2-1

 目を覚ましたのは母からの通知音の所為だった。一言大丈夫と送ってまた今日が始まった。美味しいラーメンを食べたからか、昨夜は夢を見ずによく眠れた。枕も濡れていない。こんな朝は久しぶりだった。少しだけ心は軽かった。

 このホテルはもちろん朝飯などはでなかった。昨晩のラーメンのお陰か所為か、胃は本調子を戻しつつあった。朝は我慢できても昼頃には空腹になりそうだった。

 ラーメンを食べていた時思った。久しぶりの外は、相も変わらず動いていた。ラーメンを作る人、ラーメンを食べにくる人、サラリーマンとして働いている人、あそこにいた人はみな何の変哲もない日常を送っているに違いない。当たり前だが彼のことを知っている人もいなくて、私の大切な人がいなくなったことなど知る由もないのだ。誰か一人死んだくらいで、世界は特に何も変わらないのだ。でもそれでよかった。何事でもないのだと思い知らされたい。けれどそれも本当は悲しいなんて、我儘だろうか。

 一時を過ぎればもう空腹のピークだった。ベッドの真っ白いスーツの線維をひたすらに追っていたが、少しずつ食べたいという欲が溢れ出た。私はまた戻ってくる気でビジネスホテルを後にした。

 ここがどこで、何が有名なのかは一つもわからない。昨日のラーメン屋は二キロ離れた場所だ、戻ることはできない。ホテルを出ると知らない街をただ真っ直ぐに進んだ。駅の感じから推測するに、この街は程よく栄えているという程で私の街に比べると静かだった。真っ直ぐ行った先は住宅が並び更に閑散としていた。この先にいっても何もないと直感し引き返そうとしたのだが、聞こえてしまった。

 少女の大きな泣き声だった。私の鼓膜をコンコンと叩いてくるような、そんな泣き声。独りで泣いているのだろうか、可哀想だと思った。気づけば少女の泣き声がする方向へと歩いていた。ほんの少し勘づいてはいたがやはりその少女は昨日の猫探しの少女だった。傍には昨日の母親がいて、少女は小さく頼りない抵抗をしながら泣いていた。その泣き顔も泣き声も、私の空っぽの胸を刺激した。泣かないで欲しかった。涙は伝染するのだ。少女の手には昨日みた猫の写真が握られていた。それはくしゃくしゃになっていて、今日も早い時間から探しに出掛けていたのだと瞬時に想像できた。猫は見つからないのだ。少女は泣いている。

 ゆっくりと、少女へと歩み寄る。泣いている少女しか視界に映っていなかったが母親は私に気付いたと思う。昨日大して私の顔をみていない母親は不審者だと思ったのだろう、少女を守るように抱きしめた。少女を映していたはずの視界には、母親の顔が入ってきた。こちらを訝しむように見ている。その時ハッと我に返った私は歩みを止め、後ずさりをした。

「なんですか」

怖気づいたことが母親に伝わり自分の方が優位だと思ったのだろうか、睨みつけられた。けれど怖くはなかった。母親とは、こうなのだ。常に子どもを第一に考えてしまう生き物なのだ。私の母と同じ様に。私も同じ様になる予定だったのに。

 私が声を出せないでいると、少女は泣くのを休憩して「なに?」と母親に訊ねた。少女は母親の腕の中から抜け出して、私の顔を見た。途端、少女の顔は明るくなった。

「昨日の人! 猫見つけてくれたの?」

少女の前に姿を現すということは、期待させるのだということに気付けなかった。申し訳なさで俯いてしまったが、少女も私の周囲に猫の姿がないことを察してまた泣きそうな顔をした。

「見つけてはないけど、探すから」

なぜ、そんな言葉が発されたのだろう。探してあげようとは思っていなかった。いや、思っていたのだろうか。少女は泣きそうな顔を壊して少しだけ嬉しそうに「ありがとう」といった。私は少女の何者でもないけれど、少女の涙を封印することが今できることの精いっぱいの使命だと思った。

 母親と少し大人の会話を挟むと、母親も少女と同じ様に柔らかい表情を見せてくれた。私たちは近くのファミレスに入った。二人はジュースとコーヒーだったが、私は一人オムライスを注文した。不審がられるだろうか、しかし二人はやはり朗らかだった。

 写真に写る猫は茶トラという種類の猫で、名を栗というらしい。少女が名付けたと聞いて納得した。一昨日、窓を少し開けた隙にすり抜けて庭に飛び出してしまったらしい。栗はそのまま家の外を走っていってしまった。少女はその日から血眼になって探しているのだという。

 そこまで教えてもらったあと、今度は私に質問が降りかかってきた。

「失礼ですが、あなたはこの辺に住んでいる方ですか?」

「ええ、まぁ」

嘘をついてしまった。間違えたと思った時にはもう手遅れだった。名前は本当を伝え罪滅ぼしのようなことをする。もう少し、私という人間を見てもらわなければ信用はないだろう。とはいえ、彼のことを伝えることは困難だった。一先ず以前していた仕事、今は専業主婦をしていることを伝えた。嘘をつくことと隠し事をすることはなんだか似ている。でも違うと思うしかなかった。

「私もすべての時間を猫探しに使えるわけではないので、正直もう、諦めようとしていました」

母親は少女に申し訳なさそうに小声でそう言った。それはつまり、私を信用して少女を預けるということらしい。素性の知れない相手に、そんな簡単に我が子を預けていいのだろうか。こんな親にはなりたくない、と思った同時に現実に引きずりおろされる。こうなりたくないという願いでさえ叶えられないのだ。

「今日は三人で探す感じでいいですか?」

頷くと、私たちは早速会計を済ませ店をあとにした。

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