のころのバンド仲間で、今は兼業ドラマー。仕事や家事の合間をぬって、大好きなドラムの練習に精を出している。


「あぁ、そうなんだ。バイトもないし、サキソフォンの練習に、と思って。でも、なんか集中できなくってさ。

そういう牧はどうした? お前んち、この辺じゃないだろ?」

「市役所まで用があったから、ちょっと行ってきたんだよ。あとは買い出しだけして帰ろうと思ったけど、暑いからちょっとだけ川で遊ぼうかなーって。

トンボと、あとデカいザリガニも見つけたんだよ、あとでSNSに上げるね」


 牧は片手でVサインをつくってみせる。こいつ、良くも悪くもこういう子供っぽいとこあるんだよな。嫌いじゃないし、「牧くんかわいーい♪」ってファンからの受けも良いらしいんだけど。


「だからお前、ファンが途切れねぇんだな……

そういや、さっき川でこんなもの見つけたんだけど、これ、牧が作ったの?」


 拾った笹舟を見せると、あいつは「そうそう!」と手を打った。細い葉がたくさん生えている場所があったから、せっかくだからと折ってみたらしい。ジーンズのポケットのなかからは、笹の葉が数枚はらりと落ちた。


「あ、いけね、落ちちゃった……  たくさんあるけど、ついでだから赤瀬くんもやろうよ。それ使っていいし、僕の集めた葉っぱもあげるからさ」


 牧にうながされ、オレは持っていた笹舟を水上に乗せ、優しく押してやる。


「よーし、うまくいったな……あっ、やべ! おい揺れんな揺れんな、こら待て、沈む沈む沈む……あっ、あー、良かった……」


 間一髪。急な流れを抜け、反対側の岸の方にたどり着いた。まったく大胆なやつだ。そんな流れの速いほうへ行くなんて、ヒヤヒヤさせやがって……


「めちゃくちゃ気持ち入ってたね。僕より真剣だったよ? ほら、サックスしっかり抱えてさ」


 牧が言った。言われて初めて、サキソフォンをぎゅっと抱えたまま、笹舟の行方に見入っていたのに気がついた。


「あはは、何だよ、悪いか? 流したのオレなんだぞ、それにこういうのってすげぇ集中して見ちゃうじゃん」

「だよねぇー。僕も流そうかな。競争しようよ、きっと楽しいと思うから」


 やっぱこういう川遊びって楽しいね、と牧は葉っぱを折っていく。割と大雑把な性格の牧だが、好きなドラムや遊び道具や、何か楽しいことを準備するときは、ほんとに丁寧にやるんだ。昔とった杵柄ってやつなのかもしれない。


 オレたちは、お互い1枚ずつ笹の葉を取って、ひと勝負することにした。ガキっぽい遊びだけど、さっきはとても楽しかったんだ。

 せーの、の合図とともに、小さな若葉色の笹舟が2艘、川を流れはじめる。時々左右に揺れながら、まっすぐ川の流れに乗っている。

 ……あっ。オレの方が、大きく揺れた。水が縁から入ったんだ。葉っぱの舟はひっくり返り、水中に力なく沈んでいった。その間にも、牧の方の笹舟は、水上を悠々と進んでいき……少し離れたところで、流れにあおられ、ちゃぽんと沈んだ。


「ちぇー、悔しいな。もうちょっとがんばれば良かったのにさ」


 オレは妙にムキになっていた。しょせん遊びではあるけれど、親友と競争するとなれば、負けず嫌いに火がつくもんだ。


「残念だったねぇ。赤瀬くんの葉っぱ、大きくて丈夫そうだったから、もっと長く進むと思ったけどな」

「しょうがねーよ、勝負は時の運っていうし」

「あ、じゃあもう一回やる? 僕も、もうちょっと長く流したかったんだ」


 結局オレたちは笹舟競争をそのあと3回やった。オレも牧も1回ずつ勝って、あと1回は……両方とも風にあおられて、すぐに沈んでしまった。


◆◆◆


「ねぇ、赤瀬くん。サックス――おっと、サキソフォン吹いてみたら?」


 牧が振り向いた。地面にあぐらをかいたまま、手さぐりで手に持った笹の葉っぱを選別していた。わざわざ「サキソフォン」と言い直してくれたのは、ちょっと嬉しい――オレのこだわりをわかってくれてるんだ。


