1-2
外にでて、風のしっとりとしたひんやりさに少し目が覚める。頭上には灰色の雲が薄っすらと張っていた。空は私の心に寄り添っているようで、少し救われた気分だった。
私は極力街並みを視界に入れずに歩き続けた。この街には彼と刻んだ時間があちこちに転がっている。彼と一緒に歩いた銀杏並木も、いつものスーパーも、いつも散歩している犬も、駅前にある時計塔だって思い出なのだ。それらにいちいち目をやっていては自分の身が持たないことくらいは分かっていた。
とにかく、遠くへ。彼との思い出のないどこかへ行くのならば電車が手っ取り早かった。ATM(ここだってデート中にお金をおろさせてもらった思い出がある)に寄ってから電車に乗った。昔から方向音痴の私は、もちろん電車にも弱かった。人との待ち合わせでどこにいるか聞かれても答えられない程で、よく飽きられていた。実際彼もそうで、けれど最後は笑い話に変えてくれるような温かい人だった。そんなことを思い出して心が温かくなるのも束の間、余計に心の穴が広がってしまったように寒かった。人の流れに沿って私も改札口へと向かう。すれ違う人の中に彼はいない。私は自分の靴や人の靴をみて黙々と前へ進んだ。
ひゅうっと冷たい風が身体を震わせ目を覚ました。乗車し暫くすると席に座り程なくして眠ってしまったらしい。ふと電車の窓から見える景色を見るともう見知らぬ土地のようだった。それから時に聞き慣れない駅名で下車しては適当に乗り換えて得体のしれないどこかへと進んでいった。
次第に世界はオレンジ色に染まっていった。太陽が傾いて、私たちを横から照らすのだ。一切知らない街並みが広がっている。私は漸く〝どこか〟へとやってくることができた。改札口を出て、目の前に広がる街の色や匂いを感じた。彼とは似ても似つかない色と匂いと。
私は考えることを止めて街を歩いた。見たことのない店や人で溢れる夕方の街はどこか寂しい。こんな寂しさを小さい頃はよく感じていた。
小学生の頃は、夕方に鳴り響くチャイムを合図に帰宅しなければならなかった。あの頃は何も考えずに生きていた。それは果たしていいことなのかわからない。ただ楽だったと思う。予定は前もってするのではなく、突然今日遊ぼうと約束をするのだ。全速力で帰宅してはランドセルを放り投げて出掛けていた。チャイムが鳴ると必ず胸のあたりがスースーしたのをよく覚えている。もっと遊んでいたいのに強制終了させられるのだ。あの頃はそれが嫌で仕方なかった。けれど今思えばそれでも良かったのかもしれない。彼と付き合いだしたのは大学生時代。強制終了などなかった。だからこそ私たちは一緒にいすぎたのだ。互いに、いや私が彼に依存してしまった。彼の傍にいることが当たり前になっていた。寂しさを覚えることすらないくらいに、彼は傍に寄り添ってくれていたのだ。
そこまで思って大きく深呼吸をする。いや、それは溜息だ。結局〝どこか〟にきてもすべてが彼と繋がってしまうらしかった。思い出はどこまでもつき纏う。その時、この街にチャイムが鳴り始めた。私には、帰る場所がない。
半泣きになりながら、鉛のような足を引きずって兎に角思い出から逃げようと歩き続けた。けれど思い出の引き金はどこにでも転がっている。思考を止めるには眠るしかない。それなのにホテルは見当たらない。いっそのこと路地裏で眠ってしまおうか。そう思った時、誰かが勢いよくこういった。
「そこのひと!」
あまりに距離の近い声に、〝そこのひと〟は私を指しているのだと直感し振り向いた。しかし振り向いた先に顔はない。スローモーションの如く視線を下にスライドさせていく。声の主は小さな女の子だった。
「なぁに?」
そう答えながらも私は頭を抱えた。この少女もまた引き金だったからだ。
「この猫見た?」
少女は手にもっていた一枚の写真を差し出してきた。私は少し腰を下ろして写真を覗く。そこにはクリーム色の毛とブラウン色の縞模様を纏う猫が映っていた。
「見てないかな」
この街に降り立ったばかりなのだ。動物は人しか見ていなかった。
「本当に?」
「本当だよ、ごめんね」
「でも」
少女が更に畳み掛けようとするところを、後ろからきた大人が止めた。彼女は私よりも一回りは大人のようだった。
「すみません、お忙しいのに。ありがとうございます」
少女の母親らしき人は、私に向かって深々と頭を下げた。忙しくもないのに人に謝られるのは妙に罪悪感が残る。少女は不服な顔を浮かべながらも親に腕を引っ張られ、力の所為かそれに抵抗できないらしかった。
私は去り行く親子を見つめ、飼い猫を探す二人には悪いが羨望の眼差しを向けていた。
私たちは子どもがとても好きだった。結婚を意識するようになってから、自然と子どもの話もしていた。将来は二人欲しいとか、お姉ちゃんかお兄ちゃんどちらがいいとか、未来を煌めかせていた。そんなことをしていたから余計に寂しいのだろうと思うとやるせない。きっとあの少女には父もちゃんといて、猫もいずれ帰ってくるのだろう。幸せな人を見るのは、やはり辛かった。
私はぽっかり空いた胸を埋めるために、腹を満たそうと近くのラーメン屋に入った。嗅覚が刺激され空腹であったことを思い出した。腹が減ったからあの部屋を出たのは単なる口実に過ぎなかったが、やはり胃液が何かを溶かしたいと待っていた。
注文したラーメンは、空腹の所為か頬が落ちるとはこのことかと思う程に絶品だった。そうして胃に流し込んでいると、カウンターに座る私の背後で二人のサラリーマンの会話が聞こえてきた。それは、今日ビジネスホテルに泊まるという内容で、私は必死に耳を傾けた。
「ここらへんビジネスホテル全然なくね?」
「こっから二キロ先にはあるっぽいけど。タクシー呼ぶかぁ」
私はこれしかないと思い、彼らが会計する前に会計を済ませると、店の影に隠れて彼らがでてくるのを待った。彼らはタクシーに乗る為、大通りへと向かった。一定の距離を保ちつつ、ストーカーの如く彼らについていった。運よく、そこにはタクシーが何台か休憩しており、私は偶然を装うように彼らの乗るタクシーの後ろに構えているタクシーに乗り込んだ。「どちらまで?」と運転手がいうのと同時に、「前のタクシーを追ってください」と伝えた。運転手は怪訝な表情をしたが、結局は金が入ればいいのか何も聞いては来なかった。
彼らを乗せたタクシーが予定通りビジネスホテルの前で止まったのを確認し、運転手に「ここで」といい料金を支払うと彼らに怪しまれないよう、のそのそとビジネスホテルへと入っていった。受付は手慣れているのか、入ると彼らはもうそこにはいなかった。こじんまりとした、しかし清潔感のある受付を一通り見まわした後、受付をし適当な部屋のカードキーをもらった。料金も三千円と手ごろで、数週間はいられると安心しながら部屋にはいった。ビジネスホテルは初めての利用だったが、ベッドとテレビという必要最低限のものだけが置かれていて案外快適だった。それでもまた彼のことを思い出してしまいそうだったから、さっき食べたラーメンの材料なんかを考えながら眠りについた。
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