番外編
世界の終わり
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見渡す限り、そこは何もない世界だった。ひび割れた大地、乾いた風、灰色の雲が覆う空。時折強く舞う土埃以外には、草木一つ生えない荒寥とした世界。
何もない世界の中心には一人の男が横たわっている。錆びた鎖が男の体中を拘束し大地に縫い留めていた。男は酷く汚れている。長く伸びた髪が男の顔を隠し、至る所土と血に汚れ腐臭を振りまいていた。
固く閉ざされた瞼。物言わぬ口許。ピクリとも動かない体から流れ落ちる鮮烈な赤。心臓の真上に深々と突き刺さる短剣。
この世界を満たすのは永遠に繰り返す“死”だけだった。
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いつの頃からかはわからない。ルーファスは寝起きが苦手になった。何か強い衝撃を感じて体が跳ねあがり、全身汗だくで起き上がる。暫くは鼓動も呼吸も乱れ酷く狼狽えてしまう。
今朝もそうだった。微かに震える手を握りしめ固く瞼を閉ざし自身が落ち着くのをじっと耐える。
ある程度落ち着きを取り戻すと、何にこんなに狼狽えているのか疑問が浮かんでくる。起き抜けに見る夢のせいかと思えば、不思議な事に欠片も内容が思い出せない。
瞬きを繰り返す毎に、夢の事も疑問に思った事も狼狽えていた事もさらさらと消えていき、ただ目覚めの悪さだけがルーファスの中に残る。
不快さを振り切るように頭を軽く振る。ほっと息をつくと温かな体がルーファスに擦り寄って来た。
隣で眠っている彼の妻だ。さらさらと流れる黒髪を梳いて健やかな寝顔を露わにするとルーファスの顔が自然と綻ぶ。
愛しい人、掛け替えのない彼の運命だ。夫婦になり何年経っても隣にいるアリサを見ると胸が一杯になり幸福感に満たされる。
アリサは良く眠っている。彼女は一度寝入れば朝まで滅多に起きる事がない。ルーファスは寝ている妻の寝顔にキスを一つ落として寝台を抜け出した。
外はまだ暗い。宮殿は静まり返っている。ルーファスは誰にも会う事なく執務室まで辿りついた。部屋の中に入ると窓を開ける。闇を纏った風が金色の髪を揺らす。暫くそこに佇み目を閉じてただ夜の闇を感じていた。再び目を開けると部屋の明かりを灯して、椅子に腰を据えると机に積まれた書類を処理し始めた。
ルーファスの一日のルーティンは決まっている。夜が明ける前に執務を始める。夜が明けると鍛錬をして、朝食の前にアリサを起こしに行く。朝食が終わればアリサと共に午前中は神殿で過ごす。午後は宮殿に戻り執務をこなす。夕方は家族と共に過ごして、アリサに合わせて早い就寝に付く。アリサが寝入ればまた執務に戻る。夜遅くまで執務した後に短い睡眠をとるり、そしてまた夜が明ける前に起き出す。
このルーティンが乱れる事は滅多にない。この国が平和な証拠だろう。その平和を支えているのは聖女だ。結界により厳しい外界から閉ざされた国は豊かなだけではなく、他国からの干渉も侵略も受けない。そして聖女という神格化された存在は人心を掌握するには極めて有効だ。聖女の果たす役割は聖女自身が認識するよりも遥かに重い。その重みを支えるために存在するのが守護者だ。守護者は聖女のために存在する。
ルーファスは守護者であり王でもあった。歴代の守護者のように、すべてを聖女に捧げる事は難しい。アリサがここへ連れて来られた経緯を考えれば、ルーファスの全てをもってしても足りないだろう。だが、アリサを守りたいと思うのと同じようにこの国を守りたいと思う。アリサを誰よりも幸せにしたいように、この国を幸せにしたい。
その強い思いはルーファスの中で長年培われた王族としての使命感や義務感によるものなのかもしれない。
ルーファスが仕事に没頭している間に空は徐々に明るく色を変え始めていた。夜の闇を追い払うように執務室に日が差し込む。眩しさに目を細めて立ち上がった。
新しい一日が始まる。恐らく平凡で平和な一日。その一日のためにルーファスはいるのだ。
王宮と神殿は目と鼻の先にある。本来聖女は神殿に属するのだが、王妃であるアリサの生活の拠点は王宮にあり、毎日神殿に通う事になっている。守護者であるルーファスも同様である。神殿内では常にアリサの背後に控えているルーファスであるが、一人になる時もあった。今のように、アリサが神聖樹に神力を灌ぐ祈りを行う時もそうである。
