2-16
夜半を過ぎた頃だった。肌寒さを感じて身震いをした。無意識に温かさを求めて寝返りを打てば、冷たいシーツの感触だけがあった。
「…ルー…ァ………?」
夢うつつに名を呼んでも答えがない。それが途轍もなく恐ろしい気がして瞼を開けた。
寝室の窓はカーテンが引かれていなかった。重い雲の隙間から月の光が地上を照らして部屋はほのかに明るい。
寝室には彼女―――ミズリが一人だった。
ミズリは少しだけぼんやりとしてから緩慢な動きで起き上がってベッドから降り、窓辺に近寄った。
ミズリの温かい息が窓に当たって白く濁る。夜に降り出した雨はいつの間にか雪に変わり、窓の向こうに白銀の世界が広がっている。急激に冷えた大気が耳を打つような静寂を作り出していた。
夜着一枚の肌が寒さを感じて、両手で肩を抱き締めた。すると、足元にサワサワとした感触がすり寄る。下に目線を落とすと銀色の毛玉がミズリを見上げている。
ミズリは微笑んで毛玉を胸に抱き上げた。
大きな三角の耳は重さに耐え兼ねて臥せっている。長い鼻に、澄んだ青い瞳。尻尾はちぎれんばかりに左右に振ってミズリをバシバシ叩いている。口を開けて覗くのは小さな牙だ。赤い舌で、夢中になってミズリを舐めて来る。
小さな笑い声をあげて、ぎゅっと温かな毛玉を抱き締めた。ちらりとベッドを一瞥するが、戻る気にはなれず、そのまま部屋を出た。
ミズリの住む家は集落から外れた場所に立つ小さな一軒家だった。夏場に猟師が利用する狩猟小屋を改築した家で、寝室の他に部屋は一つしかないが不満はなかった。お互いの息遣いを感じられる、そんな家が良かったからだ。
彼女は消えた暖炉の火をつけた。オレンジの炎が薄暗い闇を払うと炊事場に行った。子犬がミズリの足元に纏わりつく。ヤギの乳を小皿に入れて床に置いてやれば喜んで飛び付いた。子犬を一撫でしてから、夕食で余ったスープの入った鍋を持って先程の暖炉に吊るした。
そこまですると掛けられたブランケットにくるまって暖炉の傍に座り込んだ。
ミズリの夫は時々夜中に姿を消す事がある。何をしているのか確かめた事はないが、ミズリは知っていた。
ここは国の辺境でもともと結界が薄い。その上、新しい聖女は力が安定しておらず十分とは言えない状況なのだ。神殿はあるにはあるが、地方ではままある事に神官は長らく不在だ。だから、彼女の夫は誰にも知られない深夜に神殿を訪れる。
どうやら、夫はそれをミズリに後ろめたく思っているようだ。そんな必要はないのだが、夫が黙っている以上ミズリは口にしないと決めている。ただ、一人置いて行かれる夜は酷く心細くなるから、こうやって帰りを待っていたくなるのだ。
「わんっ」
子犬が吠えてミズリのブランケットを引っ張った。ミズリの思考が止まる。
「ごめんね、一人じゃなかった。お前も一緒だったね」
この子はとても賢い子だ。時折ミズリの思考を読むような行動を取る。その上可愛いのだから最強だ。夫に言わせると可愛いとは対極で、さらに言えば“犬”ではないのだが、賢いのはお墨付きだ。ミズリが拾ってきた当初は難色を示されたが、今は諦観と共に黙認されたいる。この子は夫がいない間のミズリの護衛らしい。
子犬が飛び付いて来る。口の周りにヤギの乳が付いている。前足にも。どうやら皿を引くり返した模様だ。脇に手をいれて持ち上げたら、だらりと体が伸びる。顔を傾けてくりくりとした瞳で見つめて来る。
「かわいいっ」
思わずぎゅっと抱きしめた。ミズリに構ってもらって子犬は兎に角ご機嫌だ。
いつの間にかうつらうつらしていると扉の前に外套を払う音が聞こえた。ノブが回り扉が開く。子犬は臥せっていた耳をピンと立てて緊張している。冷やされた外気が部屋に侵入した。
ミズリは何の警戒心もなく起き上がり満面の笑みを浮かべた。
「おかえりなさい」
そう言うと彼女の夫―――ルーファスは困った顔をした。
「………ただいま」
