第2話
視界に映る光景に目を奪われる。
その幼い身体には、古い傷と見受けられるものもあれば、まだ生々しく真新しいものもあった。それらは、透き通るような色白の肌にどす黒い彩りを加えていた。
背中を見たときには、小さなその身体に不釣り合いなほど大きなアザもあった。
一生消えそうにない、深く治りかけの傷もあった。
見ているだけで胸の中が言いようのない感情が渦巻き、吐き気と涙さえ滲んできそうな、そんな有様だった。
「……取り合えず、これ着ろ」
俺は部屋の中へと戻り、ワイシャツとボクサーパンツを手に取ると、体育座りような姿勢で身を縮めたメリーへと渡した。
「その、ちゃんと身体、拭いてから着ろよ」
メリーは無言で受け取り、言われる通り体の水滴を拭き取り始めた。
扉を直すのは後回しにして、一先ずメリーに背を向ける。
先ほどとは逆に、服を着る音が背中越しに聞こえて来た。
「だから、見られたくなかったのに」
着替え終わったのかメリーがポツリと呟いた。
その一言で俺は勘違いをしていたのだと気付いた。
先ほど覗くなと念を押してきたのは、年頃の女の子の恥じらいなどではなく、人として見られたくない暗部があってのことだったのだ。
メリーの先ほどの姿が網膜に焼付いて離れない。
嫌悪感と共に、どこにぶつけて良いのか分からない怒りが噴出しそうで思わず歯噛みする。
「それ、どうしたんだよ!? いったい誰に」
振り返りメリーに問おうとすると、彼女は困ったような、悲しんでいるような曖昧な微笑みを浮かべていた。
諦めの混じった、とても小学生の少女に出来るような表情ではなかった。
とても、彼女のような小さい子が浮かべていい表情ではなかった。
そして、俺自身もまた子供なのだろう。
メリーのそんな顔を見たら、何て声をかけたらいいか分からなくて、言葉が出てこなかった。
安易に踏み込むことで、彼女を傷付けてしまう気がしたから。
あまりに痛々しくて、俺の生きてきた人生からは現実離れしていて、どんな言葉をかけても、陳腐で軽いものになってしまう気がした。
俺は何をしていいのか、何と言ってやればいいのか分からず、ゆっくりと彼女に歩み寄った。
手が出ないほど丈を余らせたシャツに身を包み、床に座り込んだまま俺の方を見上げてくる。
その小さな身体を見て、俺はメリーを立ち上がらせるよう持ち上げた。
想定と違った重さに、勢い余ってメリーの足が床を離れる。
見た目通り、軽い。……いや、軽すぎる。
確かに幼いのもあるのだろうが、それ以上に明らかに痩せすぎだ。
本当に、簡単に壊れてしまいそうで、怖くさえなる。
言いようのない感情が襲ってきて、俺はメリーを抱きしめてやりたい衝動に駆られた。
しかし、当の本人はキョトンとした表情で、持ち上げられたまま今度は俺のことを見下ろしている。
こいつと来たらまるで、首根っこを掴まれた猫のようにされるがままだ。
そのまま部屋の隅にあるベッドの上へと下ろし、タオルを頭に被せて、そのままワシワシとまだ乾いていない髪を拭いてやった。
割と力を入れたせいか、手の動きに合わせて、んむっんむっという変な声が漏れてくる。
シャンプーの匂いが鼻腔をくすぐり、昔風呂に入れてやったことを何となしに思い出した。
「風邪ひくからちゃんと乾かしてから寝ろよ。なんかお前体弱そうだからな」
まだ先ほどのことについて、どういう風に触れていいか分からず、出来るだけ自然にそう口にする。
タオルを外すと、ボサボサの髪をしたメリーが今度はご満悦そうに笑っていた。
年相応のあどけない笑顔だった。
「私メリーさん、今思い出の中にいるの」
一歩間違えれば縁起でもない台詞になるが、メリーも昔のことを思い出しているようだった。
「お兄ちゃん、髪とかして?」
「え? なんでだよ? だいたい俺クシなんて持ってないし」
「えー」
メリーが頬を膨らせて、分かりやすく不満を訴えてくる。
昔のように、無邪気に甘えてくる。
胸が、痛くなった。
「ちょっと待ってろ」
そう言うと、俺は財布を引っつかんで家を出た。
衝動的に動いたのは、多分メリーの希望に応えるためだけじゃない。
少し頭の中を整理したかったのかも知れない。
落ち着かせたかったのかも知れない。
歩いて五分のコンビニは、いつも以上に遠く感じた。
店内に入ると日用雑貨の棚からクシを取り、ついでに食料をいくつか物色する。
飲み物を買うときガラスに映った自分の顔は、呆れるほど暗く澱んだ表情をしていた。
「ただいま」
玄関を開け、部屋の中へと帰宅を告げる。
しかし、「お帰りなさい」という返事は聞こえず、部屋はいつもの無人の帰宅と同じように静寂そのものだった。
一抹の不安を感じ、俺は足早に部屋へと向かう。
もしかしたら、出て行ったんじゃ――。
しかし居間に入ると、そこにはベッドで寝こけているメリーの姿があり、こちらの心配を余所にスースーと寝息を立てていた。
数秒立ち尽くし、安堵のため息を吐く。
ベッドの隣に腰に下し寝顔を覗き込むと、メリーの口元が綻んでいた。
「私メリーさん……、今、お布団の中にいるの……」
ムニャムニャと寝言を洩らしながら、心地良さそうに眠っている。
俺はコンビニの袋からクシを取り出すと、まだ湿ったままのメリーの髪を梳(と)かすことにした。
あまり手入れはされていないようで、よく引っかかる。
それを起こさないように解しながら梳かし続けた。
「昔はあんなに綺麗だったのにな……」
自分の耳にも届かない程度に呟く。
こういう単調作業は心を落ち着かせてくれる。
正直、コンビニを往復する間、俺はどうこいつに接するべきか悩んでいたが、結局答えは出なかった。
だから、こうして寝ていてくれて助かった部分もあるのかも知れない。
……さっき見たメリーの傷痕、そしてあの表情。
思わず問いかけてしまった自分に腹が立つ。
本当は分かっていた。誰にされた仕打ちなのか。
気付いてしまった。何故俺の家に突然訪ねてきたのか。
知っていたはずだった。引き取った親戚内でメリーが疎まれていることを。
思春期特有の家出だなんて考えた自分の浅はかさを呪った。
メリーは、紛れもなく逃げ込んできたのだ。
誰一人として身寄りがいない、誰に頼ることも出来ない状況で必死に耐え続けて、そして、藁にも縋る想いでここまで辿り着いたんだ。
こんなに小さな少女が、これだけの距離を移動するのにどれだけ苦労したのか。
ろくに手持ちも持ち合わせず、この真冬の中で寒々しい恰好のまま、俺の住所だけを頼りに。
なのにこいつは、最初からおどけてみせて、助けてだなんて一言も言わなくて、事情一つ説明しなかった。
まるで、話しても無駄なことを悟っているかのように。
俺に心配をかけることを拒むように。
髪を拭いてやったときの笑顔が思い浮かぶ。
こいつはなんで、あんな風に笑えるんだろうか。
なぜ、何も自分から語らないのだろうか。
寝顔を眺めながら、色んな考えと感情が胸を締め付ける。
俺はメリーの布団をかけ直すと、コタツに入り天井を見上げた。
その日はしばらく、眠れなかった。
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