神聖樹の内部にある祈りの場に入れるのは聖女だけである。その間ルーファスはただ待つ事以外にする事もない。限られた人間しか立ち入る事の出来ない聖域は清らかな空気と静寂に包まれていて、知らず強張っていた体から力が抜けて息がし易くなる。
神力を灌がれた神聖樹はキラキラと輝き、美しく幻想的だった。太くどっしりとした幹に艶々と輝く緑の葉は青い空によく映えた。
何度目にしても美しい光景だった。その美しい光景に小鳥が一羽入り込んで来た。青い羽根と黄緑の嘴を持つモウナだ。いつからか神聖樹が受け入れた小鳥。その小鳥が枝にとまり、首を傾げてルーファスを見つめている。
次の瞬間、ルーファスの目に映る景色が一転する。美しい筈の空の青が灰色に、神聖樹の緑もモウナの青も全てが灰色に覆われて色を失う。世界に色が失われた。
呆然とするルーファスの頭上に何かが落ちて来た。慌てて受け止めたそれはルーファスの掌に収まる小さな靴だった。そうして見上げた先に不自然に揺れる枝。
ルーファスが固唾を飲んで見つめていると、灰色の女の子が顔を覗かせた。
ルーファスはその女の子を知っている。女の子はルーファスに向かって何かを話しているが何を話しているのかは聞き取れない。
胸が苦しくて、思わず胸を握り締める。手に持っていた筈の靴が消えている。慌てて視線を戻すと女の子は満面の笑顔だった。
何も感じなかった。何の感情も浮かばない。ただただ胸が苦しい。
やがて、女の子の姿が滲んで消えて行く。同時に灰色だった世界が色を取り戻していく。目に映るのは色鮮やかな美しい世界だった。空は青く、神聖樹の幹を茶色で葉は緑色。
ルーファスは神聖樹の幹に両手で触れた。溢れる力を神聖樹に流す。神力以外を受け付けない神聖樹の反発を感じたが止めなかった。
神聖樹に触れている手が焼けるように痛む。無理矢理力を通しているのだから当然だ。痛みなどどうでも良かった。ルーファスにはこれくらいしか出来ないのだから仕方がないのだ。
(どこかにいるあの子に―――――――)
祈る様に力を流した。
我に返った時、ルーファスは自分が何をしていたのか分からなかった。神聖樹の怒りのようなモノを感じて、何に怒っているのか分からず首を傾けた。
「ルーファス」
名前を呼ばれて振り向くとそばにアリサが立っていた。アリサの長い黒髪がさらりと揺れた。その長い髪に手を伸ばす。
「アリサ、お疲れ様。今日も見事だったよ」
「ありがとう。それより、何かあった?不思議そうな顔をしているよ?」
アリサの手がルーファスの頬を包み込む。その手に手を重ねながらルーファスは考えるように眉を寄せた。
「いや、何もない、………多分」
「多分なの?変なルーファス」
可笑しそうに笑ったアリサはそのままルーファスの手を引いた。
「アリサ?今癒しを」
繋いだ手から力をながそうとして、ルーファスは自分の力がほとんど残っていない事に気が付いた。どうしてそうなったのかわからない。
「いいから、いいから」
混乱するルーファスに気が付かずにアリサはルーファスを座らせると自分はごろんと寝転んだ。
「ほら、ルーファスも」
言われるがままに寝転ぶとアリサは嬉しそうに微笑んだ。
「少し、休んで行こう。ルーファスは働き過ぎだよ」
「自分が眠いんじゃなく?」
「ばれちゃった?いいじゃない、たまにはさぼらなくちゃ」
ルーファスの腕に頭をのせてころころと笑う。こんな風に言ってルーファスを休ます事が出来るのはアリサだけだった。
アリサが笑うとルーファスは幸せを感じる。その後にとても安堵する。
アリサがルーファスの胸に顔を寄せて上目遣いで見上げた。黒曜石の瞳がいたずらに輝く。
「ね、二人っきりだね。凄く贅沢な時間。子供達には申し訳ないけど」
王族である二人は人が控えているのが常だ。子供が出来てからは純粋に二人になれる時間は減った。子供達は可愛いから不満があるわけではないが、それが少しだけ寂しいのも事実だった。
ルーファスがアリサを抱き寄せるとアリサが嬉しそうに抱き締め返す。
「はぁ~幸せ。マリアに怒られるかな」