「え、オレが?」

「うん。せっかく持ってきたんでしょ。吹いたら?」

「えーっと……今やったほうがいい、よな?」

「全然いい。ライブ以外できみのサックス聴くことって、なかなかないからさ」


 牧はオレの隣に置かれた、サキソフォンのケースを指差した。ワインレッドのハードケースは、やわらかな芝草の上に寝転がり、主人が使ってくれるのを今か今かと待っている。

 オレとしては、嬉しかった反面、ぶっちゃけ戸惑いもあった。今の今までいい演奏ができてなかったし、こいつが来てからは遊んでしかいない。


「なぁ牧ちゃん、言ったっけ、オレちょっとスランプ気味なんだよね。ちょっとじっくり聴かれると恥ずかしいかもって――」

「なんなら、そっち向かないでおこうか? 僕、遊びながら聴くよ、それならいい?」


 お言葉に甘えて、そうしてもらうことにした。牧の足元には、既に大量の笹舟が積まれていたんだ。手には綺麗に形の整ったものを1艘構えて。全部流す気満々だったあいつに、水をさすのも悪いからさ。


「じゃ、1曲いってみるか。リクエストは?」

「あるよ。こないだのライブの、1曲目に演奏してくれたやつ。ワン・ステップ・アバウト、だっけ?」

「お、いいぜ、あの曲だろ? いいよ、吹いてみる。名前は全然違うけどな」


 外国のビッグ・バンドがつくった、有名な曲。何度も楽団で演奏した十八番だった。次のライブのセットリストには入ってなかったけど、ま、牧のリクエストだし特別だ。

 オレはストラップを肩にかける。マウスピースを口に当てて、優しく息を吹き込んだ――まずは音の調整だ。


 ふぅーぅうぅーう……


 オレの息がマウスピースを揺らし、音をまとって、朝顔型のベルから音となって放たれる。よし、もう一度。相手を意識しないで、大きく息を吐く。


 ふぅーぅうぅーう……ふぁあああーあぁぁ……


……あれ、今の、結構いい音だったんじゃないのか。思っていたよりも、ずっと軽やかだ。


「あ、いーじゃん、今の」


 牧が川に向けた手を止め、振り返った。

 

「マジで? じゃ、もうちょっといいか? 今の感じ、思い出したいんだよ」


 ふぁー、ふぁー、ぶぁーっ、と、息を少しずつ、強く吹き込んでみる。煮えてきた鍋かヤカンの火力を、少しずつ上げるみたいに……よし、ここだ。

 息を吹き込みつつ、キーを丁寧に押さえていく。中指。人差し指。反対の手、中指。薬指。順序はすっかり頭に入っていた。ややスローテンポのメロディが次々とベルから飛び出してくる。とん、とんと足は軽く地面を叩いて、リズムをとって――

――はじけるような拍手の音で、オレはハッと前を向いた。サビまで吹くことができたんだ。


「赤瀬くん、調子戻ったみたいだねぇ」

「かもなぁ。なんか、夢中で遊んでたら、気が晴れたよ」

「へへ、僕のおかげだね」


 牧はやや得意そうに鼻の下を擦る。それが何だかおかしくて、オレはくつくつと笑った。


「おいおい、何だよ『おかげ』って」

「煮詰まっちゃったときには、ぱーっと遊ぶのが一番だよ。こんなとこで何やってんだー、なんて考えても仕方ないって。

こういうときこそ、楽しくやろうよ。僕らバンドマンでしょ?」


 ざぁ、と後ろから風が吹き、辺りの草を揺らす。オレの背も軽く押されたようだった。


「……そうだよなぁ。せっかく、華やかなパートやってるんだからな、オレ」


 牧の言葉も、オレの心を揺さぶるようだった。いつものんびりした牧らしい態度だったが、参っていたせいか、やけに沁みたんだ。

 ――なるべく調子良く過ごした方が、音にも元気が出るってもんだ。違うかなぁ、牧?


「あ、ごめん、笹舟流しててて聞いてなかった。何て?」

「いやオレあんま真剣に聴くなって頼んだけどさぁ――」


 オレたちは声を上げて笑う。その後ろで、深緑色の小舟が、広い川を鷹揚に流れていった。

 ふと、眩しさに目を細めた。手元のサキソフォンが光を反射し、きらりと輝いて見えた。迷わずストラップの位置を直し、構えなおす。勢いで最後までやるつもりだった。

 金色の管を軽やかに弾く指先。伸びやかな音とサキソフォンの振動が伝わる指先。ノリノリの牧が鳴らす靴音と指パッチンがドラム代わりだ。メロディは川の方へ投げかける。豆粒ほどの点になった小舟に、声援を乗せるつもりだった。

 日暮れどきにはオレの喉はかさかさに渇いてた。牧が流し続けた笹舟は皆遠くへ流れていった。明日はもっとうまくやれるだろうと思った。


〈おしまい〉

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サキソフォンは風のなか 沙猫対流 @Snas66on6

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