扉の前に立ち止まったままのルーファスの手を引いて暖炉まで導く。雪を払い外套を脱がして冷たい頬に両手で触れた。ルーファスはされるがまま、じっとミズリを見つめている。
「やっぱり、すごく冷えてる。スープがあるからそれを飲んで」
ミズリが着ていたブランケットでルーファスを包むとスープをコップに注ぎルーファスに手渡した。
手渡された反対の手でミズリの手を引き寄せた。ミズリの体はルーファスの胡坐の上だ。
驚いて瞬きをするミズリの額にルーファスの冷えた唇が触れた。
それまで静かにしていた子犬がそろりそろりと近づいて来てミズリの膝の上にのると、すかさずルーファスがその首根っこ掴み上げ、無造作に後ろにほおり投げた。
きゃんという小さな鳴き声を上げて、子犬は空中でくるりと回って着地した。暫くルーファスとミズリの周りをウロウロするが、ルーファスに睨まれて近くで臥せの体制で留まった。
ミズリは呆れた視線を向けるが、ルーファスは何食わぬ顔をして、ミズリを抱いたままスープを飲み干す。
「………美味しい」
夕食にも出したものだが、そう言われると嬉しい。もう一杯入れようかと身じろぐと拘束された。ミズリの頭にルーファスが顎を乗せ、ごりごりされる。子供の頃と違って骨ばっているから地味に痛い攻撃だ。
「ルーファス?疲れちゃった?」
「いや」
そう言いながらますます締め付ける。お腹に回された手がまだ冷たい。なんだか可哀そうになって、手を夜着の下に潜りこましてあげた。
「もう休む?明日も早いよね」
ミズリの肩の上でルーファスが頭を振る。髪が頬を擽る。体を捩ってルーファスの顔を覗き込んだ。
炎をうけてゆらゆらと青紫の瞳が揺れている。暗い闇が揺れている。ルーファスは時折この狂おしい目をする。そんな時はミズリの存在を、確かに傍にいる事を確認したくて仕方がないのだ。
ミズリはそっとルーファスの額に口付けるとルーファスの頭を胸に抱き込んだ。白く変わってしまった髪に頬ずりをする。ルーファスがしがみ付いて来るので、体格で劣るミズリは押されるようにラグの上に横たわった。
「………痛くはない?」
ミズリの胸から顔を上げてルーファスはミズリを伺う。ミズリはふわりと微笑む。
「うん、大丈夫。今日はここにいようか?」
今日はきっと明るい方がいいだろう。その方がルーファスは安心してくれる。
返事のかわりに抱き締める腕が強まった。
こうやって何かに苦しむ夜がある。ルーファスが受けた心の傷はミズリには伺い知れない。ルーファスはミズリよりも深い心の葛藤があるのだろう。過去の苦悩もアリサの事も、残して来た子供達の事もルーファスは飲み込んでしまった。
そんな時はミズリの全てでルーファスを抱き締める。
出会った時の事をミズリは朧げに覚えている。酷く心細くなった時に抱き締めてくれる温もりがあった。決して落とすまいと抱き締めてくれる腕の中は心地よく、ミズリを魅了した。あの温かさを、あの安心感をルーファスに与えてあげたいのだ。
一度は諦める事が出来た。二度は無理なのだ。どんなに苦しんでも誰に恨まれても、もう二度とこの温もりを手放せないから、今度はミズリがきつく抱き締めて決して離れない。
こんなにも罪深い自分がいることをミズリは初めて知ったのだ。ルーファスが教えてくれた。
幸せだけを与える事は出来ない。ルーファスもミズリも何度でも悩み苦しみ、後悔は消えて無くなりはしないのだろう。
それでも、ミズリはこうも思うのだ。幸せだけじゃ足りない。苦しみも悲しみも怒りも全て人生そのものだ。その人生を二人で抱えて生きていきたい。
神の元に戻れなくてもいい。地獄に落ちる事になっても。
あの日、ルーファスが言ってくれたように。
運命でなくていい。
運命じゃないルーファスと二人で、生きたい。
完
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