マリアは二人の二番目の子供だ。最近自己主張が強くなってきて、神聖樹を見てみたいと言って聞かないのだ。まだ理屈もわからない幼い子供はだた単に両親の特別な場所に興味を持っているだけだ。上の息子ケントの時もそうだった。ただ守護者の能力を持つケントは聖域に入れる可能性はあるがマリアは難しいだろう。
マリアの可哀そうだが可愛い泣き顔を思い出したのかアリサの顔が母親の顔になる。それからは子供達の他愛無い話をした。
アリサがうとうとし出すとアリサの耳元にそっと囁く。
「少し眠るといい。時間が来たら起こすから」
「………うん」
完全に寝入ったアリサの背を宥めるように撫でる。ルーファスの枯渇した筈の力は回復していた。ゆっくりとアリサに癒しの力を送る。
何故力が枯渇したのか、疑問はルーファスの中から消えていた。
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ああ、またこの夢かとルーファスは思った。何万回、何千回と繰り返される夢。夢から醒めれば霧散して何一つ思い出す事のない夢。そのくせに、夢では何もかも覚えている。これから何が起こるのか、何をすればいいのか、体に染みついて離れない感触も何もかも。
この荒寥とした世界。何一つ救いのない大地はファストリアには存在しない。こんなに寂しい場所は雪と氷に閉ざされた結界の外にも存在しない。
肌に纏わりつくのは死の気配だった。
ルーファスは歩き出す。何かに導かれるように“死”の気配が濃くなる方へと。
罪人のように大地に縫い付けられ横たわる男が一人。土と血に酷く汚れ死臭を振りまいている。髪は伸び放題で顔は判別出来ない。死体のごとくピクリとも動かない。
ルーファスは知っている。これ程の死を撒き散らしながら、男は息を吹き返すのだ。
ルーファスの手にはいつの間にか短剣が握られている。この後に何をすればいいのかルーファスは分かっている。
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時間は緩やかに流れていった。忙しくも穏やかで幸せな日々。
アリサの周りはいつも光が溢れている。笑顔の絶えないアリサは王妃として聖女として人々の敬愛を一心に受けていた。そんなアリサの笑顔に時折陰りが見えるようになった。ルーファスにしかわからないその変化をルーファスは見逃さなかった。
随分と躊躇った後にアリサが口を開いた。
「あのね、最近の私を見て、どう思う?」
問われたルーファスは意図が分からず困惑した。真剣に不安そうにこちらを伺うアリサを見つめ返す。いつもと変わらない姿だ。いつもの愛しい彼の運命だ。慎重に答えた。
「いつものアリサだ。相変わらず綺麗で可愛い」
アリサは目をまん丸にして慌てだす。
「や、そういう意味じゃなくってねっ!?それはっ、どうもあがとう、なんだけどね!?」
薄っすらと赤くなりながら、ぐっと眉を寄せて口元を引き締めた。
「………すごく、老けたと思わない?」
今度はルーファスが目を丸くする番だった。ルーファスは女性の変化には疎い。年齢を重ねれば老けていくのは当然だ。それを特に意識した事がない。
「いや、日々美しくなっていくと思っている」
正直に答えたと言うのにアリサは真っ赤になって怒り出した。
「ルーファスじゃ話にならない!」
ぷりぷりと怒ったかと思うと笑い出し、そして泣き出した。
落ち着いてからアリサはゆっくりと話だした。
「私ね、母親似なの。ちょっと引くくらい似てる。昔の写真とかそのまんまなの。私がこっちに来た時、つまり24歳の時ね、母は59歳だった。その59歳の母親とそっくりなの。おかしいよね?私まだ40手前だよ?」
そう言いながら長い髪をいじくる。黒い髪の中に白いものが混じっている。ぎゅっと握ってぱっと手を放す。
「そう思ったらね、なんか、違和感がぽろぽろ出て来て………」
ルーファスがアリサを強く抱き寄せる。アリサは体の力を抜いてルーファスにもたれかかった。
「なんか、笑っちゃう。ルーファスってば私の外見なんかどうでもいいんだもん」
「アリサは美しいよ。どんな時でもどんな姿でも美しいと思う」
心からの言葉だった。腕の中でアリサが震える。
「ふふっ、ありがとう」
「ちゃんと調べよう。原因がわかれば対処の仕様もある」
「うん」
アリサの涙に塗れた瞳を見つめた。
「愛してる」
「私も、愛してる」
幸福の中に悲劇が混ざるのは誰かのせいなのだろうか?
ルーファス達は一度アリサから世界を奪った。罰を下されるべきはルーファス達である筈だ。その罰がアリサをルーファス達から奪う事なら馬鹿げている。
その馬鹿げた事実にルーファス達は打ちのめされている。出来る限りの方法で調べた結果、アリサは病気ではなかった。病気であったなら治療の方法もあっただろう。
「なんだ、これはっ!」
調査結果を前にして激高しているのはバージルだ。バージルはルーファスを公私共に支えている、家族とも言える存在だ。
「こんな、酷い事実があってたまるか!」
アリサは異世界人だった。姿形も中身もこちらの人間と変わらない事はルーファスと子をなした事で証明されている。だが、一点だけ相違があった。アリサの体内に流れる時間が違ったのだ。アリサの時間はルーファス達よりも早く流れる。つまり、老いて行くのだ。
研究者達は老化を止める方法はないと言った。老化は摂理だ。寿命は生命に与えられた期限でそれを曲げる方法はない。守護者の能力もこれを曲げる事は出来ない。
何か救う方法はないのかと必死で読み込んでいた紙はルーファスの手の中で握り潰された。
「………なんのための力なんだ、なんのための守護者なんだっ」
憤りと絶望、何よりも無力な自身に怒りが湧く。
アリサは数奇な人生を余儀なくされた。誰も体験しないだろう喪失と悲しみを味わい、それを乗り越え今を受け入れてくれた。誰よりも幸せにならなければいけない人だ。なのに、この酷い現実をアリサに突きつけるのか。
唇を切れる程に噛み締める。
ルーファスの様子に気が付いたバージルがルーファスの肩に手を置いた。
「ルーファス、悪い。取り乱した。………大丈夫か?」
バージルにしては心配そうな様子を見せるのは昔のルーファスを思い出したからだろう。ルーファスはそっと置かれた手を払うと顔を背けて歩き出した。
「ルーファス」
「大丈夫だ。こんな酷い顔でアリサには会いに行けないから頭を冷やしてくる。それに、諦めたわけじゃない」
ルーファスはアリサを幸せにするためにいる。もっと沢山の幸せの中でアリサが笑って生きていくために。ルーファスは強くならなければいけない。
その夜は長い夜になった。アリサの嘆きは夜通し続きルーファスはアリサを抱き締め続けた。
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短剣の感触は既に馴染んでいる。憐れに横たわる男を無感情に見下ろしていた。
これは必ずルーファスがなさなければならない事だった。
死体だった筈の男の指か僅かに動いた。それに合わせるように胸が動く。
ルーファスが振り上げた短剣の刃が煌めく。鋭い切っ先は真っ直ぐに男の心臓の上に振り下ろされた。
刃が肉に沈むおぞましい感触。そのまま力を込めてすべての刀身を押し込める。
男の咆哮が世界を染めた。
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一番に現実を受け入れたのはアリサだった。そんなアリサを前にして嘆き悲しむ事は出来なかった。日々二人は丁寧に幸せを積み重ねていった。だが、アリサの変化は波紋を広げた。
誰が言い出したのかは定かではない。神子の身に起きた不幸は前聖女が生きているせいではないかと囁かれるようになった。そんな馬鹿な話をアリサやルーファスの耳に入れる者はいないと思われたが、人間の不安は留まる事をしらない。前聖女の動向を探る者も現れはじめ捨て置く事が出来なくなった。
神殿を含めて行われた会議では信じ難い言葉が飛び交った。神子の喪失を恐れる者達は極端な思考を正論のように語った。
「本来神に選ばれた聖女は一人の筈です。二人現われた事が歪みの原因です。私達は歪みを正すチャンスがあった。そうしなかった事こそが、今回の不幸を呼び込んだのです」
「その通りです。力を失った聖女は神から見捨てられた存在だ。そんな人間を生かしておいた事で罰が下ったんだ」
「我々は神子を失う事出来ません」
「今からでも遅くはありません。間違いを正すべきです」
神官長は顔を蒼白にして震えていた。神官長だけではない。前聖女に好意的だった者は怒りを露わにしている。
神官長は怒りに震える声で問うた。
「それで、あなた方は国に貢献してきた前聖女をどうせよというのです?」
はっきりとした明言を避ける中で一人が前に進みでた。
「我々とてこんな事は言いたくないのです。ですが皆の幸福を考えるなら一人の犠牲は致し方ないのではないでしょうか?」
それに呼応して次々と声があがる。
不安に駆られた人間の醜い心無い声。
「前聖女は死ぬべきなのです」
この声を聞いた時ルーファスの目の前は真っ赤に染まった。どくどくと強く鼓動を打つ心臓が締め付けられる。耐え難い苦しみ。
怒号が飛び交う中でルーファスはこの苦しみ以外を感じられなくなった。苦しみが体中から溢れて力が暴走しそうになった時、部屋の扉を開け入室してくる者があった。
「ミズリが死んだら、私はこの国を見捨てます。見捨てて元の世界へ帰らせてもらいます。絶対にです」
アリサは敢然と言い放った。一瞬にして静まり返った場を見渡し、ミズリを排除しようとしていた者達一人一人を真っ直ぐに見つめる。
「これは誓約です。どうか、私にそんな酷い選択をさせないで下さい」
皆が退室して行った後に神官長とアリサは言葉を交わしていた。
「ミズリの居所は教えて頂けないのでしょうか?」
アリサの背後にやって来たルーファスを気にしながら神官長は首を横に振った。
「申し訳ございません。ミズリの最後の意向なのです。どうか、ご容赦下さい」
「元気にはしているのでしょうか?」
「恙無く過ごしております」
「もう一度会いたかったけれど」
アリサはふっと息を吐き出して気を取り直したように微笑んだ。
「もし、会う事があったら、私は大丈夫だと幸せに暮らしていると伝えて下さいますか?」
「はい。もちろんです」
快く返事を返してくれた神官長に挨拶をしてアリサはルーファスと共に退室した。そんな二人を神官長は少しだけ悲し気に見送った。
アリサは強い女性だった。同時に脆い部分も持った普通の女性だった。ルーファスにはアリサは自分を偽らなかった。悲しみに飲まれる日もあったし、八つ当たりをする日もあった。その全てをルーファスは受け入れてくれる。
二人の絆は運命に相応しく深く強固になっていった。
ルーファスはアリサを失った時自分がどうなるかわからなかった。アリサが腕の中にいる今はそれを想像出来なかった。ただ一日でも長くこの腕の中にいて幸せだと言って笑っていて欲しいと願った。
アリサはどんどん穏やかになって、満ち足りた笑顔は周囲の者を幸せにした。そして、終わりはやって来る。誰の元にでも。
アリサを弔う鐘。アリサに捧げられた白い花。悲しみに嘆く人々の声。アリサを包み込む浄化の炎。
世界の終わりをルーファスは成す術もなく見ていた。
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ルーファスはいつものように男を見下ろしていた。手には短剣を持ち男の心臓に狙いを定める。
振り下ろされた切っ先は男の心臓を貫く筈だった。ルーファスの瞳が見開かれる。ルーファスの手を握る者がいる。男を地面に縛りつけていた鎖が砂塵と化して崩れ落ちて行く。男はゆっくりと地面から起き上がり、掴まれたルーファスの手が悲鳴をあげた。短剣が奪われる。ルーファスの比ではないくらい男の力は強く地面に押し倒されたのはルーファスの方だった。
長い前髪から覗く男の濃い青紫の瞳は底知れない憎悪と闇を秘めていた。
男の握った短剣がルーファスの目前にある。ルーファスは悟っている。この短剣に貫かれたら自分は死ぬのだと。永遠に蘇る事はないのだと。ルーファスの抵抗も虚しく切っ先は徐々にルーファスの心臓に沈む。
痛みなどという生易しいものではない。口から鮮血が溢れ苦悶に顔が歪む。
完全に刀身が沈んだ時強い風が吹いた。穢れた男の顔が露わになる。皮肉に口元を歪めて笑っているその男の顔はルーファスそのものだった。
運命じゃない たみ @tami2yomu
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